蓮の道 無量義経 (2014) 

2019.7.11

●徳行品-1 「はじめに」     2014/1/7(火) 午後 2:06

●無量義経徳行品第一 #1

○第一 通序 「聴聞衆を明かす」

『無量義経』は、妙法蓮華経の直前に説かれた教えだとされています。
はじめにあるのは、『徳行品』です。菩薩と仏の徳と行を讃えた章です。

*訓読

是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城・耆闍崛山(ぎしゃくせん)の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶なりき。菩薩摩訶薩 八万人あり。

天・龍・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩侯羅伽(まごらが)あり。諸の比丘・比丘尼、及び優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)も倶なりき。

大転輪王・小転輪王・金輪・銀輪・諸輪の王、国王・王子・国臣・国民・国士・国女・国大長者、各眷属百千万数にして自ら囲遶(いにょう)せると、仏所に来詣して 頭面に足を礼し、めぐること百千そうして、香を焼き、華を散じ、種種に供養することおわって、退いて一面に坐す。

*現代語訳

このように私は聞きました。
ある時、釈尊は、マガダ王国の都ラージャグリハの霊鷲山に住み、一万二千人の出家修行者と共にいました。大菩薩たちが、約八万人いました。

天上界の神々、ナーガ、ヤクシャ、ガンバルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガたちが同席していました。多くの男女の出家修行者や在家修行者も同席していました。

大転輪王、小転輪王、金輪・銀輪・諸輪の王、国王、王子、優れた家来たち、優れた人々、大長者たちが、それぞれ多くの眷属と共に集まっていました。人々は、次々と仏のもとへと進み、釈尊のみ足に額をつけて礼拝し、釈尊のまわりを右回りに巡りました。香をたき、花を散じ、様々に供養しおわって、退いてもとの席へと戻りました。

*解説

『無量義経』古くから『妙法蓮華経』の開経とされています。無量義とは、無量の方便の教えのことをいいます。仏は、無量の方便によって、人々を真実へと導いたということが主に説かれています。方便と真実は、『妙法蓮華経』にとって重要なテーマですから、『無量義経』である程度の内容がつかめると『妙法蓮華経』に入りやすくなります。

ここでは、まず、『無量義経』が、いつ、どこで、誰に対して説かれたのかを明確にしています。釈尊の説法は対機説法ですから、対象によって説き方や教えの浅深が変わりますので、誰に対して説かれたのかを把握しておく必要があります。

霊鷲山には、多くの声聞、多くの菩薩、天界の神々や神獣、魔物、地上界の人々が集っています。集った人々は釈尊のもとに進み、深く敬意を表わしています。

*言葉の意味

○王舎城(おうしゃじょう)
(梵)ラージャグリハ "raajagRha"

中インドのマガダ国の首都です。
マガダ国は、古代インドの十六大国の一つです。他の国に比べて、ヴェーダの宗教(バラモン教)の力が弱く、カースト制度も緩かったといいます。そのことからか、新興宗教が多く起こった国であり、仏教やジャイナ教はこの国で広く布教がされました。

マガダ国の首都が王舎城です。この土地は外輪山によって、四方が山に囲まれていたために、自然の要塞のようだったので首都として選ばれたのでしょう。

城というのは、日本の城の意味ではなく街のことです。街全体を塀で囲み、敵からの侵入を拒みました。

釈尊の生まれた紀元前五世紀頃、インドでは村から街へとコミュニティ形態が変化していました。王族の権力が大きくなり始め、バラモンを頂点とするカースト制への反発もあり、そのことから仏教に帰依する王族も多かったようです。マガダ国のビンビサーラ王も、その息子のアジャータシャトル王も仏教に帰依していました。

○耆闍崛山(ぎしゃくせん)
(梵) グリドラ・クータ "gRdrha-kuuTa"の音写。

霊鷲山(りょうじゅせん)のことです。
王舎城の東北にあり、釈尊が晩年に説法をした場所として有名です。鷲が多いこと、霊山だったことからも分かるように、この山の頂上では、鳥葬が行われていたといいます。死体が転がっている近くで、釈尊は生活をしていたようです。

●徳行品-2 「菩薩」     2014/1/7(火) 午後 2:19

●無量義経徳行品第一 #2

○第一 通序 「菩薩の名前を列ねる」

ここには、菩薩の名前が紹介されます。

*訓読

その菩薩の名を、文殊師利法王子、大威徳蔵法王子、無憂蔵法王子、大弁蔵法王子、弥勒菩薩、導首菩薩、薬王菩薩、薬上菩薩、華幢菩薩、華光幢菩薩、陀羅尼自在王菩薩、観世音菩薩、大勢至菩薩、常精進菩薩、法印首菩薩、宝積菩薩、宝杖菩薩、越三界菩薩、ビマバツラ菩薩、香象菩薩、大香象菩薩、師子吼王菩薩、師子遊戯世菩薩、師子奮迅菩薩、師子精進菩薩、勇鋭力菩薩、師子威猛伏菩薩、荘厳菩薩、大荘厳菩薩と曰う。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なりき。

*現代語訳

その菩薩の名は、

 文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)
 大威徳蔵法王子(だいいとくぞうほうおうじ)
 無憂蔵法王子(むうぞうほうおうじ)
 大弁蔵法王子(だいべんぞうほうおうじ)
 弥勒菩薩(みろくぼさつ)
 導首菩薩(どうしゅぼさつ)
 薬王菩薩(やくおうぼさつ)
 薬上菩薩(やくじょうぼさつ)
 華幢菩薩(けどうぼさつ)
 華光幢菩薩(けこうどうぼさつ)
 陀羅尼自在王菩薩(だらにじざいおうぼさつ)
 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
 大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)
 常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)
 法印首菩薩(ほういんしゅぼさつ)
 宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)
 宝杖菩薩(ほうじょうぼさつ)
 越三界菩薩(おつさんがいぼさつ)
 ビマバツラ菩薩(びまばつらぼさつ)
 香象菩薩(こうぞうぼさつ)
 大香象菩薩(だいこうぞうぼさつ)
 師子吼王菩薩(ししくおうぼさつ)
 師子遊戯世菩薩(ししゆけせぼさつ)
 師子奮迅菩薩(ししふんじんぼさつ)
 師子精進菩薩(しししょうじんぼさつ)
 勇鋭力菩薩(ゆえいりきぼさつ)
 師子威猛伏菩薩(ししいみょうぶくぼさつ)
 荘厳菩薩(しょうごんぼさつ)
 大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)

といいます。
このような菩薩摩訶薩八万人が参列していました。

*解説

参列している菩薩の名前が記されています。
『妙法蓮華経』では、先に声聞衆の名前が紹介され、次に菩薩衆の名前が紹介されますが、『無量義経』では、まず菩薩が紹介されています。おそらくは、『無量義経』の説法の対象が菩薩衆なので、このような順番にしたのでしょう。

