森鴎外 即興詩人 原文 現代語訳 対比 |
2015.7.18
はじめに
文語体の魅力を実感するために、雅文体として知られている鴎外訳の「即興詩人」の冒頭の文章を引用します。
ドイツ語訳より重訳 岩波文庫緑帯(日本文学) 1902年
羅馬(ロオマ)に往きしことある人はピアッツァ、バルベリイニを知りたるべし。
こは貝殻持てるトリイトンの神の像に造り做(な)したる、美しき噴井ある、大なる広こうぢの名なり。
貝殻よりは水湧き出でてその高さ数尺に及べり。
羅馬に往きしことなき人もかの広こうぢのさまをば銅版画にて見つることあらむ。
かかる画にはヰア、フェリチェの角なる家の見えぬこそ恨(うらみ)なれ。
川村二郎さんは、翻訳の日本語(日本語の世界15 中央公論社 1981年)の中で、「即興詩人」が
当時の人々の心をとりこにした理由を以下のように説明しています。
「即興詩人」の文章は冒頭から、引きしまった晴朗なひびきを帯びている。
和文脈を基調にしているとはいえ、漢文の読み下しの伝統に固有の簡潔な語法を活用して、
和文脈がいたずらに冗漫に流れるのを抑制し、進行においてきわめて快いリズムをつくりだしている。
しかし、残念ながら、鴎外の文語体を、そのまま読むのは、現代の人にとって難しくなってきたため、
安野光雅さんは、口語訳
即興詩人 (山川出版, 2010年) を出版しました。
その冒頭部分は、以下のようなものです。
ローマに行ったことのある方は、きっとバルベリーニ広場にも行かれたことがあるだろう。
そこには、ギリシャ神話に出てくる海神トリトンがホラ貝を吹いているところをかたどった噴水があって、
その貝からは、数メートルばかりも高く水が噴出しているのを見られたにちがいない。
ローマに行ったことのない人でも、あのバルベリーニ広場のようすは銅版画などで見ておられるのではないだろうか。
しかし、その画には、ある建物が描かれていないために、見てもらえないことがとても残念である。
口語体では、鴎外の雅文体のもつ簡潔さの魅力が失われてしまいます。
また、鴎外の文よりもいくつかの単語が追加されていて、少し長くなっています。
そこで、試験的に、鴎外の文語体をそのまま口語訳してみましした。
ローマに行ったことのある人は、バルベリーニ広場を知っているでしょう。
これは貝殻を持ったトリイトンの神の像に作りなした、美しい噴井のある、大きな広場の名です。
貝殻からは水が湧き出してその高さは数尺に及びます。
ローマに行ったことのない人も、かの広場のさまを、銅版画にて見たことがあるでしょう。
そんな画にはフェリーチェ通りの角にある家が見えないのが恨みです。
語説明 作りなす=それらしく作る 恨みです=残念です
鴎外の簡潔さは受け継いでいると思いますが、文語体の優雅な力強さは失われています。
そこで、鴎外の文語体の中のいくつかの用語を現代風に変換だけにとどめてみました。
ローマに往きしことある人はバルベリイニ広場を知りたるべし。
こは貝殻持てるトリイトンの神の像に造り做(な)したる、美しき噴井ある、大なる広場の名なり。
貝殻よりは水湧き出でて、その高さ数尺に及べり。
ローマに往きしことなき人も、かの広場の様子をば銅版画にて見つることあらむ。
かかる画にはフェリチェ通りの角なる家の見えぬこそ恨(うらみ)なれ。
やはり、文語体は美しいと思います。
言文一致運動の成果で、書き言葉にも、話し言葉がつかわれるようになりましたが、
「来る総会において」のように文語体が生き残って、好んで使われるケースはたくさんあります。
また、俳句や、短歌などでも、文語は使われています。
文語を忘れてしまわないような、意識的な努力が必要であると思っています。
2015.12.3 更新2015.12.6
以下に、森鴎外の原文ではなく、それを現代風に変換した原文と、その現代語訳を対比して、表示します。
現代語に訳す心得の一つは、「が」「は」「を」などの助詞をなるべく省略せずに使うことです。
わが最初の境界
私の最初の境遇
ローマに往きしことある人はバルベリイニ広場を知りたるべし。
ローマに行ったことのある人は、バルベリーニ広場を知っているでしょう。
こは貝殻持てるトリイトンの神の像に造り做(な)したる、美しき噴井ある、大なる広場の名なり。
これは貝殻を持ったトリイトンの神の像に作りなした、美しい噴井のある、大きな広場の名です。
説明 作りなす=それらしく作る
貝殻よりは水湧き出でて、その高さ数尺に及べり。
貝殻からは水が湧き出してその高さは数尺に及んでいます。
説明 完了の助動詞「り」は、その状態が存続していることを意味します。「もの思へり」は、
今もその思いが続いていますが、「もの思ひぬ」は、そのときそう思ったという意味です。
ローマに往きしことなき人も、かの広場の様子をば銅版画にて見つることあらむ。
ローマに行ったことのない人も、かの広場の様子を、銅版画にて見たことがあるでしょう。
説明 「見つる」は、動詞「見る」の連用形「み」と、助動詞「つ」の連体形「つる」が連なったものです。
かかる画にはフェリチェ通りの角なる家の見えぬこそ恨(うらみ)なれ。
そんな画にはフェリーチェ通りの角にある家が見えないことこそが恨みです。
