牧村健一郎 新聞記者 夏目漱石 (2005) 

2022.05.10

 漱石が、朝日新聞社に入社することになったとき、決定的な役割を果たしたのは、

朝日新聞の主筆だった池辺三山 (いけべ さんざん) (1864年3月12日- 1912年2月28日)でした。

先行して、漱石には、読売新聞社からの働きかけがありましたが、漱石は、熟考した結果、

報酬が少ないことと地位が不安定であることから、読売の申し出は断りました。

 これに対し、池辺三山は、漱石のあげた条件をすべて承諾し、

1907年3月15日に、漱石宅を電撃訪問して会談した結果、漱石は、入社を決断しました。

 三山は、その前年の1906年に、二葉亭四迷に、新聞小説を書かせて、成功をおさめていました。

これに続き、夏目漱石の多数の新聞小説が、誕生することになりました。

 池辺三山は、石川啄木も、部下として採用し、仕事の場を与えますが、

その石川啄木は、池辺三山のことを詠んだ短歌を、二つの残しました。

「大いなる彼の身体が/憎かりき/その前にゆきて物を言ふ時」

「おれが若し/この新聞の主筆ならば/やらむーと思ひし/いろいろの事」

 

 最初に、池辺三山、二葉亭四迷、夏目漱石、石川啄木に関係する年表を示しておきます。

1895 日清戦争終結
1896 三山、大阪朝日新聞に主筆として入社
1898 三山、東京朝日新聞の主筆
1904 日露戦争勃発  新聞の売上拡大

1904 四迷、大阪朝日新聞東京出張員になる、内藤湖南の紹介
     
四迷、東京朝日新聞に移籍、三山のはからい
1905 日露戦争終結  戦後不況始まる
1906 四迷、新聞小説開始、其面影、三山のはからい

1907 漱石、東京朝日に入社
1908 四迷、朝日新聞特派員としてロシア赴任
1909 四迷、肺炎、肺結核発症、帰国途中に死去
1909 朝日新聞文芸欄発足、森田草平の煤煙を連載、草平が、文芸欄の実務担当。
     漱石は、草平を朝日社員にさせるつもりが、反対が多く、かなわず。
1909 啄木、東京朝日新聞の校正係となる
     啄木、朝日新聞社から刊行予定の『二葉亭全集』で校正を担当、三山のはからい

1910 漱石、胃潰瘍で入院、療養先の修善寺温泉で大吐血
1911 朝日新聞文芸欄廃止
     三山、東京朝日新聞を退職
1912 三山、母死去。三山も、心臓発作で死去。
     啄木、肺結核のため死去
1916 漱石、胃潰瘍により死去

 1909年に、朝日新聞文芸欄発足とありますが、漱石は、入社の頃から、

小説だけでなく、文藝、美術、音楽など文化全体の動静を扱う文芸欄ができないかという考え

もっていたそうです。

 文芸欄は、しばらく実現しませんでしたが、時機が実り、11月15日に発足したとき、

漱石は、最初に、愛弟子森田草平の小説「煤煙」の序文を書きました。

青空文庫に収められています。

  「煤煙」の序   https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/4684_9470.html

「煤煙」は、森田草平と平塚明子の心中未遂事件を書いた自伝的小説で、

漱石が、執筆を勧め、草平は、平塚家の許可を得て、

朝日新聞に、1909年1月1日から5月16日まで、127回にわたって連載され、

当事者が書いたということで、世間的にも有名になったものです。

しかし、単行本としての出版にあたり、出版社が、検閲機関である警保局に打診したところ、

警保局長が難色を示したため、前半部分を、第一巻として出版することになりました。

漱石は、その顛末を、この序文で紹介し、宣伝につとめました。

 文芸欄の実務は、草平がとりました。草平の回想が、引用されています。150頁

「集めた原稿は先生の書斎を編集室にするつもりだったが、

後には忙しくていちいち原稿に目を通されず、私にまかせ、

私の家で編集して滝山町の新聞社に原稿を持って行った。

二階の編集室の一番奥には池辺さんが和服で四角の台の上に座布団を敷いて、

便々たる腹をかかえてあぐらをかいていた。

私は山本笑月さんに原稿を届け、原稿料を会計にもらいに行くとさっさと帰った。」

 朝日文芸欄は、自然主義文学が全盛期の時代に、自然主義批判の評論を多数掲載しました。

漱石や漱石の弟子たちも、そういう傾向の評論を書きましたが、

漱石自身は、本来、幅広く質の高い作品を掲載したいと考えていたそうです。

 また、原稿が集まらなかったときや、原稿に不満があった場合、漱石自身が原稿を書くという事態が、

何度も発声しました。これを、「自爆」と呼びますが、このお陰て、漱石の自然主義観や、

イデオロギー観を露わにした評論作品が生れたことになります。

 さて、183頁に、 文芸欄への不満 と題する節がありますので、紹介します。

 三山は漱石を、陰に陽にかばった。

 「坑夫」がいまひとつ評判がよくなかった時、その描写力をほめ、「画家も敵うまい」といって漱石をかばった。

漱石が推薦して載せた長塚節の連載小説「土」は、茨城の農民の悲惨な生活シーンが延々と続き、

社内外から、何とかしろと、苦情がでた。「土」の前の漱石の「門」も地味な作風だった。

「土」は50回程度の予定がなかなか終わらず、70、80と長引いた。

病気の漱石に代って文芸欄を担当していた草平は、対応に苦慮したが、

「土はいいものだ。存分に書かせろ」といって草平を感激させた。

 だが、その草平の新しい連載「自叙伝」をきっかけに、大きな社内騒動が持ちあがった。

 草平は前作「煤煙」で、平塚明子との心中未遂事件を書き、一般には好評だったが、

題材が題材だけに社内ではあまり信用がなかった。

そこへまた「煤煙」の後日談のような小説が載る。

ただでさえ載せたい記事が多いのに、文芸欄だれ特別待遇で優遇されている。

文芸欄なら文学者の追悼記事が大きく掲載されるのに、

自分がカバーする海軍の将軍が死んでも記事にならない。

漱石が書き編集するのならいいが、若い学生あがりみたいなのが新聞と縁遠い閑文学をもてあそんで、

我が物顔で朝日の紙面を作るのはおかしいではないか。

 文芸欄へのこんな不満が、社会部、政治部あたりに、くすぶっていた。

 この対立などの結果、三山は、辞職することになります。

 入院中の漱石は、責任を感じ、色々と画策しますが、辞職は、くつがえりませんでした。

 結局、漱石は、文芸欄の廃止を決意します。朝日文芸欄は、二年間続きました。

 漱石自身も、辞表を出しますが、遺留されて、撤回します。

 

 漱石は、朝日新聞に入社することにより、新聞小説を沢山執筆しましたし、文芸欄に沢山、評論を執筆しました。

これに加えて、漱石は、朝日新聞社員として、朝日順かい講演会などの講演会で、多数講演しました。

講演会で、漱石は、文明批評家として聴衆に語りかけ、多数の名講演を残しました。

 

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