●徳行品-3 「菩薩の徳」     2014/1/7(火) 午後 2:39

●無量義経徳行品第一 #3

○第一 通序 「菩薩たちの徳を讃える」

*訓読

この諸の菩薩、皆これ法身の大士ならざることなし。戒、定、慧、解脱、解脱知見の成就せる所なり。

その心禅寂にして、常に三昧に在って、恬安憺怕(てんなんたんぱく)に無為無欲なり。顛倒乱想、また入ることを得ず。静寂清澄に志玄虚漠(しげんこまく)なり。これを守って動ぜざること億百千劫、無量の法門悉く現在前せり。

大智慧を得て諸法を通達し、性相の真実を暁了(ぎょうりょう)し分別するに、有無長短、明現顕白なり。

*現代語訳

この菩薩たちは、皆、真理と一体となった高位の者たちです。戒律を守り、禅定をし、智慧が深く、迷いから離れ、迷いから離れていることを自覚していました。

その菩薩たちの心は落ち着いていて動じることがなく、常に一心に集中しており、現象に振り回されることなく常に安らかであり、ものごとにこだわることがありません。自己中心的ではなく、必要以上の欲もありません。真理を無視するような自分勝手な考えはなく、想いが乱れることもありません。心が澄んで静かに落ち着いており、志しは高く、広くて限りがありません。このことを守って長い間、動揺することなく、多くの教えを理解してきました。

大きな智慧を得ていますので、世界の事物・現象を深く観ることができ、物事の特徴と本質を見通し、見分けるとき、そのものの特徴の有無、度合いをはっきりと見極めていました。

*解説

ここでは、菩薩の徳を讃えています。
名前を告げて、その人の徳を讃えることは重要です。

最近、「いいとこ探し」というゲームっぽいことを児童たちがしているようです。お友達の悪いところは探さず、いいところだけを見つけて、相手に伝えるゲームです。これは、大人が交流の時にやってみるといいかも知れません。ちょっとした触れあいの時に、相手の長所を見つけたら讃えてあげるといいと思います。ただし、お世辞や嘘、大げさな誉め方はマイナス効果ですから気をつける必要があります。事実を感じたままにフィードバックします。

*用語の意味

○法身 (ほっしん)
(梵)ダルマ・カーヤ "dharma-kaaya"
真理そのもののこと。真理と一体化したこと。

○三学・五分法身

戒、禅定、智慧を修めることを「三学」といいます。仏道修行者が修めるべき基本的な修行項目のことです。また、三学に解脱、解脱知見とで、「五分法身」といいます。五分法身とは、法身の大士が具えている五種の功徳性のこと。解脱身のことです。

_ (かい)
(梵)シーラ "sila"
自分自身を律する内面的な道徳規範を戒といい、戒を守ることを持戒といいます。

∩議蝓 覆爾鵑犬腓Α
(梵) ディヤーナ "dhyaana"
特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させることです。

C匏邸 覆舛─
(梵) プラジュニャー "prajJna"
諸法実相を観察することによって体得できる実践的精神作用を慧といい、煩悩を完全に断つ主因となる精神作用を智といいます。

げ鮹Α 覆欧世帖
(梵) ヴィモークシャ "vimokSa"
煩悩に縛られていることから解放され、迷いの苦を脱することです。

ゲ鮹γ慮 (げだつちけん)
解脱していることを自分自身で認識していることです。

○三昧 (さんまい)
(梵)サマーディ "samaadhi"
禅定が深い状態のこと。

○無為 (むい)
(梵)アサンスクリタ "asaMskRta"
分別造作がないこと。
因縁によって造られたものでなく、生滅変化を離れた常住絶対の法のことです。因縁によって造られたものを「有為」といいます。

○顛倒 (てんどう)
転倒。道理にそむいて誤っていること。本来とは逆になっていること。仏教では、四顛倒を説きます。

‐鐡薪檗 覆犬腓Δ討鵑匹Α
事物・現象は無常ですが、常だと考えることです。

楽顛倒 (らくてんどう)
一切は苦ですが、一時的な状態だけをみて楽だと考えることです。

浄顛倒 (じょうてんどう)
不浄なものを、表面だけを見て浄だと考えることです。

げ翕薪檗 覆てんどう)
自我を認識することはできませんが、何らかのものを自我だと誤って認識し、執着することです。

●徳行品-4 「菩薩の説法」     2014/1/8(水) 午後 7:19

●無量義経徳行品第一 #4

○第一 通序 「転法輪」

*訓読

また、善く諸の根性欲を知り、陀羅尼・無礙弁才を以って、諸仏の転法輪、随順してよく転ず。

*現代語訳

また、菩薩は、人々の機根や性格、欲望をよく見極め、善をすすめ悪を止める力と人々を説得する力によって、諸仏の教えに従い、その教えを人々に伝えることができました。

*解説

菩薩は、相手の状態を見極めて、その人に応じて教えを説きました。そのことをここでは讃えています。

*用語の意味

○根性欲 (こんじょうよく)
機根・性質(習性)・欲望の略です。
機根とは、教えを聴いて理解し実践する能力のことをいいます。対機説法の「機」とは、機根のことです。

○陀羅尼 (だらに)
(梵) ダーラニー "dhaaraNii"
ダーラニーとは、「記憶して忘れない」ということです。
本来は、仏教修行者が覚えるべき教えや作法などをしっかりと記憶することを言いました。後に変じて、「記憶する呪文」のことをいうようになりました。意訳して総持、能持、能遮ともいいます。能持とは諸々の善法をよく持つことであり、能遮とは諸々の悪法をよく遮ることです。

●徳行品-5 「十二因縁」     2014/1/8(水) 午後 8:08

●無量義経徳行品第一 #5 「十二因縁」

○第一 通序 「利他」

*訓読

微襦覆澆燭ぁ棒茲座弔舛動覆辰突濘个鬚劼燭掘⌒載僂量腓魍き 解脱の風を扇いで、世の悩熱を除き法の清涼を致す。

次に甚深の十二因縁を降らして、もって無明・老・病・死等の猛盛熾然(みょうじょうしねん)なる 苦聚(くじゅ)の日光にそそぎ、しこうして乃ち洪(おおい)に無上の大乗を注いで、衆生の諸有の善根を潤漬(にんし)し、善の種子(しゅじ)を布いて功徳の田に遍じ、普く一切をして菩提の萌を発さしむ。

智慧の日月・方便の時節・大乗の事業を扶蔬(ふそ)増長して、衆をして疾く阿耨多羅三貎三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成じ、常住の快楽、微妙真実に、無量の大悲、苦の衆生を救わしむ。

*現代語訳

ほこりが多く乾いた場所に水のしずくをたらせば、そこだけは塵をおさえることが出来るように、まずは、小さな教えを人々に説いて、その人の欲望を抑えました。そうすることによって涅槃への門を開き、解脱へと導く縁となりました。苦悩から離れられるようにと、人々に教えを説き、教えを実践することの喜びを体験させました。それは、暑苦しいところに冷たい風を吹かせて、涼しくて清々しく心地よい状態に導くことに似ています。