説明 恨みです=残念です 係り助詞「こそ」を使っているので、「なれ」は已然形です。
わがいふ家の石垣よりのぞきたる三条(みすじ)の樋(とい)の口は水を吐きて石盤に入らしむ。
私の言う家の石垣から覗いている三本の樋の口は、水を吐いて石盤にはいらせます。
説明 「入らしむ」の「しむ」は使役の助動詞なので、入らせるという意味になります。
この家はわがためには尋常(よのつね)ならぬおもしろ味あり。
この家はわたしにとっては尋常でない面白味があります。
そをいかにといふにわれはこの家にて生まれぬ。
それを何故にというと、私はこの家で生まれたのです。
こうべ首をめぐら回してわが幼かりける程の事をおもへば、目もくるめくばかりいろいろなる記念(かたみ)の多きことよ。
頭を巡らして私の幼かったときのことを思うと、目が回るほど色々な形見が多いことよ。
我はいづこより語り始めむかと心迷ひて為むすべを知らず。
私はどこから語り始めようかと心迷って、なすすべを知りません。
又我世の傳奇(ドラマ)の全局を見わたせば、われはいよいよこれを写す手段に苦しめり。
また私の人生のドラマの全体を見渡したとき、私はますますこれを描写する手段に苦しみました。
いかなる事をか緊要ならずとして棄て置くべき。
いかなる事を、緊要でないと捨ててしまうべきなのでしょうか。
いかなる事をか全画図をおもひ浮べしめむために殊更に数へ挙ぐべき。
いかなる事を、全画面を思い浮かべさせようとするために、ことさらに枚挙すべきでしょうか。
わがためには面白きことも外人(よそびと)のためには何の興もなきものあらむ。
私のためには面白いことも、他人にとっては何の興味もないものがあるでしょう。
われは我世のおほいなる幼物語をありのままに、偽り飾ることなくして語らむとす。
私は私の幼いときの人生の偉大な物語を、ありのままに偽り飾ることなく語ろうとしています。
されどわれは人の意(こころ)を迎へて自ら喜ぶ性(さが)のここにもまぎれ入らむことを恐る。
しかし私は人に迎合してみずから喜ぶ私の性格がここにも紛れ込むことを恐れます。
この性は早くもわが幼き時に、畠の中なる雑草の如く萌え出でて、やうやく聖経に見えたる芥子(かいし)の如く
高く空に向ひて長じ、つひには一株の大木となりて、そが枝の間にわが七情は巣食ひたり。
この性格は、はやくも、私が幼い頃に、畑の中の雑草のように生えだして、ようやく聖書にでてくる芥子のように
高く空に向かって伸び、ついには一本の大木となって、その枝の間に私の七つの情が巣食いました。
説明 聖書マタイ伝13章30-31に、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、
それはどんな種より小さいが、成長すると、野菜の中で一番大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる。」とあります。
わが最初の記念の一つは既にその芽生(めばえ)を見せたり。
私の最初の記念の一つは、すでにその芽生えを見せたのです。
おもふにわれは最早六つになりし時の事ならむ。
私がすでに6歳になったときのことだと思います。
われはおのれより幼き子供二三人と向ひなる尖帽僧(カツプチノオ)の寺の前にて遊びき。
私は私よりも幼い子供二三人と、向かいの尖帽修道会の寺院の前で遊びました。
説明 バルベリーニ広場の北の角にあるサンタ・マリア・デルラ・コンチエオーネ寺院のこと。
カップチリオは、修道会の名前で、修道服の尖帽 (カップチォ)
に元付いています。
寺の扉には小き真鍮の十字架を打ち付けたりき。
寺院の扉には、小さな真ちゅう製の十字架が打ち付けられていました。
その処はおほよそ扉の中程にてわれは僅かに手をさし伸べてこれに達することを得き。
その場所はおよそ扉のなかほどでししたので、私はわずかに手を伸ばしてこれに届くことができました。
母上は我を伴ひてかの扉の前を過ぐるごとに、必ずわれを掻(か)き抱きてかの十字架に接吻せしめ給ひき。
私の母上は、私と一緒にこの扉の前を通るときは、必ず、私をかきあげて、その十字架に接吻させてくれました。
あるときわれ又子供と遊びたりしに、甚だ幼き一人がいふやう。
あるとき私がまた子供と遊んでいましたが、非常に幼い一人が言いますことには。
いかなれば耶蘇(ヤソ)の幼子は一たびもこの群(むれ)に来て、われらと共に遊ばざるといひき。
「どうして幼子のイエスは、一度も私たちのところに来て、私たちと一緒にあそばないの。」と言いました。
われさかしく答ふるやう。むべなり、耶蘇の幼子は十字架にかかりたればといひき。
私がこざかしく答えるには。「もっともだ。(でも)
幼子のイエスは十字架にかけられたんだよ。」と言いました。
さてわれ等は十字架の下にゆきぬ。
さて私達は十字架の下に行きました。
かしこには何物も見えざりしかど、われ等は猶母に教へられし如く耶蘇に接吻せむとおもひき。
そこには何も見えませんでしたが、私達はそれでも猶母に教えられたようにイエスに接吻しようと思いました。
さるを我等が口はかしこに届くべきならねば、我等はかはるがはる抱き上げて接吻せしめき。
しかし私たちの口はそこに届かなかったので、私達はかわるがわる抱き上げて接吻させました。
