モダンアートについて

2016.5.3

 筑波大学の公開講座 英語で学ぶ印象派以降の美術 1840年から」 を受講することにしました。

案内チラシです。Fondevilla_Tsukuba_Univ.pdf   そうです。授業は英語です。

 印象派以降のモダンアートについて、内容やボキャブラリーを知っておかないと、66歳の頭にはちんぷんかんぷんなので、

予習をすることにしました。

 19世紀になって、市民社会が発展するにつれ、芸術を鑑賞する人たちが、一部の貴族階級から、

ブルジョワジーや一般大衆へと拡大しました。

 また、産業革命以降の技術革新により、美術の分野では、写真の発明や、印刷技術の発達が、絵画に大きな影響を与えました。

音楽の分野で、レコードなどの録音技術の発明や、ラジオなどの遠隔放送技術が、もっぱら、その場でリアルタイムの演奏を楽しむ

しかなかった、音楽のあり方を大きく変えてしまったのに匹敵するくらいの革命です。

 

 モダンアートという言い方は、絵画だけでなく、彫刻や、建築や装飾も含みます。

我々は、本を読んだり、音楽を聴いたりするまえに、建物のなかにいて、家具や装飾に囲まれています。

外にいるときも、街中で建築物に囲まれています。モダンアートは、我々の最も身近な芸術文化・文明だと思いますので、

この機会に、ゆっくりと、モダンアートについて、考えてみたいと思います。

  

 人間の知的活動には、読む・見る・聞くという受動的な活動と、文章や詩歌を書く、絵画を描く、

歌を歌ったり、楽器を演奏したり、曲を作曲したりというような能動的な活動があり、

受動と能動の両方を行うことにより、活動の質が向上していくのだと思っています。

 そう考えると、大人になってからの、絵を描く訓練が、一番見落とされているのではないかと思います。

最近、大人のぬり絵がブームになりつつあるように思いますが、クロッキー、デッサン、水彩、マンガなどの世界も

視野にいれたいと思っています。

  

 さて、英語の講義の予習に使っている英語のテキストは、次の2冊です。

E.H.Gombrich, The Story of Art, 1995

Richard Brettell, Modern Art 1851-1929, 1999

 これらについては、別頁で紹介します。

 また、幸い、近くの図書館に、美術関係の本がいっぱいありますので、少しずつ読み始めています。

まず最初に、豆知識を一つ。

  

高階秀爾さんの、誰も知らない「名画の見方」 という新書本の表紙に、フェルメールの「真珠の首飾りの少女」が使われていて、

少女が読者を見つめています。少女の目には、白い点が描かれています。

この自然にはありえない白い点として描かれた光が瞳に生き生きとした輝きを与え、見るものの心を奪うのだそうです。

 現代の写真にも、被写体の目の中に人為的な光を加えて、生き生きとした表情を作り出すというテクニックがあるそうです。

  

2016.5.19

 筑波大の最初の講義が昨日、無事開催されました。その説明に入る前に、前回の記事の最後の話題に関して、もう一言。

  

 フェルメールが、目に白い点を描いて、生き生きとした表情を表したことに関して、写真にもそんなテクニックがあると書きましたが

写真でストロボを使って (昔の言葉で言うと フラッシュをたいて) 写すと、当然、目が白く光ります。

写真の初期の頃、写真は、肖像画の替わりによく用いられました。そのころの肖像写真に、目が白く光っているのをいくつか見つけました。

当時の写真は、クオリティーも低く、モノクロだったので、撮影した写真をみながら、油絵の具で肖像画を描くということも、

頻繁に行われたと思いますが、そういう歴史のなかで、目が白く光っているのになれて、親しみをおぼえるようになったのではないかと思います。

 フェルメールの絵は、写真術があらわれる前ですので、多分、窓から入った外光が光っていたのてしょうが、

フェルメールの絵が一時期忘れられて、後世に再認識されたとき、目が白く光っていることも、親しみをもって迎えられたということではないでしょうか。

 