次に、非常に奥深い「十二因縁の法門」を説いて、苦の原因は真理を知らないことにあると教え、苦悩から離れる方法を具体的に説き明かしました。その教えを聴いた人々は、照りつける灼熱の太陽の光から救ってくれる夕立のような恵みを感じました。その後、この上もなく尊い大乗の教えを説き示し、誰もが持っている良心に潤いを与え、善の心を芽生えさせ、水田一面に稲が実るように、心を功徳で満たし、ひろく人々に菩提心を起こさせました。

菩薩の智慧は、闇を消す太陽・月の光となり、方便として必要な時によく人々を照らします。そのことは、人々が大乗の道を進むことを助け、人々がまっすぐに最上の悟りの境地へとたどりつき、常にある安らぎ、深い真理と限りない大きな慈悲の心で、苦悩する人々を救うようになります。

*解説

ここには、菩薩がどのように人々に教えを説いて、利益を与えていくかの順序次第が説かれています。まずは、易しい教えを説いて教えを実践することによって安らかな心になれることを実感させ、次に仏教の根本的な縁起を説き、その後、大乗の教えを説いて菩提心を起こさしめました。菩提心とは、成仏を目指す心です。

*用語の説明

○涅槃 (ねはん)
(梵) ニルヴァーナ "nirvaaNa"
直訳すれば、「吹き消す」ことです。燃える火を消すこと。煩悩を火に譬え、それを消すことをいいます。安らぎの境地です。

○甚深 (じんじん)
非常に奥が深いこと。意味・境地などが深遠であること。通常、縁起の理法のことをいいます。

○十二因縁 (じゅうにいんねん)
苦の原因を探って見極め、その原因を滅して苦を滅するという思想のことです。老死などの苦の原因は、煩悩によって行動を起こすことにあるとして、その根本原因を「無明」だと見極めました。初期仏教の十二因縁とは次のような意味です。

〔橘澄 覆爐澆腓Α
(梵) アヴィドヤー "avidyaa"
無我について明かではないことです。自我(アートマン)は認識することのできないものなのに、何らかのものを自我として誤って認識することを無明といいます。「自分を大切にする」「自分の命」「自分の子ども」などの「自分」というものは認識されませんが、このような言葉を使っている時、なんらかのものを「自分」だと認識しています。

行 (ぎょう)
(梵) サンスカーラ "saMskaara"
意志作用のことです。自分を認識しようとする意志のことです。

識 (しき)
(梵) ヴィジュニャーナ "vijNaana"
認識作用のことです。分別による認識のことをいいますので「識別」ともいいます。自分と自分以外を分けることで、この自他分別によって自分というものを認識することです。

ぬ梢А 覆澆腓Δ靴)
(梵) ナーマ・ルーパ "naama-ruupa"
心と身体のことです。名とは「名前のあるもの」なので心のことをいい、色とは「形のあるもの」なので身体のことをいいます。自分を認識することによって、さらに自分を心と身体に分けて認識することをいいます。五蘊(色受想行識)のことともされます。

ハ蚕茵 覆蹐しょ)
(梵) シャダアーヤタナ "SaDaayatana"
眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官のことです。自他を分別することによって、他を感受するための感覚器官を認識します。

触 (そく)
(梵) サパルシャ "sparSa"
自他がコンタクトすることです。眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官によって、他と接触することです。

Ъ (じゅ)
(梵) ヴェダナー "vedanaa"
感受することです。他とのコンタクトによって、色を見て、音を聞き、匂いを嗅ぎ、味を味わい、そのものに触れ、イメージを感じます。そして、快・不快という感情を起こします。たとえば、多くの食べ物の中から、リンゴを見てロックオンするようなものです。

┛Α 覆△ぁ
(梵) トリシュナー "tRSNaa"
欲求のことです。感受して、快を感じたものに近づこうとし、不快なものから遠ざかろうとする欲求のことです。トリシュナーとは、「渇き」のことですので、強い欲求のことをいいます。「愛」と訳されていますが、日本人の想う愛とは概念がまったく異なります。リンゴを見て欲しいと想い求めることです。

取 (しゅ)
(梵) ウパアダーナ "upaadaana"
執着のことです。あるものを感受し、それを欲しいと想い、さらに執着することをいいます。リンゴを欲しいと想い、手に入れることです。

有 (う)
(梵) バヴァ"bhava"
存在のことです。他を摂取することにより、自分という存在が有るという認識を固めることです。自我(アートマン)の認識によって、自我への執着となり、「有」への固執となります。

生 (しょう)
(梵) ジャーティ "jaati"
転生のことです。自我への執着は、あらゆる行為を起こし、それがカルマとなって次の転生へと繋がります。肉体を持った転生とは、迷いの世界を輪廻するということです。

老死 (ろうし)
(梵) ジャラー・マラナ "jaraa-maraNa"
老化と死のことです。生老病死は「苦」の代表格であり、また、自我への執着を持って死ねば、転生を繰り返すことになります。

初期仏教の十二因縁は、以上のように時間という概念が盛り込まれていませんので、無明〜老死は瞬間とも、過去・現在・未来という長い時間をかけるとも観ることができます。その後、上座部仏教では、「業と輪廻」の思想が深く入り込み、「三世両重の因果」へと発展しました。

●徳行品-6 「成長」     2014/1/9(木) 午後 8:47

●無量義経徳行品第一 #6

○第一 通序 「自利」

*訓読

これ諸の衆生の真善知識、これ諸の衆生の大良福田、これ諸の衆生の請せざるの師、これ諸の衆生の安穏の楽処・救処・護処・大依止処なり。

処処に衆生の為に、大良導師・大導師と作る。よく衆生の盲いたるが為には、しかも眼目を作し、聾(りょう)・ぎ・唖(あ)の者には、耳・鼻・舌を作し、諸根毀欠(きけつ)せるをば、よく具足せしめ、顛狂荒乱(てんのうこうらん)なるには大正念を作さしむ。

船師・大船師なり、群生を運載し、生死の河を度して涅槃の岸に置く。

医王・大医王なり、病相を分別し薬性を暁了(ぎょうりょう)して、病に随って薬を授け、衆をして薬を服せしむ。

調御・大調御なり、諸の放逸(ほういつ)の行なし。なお、象馬師のよく調うるに調わざることなく、師子の勇猛なる威、衆獣を伏して沮壊(そえ)すべきこと難きがごとし。

*現代語訳

この菩薩は、人々の真の善友です。善の心を育てる素晴らしい田畑であり、困った時に招いていなくても現れる師であり、人々に安らぎを与える人、救う人、護る人、心のよりどころとなる人です。

どこにあっても、人々のために、立派なリーダーとなります。もし、人が真理を見る眼を塞いでいたならば、眼を開かせる縁となり、真理を聞かない者、嗅がない者、味わわない者には、真理を体験できるような縁となり、ありのままを感じられるように関わり、心が狂って荒れ乱れている者には、心を落ち着かせ正気に戻るように関わります。