一人の子のさし上げられて僅に脣(くちびる)を尖らせたるを、抱いたる子力足らねば落しつ。
一人の子が抱き上げられてわずかに唇を尖らせましたが、抱いた子の力が足りなくて落としてしまいました。
この時母上通りかかり給へり。この遊(あそび)のさまを見て立ち住(と)まり、指組みあはせて宣ふやう。
この時母上が通りかかりました。この遊びの様子を見て立ち止まり、指を組み合わせておっしゃいました。
汝(そなた)等はまことの天使なり。
「あなたたちは、本当の天使です。」
さて汝はといひさして、母上はわれに接吻し給ひ、汝はわが天使なりといひ給ひき。
現代語訳 「さて、あなたは」と言いかけて止め、母上は私に接吻され、「あなたは私の天使です。」とおっしゃいました。
母上は隣家の女子(をなご)の前にて、わがいかに罪なき子なるかを繰り返して語り給ひぬ。
母上は、近所の女性たちの前で、わたしがいかに罪なき子なのかを、繰り返しお話しになりました。
われはこれを聞きしが、この物語はいたくわが心に協(かな)ひたり。
私はこれを聞きましたが、この話はいたく私の心にかないました。
わが罪なきことは固(もと)よりこれがために前(さき)には及ばずなりぬ。
私に罪が無いことはもとより、このために先には進めなくなりました。
人の意(こころ)を迎へて自ら喜ぶ性(さが)の種は、この時始めて日光を吸ひ込みたりしなり。
人のこころに迎合してみずから喜ぶ性格の種は、この時初めて日の光をあびたのです。
造化(ざうくわ)は我におとなしく軟(やはらか)なる心を授けたりき。
造物神は、私に、おとなしくやわらかな心を授けたのです。
説明 「造化」は、天地のすべてのものを創造すること。また、その力わ有する創造神。さらには、造物神が創造した天地自然。ここでは、造物神をとりました。
さるを母上はつねに我がこころのおとなしきを我に告げ、わがまことに持てる長処と母上のわが持てりと思ひ給へる長処とを
我にさし示して、小児の罪なさはかの醜き「バジリスコ」の獣(けもの)におなじきをおもひ給はざりき。
それを母上はつねに私の心がおとなしいことを私に告げて、私が本当に持っている長所と、母上が私が持っていると思われる長所とを
私に指摘しましたが、子供の罪の無いことは、あの醜い獣バジリスコと同じであることを思われなかったのです。
かれもこれもおのが姿を見るときは死なでかなはぬ者なるを。
それもこれも、自分の本当の姿を見ることは死なないとかなわないのですけどね。
彼(かの)尖帽([カツプチヨオ)の寺の僧にフラア・マルチノといへるあり。
現代語訳 あの尖帽修道会の寺院の僧にフラア・マルチノという人がいました。
こは母上の懺悔(ざんげ)を聞く人なりき。かの僧に母上はわがおとなしさを告げ給ひき。
この人は、母上の懺悔を聞く人でした。この僧に母上は私のおとなしさをお話しになりました。
祈のこころをばわれ知らざりしかど、祈の詞(ことば)をばわれ善く諳(そらん)じて洩らすことなかりき。
お祈りの心を私は知りませんでしたが、私はお祈りの言葉はよく覚えていて洩らすことはありませんでした。
僧は我をかはゆきものにおもひて、あるとき我に一枚の図をおくりしことあり。
僧は私を可愛いこと思って、あるとき私に一枚の絵を贈ってくれたことがありました。
図の中なる聖母(マドンナ)のこぼし給ふおほいなる涙の露は地獄の焰の上におちかかれり。
絵の中の聖母が流しているたくさんの涙のつぶは、地獄の炎のうえに降りかかっていました。
亡者は争ひてかの露の滴(したた)りおつるを承(う)けむとせり。
死者は争ってその涙のしたたり落ちるのを身にうけようとしていました。
僧は又一たびわれを伴ひてその僧舎にかへりぬ。
僧はまた、一度、私を伴って彼の僧舎に戻りました。
当時わが目にとまりしは、方(けた)なる形に作りたる円柱の廊なりき。
そのとき、私の目にとまったのは、四角形に造った円柱からなる回廊でした。
廊に囲まれたるは小き馬鈴藷圃(ばたけ)にて、そこにはいとすぎ(チプレツソオ)の木二株、檸檬(リモネ)の木一株立てりき。
回廊に囲まれた小さなジャガイモ畑で、そこには糸杉の木が二本、レモンの木が一本たっていました。
開け放ちたる廊には世を逝(さ)りし僧どもの像をならべ懸(か)けたり。
開放した回廊には、亡くなった僧たちの像がならんでかかっていました。
部屋といふ部屋の戸には献身者の伝記より撰び出(いだ)したる画図(ぐわと)を貼り付けたり。
部屋という部屋の扉には、献身者の伝記から選び出した絵画を貼り付けていました。
当時わがこの図を観し心は、後になりてラフアエロ、アンドレア・デル・サルトオが作を観る心におなじかりき。
そのとき私がこの絵画を見たときの心は、その後、ラファエロやアンドレア・デル・サルトオの作品を見る心と同じでした。
僧はそちは心猛(たけ)き童(わらは)なり、いで死人(しびと)を見せむといひて、小き戸を開きつ。
僧はあなたは心が勇ましい童子だ、さあ死んだ人を見せようと言って、小さい扉を開きました。
ここは廊より二三級(だん)低きところなりき。
そこは回廊より二三段低いところでした。
われは延(ひ)かれて級を降りて見しに、ここも小き廊にて、四囲悉(ことごと)く髑髏(されかうべ)なりき。
