中島敦 李陵 

2022.01.07

 大昔に読んだ、中島敦の李陵を、久しぶりに、なつかしく読みました。

手元にあるのは、角川文庫版の「李陵・弟子・名人傳昭和27年初版の昭和39年16版ですが、

昔の活字印刷で、字が小さく、余りに読みにくいので、図書館で、新しいのを借りてきました。

同じく、角川文庫版の「李陵・山月記・弟子・名人伝昭和43年初版の平成元年改版36版でした。

 印刷が綺麗で、難しい漢字にルビがふられていて、圧倒的に読みやすくなっていることに驚きました。

頁あたりの字数は、そんなに変わらないのですが、フォントが少し大きくなっていて、

字がすっきりしているのが読みやすさの理由かなと、印刷技術の向上を感じました。

 昭和27年版の「李陵」を、私は、かなり読み飛ばしながら読んだと思いますが、昭和43年版は、

ルビがついているだけでなく、現代表記法により、原文を新字・新かなづかいにしたほか、

漢字の一部をひらがなに改めてあるため、ゆっくりじっくり読むことができました。

 また、解説は、昭和27年版では、武田泰淳さんの「中島敦の狼疾について」だけだったのですが、

昭和43年版では、氷上英広さんの「中島敦 - 人と作品」が加わり、さらに、

参考文として、班固の「李陵伝」と、司馬遷の「任少卿に報ずる書」と年譜も加わっていました。

 氷上さんの解説の、中島敦の みじかい生涯 という部分を、引用します。

 中島敦は、明治42年(1909)、東京に生まれ、昭和17年(1942)に、東京で、持病の喘息がひどくなり、

心臓が衰弱して、みじかい生涯を閉じた。命日は12月4日である。

すでに太平洋戦争がはじまって、もう数日で一年になろうとするころであった。

宣戦布告のニュースを、彼は南洋庁の小吏として、サイパン島で聞いた。

そして17年の3月に東京に帰ってきた。

もう南海に帰る気はなく、これまでの職を辞し、作家としての生活にはいろうとしていた。

その年の『文学界』二月号に、「古譚」という題下に彼の二つの短篇「山月記」と「文字禍」がのり、

つづいて五月号に「光と風と夢」ものり、文壇の一部では注目すべき新人と見られていたのであった。

この新人は、しかし、登場したかと思うと、舞台をよぎって、あわただしく姿を消してしまったのだ。

彼の作家としての活動は、きわめて短期間でありその名を後世にとどめる名作

「李陵」「弟子」「名人伝」などは、彼の死後ようやく活字になった。

中島敦の名を冠した全集は、死後二回出版されているが、

そのなかから未定稿や初期作品や書簡といったものをのぞけば、

あとに残る純粋な、一本立ちできる作品はあのり多くない。

  巻末の年表によると、中島敦は、3月17日に東京に帰ってくるとすぐに、寒さで肺炎をおこし、

療養しながら、相次いで、作品をまとめ、発表するのですが、

11月中旬より喘息の発作が烈しく、心臓衰弱のため入院し、12月4日に亡くなります。

10月末頃に書き上げた原稿を、未亡人が深田久弥に渡し、作品名が無かったので、

深田さんが、「出来るだけ主観を入れない、淡白な題を選んで」「李陵」と名づけたそうです。

「李陵」は、翌年の昭和18年7月に、『文学界』に掲載され、

昭和21年に小山書店から刊行されました。

 さて、私は、中島敦の簡潔で文語的な文体を、心地よく感じていますが、

氷上さんは、先ほどの解説に続く、作品の魅力とスタイル で、以下のように語っています。

 中島敦の作品は、字画の多い漢字がならんでいて、現代人にはとっつきにくいのではないかと思われるが、彼を愛読する若い人たちはいつまでもたえない。

そうした人たちの感想をきくと、みな一度読みだせば論理がすっきり通っているから、ついていくのに骨が折れないという。

事実、思い出してみると中島敦という人物は、話をしてもくどくどしいところがなく、理屈っぽい議論がまるでなく、常に的確で簡潔であった。

(中略)

 かれの作品の、最大の魅力はそのスタイルにあるといえるだろうが、

これは雄勁(おおしく強いこと)とでもいいたいような、率直で健康なリズムをもった漢文調のもの、

あるいはその簡明な論理を基礎にした信念的なスタイルであって、

これは意識的に試みたもの、ないしは付け焼き刃といったものではなく、

どこまでも彼の精神の生地そのものである。

 中島敦全集の第一巻の月報に、河上徹太郎さんの以下の解説がありましたので、紹介します。

 彼の中国その他の古典に材をとる作品は、稗史(はいし)的なものであるが、

そのスタイルは当時としては独特のものがあった。

歴史小説が中間小説風の潤色があった中で、彼のは記述的であり、

しかも鴎外か露伴かといえば、彼は露伴を思わせる。とにかく芥川でも菊池寛でもない。

というのは、自分で語るより材料に語らせるのである。

しかも自分の文章ではなく、相手が性格的に自ずと備えている文章で語らせるのだ。

 稗史とは、民間のこまごました事柄を歴史的に記述した書物のことで、

稗官と呼ばれる官吏が、民間の様子を探って書き記したものです。

 さて、李陵は、漢の武帝に仕える武将ですが、匈奴との戦いに敗れ、捕虜となります。

李陵が、戦死ではなく、捕えられて捕虜になったことを知った武帝は、激怒したため、

重臣たちは、みな李陵の売国奴行為をなじります。

 ここで、司馬遷が、もう一人の重要人物として、登場します。

司馬遷は、李陵を弁護する論陣を張ったのですが、武帝は、こめかみを震わせて怒り、

司馬遷に宮刑が下ります。つまり宦官となります。

 「李陵」は、捕虜になった李陵の物語ですが、宦官になった司馬遷の物語も付加されています。

 

 

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