この菩薩たちは、まるで船長のようです。人々を船に乗せ、迷いの岸から、安らぎの岸へと送ります。

また、優れた医者のようです。あらゆる病状を知っており、多くの薬の効果にも通じており、患者に適した薬が何かを見極め、病気に応じた薬を授け、人々はその薬を服します。

また、腕のいい調教師のようです。行いに乱れがありません。どのように荒れた象であっても、馬であっても、調教する術を持っています。それは、勇ましい獅子が威厳をもって、どのような獣であっても従わせるようなものです。

*解説

菩薩は、他者を導き救うために、自身の能力を高めています。人のことを想う慈悲によって自分を高めることになります。

●徳行品-7 「菩薩の行」     2014/1/9(木) 午後 9:06

●無量義経徳行品第一 #7

○第一 通序 「智慧の完成」

*訓読

菩薩の諸波羅蜜に遊戯(ゆけ)し、如来の地に於いて堅固にして動ぜず。願力に安住して、広く仏国を浄め、久しからずして 阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得べし。この諸の菩薩摩訶薩皆、皆かくの如き不思議の徳あり。

*現代語訳

この菩薩たちは、悟りへの道を自由自在に行い、菩提心は定まっていて、動じることがありません。菩薩は、誓願の力にとどまって、広くこの世界を浄めます。間もなく、最高の悟りを得ることでしょう。この菩薩摩訶薩たちは、皆、このような人知の及ばないほどの徳を持っているのです。

*解説

「菩薩の諸波羅蜜」とは、六波羅蜜のことです。六波羅蜜とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の行を完成させることです。六波羅蜜の目的は、すべての行を完成させて、最終的に智慧を完成させることです。智慧の完成のことを「般若波羅蜜」といいます。

布施から禅定までの行は、智慧をもとにします。智慧をもとにした慈悲によって布施を行じるのですが、ここでは菩薩たちが人々を導き救うという「法施」を主に讃えています。

●徳行品-8 「声聞たち」     2014/1/9(木) 午後 9:29

●無量義経徳行品第一 #8

○第一 通序 「声聞の名前を列ねる」

*訓読

その比丘の名を、大智舎利弗、神通目健連、慧命須菩提、摩訶迦旃延、弥多羅尼子富楼那、阿若?陳如、天眼阿那律、持律優婆離、侍者阿難、仏子羅雲、優波難陀、離波多、劫賓那、薄拘羅、阿周陀、莎伽陀、頭陀大迦葉、優楼頻螺迦葉、迦耶迦葉、那提迦葉という。是の如き等の比丘万二千人あり。皆、阿羅漢にして、諸の結漏を尽くして、また縛著(はくぢゃく)なく、真正解脱なり。

*現代語訳

会に参列している出家修行者の名は、

 大智舎利弗(だいちしゃりほつ)
 神通目健連(じんづうもつけんれん)
 慧命須菩提(えみょうしゅぼだい)
 摩訶迦旃延(まかかせんねん)
 弥多羅尼子富楼那(みたらにしふるな)
 阿若?陳如(あにゃきょうぢんにょ)
 天眼阿那律(てんげんあなりつ)
 持律優婆離(じりつうばり)
 侍者阿難(じしゃあなん)
 仏子羅雲(ぶっしらうん)
 優波難陀(うばなんだ)
 離波多(りはた)
 劫賓那(こうひんな)
 薄拘羅(はくら)
 阿周陀(あしゅうだ)
 莎伽陀(しゃかだ)
 頭陀大迦葉(ずだだいかしょう)
 優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)
 迦耶迦葉(がやかしょう)
 那提迦葉(なだいかしょう)

といいます。
このような出家修行者が、一万二千いました。皆、聖者の最高の境地の阿羅漢の位にあり、様々な心の結びや煩悩を滅し、また執着がなく、真に迷いから脱した者たちです。

*解説

菩薩の次に声聞の大弟子たちが紹介されています。ここに名前があげられているのは、十大弟子たちをはじめとする長老の弟子たちです。長老というのは、年齢のことではなく、高位の弟子ということです。

●徳行品-9 「供養」     2014/1/9(木) 午後 10:26

●無量義経徳行品第一 #9

○第二 別序 「三業供養」

*訓読

その時に大荘厳(だいしょうごん)菩薩摩訶薩、遍く衆の坐して各定意なるを観じおわって、衆中の八万の菩薩摩訶薩と倶に、座よりしかも起って仏所に来詣(らいけい)し、頭面に足を礼しめぐること百千そうして、天華、天香を焼散し、天衣(てんね)、天瓔珞(てんようらく)、天無価宝珠、上空の中より旋転して来下し、四面に雲のごとく集って、しかも仏にたてまつる。

天厨、天鉢器に天百味充満盈溢(よういつ)せる。色を見、香を聞(か)ぐに自然に飽足す。

天幢(てんどう)・天旛(てんばん)・天軒蓋(てんこんがい)、天妙楽具処処に安置し、天の伎楽を作して 仏を娯楽せしめたてまつり、即ちすすんで 胡跪(こき)し合掌し、一心に共に声を同じうして、偈を説いて讃めて言さく。

*現代語訳

その時に、大荘厳菩薩は、説法の会に参加しているすべての人々を見渡して、誰もが静かに坐り、心を定めているのを知ると、参列している八万の菩薩と共に立ち上がり、釈尊の近くへと進みました。釈尊のもとに着くと釈尊のみ足に額をつけて深く礼を捧げ、釈尊のまわりを何度も巡りながら、美しい花を頭上より散らし、芳しいお香をたきました。天上界からは、天の衣、首飾り、貴重な宝石が、ゆっくりと回転しながら、あたり一面に降りてきました。それらの天上界の宝物が、次第に雲のように集まってきたのを、一つにまとめると、仏へと奉りました。

また、天の調理場では、天の鉢や器に様々なご馳走を盛り付けました。その色彩を見、芳しき香りを嗅ぐだけで、満足できるような御膳も釈尊へと奉りました。

また、天の幟や旗、天蓋、天の家具を釈尊のまわりに飾り、天の伎楽を演奏して奉りました。そうした後に、釈尊の前へと進み、膝を地につけて礼拝し、合掌して、心を一つにして声を合わせ、詩を説き、釈尊の徳を讃えました。

*解説

ここでは、大荘厳菩薩と多くの菩薩たちが、様々なものを釈尊に供養しています。大荘厳菩薩は、この『無量義経』の重要な登場人物です。なぜなら、この経典は大荘厳菩薩に対して教えが説かれるからです。

供養とは、仏や菩薩、天、阿羅漢たちに、供物を捧げることをいいます。現在も日本では、燈明・お香・華・膳・お茶・水などを仏壇に捧げますが、このことを供養といいます。ヴェーダの宗教(バラモン教)では、儀礼儀式を重んじており、動物を貢物としていました。これを供犠といいます。仏教では、そのような殺生を禁じて、花やお香を捧げる供養を始めました。