私は私は手をひかれて段を降りてみましたが、そこも小さな回廊で、周囲ことごとく、どくろでした。
髑髏は髑髏と接して壁を成し、壁はその並びざまにて許多(あまた)の小龕(せうがん)に分れたり。
どくろはどくろと接して並び壁を形成して、壁はその並び方から、たくさんの飾りだなにわかれていました。
おほいなる龕には頭(かうべ)のみならで、胴をも手足をも具(そな)へたる骨あり。
たくさの飾りだなには、どくろだけでなく、胴体や手足も具えた骸骨がありました。
こは高位の僧のみまかりたるなり。
これは高い位の僧が亡くなられたものです。
かかる骨には褐色(かちいろ)の尖帽(せんばう)を被(き)せて、腹に縄を結び、手には一巻の経文若くは枯れたる花束を持たせたり。
そういう骸骨には褐色の尖帽を被せて、おなかに縄を結び、手には経文一巻もしくは枯れた花束を持たせていました。
贄卓(にへづくゑ)、花形の燭台、そのほかの飾をば肩胛(かひがらぼね)、脊椎(せのつちぼね)などにて細工したり。
祭壇、花形の燭台、そのほかの飾りは、肩の骨や脊椎などで細工していました。
人骨の浮彫(うきぼり)あり。これのみならず忌まはしくも、又趣(おもむき)なきはここの拵(こしら)へざまの全体なるべし。
人骨の浮き彫りもありました。これだけでなく、忌まわしく、かつ趣きも無いのは、ここの拵え方のすべてのようです。
僧は祈の詞(ことば)を唱へつつ行くに、われはひたと寄り添ひて従へり。
僧は祈りの言葉を唱えつつ行きますが、私はひたと寄り添って従いました。
僧は唱へ畢(をは)りていふやう。われも早晩(いつか)ここに眠らむ。その時汝(そち)はわれを見舞ふべきかといふ。
僧は祈りをおえて言います。「私も、いつかここに眠るでしょう。そのときあなたは、私をみまってくれるでしょうか。」
われは一語をも出(いだ)すこと能はずして、僧と僧のめぐりなる気味わるきものとを驚き眙(み)たり。
私は、一語も発することができずに、僧と僧の周りにある気味の悪いものを、驚き眺めました。
まことに我が如き幼子をかかるところに伴ひ入りしは、いとおろかなる業(わざ)なりき。
まことに私のような幼い子をこのようなところに連れて入るのは、とても愚かな所業でした。
われはかしこにて見しものに心を動かさるること甚しかりければ、帰りて僧の小房(こべや)に入りしとき纔(わづか)に生き返りたるやうなりき。
私はそこで見たもので動揺が甚だしかったので、帰って僧の小部屋に入ったとき、わずかに生き返ったようでした。
この小房の窓には黄金色(こがねいろ)なる柑子(かうじ)のいと美しきありて、殆ど一間(ひとま)の中に垂れむとす。
この小部屋の窓には、黄金色のミカンの木の非常に綺麗なのがあって、ほとんど一間の間に垂れ下がろうとしています。
又聖母(マドンナ)の画あり。その姿は天使に担(にな)ひ上げられて日光明(あきらか)なるところに浮び出でたり。
また聖母の絵がありました。その姿は天使に担ぎあげられて、日の光で明るいところに浮かび出ていました。
下には聖母(マドンナ)の息(いこ)ひたまひし墓穴ありて、ももいろちいろの花これを掩ひたり。
その下には聖母が休息なさっている墓穴がありまして、百色千色の花がこれを覆っていました。
われはかの柑子(かうじ)を見、この画を見るに及びて、わづかに我にかへりしなり。
私はそのミカンの木を見、この絵を見るに及んで、わずかに我にかえりました。
この始めて僧房をたづねし時の事は、久しき間わが空想に好(よ)き材料を与へき。
この初めて僧房を訪ねたときのことは、久しい間、私の空想にいい材料を与えました。
今もかの時の事をおもへば、めづらしくあざやかに目の前に浮び出でむとす。
いまも、あの時のことを思うと、ぬずらしくあざやかに目の前に浮かび出ようとします。
わが当時の心にては、僧といふ者は全(また)く我等の知りたる常の人とは殊なるやうなりき。
私の当時の心においては、僧というものは全く私たちの知っている常人とは異なるようでした。
かの僧が褐色(かちいろ)の衣を着たる死人(しびと)の殆どおのれとおなじさまなると共に棲めること、
かの僧があまたの尊き人の上を語り、あまたの不思議の蹟(あと)を話すこと、
かの僧の尊さをば我が母のいたく敬ひ給ふことなどを思ひ合(あは)する程に、
われも人と生れたる甲斐(かひ)にかかる人にならばやと折々おもふことありき。
かの僧が褐色の衣を着た死人が、殆ど自分と同じさまであるのと一緒に住んでいること、
かの僧が大勢の尊い人たちの身の上を語り、たくさんの不思議な奇跡の話しをすること、
かの僧の尊さを私の母がいたく尊敬しておられることなどを思い合わせるたびに
私も人と生まれた甲斐には、このような人になりたいなあと、時々思うことがありました。
母上は未亡人なりき。活計(くらし)を立つるには、鍼(はり)仕事して得給ふ銭と、
むかし我等が住みたりしおほいなる部屋を人に借して得給ふ価とあるのみなりき。
私の母上は未亡人でした。生計をたてるには、針仕事をして得られる金銭と
むかし私たちが住んでいた大きな部屋を人に貸して得られる代価があるのみでした。
われ等は屋根裏の小部屋に住めり。かのおほいなる部屋に引き移りたるはフエデリゴといふ年少(わか)き画工なりき。
