三田村雅子 紫式部 源氏物語 (2015) |
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2018.10.9
NHKの100分de名著は、最近は興味深く見ていますが、定年前は、そんなに熱心な視聴者ではありませんでした。
三田村さんの「紫式部 源氏物語」は、2012年に放送されたのですが、
100分de名著ブックスというシリーズの一冊として2015年に出版された本を図書館から借りてきて、楽しく拝読しました。
興味深く読んだ箇所をいくつか紹介します。
『源氏物語』は藤原道長がスポンサーになってできたという、よくある解説を信じておられる方も多いと思いますが、
紫式部が道長の要請によって宮仕えに出たのは、『源氏物語』の評判が高くなり、
無視できなくなってからの出来事であり、その当初はスポンサー抜きの綱渡りだったのです。
『源氏物語』のスリリングな挑戦は、お雇い作家となる前の少数の読者にかたちづくられました。
その当初の文学仲間こそ、『源氏物語』を共有し、熱狂し、勇気づけた存在だったようです。
『紫式部日記』によると、それらの友人を作者は宮仕え後に失ってしまいますが、当初の大胆な志を忘れず、その原点を常に振り返って書くことを続けようとしています。
紫式部は、20代の終わり頃、藤原宣孝の妻になるのですが、二年と少したって子供が生まれた頃に、夫は疫病で亡くなります。
当時、紫式部には文学好きの友人がいたらしく、さびしい未亡人生活の中で物語を書いては交換し、読んでは批評しあって、無聊(ぶりょう)を慰めていたようです。
そのやりとりを繰り返していく中で、やがて「『源氏物語』は面白い」ということで、口づてで評判が広まります。
かなりの分量 (全体の半分程度か) 書き進んだ段階で、式部のまれな才能を聞きつけた時の権力者 藤原道長が、
自分の娘、一条天皇中宮の彰子に女房として宮仕えさせるべくスカウトしてきました。
これは紫式部にとっては不本意なことだったようですが、父や弟の出世と引きかえに宮仕えを強要されたと考えられます。
紫式部は、ウィキペディアによると、1001年に夫と死別し、1006年か1007年に宮仕えを始めたようです。
また、紫式部が、宮仕えを始めたとき、内裏は火事で焼失していました。
そこで、一条院という邸宅を買い上げて、里内裏(臨時の内裏) として使っていて、
天皇は、いつもそこに住んでいたので、一条天皇と呼ばれることになったそうです。
さて、いづれの御時にか で始まる源氏物語は、100年くらい前の醍醐天皇の時代をモデルにしたと考えられています。
桐壺帝には、女御・更衣があまたさぶらっていましたが、醍醐天皇は、19名の妃を抱えていました。
それは、多くの有力者からまんべんなく妃を迎え、藤原摂関家のみに権力が集中しないようにしたのです。
桐壺帝は、桐壺更衣一人を愛したため大問題になりましたが、そのモデルは、一条天皇の一代前の花山天皇です。
第65代天皇は、花山天皇は第63代天皇の冷泉天皇の第一皇子ですが、寵愛した弘徽殿女御が死亡し、悲しみのあまり出家して、
第66代天皇の一条天皇が即位しました。
第2章は、源氏物語に登場する女達のお話です。
源氏物語には、短編的に登場する女性と、長期にわたって登場し続ける女性がいます。
前者は、夕顔、空蝉、末摘花たちで、初期の帖に、一帖に一人読み切りという感じで登場し、個性が際立っていて印象的です。
後者は、紫の上、明石の君、六条御息所たちで、お互いに似ていて、個性的とは言い難い性格を持っていますが、
時間と共に変化する様子が描かれていて、人物としてより厚みを感じさせます。
六条御息所について、三田村さんは、次のように語ります。
六条御息所は、亡くなった東宮の妃でした。大臣の娘で身分が高く、教養があって歌も上手く、
筆跡が見事で、美貌に恵まれ、経済的にも豊かという申し分のない女性です。
年齢は、光源氏よりも七歳年上。十六歳で東宮に嫁ぎ、娘を産みますが、東宮は即位することなくこの世を去り、二十歳にして未亡人になります。
物語では、光源氏との出会いについては語られておらず、あまり熱心ではない源氏への恋慕を募らせる御息所の苦悶が語られるところから始まります。
こう説明されるとわかりやすいのですが、源氏物語 本文では、夕顔の帖で 六条あたりのお忍び通いの頃 と、軽く匂わせて、
葵の帖で、全貌を表します。渋谷栄一先生の現代語訳は、以下のとおりです。
それはそうと、あの六条御息所のご息女の前坊[前皇太子]の姫宮、斎宮にお決まりになったので、