ここでは、三業の供養がされます。三業とは、三種の行為のことで、身口意のことをいいます。仏教では、因果応報が説かれますが、この因とは身口意の行為のことです。身口意の行為を正しく行じることが「八正道」ですので非常に重要な教えです。

ここでは、大荘厳菩薩が釈尊に礼拝し、右に廻り、胡跪し、合掌することが「意業の供養」であり、様々な供物を供養することが「身業の供養」であり、そして、この後に偈(詩)のかたちで釈尊を讃えることが「口業の供養」です。

また、供養には、三種があるといわれます。利供養(供物)・敬供養(讃嘆・恭敬)・行供養(行法)です。これを法華経では、供養・恭敬・尊重・讃歎と言い、繰り返し勧められています。行供養とは、仏法を行じることであり、八正道や六波羅蜜の行を行じることです。

●徳行品-10 「詩」     2014/1/9(木) 午後 11:44

●無量義経徳行品第一 #10

○第二 別序 「仏身歎」

*訓読

 大いなるかな大悟大聖主 
 垢なく 染なく 所著なし
 天・人・象・馬の調御師 
 道風徳香一切に薫じ 
 智しずかに情しずかに
 慮凝静(りょぎょうじょう)なり 
 意滅し 識亡して 心また寂なり 
 永く夢妄の思想念を断じて 
 また諸大陰入界なし

*現代語訳

 大いなるかな! 
 最上の悟りを開かれた大いなる聖主
 煩悩なく 迷いなく 執着なく
 天、人、動物たちの善き指導者となり
 行いは風 お徳は香りとなって
 あらゆるものの心へと染み入り
 智慧定まり 心定まり 
 思慮もまた定まり
 意識滅し 心もまた滅し
 永く 夢 妄想が起こることなく
 また すべての因縁もなく

*解説

ここからは「偈」が説かれます。偈とは、サンスクリット語のガーター "gaathaa" の訳で、詩句の形式で表わされた文のことをいいます。

古代よりインド人は「詩」を愛しました。ちょうど、日本で短歌や俳句が詠まれたように、インドでも雅言葉(サンスクリット語)で詩を詠みあったようです。

釈尊は、重要な教えを詩のかたちで説いたとされます。聖なる教えを文字にすることは古代インドでは戒められていましたので、師の教えは記憶し、口伝によって自分の弟子へと伝えました。なので、重要な教えは覚えやすいように詩のかたちで説かれたといいます。

訓読にすると詩のかたちが崩れてしまいますので、味わいが浅くなってしまいます。真読がどのようなものか参考までに書き写しておきます。

 大哉大悟大聖主 だいざいだいごだいしょうしゅ
 無垢無染無所著 むくむぜんむしょじゃく
 天人象馬調御師 てんにんぞうめぢょうごし
 道風徳香熏一切 どうふうとっこうくんいっさい
 智恬情怕慮凝靜 ちてんじょうはくりょぎょうじょう
 意滅識亡心亦寂 いめつしきもうしんやくじゃく
 永断夢妄思想念 ようだんむそうしそうねん
 無復諸大陰界入 むぶしょだいおんにゅうかい

詩は、実際に口に出して読まなければ味わいが分かりません。一応、読み仮名も入れてみましたので、ぜひ音にしてみてください。とても、訓読では感じることのできない音の流れを体感できると思います。

ここでは、七字によって統一されていますが、法華経では、四字、五字の詩句が多く説かれています。

●徳行品-11 「無我」     2014/1/10(金) 午後 4:38

●無量義経徳行品第一 #11

○第二 別序 「内証身」

*訓読

 その身は 有に非ず また無に非ず 
 因に非ず 縁に非ず 自他に非ず 
 方に非ず 円に非ず 短長に非ず 
 出に非ず 没に非ず 生滅に非ず 
 造に非ず 起に非ず 為作に非ず 
 坐に非ず 臥に非ず 行住に非ず 
 動に非ず 転に非ず 閑静に非ず 
 進に非ず 退に非ず 安危に非ず 
 是に非ず 非に非ず 得失に非ず 
 彼に非ず 此に非ず 去来に非ず 
 青に非ず 黄に非ず 赤白に非ず 
 紅に非ず 紫種種の色に非ず

*現代語訳

 その身体は
 有ではなく 無ではなく
 因ではなく 縁ではなく 自他ではなく
 四角ではなく 円ではなく 短くも長くもなく
 出ではなく 没ではなく
 生じるのでも滅するのでもありません
 造られたのではなく
 起こったのではなく
 為すのでもなく 作るのでもありません
 坐っているのではなく
 寝ているのではなく
 行くのでも とどまるのでもありません
 動くのではなく 転がるのではなく
 動きが止まっているのではなく
 進むのではなく 退くのではなく
 安全でも 危険でもありません
 肯定ではなく 否定ではなく
 得でも 損でもありません
 あちら側はなく こちら側はなく
 去るのではなく 来るのでもなく
 青ではなく 黄ではなく
 赤でもなく 白でもなく
 紅ではなく 紫やその他の色でもありません

*解説

ここには、仏の真実の姿が表わされています。真実は、「〜である」という文章では表わすことができませんので、「〜に非ず」「〜に非ず」という否定形の句が並んでいます。

*非有亦非無

まず、「有」「無」の両辺を否定しています。
自分には実体は有るのでしょうか、無いのでしょうか? このことは、仏教において非常に大きな問題ですが、ここでは、その答えを「非有亦非無」としています。有るのではなく、また無いのでもありません。

自分の実体とは、古代インドより、「アートマン」と呼ばれ、日本では「真我」とも訳されます。仏教以前から、ヴェーダの宗教では、「アートマン」を悟ることを最高の悟りとしていましたので、修行者たちはアートマンを悟るためにヨーガをし、苦行をしました。アートマンとは、個の原理ですので、個の原理を悟ることによって、宇宙の原理(ブラフマン)を悟ることができると考えられたのです。当然ながら、ヴェーダの宗教では、アートマンを「有」とするのが前提です。

初期仏教では、「非我」といって、アートマンを有るとみることを否定しました。アートマンとは、個の主体なので常に観る側であり、客体にはならないからです。客体にならないということは、認識の対象にならないことですから、「有」に執着することを戒めました。

非我とは、「アナートマン」の訳です。この言葉は、アートマンの否定なので、「アートマンという存在否定」を意味するとも考えられました。この考え方は、「無我」という訳語によって、中国・日本にも浸透しています。

アートマンは有るのか? 無いのか? このことは、仏教において大きな問題なのですが、『無量義経』では、「非有亦非無」と説いてあります。この言葉は、有るに執着せず、無いに執着しないということです。

釈尊はアナートマンを説きました。すると、「アートマンは存在しないのか?」という質問をする者がいましたので、釈尊はその質問に対しては何も答えませんでした。いわゆる「無記」です。有ると答えても、無いと答えても人々はそのことに執着しますから、何も答えなかったのです。ここでは、「非有亦非無」という言葉で表わされています。