私たちは屋根裏の小部屋に住みました。その大きな部屋に引っ越してきたのはフェデリコという年若い画工でした。
フエデリゴは心敏(さと)く世をおもしろく暮らす少年なりき。かれはいともいとも遠きところより来ぬといふ。
フェデリコは、聡明で、世を楽しく暮らす少年でした。彼は非常に非常に遠いところから来たといいます。
母上の物語り給ふを聞けば、かれが故郷にては聖母をも耶蘇(ヤソ)の幼子をも知らずとぞ。その国の名をば叙ホ馬(デネマルク)といへり。
母上のおっしゃるには、彼の故郷では聖母もイエスの幼子も知らないとのこと。その国の名前はデンマークといいました。
当時われは世の中にいろいろの国語ありといふことを解せねば、
画工が我が言ふことを暁(さと)らぬを耳とほきがためならむとおもひ、
おなじ詞(ことば)を繰り返して声の限り高くいふに、かれはわれを可笑しきものにおもひて、
をりをり果(このみ)をわれに取らせ、又わがために兵卒、馬、家などの形をゑがきあたへしことあり。
当時私には瀬の中にいろいろの国語があることを知らなかったので、
私が言うことを画工が分らないのは耳がとおいためだろうと思い
同じ言葉を繰り返して声の限り大きな声で言うに、彼は私をおかしな人と思って、
おりおりに果実をわたしにくれて、また私のために兵隊さん、馬、家などの形を絵にかいてくれたことがありました。
われと画工とは幾時も立たぬに中善(なかよ)くなりぬ。
私と画工とは、いくときもたたないうちに、仲良くなりました。
われは画工を愛しき。母上もをりをりかれは善き人なりと宣(のたま)ひき。
私は画工を愛しました。母上も折々に彼はいい人だとおっしゃいました。
さるほどにわれはとある夕(ゆふべ)母上とフラア・マルチノとの話を聞きしが、
これを聞きてよりわがかの技芸家の少年の上をおもふ心あやしく動かされぬ。
そうしているとき私はとある夕べ、母上と画工の話しを聞きましたが、
これを聞いてから私がかの技芸家の少年の身の上を思うこころが異常に動かされました。
かの異国人(ことくにびと)は地獄に墜ちて永く浮ぶ瀬あらざるべきかと母上問ひ給ひぬ。
「かの異国人は、地獄に落ちて、浮かぶ浅瀬は無いのでしょうか」と母上がお問になりました。
そはひとりかの男の上のみにはあらじ。異国人のうちにはかの男の如く悪しき事をば一たびもせざるもの多し。
それはひとにあの男の身の上のみではありません。異国人のなかには彼のように悪いことを一度もしないものは多いのです。
かの輩(ともがら)は貧き人に逢ふときは物取らせて吝(をし)むことなし。
かの同輩たちは、貧しい人に会うときは物を与えておしむことがありません。
かの輩は債(おひめ)あるときは期(ご)を愆(あやま)たず額をたがへずして払ふなり。
かの同輩たちは借金があるときは、返還期日をたがえることなく、金額もたがえることなくして返済します。
然(しか)のみならず、かの輩は吾邦人(わがはうじん)のうちなる多人数の作る如き罪をば作らざるやうにおもはる。
それだけでなく、彼の同輩たちはわが国の人たちの多くの人がなすような罪をしないように思えます。
母上の問はおほよそ此(かく)の如くなりき。
母上の質問は、おおよそこのようなものでした。
フラア・マルチノの答へけるやう。さなり。まことにいはるる如き事あり。
画工の答えたところでは。「そうです。まことにおっしゃるようなことがあります。」
かの輩のうちには善き人少からず。されどおん身は何故(なにゆゑ)に然るかを知り給ふか。
かの同輩のなかには善い人は少なくありません。しかしあなたは、なぜ、そうであるのかをご存知でしょうか。
見給へ。世中(よのなか)をめぐりありく悪魔は、邪宗の人の所詮おのが手に落つべきを知りたるゆゑ、強ひてこれを誘(いざな)はむとすることなし。
御覧なさい。世の中を巡り歩く福間は、邪宗の人が所詮自分の手に落ちるであろうことを知っているので、しいて誘惑しようとしません。
このゆゑに彼(かの)輩は何の苦もなく善行をなし、罪悪をのがる。
この故に、かの同輩は、何の苦労もなく、善行をなして、罪悪をのがれるのです。
善き加特力(カトリコオ)教徒はこれと殊(こと)にて神の愛子(まなご)なり、
これを陥(おとしい)れむには悪魔はさまざまの手立(てだて)を用ゐざること能(あた)はず。
善いカトリック教徒はこれと異なり、神の愛する子です。
これを陥れるためには、悪魔はさまざまな手立てを用いざるをえないのです。
悪魔はわれ等を誘ふなり。われ等は弱きものなればその手の中に落つること多し。
悪魔は私たちを誘惑します。私達は弱いものですから、その手に落ちることも多いのです。
されど邪宗の人は肉体にも悪魔にも誘はるることなしと答へき。
しかし邪宗の人たちは、肉体にも悪魔にも誘惑されることはないのですと答えました。
説明 このあたりは、意味が混乱しています。邪宗の徒である画工は、悪魔に誘惑されることがないのか、
それとも誘惑されて地獄に落ちるのか、他の文献を調べるなどして、整理したいと思います。
母上はこれを聞きて復(ま)た言ふべきこともあらねば、便(びん)なき少年の上をおもひて大息(といき)つき給ひぬ。
母上はこれを聞いて、返して言うべきこともないので、気の毒な少年の身の上を思って吐息をおつきになりました。