大将[光源氏]のご愛情もまことに頼りないので、「幼いありさまに託つけて下ろうかしら」と、前々からお考えになっているのだった。
院[桐壺院]におかれても、このような事情があると、お耳にあそばして、
「故宮[前皇太子]がたいそう重々しくお思いおかれ、ご寵愛なさったのに、軽々しく並の女性と同じように扱っているそうなのが、気の毒なこと。
斎宮をも、わが皇女たちと同じように思っているのだから、どちらからいっても、疎略にしないのがよかろう。
気まぐれにまかせて、このような浮気をするのは、まことに世間の非難を受けるにちがいない事である」
などと、御機嫌悪いので、ご自分でも、仰せのとおりだと思わずにはいられないので、恐縮して控えていらっしゃる。
六条御息所への光源氏の愛情が頼りないので、桐壺院も心配して、光源氏を諫めています。
この後、葵の上が懐妊したため、御息所は身を引いて、娘の斎宮について伊勢に下ろうとします。
最後の思い出にと出かけた葵祭で、葵の上の一行と場所取り喧嘩をしているところに、光源氏の隊列がやってきます。
そのとき正妻と忍び妻に対する扱いの差を思い知らされ、葵の上に強い恨みをもつようになります。
葵の上は、つわりがひどくて寝込んでしまい、六条御息所の生霊の仕業ではないかと噂されます。
葵の上は、夕霧を無事出産したあと、急逝してしまいます。
御息所自身も、夢の中で漂い出たのかもしれないと、自らもはっきり否定できない日々を送ります。
光源氏は、御息所を遠ざけますが、良心の呵責に悩まされ続けます。
朝顔の帖で、光源氏は、生涯に二つだけ心の「むかほぼれ」(しこり)を抱えたと回想しますが、
それは藤壺とのことと、六条御息所とのことでした。
新型コロナ対策として、昨日、首都圏等に緊急事態宣言が発表されましたが、
つくば市では、図書館が、今日から、5月7日まで、突然の臨時休館になってしまいました。
三田村さんのこの本は、最初は図書館から借りたのですが、幸い、古本屋で古書を手に入れましたので、
引っ張り出してきて、もう一度、読みなおそうとしています。
100分de名著の番組の方も、午前中に、YouTubeで、見直しました。
紫式部と藤原道長の関係についての、三田村さんの説明は、上記に引用しましたが、
歴史考証としては、不十分な気がします。
紫式部は、生年は、970〜978年と推定され、没年は、1019年以降とされていますが、
関係する主要人物、清少納言 (966-1025)、藤原定子 (977-1001)、藤原彰子 (988-1074)
について、年表を作ると
987年 紫式部 藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した可能性
990年 定子 入内
993年 清少納言 定子に仕える
995年 彰子 入内
997年 定子 第一子・脩子内親王を出産
998年 紫式部 山城守・藤原宣孝と結婚
999年 定子 第一皇子・敦康親王を出産
999年 紫式部 一女・藤原賢子(大弐三位)を産む
1000年 彰子 中宮となる 『栄花物語』で「かかやく藤壺」と称される
1000年 定子 第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御
媄子内親王は、東三条院詮子が、脩子内親王・敦康親王は、定子の末妹御匣殿が養育
詮子、御匣殿が相次いで死去
敦康親王は、継母の彰子が、両内親王は母后の実家で養育
敦康親王を引き取った彰子の局は、藤壺(飛香舎)。清少納言も従った可能性あり
1001年5月10日 紫式部 宣孝と死別した
1006年1月31日or1007年1月20日より、紫式部 彰子の女房兼家庭教師役として仕える
1008年 彰子 土御門殿にて第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産
1009年 彰子 敦良親王(後朱雀天皇)を産む
紫式部は、夫の死後(1001年)から、源氏物語を書き始めたのではなく、
987年に、道長が、土御門邸に婿入りする以前から、土御門邸にいて、
まず「若紫」の巻あたりから、源氏物語を書き始めていたと思います。
「桐壺」の巻の、桐壺帝の桐壺更衣の寵愛は、現実世界の、一条帝と定子の関係に似ていて、
輝く日の宮とよばれた藤壺は、現実世界で、局を藤壺とする彰子が、「かがやく藤壺」と呼ばれたことに似ているので、
1000年以降に、話の梗概がまとまり、
1006年に、彰子の女房兼家庭教師役となるころには、かなり有名になっていたと思います。
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