 さて、筑波大の講義の話しにもどります。先生は、イギリスに留学されたと履歴に書いてあったので、

イギリス発音かもしれないと心配していたのですが、フィリピンのかたなので、アメリカ発音でしたので、安心しました。

 生徒は、登録は14名でしたが、昨日は13名でした。つくばおよび近郊のかたが殆どでしたが、遠く笠間から英語の授業に

興味を持って参加したという方もいました。

 初回は、先生や生徒の自己紹介から始まりました。私のように退職したあとの方も二三人いました。

英語にたどたどしい方も何人かおられたので、あまり難しい講義にはならないだろうと思われますので、安心しました。

英語でのディスカッションの訓練として、ある記事が紹介され、意見を出し合いました。

昨日の5月17日付けの 真新しい記事で、タイトルは、

Japanese Billionaire Who Dropped $98M on Art Explains Why He Did It

http://observer.com/2016/05/japanese-billionaire-who-dropped-98m-on-art-in-two-days-explains-why-he-did-it/

 前澤友作という日本の億万長者が、98億円(1ドル100円換算)出して現代アートを買ったという記事です。

日本のバブル崩壊後の初めての爆買いなので記事になったようです。

ウィキペディアを参照すると、かなり商才のある実業家で、ZOZOTOWNとかいうファッション通販を運営しているようです。

公益財団法人 現代芸術振興財団 を創立し、若手アーティストを支える活動もしているようです。

財団のサイトを覗いてみると、「バスキアの作品を約62.4億円で落札しコレクションに追加した」というお知らせが掲載されていました。

また、近々、第3回CAF賞の入選作品展覧会が開催されるようです。

最優秀賞50万円、優秀賞20万円2名、審査員特別賞10万円4名は、若手には、うれしい賞だと思います。

 

 大枚をはたいて絵を買ったことについては、一人を除いて、先生を含めて、いいことだという意見でした。

私は、ゴッホの絵に何億円の値段がついたというようなニュースを聞くと、ゴッホが貧乏のまま亡くなったことを知っているだけに、

いったい誰がもうかるのかと素直には喜べません。

 ゴンブリッチの本には、その昔、絵描きは、工房に属して、徒弟制度のもとに絵の描き方を受け継いでいたころは、描いた絵は

パトロンが買ってくれるので、生活は、それなりに安定していました。しかし、ルネッサンスをへて、ダビンチのような天才が、

絵描き職人ではなく、芸術家として認められるようになり、みんなが芸術家として独り立ちしようとしたころから、

生きている間は、絵が売れず、貧困のまま死ぬという不幸せな芸術家がおおぜい誕生しました。と説明されています。

 

 また、印象派が登場したときに、ぼろくそに酷評した当時の批評家が、少しでも彼らの絵を買っておけば、大金持ちになれたのにと、

皮肉ってもいます。

 

 今は、世界中に山ほど美術館があって、絵を購入してくれるので、芸術家を目指す画家にとってはありがたいのでしょうが、

前澤さんが購入したバスキア (1960-1988) は、若くして死んでしまったので、その恩恵にあずかれませんでした。

 

 さて、先生のHerbethは、Arts in Hospital のような活動にも参加しているのですが、病院には現代アートは向かないといっていました。

現代アートは、何かを訴えかけていて、見る人は考えなければならないので、病院では、風景のような絵のほうがいいという意味です。

彼女の講義は、次回から始まりますので、この頁で紹介できることを楽しみにしています。

 

 さて、英語の予習のために、ゴンブリッジのほかに、ブレッテルという人の本も買いましたが、現役の大学の先生が書いた本で、

内容が難しく、すぐに、紹介ページが作成できずに、困っています。

 読みながら、昔読んだことのある外山滋比古さんの「日本語の論理」のなかの名詞構文と動詞構文という話しを思い出しました。

いま、本は手許にないので、インターネットの読書亡羊の以下の記事が参考になります。

外山滋比古 「日本語の論理」 (1973) http://blogboyo.hatenablog.com/entry/2015/02/13/053225

 英語が名詞構文で、日本語が動詞構文なのですが、その得失についての議論は、とても示唆に富んでいますので、

是非、上記のサイトで勉強してみてください。

 