かたへ聞(ぎき)せしわれは泣き出(いだ)しつ。
傍らで聞いていた私は泣き出しました。
こはかの人の永く地獄にありて焰(ほのほ)に苦しめられむつらさをおもひければなり。
それは、彼が永く地獄にあって、炎に苦しめられるつらさを思ったからです。
かの人は善(よ)き人なるに、わがために美しき画をかく人なるに。
かれは善い人なのに、私のために美しい絵を描いてくれるのに。
わが幼きころ、わがためにおほいなる意味ありと覚えし第三の人はペツポのをぢなりき。
私が幼い頃、私のためにおおいなる意味があると思える第三の人は、ペッポの叔父でした。
悪人ペツポといふも西班牙磴(スパニアいしだん)の王といふも皆その人の綽号(あだな)なりき。
悪人ペッポとかスペイン階段の王というのは、みなその人のあだ名でした。
此(この)王は日ごとに西班牙磴の上に出御ましましき。
この王は、日毎、スペイン階段の上におでましになりました。
(西班牙広こうぢよりモンテ・ピンチヨオの上なる街(ちまた)に登るには高く広き石級(いしだん)あり。
(スペイン広小路からモンテ・ピンチョオの上にある街に上るには高く広い医師団があります。
この石級は羅馬(ロオマ)の乞児(かたゐ)の集まるところなり。
この医師団は、ロオマの孤児の集まるところです。
西班牙広こうぢより登るところなればかく名づけられしなり。)
スペイン広小路から上るところなのでこのように名づけられたのです。)
ペツポのをぢは生れつき両(りやう)の足痿(な)えたる人なり。
ペッポの叔父は、生まれつき両足がなえた人です。
当時そを十字に組みて折り敷き居たり。されど幼きときよりの熟錬にて、をぢは両手もて歩くこといと巧なり。
当時それを従事に組んで折り敷いていました。しかし幼いころよりの熟練で、叔父は両手で歩くことが非常に上手でした。
其(その)手には革紐(かはひも)を結びて、これに板を掛けたるが、をぢがこの道具にて歩む速さは健かなる脚もて行く人に劣らず。
その手には皮ひもを結んで、これを板にかけていますが、叔父がこの道具で歩く早さは健康な脚で進む人に劣りません。
をぢは日ごとに上にもいへるが如く西班牙磴の上に坐したり。
叔父は日毎に、先にも言ったとおり、スペイン階段の飢えに座っていました。
さりとて外(ほか)の乞児の如く憐(あはれみ)を乞ふにもあらず。
とは言っても、ほかの乞食のように憐れみを乞うのではありません。
唯だおのが前を過ぐる人あるごとに、詐(いつはり)ありげに面(おもて)をしかめて「ボン ジョオルノオ」(我俗の今日はといふ如し)と呼べり。
ただ自分の前を通り過ぎる人がある毎に、いつわりの有り気な顔をしかめて
「ボン・ジォルノ」(我々が俗に「今日は」というように)と呼びました。
日は既に入りたる後もその呼ぶ詞(ことば)はかはらざりき。
太陽は既に没した後も、その呼びかけの言葉は変わりませんでした。
母上はこのをぢを敬ひ給ふことさまでならざりき。
母上はこの叔父を敬われることは、そんなではありませんでした。
あらず。親族(みうち)にかかる人あるをば心のうちに恥(は)ぢ給へり。
違います。身内にこのような人がいるのを心の中では恥じておらけました。
されど母上はしばしば我に向ひて、そなたのためならば、彼につきあひおくとのたまひき。
しかし母上はしばしば私に向かって、あなたのためなら、彼とつきあっておきますとおっしゃいました。
余所(よそ)の人の此世(このよ)にありて求むるものをば、かの人筐(はこ)の底に蔵(おさ)めて持ちたり。
よその人がこの世に生きていて欲しいと思うものを、あの人は箱の底に納めて持っています。
若(も)し臨終に、寺に納めだにせずば、そを譲り受くべき人、わが外(ほか)にはあらぬを、母上は恃(たの)みたまひき。
もし臨終のときに、寺に納めたりしなければ、それを譲り受ける人は、私のほかにはいないのを、母上は期待しておられました。
をぢも我に親(したし)むやうなるところありしが、我は其側(そのそば)にあるごとに、まことに喜ばしくおもふこと絶てなかりき。
叔父も私に親しむようなところがありましたが、私は彼のそばにいるたびに、本当に喜ばしく思うことはたってありませんでした。
或(あ)る時、我はをぢの振舞を見て、心に怖(おそれ)を懐(いだ)きはじめき。
ある時、私は叔父の振る舞いを見て、心に恐れを抱き始めました。
こは、をぢの本性(ほんしやう)をも見るに足りぬべき事なりき。
それは、叔父の本性を見るにじゅうぶんであろうことでした。
説明 古語の「足る」は、現代語では「足りる」となります。否定形は、「足らぬ」、現代語では「足りない」です。
現代では、「取るにたらない」「取るにたりない」の両方が使われています。
しかし、本文の「足りぬ」とあるのは、足るの連用形「たり」に推量をあらわす「ぬべし」が連なったもので、見るに十分であろうという意味になると思います。
例の石級(いしだん)の下に老いたる盲(めくら)の乞児
(かたゐ)ありて、
往きかふ人の「バヨツコ」(我(わが)二銭許(ばかり)に当る銅貨)一つ投げ入れむを願ひて、薄葉鉄(トルラ)の小筒をさらさらと鳴らし居たり。
例の石段の下に年老いた盲目の乞食がいて、