この「非有亦非無」が理解できれば、その後の「非因非縁非自他〜」も理解できると思います。ただし、納得できるまでには時間がかかるかも知れません。ある程度、仏教を理解できるようになってから、じっくりと観じたほうがいいでしょう。

●徳行品-12 「仏の力」     2014/1/11(土) 午後 10:14

●無量義経徳行品第一 #12

○第二 別序 「修徳の三身」

*訓読

 戒・定・慧・解・知見より生じ
 三昧・六通・道品より発し
 慈悲・十力・無畏より起り
 衆生善業の因縁より出でたり

*現代語訳

 持戒、禅定、智慧、
 解脱、解脱知見の徳を修められて
 世尊は 生ぜられました
 三昧、六神通力、三十七道品
 これらの修行から
 世尊は 発せられました。
 慈悲、十力、四無畏
 これらのはたらきによって
 世尊は 起きられました
 人々の善の行為の
 因縁により出現されました

●徳行品-13 「三十二相」     2014/1/11(土) 午後 10:47

●無量義経徳行品第一 #13

○第二 別序 「三十二相を述べて悟りを讃える」

*訓読

 示して
 丈六紫金の暉(ひかり)を為し 
 方整照曜として甚だ明徹なり
 毫相月のごとく旋り
 項(うなじ)に日の光あり 
 旋髪紺青(せんぱつこんじょう)にして
 頂きに肉髻(にくけ)あり
 淨眼明鏡のごとく上下にまじろぎ 
 眉しょう紺舒(こんじょ)にして
 方(ただ)しき口頬(くきょう)なり
 唇 舌 赤好(しゃっこう)にして
 丹華の若く 
 白歯の四十なる なお珂雪のごとし
 額広く鼻修(なが)く面門開け 
 胸に万字を表して師子の臆(むね)なり
 手足柔なんにして千輻を具え 
 腋掌合縵(やくしょうごうまん)あって内外に握れり
 臂修肘長(ひしゅちょうちょう)にして指直く細し 
 皮膚細なんにして毛右に旋(めぐ)れり
 踝膝露現(かしつろげん)し
 陰馬蔵(おんめぞう)にして 
 細筋鎖骨 鹿膊脹(ろくせんちょう)なり
 表裏映徹し 浄くして垢なし 
 濁水(じょくすい)も染むるなく塵を受けず
 是の如き等の相三十二あり 
 八十種好見るべきに似たり

*現代語訳

 姿かたちとして 示されるのは
 身の丈 一丈六尺(4.8m)
 身体中より 紫金の光を発し
 姿勢正しく まわりを照らされ
 際立った存在です
 眉間の白い毛は月のように旋り
 うなじからは、太陽のような光が四方に放射し
 頭髪は渦を巻き、紺青色で
 頭頂は高く盛り上がっておられます。
 眼は清らかでまるで鏡のようであり
 まぶたは上下にまじろぎます。
 眉は、紺色でスラリとのび
 口と頬は、よく整っています。
 唇と舌は赤く、丹華のようで
 歯は、雪のように白く
 四十本が揃っています。
 額は広く、鼻は長く、面門は開いており
 胸には、卍 があり、
 獅子のように胸を張っています。
 手足は柔らかく、車のような紋があり
 腋と手のひらには、細い線があって
 内外に握ることができます。
 手は長く、指は細く真っ直ぐで
 皮膚のきめは細かく
 毛は右に渦巻いています。
 くるぶしと膝は、美しく現われていて
 性器は、馬のように隠れており
 筋は細く、鎖骨はしっかりとしています。
 足は、まるで鹿のように伸びています。
 前も後も美しく
 清浄であって垢がありません。
 濁った水に入っても汚れず
 塵も身体に付きません。
 このように仏は三十二相があり
 細かく見れば、八十種の
 よき相をお持ちです。

●徳行品-14 「仏の特徴」     2014/1/12(日) 午前 9:04

●無量義経徳行品第一 #14 

○第二 別序 「衆生の相も仏の相に通じる」

*訓読

 しかも実には相非相の色なし 
 一切の有相眼の対絶せり 
 無相の相にして有相の身なり 
 衆生身相の相もまた然なり

*現代語訳

 このように特徴のある姿をされていますが
 実には、相があるとか、
 ないということを超越された方であり
 すべての相は、見たままではありません。
 真実としては相はありませんが、
 人々のために相を持って現れられました。
 人々の相もまた、その通りです。

*解説

相とは、非常に重要な言葉です。一般的には、姿かたちなどの見た目のことを言いますが、仏教用語としての相は、「特徴」の意味です。個々の事物・現象は、それぞれの特徴をみることによって分別されます。10人の人間がいれば、男女で分け、年齢で分け、体格、美醜、品格などの特徴をみて分けます。特徴がまったく同じであれば、同類とみなされます。「個の特徴→分別」というのが個への執着につながる原因でもあります。

仏は、三十二の徳相があることが讃えられましたが、実には、仏は、そのような特徴があるとか、特徴がないということを超越されています。特徴を認識できる対象ではありません。相手に特徴をみているのは自分のほうであり、それは自分の造りだしたイメージによるものが大きいのです。

そのことは、仏にだけ言えることではなく、人々の特徴も同じです。大小、優劣、美醜などの特徴をみて差別、区別しますが、それらはすべて見る側の概念・観念・イメージによって決定されています。本来は、すべてのものは無相であり、特徴はありません。仮にそのように認識されているだけです。このような観方は、法華経の「平等観」に通じます。

●徳行品-15 「仏が徳相をもつのは?」     2014/1/12(日) 午前 9:12

●無量義経徳行品第一 #15

○第二 別序 「相の用」

*訓読

 よく衆生をして歓喜し礼して 
 心を投じ敬を表して
 慇懃(おんごん)なることを成ぜしむ 
 これ自高我慢の除こるに因って
 是の如き妙色の身を成就したまえり

*現代語訳

 人々は、そのような仏さまの相をみて
 喜び、礼拝をなして
 心から帰依をし、敬意を表して
 真心を込めるようになります。
 仏は、驕り、高ぶりを捨てることによって
 このような素晴らしい相を得られました。

*解説

では、仏はなぜ三十二相を持つのかというと、人々との因縁によります。仏が慈悲のはたらきをされたために、人々の心に供養・恭敬・尊重・讃歎の心がめばえ、仏を光り輝く徳相ととらえたのです。