 コンブリッジの本の章のタイトルになった「伝統の破壊」という言葉を例にしますと、

形容詞+名詞、または 名詞+名詞 の形で、概念が表示できます。

伝統の破壊の開始の時期 というように、いくらでも言葉を積み重ねて意味が表示できるので、高度な内容を表現するのに便利です。

 ここからは、私の意見になるのですが、「伝統の破壊」という言葉は、伝統が破壊したのか、伝統を破壊したのかというようなニュアンスが

含まれません。動詞を使ったほうが、表現力が増すのですが、「伝統破壊の開始時期」と短く表現できることを、いちいち

伝統を破壊することが開始された時期のように、動詞を使って説明するのは、面倒ですし、いつもうまくいくとは限りません。

 名詞を積み重ねて概念を形成するのは、専門用語を用いるのとも、似ています。専門用語を使うことで、意味が明確になるので、

学術議論に向いているのですが、専門用語を知らない人には、意味が全く伝わりません。

 名詞構文の得失については、もう少し考えて、別のページで議論しなおすつもりでいます。

 

 難しい内容の本を読むときには、ある程度、その世界でどのようなことが議論されていたかの知識が必要なことがあり、

一度読んでわからないことは、いろんな知識を得ながら、何回か読み返さないとわからないというようなことが起こります。

ブレッテルの本も、こうしてゆっくり読んでいきたいと思っています。

2016.5.29

 ゴンブリッチの本は、最後の「実験芸術」と「終わりのない物語」をゆっくり読んでいるのですが、あいにく、それを

どう短くまとめることができるのか、全く、見当がついていません。

 複雑になってしまった現代を、短くまとめること自体が、もう不可能になってしまったのかもしれませんが、それでも、

長い本を読んだあと、それを短くまとめる努力をしないと、単に、読み流し、読み捨て、そして読んだことを忘れるということに

なってしまいそうな気がします。

 今朝のテレビの「題名のない音楽会」のタイトルは、「久石譲が語る歴史を彩る6人の作曲家たち」でした。

久石譲が説明する西洋音楽史ですが、まず音階の発見があり、単一旋律のモノフォニーや、複数旋律のポリフォニーや、

旋律に伴奏がついたホモフォニーがあり、ベートーベンが完成させた長調と短調の二つの音階による音楽があり、

ワーグナーによるより複雑な心理状況を表現する音楽へとすすんで、次週の後半にすすみます。

 久石譲が、現代音楽をどのように説明するか、是非とも、来週の放送を見るつもりですが、

ワーグナーの音楽ですら、すでに複雑なのに、さらに複雑になりそうなことは予想されます。

 それにしても、複雑なものを、どの視点からみれば、よりわかりやすく見えるかを発見しようとする努力は、

忘れずに、持ち続けたいと考えています。

 

 さて、モダンアートも、現代音楽に負けずに複雑です。

ピカソや、マチスや、ダリのように、なんとか愛着もわき、ついていける作品は、いいのですが、

全く、わけのわからない作品が山ほど、あります。それを、どう理解したらいいのでしょうか。

 

 ゴンブリッチのように、長い本ではなく、短くまとめた本は、いくつかありますので、それを読んでみることにしました。

一つみつけたのが、英国のオープン・ユニバーシティが遠隔授業のために使用しているテキストです。

テキストが、インターネットで公開されていて、電子書籍版もあり、キンドルでも読めるものが、アマゾンのサイトから無料でダウンロードできます。

テキストが、無料公開されていますので、長文に引用しても、問題なさそうに思いますので、undergraduate用の教材

Art and visual culture: Medieval to modern を私流の直訳的翻訳により、読み解いてみようと思いました。

別のページになりますので、興味をもたれた方は、ご参照ください。翻訳は、ゆっくり進みます。

   http://www.geocities.co.jp/think_leisurely/OpenLearn_art_visual_culture.html

 

