水村美苗 日本語が亡びるとき (2008)    

2019.9.01

 水村さんは、この本の5章 日本近代文学の奇跡 で、明治から第二次世界大戦前まで、

日本文学が花開き、国民の間に広がっていったことを誇らしげに語ります。

 しかし、6章 インターネット時代の英語と「国語」 で、「文学の終わり」を語り始めます。

語り始めのところを少し引用します。

 「文学の終わり」とは誰もが聞き飽きた表現である。p.233

しかもそれは、少なくとも半世紀前から、日本でのみならず、世界で言われてきた。

いや、一世紀前からすでに言われてきた。

 だが近年になって、「文学の終わり」を憂える声はいよいよ緊迫した響きを帯びている。

日本でのみならず、世界においてもそうである。

インターネットの普及によって『書き言葉』を読むという行為そのものはますます重要になってきているというのに、

文学、ことに今まで広く読まれてきた小説が読まれなくなってきている。

おまけに、今や、広く読まれる小説といえば、つまらないものばかりになってきていると、人はいう。

 水村さんは、「文学の終わり」を憂える背景には、歴史的な根拠があると言います。

 一つは、科学の急速な進歩。二つは、『文化商品』の多様化。そして三つは、大衆消費社会の実現。

主にこの三つの歴史的な理由によって、近代に入って『文学』とよばれてきたもののありがたさが、今、

どうしようもなく、加速度をつけて失われているのである。p.234

 しかし、水村さんは、次のようにも語ります。

 それでいて、広い意味での文学が終わることはありえない。

 (中略)