●徳行品-16 「帰依」     2014/1/12(日) 午前 9:42

●無量義経徳行品第一 #16

○第二 別序 「帰敬歎」

*訓読

 今、我等八万の衆 
 倶に皆稽首して咸く 
 善く思想心意識を滅したまえる 
 象馬調御無著の聖に帰命したてまつる
 稽首して法色身戒定慧解 
 知見聚に帰依したてまつる
 稽首して妙種相に帰依したてまつる 
 稽首して難思議に帰依したてまつる
 梵音雷震のごとく響き八種あり 
 微妙清浄にして甚だ深遠なり
 四諦・六度・十二縁 
 衆生の心業に随順して転じたもう 
 もし 聞くことあるは意開けて 
 無量生死の衆結断せざることなし
 聞くことあるは 或は
 須陀?斯陀・阿那・阿羅漢 
 無漏無為の縁覚処 
 無生無滅の菩薩地を得
 或は 無量の陀羅尼 
 無礙(むげ)の楽説大弁才を得て 
 甚深微妙の偈を演説し 
 遊戯して法の清渠(しょうこ)に
 澡浴(そうよく)し 
 或は躍り飛騰(ひとう)して神足を現じ 
 水火に出没して 身自由なり
 如来の法輪相 是の如し 
 清浄無辺にして思議し難し
 我等咸く また共に稽首して 
 法輪転じたもうに
 時を以ってするに帰命したてまつる 
 稽首して梵音声に帰依したてまつる 
 稽首して縁・諦・度に帰依したてまつる

*現代語訳

 今、私たち八万の者は
 ともに皆、深く敬意を表させて頂きます。
 あらゆる思想や執着心、意識を滅せられ
 象や馬をうまく調教するように
 人々の心も善に導かれ
 執着なき聖なるお方に帰依いたします。
 心から礼をなし
 法身としても、色身としても
 戒律、禅定、智慧、解脱
 解脱知見を成しとげられたことに
 帰依いたします。
 心から礼をなし
 素晴らしいお姿に帰依いたします。
 心から礼をなし
 非常に深いお智慧に帰依いたします。
 仏さまのお声は、雷が鳴り響くように
 多くの人々に広まります。
 そのお声による教えは、
 誰もが好きになれる声であり
 柔らかく、違和感がなく、智慧があり
 納得ができ、正しく、奥深く、尽きることがなく
 他と比べることのない程に優れ
 清浄で、非常に奥深い趣があります。
 四諦、六波羅蜜、十二因縁など
 人々の心と行いに応じて
 教えを説かれます。
 もし、この教えを聞くことができれば
 心から執着が除かれ
 多くの変化へのとらわれから
 離れることができます。
 仏さまのみ教えを聞くことによって
 声聞の弟子たちは
 まずは、思想の迷いを捨てて
 須陀?の位に入り
 次には、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の
 三毒を捨てて 斯陀含の位に進み
 次には、色欲・貪欲・財欲などの
 欲を捨てて 阿那含の位になり
 最後には、煩悩を捨てて
 阿羅漢の果を得ることができます。
 または、煩悩なく、執着のない
 縁覚の境地に入り
 または、無分別の菩薩の果を
 得ることができます。
 あるいは、多くの善をすすめ悪をとどめる言葉や
 障害を乗り越えて、自由自在に
 すすんで説法をする大いなる説得力を得て
 非常に奥深く、極めて優れた詩を説き
 修行を自由自在に行って
 法の清らかな水路で洗い清め
 または、身を躍らせて
 空を飛びまわる様な神の足を現じ
 水中、火中に出入りしても
 自由な身体を持てるようになります。
 如来の教えは、以上の様に清浄無辺にして
 人々の考えの域をはるかに超えています。
 私たちは、また共に深く頭を下げ
 時に応じて説法をされる
 その教えに帰依いたします。
 深く頭を下げ
 清きお声に帰依いたします。
 深く頭を下げ
 十二因縁、四諦の法門、六波羅蜜の
 教えに帰依いたします。

●徳行品-17 「仏の行」     2014/1/12(日) 午前 9:57

●無量義経徳行品第一 #17 終

○第二 別序 「仏徳歎」

*訓読

 世尊往昔の無量劫に 
 勤苦に衆の徳行を修習して
 我人天龍神王の為にし 
 普く一切の諸の衆生に及ぼしたまえり
 よく一切の諸の捨て難き 
 財宝妻子及び国城を捨てて
 法の内外に於いて悋む所なく 
 頭目髄脳悉く人に施せり 
 諸仏の清浄の禁を奉持して 
 乃至命を失えども毀傷したまわず
 もし 人刀杖をもって来って害を加え 
 悪口罵辱すれども終に瞋りたまわず
 劫を歴て身を挫けども惓惰したまわず
 昼夜に心を摂めて常に禅にあり
 遍く一切の衆の道法を学して 
 智慧深く衆生の根に入りたまえり
 この故に今自在の力を得て 
 法に於いて自在にして法王と為りたまえり
 我 また咸くともに稽首して 
 よく諸の勤め難きを勤めたまえるに
 帰依したてまつる

*現代語訳

 世尊は、はるかなる昔より
 非常に苦労をされ
 数々の徳行を修められました。
 ご自分のためだけではなく
 人や天の神々のために
 様々な魔神たちのためにされ
 その功徳は、広く人々に及ぼしました。
 とても捨てがたい様々な
 財宝、妻子国城を捨てて
 それらの物質的な物
 外面的なものだけではなく
 内面的な執着も
 惜しむことなく捨て去りました。
 その頭脳によって悟られたこと
 目で正しくとらえられた世界は
 すべて他者に施され
 諸仏によって唱えられた
 清浄なる戒律を大切に保たれて
 命にかけても破られる事はありませんでした。
 もし、人が刀や杖を持って現われて
 振りまわし危害を加えようとしても
 悪口を言い、激しく罵っても
 一度たりとも
 お怒りになることはありませんでした。
 非常に長い年月
 修行を続けられても怠けることはなく
 昼も夜も心を穏やかにして乱れる事がなく
 この世の一切の修行の道
 教えを学んでおり
 智慧が深く
 人々の機根を見通されています。
 この様な理由から
 今、自在の力を得て
 教えにおいて自在にして
 法の王となられました。
 私たちは、また、ことごとく
 皆ともに頭を深く下げ
 よく諸々の勤め難くを勤められた
 そのご努力に心から帰依いたします。

●説法品-1 「菩薩の質問」     2014/1/12(日) 午前 10:29

●無量義経説法品第二 #1 

○第一 大衆正に問う分

*訓読

その時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と、この偈を説いて仏を讃めたてまつることおわって 倶に仏に白して言さく。

「世尊。我等八万の菩薩の衆、今、如来の法の中に於て、諮問(しもん)する所あらんと欲す。不審(いぶかし)、世尊愍聴(みんちょう)を垂れたまいなんや否や」

*現代語訳

その時に大荘厳菩薩は、多くの菩薩たちと共にこの詩 (徳行品の讚歎偈) を説いて、仏を称嘆し終ると、共に仏に申し上げました。

「世尊。私たち八万の菩薩は、今、世尊の教えの中において、ぜひ質問したいことがございます。はっきりとせず、分かりにくい内容なのですが、お教え頂けますでしょうか?」

*解説

『無量義経』の第二章は『説法品』です。
『無量義経』は、古くから『妙法蓮華経』の開経とされています。『妙法蓮華経』の最初、釈尊は「無量義」という教えを説き、さらに「無量義」の教えをかみしめる三昧に入られるシーンがあるからです。