行きかう人が「バヨッコ」(我が国の二銭ばかりに当たる銅貨)を一つ投げ入れるのを願って、ブリキの小筒をさらさらと鳴らしていました。
我がをぢは、面にやさしげなる色を見せて、帽を揮(ふ)り動しなどすれど、
人々その前をばいたづらに過ぎゆきて、かの盲人の何の会釈もせざるに、銭を与へき。
私の叔父は、顔に優しげな色を見せて、帽子をふり動かしたりなどするけれども、
人々はその前をむなしく通り過ぎて、かの盲人は何の会釈もしないのに、お金を与えました。
三人(みたり)かく過ぐるまでは、をぢ傍(かたへ)より見居たりしが、四人めの客かの盲人に小貨幣二つ三つ与へしとき、
をぢは毒蛇の身をひねりて行く如く、石級を下りて、盲の乞児の面を打ちしに、盲の乞児は銭をも杖をも取りおとしつ。
三人がこのように通り過ぎるまでは、叔父は傍から見ていましたが、四人目の客がかの盲人に小貨幣を二つ三つ与えたとき、
叔父は毒蛇が身をひねって進むように、石段を降りて、盲の乞食の顔をたたいたので、盲の乞食はお金や杖を取り落としました。
ペツポの叫びけるやう。うぬは盗人(ぬすびと)なり。
ペッポの叫んだことには、「お前は、盗人じゃ。」
我が銭を窃む奴なり。立派に廃人(かたは)といはるべき身にもあらで、ただ目の見えぬを手柄顔(てがらがほ)に、
わが口に入らむとする「パン」を奪ふこそ心得られねといひき。
私のお金を盗む奴じゃ。立派にかたわといえる体ではないのに、ただ目が見えないのを手柄顔に、
私の口に入ろうとするパンを奪うことになるのがわからないのか。
説明 「心得られね」は、動詞「心得」の連用形「こころえ」に、自発の助動詞「らる」の連用形「られ」と、〜してしまうという意味の助動詞「ぬ」の命令形からなるか、
または、自発の助動詞「らる」の未然形「られ」に、〜ほしいという願望を表す終助詞「ね」からなると考えられます。
この文法については、最終解がわからず、当面検討中です。
われはここまでは聞きつれど、ここまでは見てありつれど、この時買ひに出でたる、一勺(しやく)の酒をひさげて、急ぎて家にかへりぬ。
私は、ここまでは聞いていましたが、ここまでは見ておりましたが、この時点で買いに出てきた一勺のお酒をひっさげて、急いで家に帰りました。
大祭日には、母につきてをぢがり祝(よろこび)にゆきぬ。
大祭日には、母について叔父のところにお祝いに行きました。
説明 「をじがり」の「がり」は、〜のもとにという意味の接尾辞で、叔父のもとにという意味になります。
その折には苞苴(みやげ)もてゆくことなるが、そはをぢが嗜めるおほ房の葡萄二つ三つか、さらずば砂糖につけたる林檎なんどなりき。
その折には土産を持っていくことになるが、それは叔父が嗜める大きな房のブドウ二房三房か、そうでなければ砂糖につけた林檎などでした。
われはをぢ御(ご)と呼びかけて、その手に接吻しき。
私は、叔父御と呼びかけて、その手に接吻しました。
をぢはあやしげに笑ひて、われに半「バヨツコ」を与へ、果子(くわし)をな買ひそ、果子は食ひ畢(をは)りたるとき、
迹(あと)かたもなくなるものなれど、この銭はいつまでも貯(たくは)へらるるものぞと教へき。
叔父は怪しげに笑って、私に半バヨッコをくれて、菓子は買うな、菓子は食べ終わったとき、
跡形もなくなるものだが、この銭はいつまでも貯えられるものだざと教えてくださいました。
をぢが住めるところは、暗くして見苦しかりき。
叔父が住むところは、暗くて見苦しかったです。
一間(ひとま)には窓といふものなく、また一間には壁の上の端に、破硝子(やれガラス)を紙もて補ひたる小窓ありき。
一間には窓というものが無く、また一間には壁の上端に、割れたガラスを紙で補修した小窓がありました。
臥床(ふしど)の用をもなしたる大箱と、衣(きぬ)を蔵(をさ)むる小桶(こをけ)二つとの外(ほか)には、家具といふものなし。
寝床の用をなす大箱と、服を納める小桶二つのほかには、家具というものはありません。
をぢがり往(ゆ)け、といはるるときは、われ必ず泣きぬ。
叔父のところに行けといわれるときは、私は必ず泣きました。
これも無理ならず。母上はをぢにやさしくせよ、と我にをしへながら、我を嚇(おど)さむとおもふときは、必ずをぢを案山子に使ひ給ひき。
これも無理ありません。母上は叔父にやさしくしろと私に教えながら、私を脅かそうと思うときは、必ず叔父を案山子にお使いになりました。
母上の宣たまひけるやう。かく悪戯せば、好(よ)きをぢ御の許(もと)にやるべし。
母上のおっしゃるには。このように悪戯をすれば、善き叔父御のもとにやりましょう。
さらば汝(そなた)も磴(いしだん)の上に坐して、をぢと共に袖乞(そでごひ)するならむ、歌をうたひて「バヨツコ」をめぐまるるを待つならむとのたまふ。
そうすればあなたも石段の上に座って、叔父と一緒に袖乞いするでしょう。歌をうたってお金が恵まれるのを待つのでしょうとおっしゃいます。
われはこの詞(ことば)を聞きても、あながち恐るることなかりき。
私はこの言葉を聴いても、あながち恐れることはありませんでした。
母上は我をいつくしみ給ふこと、目の球にも優(まさ)れるを知りたれば。
母上は私をいつくしんで下さること、自分の目の球にも優ることを知っていましたので。
