水村美苗 日本語で書くということ (2009,2022) 

2019.9.20 更新2023.10.09

 この本は、水村さんが、新潮、現代思想、群像などいろんな雑誌に発表した文章を集めたものですが、

最初を飾るのは、1992年に発表した「この世紀末、文学に希望がもてるか」という文章です。

 その出だしが面白いので、少し、引用します。

 昨年(1991年)、十一月祭で、京都大学へ招かれて行ったときのことである。

講演のあと相次ぐ質問に大まじめに答えていると、突然、からかうように間延びした声がどこからかあがった。

あのう、水村さんは、なぜ今ごろ、小説なんちゅう誰も読まんもんを書こうとしてるんですか。

聴衆がどっと笑い、わたしも思わず苦笑した。

 今、文学では食べられないというのは周知の事実である。

だが、それ自体はなにも新しいことではない。

高きをめざして孤独に精進するとされるのが小説家たちである。

かれらが食べるに困るというのは、今に始まったことではない。

そもそも日本近代文学は、その発端から、小説などを書いても妻子はおろか、我が身すら養いきれないという、まさにそのことを主題としてきた。

漱石の初期の作品『野分』も、大志を抱く青年が、貧困のうちに肺病で倒れようとしているところで終わっている。

文学者とは「人より高い平面に居ると自信しながら、 人がその平面を認めてくれない為に一人坊っち」であることを余儀なくされる存在なのである。

当時、漱石自身貧乏ではなかったが、小説家が貧乏なのはよく知っていた。

 問題は文学で食べられるかどうかではない。

問題は、今、この期におよんで、まだ文学に意味を見出せるかどうかである。

なぜ今ごろ小説を書くかという問いは実は問いではない。

それは、なぜ今さら文学を、という揶揄である。

そして、その揶揄が笑いを誘うのは、文学がすでに死につつあるという認識が今われわれの間で共有されているからにほかならない。

 この後、文学や芸術をいらないという人は、しょせんそれらに無縁な人たちなのであって、書物や芸術を望む人が、この広い日本に一人もいなくなるとは想像できないと語ります。

 そして、こう結びます。

 要するに作家はそういう人間に向かって書けばいい。

だからわたしは、この世紀末、文学にすらも希望をもっているのである。

 

 次に、1999年に発表した 漱石と『恋愛結婚の物語』 という文章において、水村さんは、語ります。

子供のころ、『小公女』『若草物語』『足長おじさん』『ジェーン・エア』『嵐が丘』など、

英国ビクトリア朝の女の作家の書いた少女文学にとりわけ親しんで育った。

 中学生になり、アメリカに渡ってからは、望郷の念にかられ、明治・大正時代の「現代日本文学」の全集ばかりを読んだ。

 十年ほど前、漱石の『明暗』の続編である『続明暗』を書いたとき、なぜそんなものを書いたかと問われ、

まず、繰り返し読んだ「現代日本文学」の全集のことを思った。

 しかし、十年たって、あの少女文学のことを思うようになった。

 あの威張った口髭をはやした漱石に、なつかしいビクトリア朝の女たちの精神が継承されていると思いいたった。

 西洋の文芸の最大の主題は「恋愛」です。明治維新のあと、西洋の文芸が日本に入ってくると、

恋愛結婚という理念が若い世代を熱病のようにとらえた。

しかし、日本の現実の中で、見合い結婚は、それなりに機能していて、

日本の作家が文学のなかで恋愛結婚を大まじめにとりあげることはなかったが、

漱石だけは、大まじめにとりあげた。

漱石は、英文学を嫌い反発していたが、当時のどの作家よりも英文学をよく読んだことにより、

恋愛結婚という理念にとらえられてしまった。

それがあの『明暗』です。

漱石の中で、初めて、女主人公の視点からも物語が語られたというだけではない。

お延は、「自分の眼で自分の夫を撰」ぶという女であり、絶対的な愛という理念を心に掲げた女です。

「どうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから嫌いなんだから」と、翻訳小説のようなせりふをはく女です。

まわりの女たちからは疎まれ、夫からはうんざりされ、怖がられる。

この日本の現実にどうして絶対的な愛などが要るのか。

『明暗』の世界にとりこまれてしまった読者にとって、お延の理念の必然は自明のものになり、

私達は、お延の運命に一喜一憂して、文章を追っていくのです。

 小さいころ、少女小説によって耕された心の一部を、漱石の『明暗』は知らぬまに堀り起こしていたのでした。

そしてそれが『続明暗』につながっていたのでした。

と、水村さんは、語り終えます。

 この観点から、漱石の『明暗』を、じっくり読み解きたいと考えています。

 

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