 科学の進歩などが広い意味での『文学の終わり』をもたらすことはありえない。p.238

科学が進歩するに従い、逆に、科学が答えを与えられない領域 - 文学が本領とする領域がはっきりしてくるだけにだからである。

ほかならぬ、意味の領域である。

科学は、「ヒトがいかに生まれてきたか」を解明しても、「人はいかに生きるべきか」という問いに答えを与えてはくれない。

そもそもそのような問いを発するのを可能にするのが文学なのである。

もし答えがないとすれば、答えの不在そのものを指し示すのも文学なのである。

いくら科学が栄えようと、文学が終わることはない。

 また、文学が、あまたある廉価な『文化商品』の一つでしかなくなったところで文学が終わることはありえない。

映画を観た人が、その映画を小説化した「ノヴェライゼーション」なる本を読むのからもわかるように、

人間には『書き言葉』を通じてのみしか理解できないことがある。

『書き言葉』を通じてのみしか得られない快楽もあれば、感動もある。

 あるいは、大衆消費社会の出現によって、『文化商品』と『流通価値』が限りなく恣意的になったところで、文学は終わらない。

一度『書き言葉』を知った人類が、優れた『書き言葉』、すなわち『読まれるべき言葉』を読みたいと思わなくなることはありえないからである。

ことに『叡智を求める人』が『読まれるべき言葉』を読みたいと思わなくなることはありえない。

そして、『叡智を求める人』はどの社会でもある割合では存在する。

いかにつまらぬ本ばかりが市場に流通していようと、その脇で、『読まれるべき言葉』も流通し続けるのである。

 ほんとうの問題は、英語の世紀に入ったことにある。

 これから五十年後、さらに百年後、さらに二百年後、このような『叡智を求める人』が、

果たして『自分たちの言葉』で『読まれるべき言葉』を読み続けようとするであろうか。

 英語の世紀に入ったとは何を意味するのか。

 水野さんは、かつて、ヨーロッパでラテン語が占めていた普遍語の地位を、現在は英語が占めているが、

インターネットの普及により、英語の世紀は、来世紀も、来来世紀も、そしてその先も続くと予言します。

 水野さんは、漱石が今生まれたら、どんな作家になったかを、何度か議論します。

その一つを引用します。

 漱石が今生まれたとすれば、大人になるのは四半世紀後である。p.259

四半世紀後の世界では、非西洋人の学者が英語で書くのは今よりさらに常識となっているであろう。

英語で「テキスト」を書くことによって、世界の「読まれるべき言葉」の連鎖に入ろう 

− そう、漱石が決心し、そして、もし英語として十分に読むに堪えうる「テキスト」を実際に書くことができたとすれば、

かれが書いたものは、実際に、世界の「読まれるべき言葉」の連鎖に入ったかもしれない。

 ただ、そのとき漱石は、英語とはあまりにかけ離れた言葉を『母語』とするおのれの運命を呪い、

英語を『母語』とする人たちの幸運を妬み、彼らの無邪気と鈍感に怒りを感じながら。

人生のかなりの時間を英語そのものと格闘してすごすことになったであろう。

漱石は、いずれにせよ、毎日が幸せでしょうがないといった類いの人間ではない。

しかし、『外の言葉』である英語と格闘して過ごす毎日は、『自分たちの言葉』である日本語で書く毎日と較べて、さらに不幸なものとなったであろう。

『外の言葉』である英語で書く行為は、かれにどうしようもない疎外感を感じ続けさせたであろう。

しかも、かれが書いたものは、漱石にとって満足といくものとはならなかったであろう。

 だが、それでも、これから四半世紀後、漱石のような人物が日本語で書こうとするであろうか

− ことに、日本語で文学などを書こうとするであろうか。

 そして、6章を以下の言葉で締めくくります。

p.265 くり返し問うが、今、漱石ほどの人材が、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。

 私自身も含め、今、書いている人たちに失礼だが、たぶん書かないような気がする。

 今でさえすでにこのような状況である。

 このまま手をこまねいていたとしたら、これから四半世紀後はもちろん、

五十年後、百年後、私程度の者でさえ果たして日本語で小説を書こうとするであろうか。

 それ以前に、果たして真剣に日本語を読もうとするであろうか。

 水野さんが、現在の日本文学の状況をどう見ているのか、もう一か所、引用します。

 今、日本の本屋に入ってあたりを見回せば、『書き言葉』としての日本語は、溢れ返っている。p.261

しかも、西洋語から日本語へと翻訳をするようになって、ほぼ一世紀半。

世界と共通する概念も定着し、現在、新聞や雑誌などで流通している日本語の質は、開闢以来の高さを誇っているかもしれない。

 だが、『文学の言葉』は別である。

 今の日本でも優れた文学は書かれているであろう。それは出版されているであろう。

これだけの人口を抱えた日本に、才あり、志の高い作家がいないはずはない。

だが、漫然と広く流通している文学は別である。

そのほとんどは、かつては日本文学が高みに達したことがあったのを忘れさせるようなものである。

昔で言えば、またに「女子供」のためのものである。

かつて日本近代文学の奇跡があったからのみ、かろうじて、『文学』という名を冠して流通しているものである。

 現在、学問の世界では、研究者は、世界を相手として、英語で論文を書いています。

しかし、文学の世界でも、作家は、世界を相手にして、英語で小説を書くようになるのでしょうか。

それとも、日本語を母語とする人たちのために、日本語で、文学を書き続けるでしょうか。

 水村さんが予感している日本語の将来については、今、考察するのではなく、

水村さんが、その後書かれた、「日本語で読むということ」「日本語で書くということ」を読んでからにしたいと思います。

 

 そして、7章 英語教育と日本語教育 において、英語の世紀における教育のあり方を語ります。

 英語の世紀に入ったということは、国益という観点から見れば、すべての非英語圏の国家が、

優れて英語ができる人材を、充分な数、育てなくてはならなくなったのを意味する。

 そして、その目的を達するにおいて、原理的に考えれば、三つの方針がある。

あくまで、原理的に考えればのことではあるが。

気蓮◆峭餮譟廚魃儻譴砲靴討靴泙Δ海函

兇蓮国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。

靴蓮国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。

 ここで、水村さんがどういう議論をされたか、まとめることはしません。

 ただ、この章の最後の言葉を引用します。

 英語の世紀の中で、日本語で読み書きすることの意味を根源から問い、その問いを問いつつも、

日本語で読み書きすることの意味をそのままの証しとなるような日本語であり続けること

−そのような日本語であり続ける運命を、今ならまだ選び直すことができる。

 私たちが知っていた日本の文学とはこんなものではなかった。

私たちが知っていた日本語とはこんなものではなかった。

そう信じている人が、少数でも存在している今ならまだ選び直すことができる。

選び直すことが、日本語という幸運な歴史を辿った言葉に対する義務であるだけでなく、

人類の未来に対する義務だと思えば、なおさら選び直すことができる。

 それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。

 自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証しであるように。

 

 ところで、水村さんは、三つの方針において、バイリンガルという言葉を使っていますが、

私は、バイリンガルという能力が、この問題の解決策となるとは思いません。

バイリンガル者は、日本語で話すときは、日本語で考え、英語で話すときは、英語で考えますが、

通常のバイリンガル者は、英語らしい日本語をしゃべろうとか、日本語らしい英語をしゃべろうとかいう努力を

意識的におこなうことはしません。

二つの言語を近づけるためには、話し言葉であれば、通訳、書き言葉であれば、翻訳という作業を行うことが必要です。

 水村さんは、p.248で、自動翻訳機による翻訳は、原理的に不可能 と切り捨てていますが、

人工知能の進化は、めざましく、話し言葉の通訳は、かなりの精度で行う事が出来るようになりました。

マイクに日本語で話すと、それを文字になおし、対応する英語に変換し、英語で話す ということを簡単にやりとげてくれます。

 日本語で書かれた小説を、人間の翻訳家でも、翻訳できないというのであれば、自動翻訳機にも、翻訳はできませんが、

人間の翻訳家がちゃんと翻訳できるということであれば、AIも、それを学習して翻訳の能力を開発することが可能ではないかと思います。

 

 

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