向ひの家の壁には、小龕(せうがん)をしつらひて、それに聖母の像を据ゑ、その前にはいつも燈(ともしび)を燃やしたり。
向かいの家の壁には、小さなお堂がしつらえられていて、そこに聖母の像を置いて、その前にはいつも灯火を燃やしていました。
「アヱ マリア」の鐘鳴るころ、われは近隣の子供と像の前に跪(ひざまづ)きて歌ひき。
アベマリアの鐘が鳴るころ、私は近所の子供と像の前にひざまずいて歌いました。
燈の光ゆらめくときは、聖母も、いろいろの紐、珠、銀色(しろかねいろ)したる心の臓などにて飾りたる耶蘇(ヤソ)のをさな子も、
共に動きて、我等が面を見て笑(ゑ)み給ふ如くなりき。
灯火の光がゆらめく時は、聖母も、いろいろの紐、球、銀色の心臓などで飾ったイエスの幼子も、
一緒に動いて、私達の顔を見てお笑いになっているようでした。
われは高く朗なる声して歌ひしに、人々聞きて善(よ)き声なりといひき。
私は高く大きな声で歌いましたので、人々は聞いて良い声ですねと言いました。
或る時英吉利(イギリス)人の一家族、我(わが)歌を聞きて立ちとまり、歌ひ畢(をは)るを待ちて、長(をさ)らしき人われに銀貨一つ与へき。
ある時イギリス人の一家族が、私の歌を聞いて立ち止まり、歌い終わるのを待って、主人らしい人が私に銀貨を一枚くけました。
母に語りしに、そなたが声のめでたさ故、とのたまひき。
母に語ったところ、あなたの声がいいからよとおっしゃいました。
されどこの詞(ことば)は、その後我祈(いのり)を妨ぐること、いかばかりなりしを知らず。
しかしこの言葉は、その後の私の祈りをさまたげること、どれぐらいだったかわかりません。
それよりは、聖母の前にて歌ふごとに、聖母の上をのみ思ふこと能はずして、必ず我声の美しきを聞く人やあると思ひ、
かく思ひつつも、聖母のわがあだし心を懐けるを嫉(にく)み給はむかとあやぶみ、
聖母に向ひて罪を謝し、あはれなる子に慈悲の眸(め)を垂れ給へと願ひき。
その後は、聖母の前で歌う毎に、聖母の身の上のみを思うことができないで、必ず私の声が美しいと聞く人がいると思い、
そう思いつつも、聖母が私が浮ついた心を抱いているのをお憎みになるかと心配し、
聖母に向かって罪を謝り、気の毒な子に慈悲の目を垂れてくださいと願いました。
わが余所(よそ)の子供に出(い)で逢ふは、この夕(ゆふべ)の祈の時のみなりき。
私がよその子供に出会うのは、この夕べの祈りの時だけでした。
わが世は静けかりき。わが自ら作りたる夢の世に心を潜め、仰ぎ臥して開きたる窓に向ひ、
イタリアの美しき青空を眺め、日の西に傾くとき、紫の光ある雲の黄金色したる地の上に垂れかかりたるをめで、
時の遷(うつ)るを知らざることしばしばなりき。
私の人生は、静かでした。私が自ら作った夢の世界に心を潜め、仰ぎ臥して開いた窓に向かい、
イタリアの美しい青空を眺め、太陽が西の空に傾くとき、紫の光の雲が黄金色の大地の上に垂れかかっているのを愛で、
時間が進むのに気がつかないことしばしばでした。
ある時は、遠くクヰリナアル(丘の名にて、其上に法皇の宮居(みやゐ)あり)と家々の棟とを越えて、
紅に染まりたる地平線のわたりに、真黒に浮き出でて見ゆる「ピニヨロ」の木々の方へ、飛び行かばや、と願ひき。
ある時は遠くクイリナーレの丘(その上に法皇の宮殿があります)や家々の棟を越えて、
紅く染まった地平線の辺りに、真っ黒に浮き出して見える松の木々の方へ、飛んで行きたいと願いました。
我部屋には、この眺ある窓の外(ほか)、中庭に向へる窓ありき。
私の部屋には、この眺めのある窓のほかに、中庭に向いた窓がありました。
我家の中庭は、隣の家の中庭に並びて、いづれもいと狭く、上の方(かた)は木の「アルタナ」(物見のやうにしたる屋根)にて鎖(さ)されたり。
我が家の中庭は、隣の家の中庭に並んで、どちらも非常に狭く、上は、木製のアルタナ(物見のようになっている屋根)にて閉ざされています。
庭ごとに石にて甃(たた)みたる井(ゐど)ありしが、家々の壁と井との間をば、人ひとり僅に通らるるほどなれば、
我は上より覗きて、二つの井の内を見るのみなりき。
それぞれの庭には石畳の井戸がありましたが、家々の壁と井戸の間が、人一人わずかに通れるほどなので、
私は上から覗いて、二つの井戸の中を見るのみでした。
緑なるほうらいしだ(アヂアンツム)生(お)ひ茂りて、深きところは唯だ黒くのみぞ見えたる。
緑色の蓬莱シダが生い茂って、深いところはただ黒くのみ見えました。
俯(ふ)してこれを見るたびに、われは地の底を見おろすやうに覚えて、ここにも怪しき境ありとおもひき。
臥してこれを見るたびに、私は地の底を見下ろすように思われて、ここにも怪しい境界があると思いました。
かかるとき、母上は杖の尖(さき)にて窓硝子を浄め、なんぢ井に墜ちて溺れだにせずば、
この窓に当りたる木々の枝には、汝が食ふべき果[このみ]おほく熟すべしとのたまひき。
そんなときに、母上は杖の先で窓硝子を清め、あなたは井戸に落ちて溺れだにしなければ
この窓に当たった木々の枝には、あなたが食べる果実がたくさん熟すでしょうとおっしゃいました。
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