2016.6.6

 題名のない音楽会の「久石譲が語る歴史を彩る6人の作曲家たち」の後半もみました。

音楽のルールを壊したペンデレツキ、音楽をシンブルに原点回帰させたライヒ、音楽を新たに進化させたジョン・アダムスの

三人が紹介されましたが、残念ながら現代音楽を好きにはなれませんでした。

現代音楽家が、クラシック音楽のどこに不満で、新しい音楽で何をしようとしたのかを、もっと納得させるような解説が

必要なのだと思いますが、それよりも大事なのは、好きな現代音楽に出会うことだと思います。

 つい先日、NHKのEテレのバレーの饗宴 2016 (4月10日公演、5月22日放送) で谷桃子バレエ団の「オセロ」を見ました。

音楽は、シュニトケのコンチェルト・グロッソ第一番で、渡辺玲子さんと近藤薫さんの二人のバイオリンが、すざましい演奏をしていて、

感銘を受けました。これは、私の現代音楽への歩みの一歩になるのではないかと思いますが、

それでも、オセロという非日常的な悲劇の場面だからこそ合う音楽です。

 一般大衆は、基本的に保守的です。スポーツでも、プロ野球は、いまだに、球場に何万人もの観客を集める力を持っています。

ポップスも、ロックも、演歌も、ホールを満員にします。歌舞伎などの古典芸能も、映画も、ちゃんと集客力を持っています。

現代音楽は、はたしてそれと同様のものなのでしょうか。

 現代人は、昔の人よりも、不協和音を受け入れるようになったのではないかと思います。

現代絵画も、少しずつ受け入れるようになってきていると思います。

しかし、それは、現代人が精神的・情緒的な安定を壊しつつあるからなのかもしれません。

今後、人類が愛する芸術が、どういう方向に発展し進化していくのかを、ゆつくりと目撃したいと考えています。

 

2016.7.13

 東京都現代美術館(MOT)のチーフ・キュレータの長谷川祐子さんが書いた「なぜ?」から始める現代アート(NHK出版新書、2011)

を読みました。

 その第二章で、美術館の、白い壁に囲まれた、天井の高い展示室は、日常とは切り離された空間でモダンアートを鑑賞するためであり、

この白くてニュートラルな空間のことを「ホワイトキュープ」と呼んでいるそうです。

 そして、続いて、長谷川さんなりにモダンアートの定義をされます。

 一般的にいうモダニズム (近代主義) とは、「新しさ」に価値を見出し、革新的に前に進むという概念のことです。

では、モダンアート、つまり芸術におけるモダニズムとは何か。文脈によっていろいろな定義があるのですが、

基本的には、アーティストが宗教や国家から離れ、個人として、自意識をもって作品をつくり始めたということです。

 そうなると、オリジナリティへのこだわりや価値づけが生まれます。ユニークであるということ、

いままでになかったものを自分がつくり出すという「新しさ」の生産が、

モダンアートと、それ以前の宗教画や肖像画との違いであるということになります。(中略)

 真っ白でニュートラルなホワイトキューブは、これらの政治的、社会的、思想的な場の関係と、作品の関係を切断して、

作品に自立性を与えるものでした。(中略)

 白いニュートラルな空間でモダンアートを見せられているうちに、それに対抗するように、

サイト・スペシフィック(場所特有)なアートが現れてきました。1960〜70年代にかけてのことです。(中略)

普通の民家であったり、商業施設であったり、ほかのことに使われている場所で展示をするということが行われるようになります。(中略)

 アートにおいては、それを見るだけでなく、体験したい、つまり自分も参加したい。という欲望が生まれます。

 最初のうちは、観客に対してオープンな解釈を求めるコンセプチュアル(概念的)な作品から始まりました。その後、

「体験」への欲望はさらに進んで、パフォーマンスやワークショップ、環境デザインなど、身体ごと参加していくアートが出てきました。

 

 このように、モダンアートが多種多様な可能性を追求していると同時に、伝統的な絵画も、大衆の圧倒的な支持を得て存続しています。

今後の芸術がどう発展していくか、大きな流れを確認したいと考えています。

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


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