『無量義経』は、サンスクリット語の経典が発見されていませんので、中国で創られた偽経であるという説もあります。『妙法蓮華経』に出てくる「無量義」の教えが、どのようなものかを思惟し、作られたというのです。

偽経かどうかは分かりませんが、『無量義経』の内容は『妙法蓮華経』を理解する上で非常に役に立ちます。『般若心経』が般若経群の要約であるように、この『無量義経』は『妙法蓮華経』の要約でもあるからです。『無量義経』と『妙法蓮華経』を合わせて読めば、きっと法華思想の理解が深まることと思います。

ただし、『無量義経』は、菩薩への教えですので内容は難解です。まず、『無量義経』を最初に読んで、最後まで『妙法蓮華経』を読み、再び『無量義経』を学ぶとよいかも知れません。

●説法品-2 「質問をすることを許す」     2014/1/12(日) 午後 4:00

●無量義経説法品第二 #2 

○第二 如来許しを垂る分

*訓読

仏、大荘厳菩薩 及び八万の菩薩に告げたまわく。
「善哉善哉、善男子。善くこれ時なることを知れり、汝が所問をほしいままにせよ。如来久しからずして当に般涅槃すべし。涅槃の後も、普く一切をして、また余の疑無からしめん。何の所問をか欲する、便ち之を説くべし」

*現代語

仏は、大荘厳菩薩と八万の菩薩たちに告げました。
「素晴らしいことです。善男子よ。よくぞ、今、この時に質問をされました。あなたの聞きたい事をぜひ訊いてください。私は間もなく、この世を去ろうとしています。私が亡くなった後に、人々が、教えに対し不信感を抱かない様にしておきたいと思います。どの様な質問でしょうか? 何でも答えしましょう」

*解説

大荘厳菩薩が、「質問をしてもよいでしょうか?」と釈尊に伺い、釈尊は快くお承けになりました。釈尊は、般涅槃(死)が近いので、今の間に疑問を晴らしておきたいとおっしゃいましたので、このことから、この『無量義経』は、釈尊の晩年の説法という設定であることが分かります。

●説法品-3 「成仏の方法を問う」     2014/1/15(水) 午後 6:21

●無量義経説法品第二 #3 

○第三 菩薩、正に問う分

大荘厳菩薩が釈尊に質問をします。この質問に応えて「無量義の教え」が説かれることになりますので、何を質問しているのかをしっかりと把握しておく必要があります。大荘厳菩薩とは、非常に位の高い菩薩です。そのような高位の菩薩と釈尊が質疑応答を展開しますので、『説法品』の内容は非常に難解です。

*訓読

ここに大荘厳菩薩、八万の菩薩と、即ち 共に声を同じうして 仏に白して言さく。

「世尊。菩薩摩訶薩 疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得んと欲せば、応当に 何等の法門を修行すべき、何等の法門か よく菩薩摩訶薩をして 疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ぜしむるや」

*現代語訳

そこで、大荘厳菩薩と多くの菩薩たちは、声を合わせて仏に申し上げました。

「世尊。菩薩がまっすぐに最上の悟りを得ようとするならば、どの様な教えを修行すればよろしいでしょうか? どの様な教えが、菩薩をして、まっすぐに最高の悟りを得させるでしょうか?」

*解説

大荘厳菩薩は、菩薩がストレートに成仏するための修行方法を釈尊に問いました。この質問は、受験生が東大に間違いなく合格する方法を問うようなもので、難易度の高い答えが予想されます。

*用語の意味

○大荘厳菩薩 (だいしょうごんぼさつ)
(梵)ボディーサットヴァ・マハービューハ
"Bodhisattva Mahavyuha"
荘厳とは、智慧・福徳・相好などで浄土や仏の身を飾ることです。

●説法品-4 「一法門」     2014/1/15(水) 午後 6:53

●無量義経説法品第二 #4

○第四 如来、略して答える分

大荘厳菩薩が、「菩薩が成仏するための確かな方法」を質問し、釈尊がそれに応えます。一つの教えがあり、その教えを学んで実践すれば最高の悟りを得ることができると、釈尊は答えられました。

*訓読

仏、大荘厳菩薩 及び八万の菩薩に告げて言わく。

「善男子、一の法門あり。よく菩薩をして 疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得せしむ。もし菩薩あって この法門を学せば、則ち よく阿耨多羅三貎三菩提を得ん」

*現代語訳

仏は、大荘厳菩薩と多くの菩薩たちに答えました。

善男子よ。ここに、一つの法門があります。菩薩がまっすぐに最高の悟りを得られる法門です。もし、菩薩が、この法門を学べば、最高の悟りを得ることができます。

*用語の説明

○阿耨多羅・三藐三菩提 (あのくたらさんみゃくさんぼだい)
(梵)アヌッタラ・サンミャクサンボーディ
"anuttara-samyaksambodhi"

無上正等覚と訳されますが、音写のままで使われることが多いようです。最高の悟りのことです。

●説法品-5 「一法門について問う」     2014/1/16(木) 午後 9:17

●無量義経説法品第二 #5

○第五 重ねて三疑を問う分

釈尊が、「菩薩が成仏するための一つの法門がある」と答えられたので、重ねて大荘厳菩薩が、その一法門の名、教え、修行方法を質問します。

*訓読

「世尊。この法門とは、号(な)を何等となづくる。その義云何。菩薩 云何(いかん)が修行せん」

*現代語訳

「世尊。その法門は何という名称でしょうか? その内容はどの様なものですか? 菩薩は、どの様に修行すればよろしいでしょうか?」

*解説

大荘厳菩薩が、釈尊に三つのことを質問しました。その質問とは、「一法門の名称」「一法門の教義」「一法門の行」です。

●説法品-6 「空」     2014/1/17(金) 午前 0:04

●無量義経説法品第二 #6

○第六 如来広く説く分「三疑を答える」

釈尊は、大荘厳菩薩の質問に応じて、一法門の名と修行方法を説かれました。一法門の教義については、後で説かれることになります。

*訓読

仏の言わく。
「善男子、この一の法門をば名づけて無量義と為す。菩薩、無量義を修学することを得んと欲せば、まさに一切諸法は、自ら本・来・今、性相空寂にして、無大・無小、無生・無滅、非住・非動、不進・不退、なお虚空の如く 二法あることなしと観察すべし」

*現代語訳

釈尊が答えられました。
「善男子、この一つの法門とは、名を無量義といいます。菩薩が無量義を修学しようとするならば、一切の事物・現象は、過去・現在・未来において、、真実としての本体も事物・現象として現れるすがたも、ともに実体はなく、安らかな状態だと知ることが重要です。よって、大きいとか小さいということはなく、生じるとか滅するということはなく、とどまるとか動くということはなく、進むとか退くということはありません。固定した観方や一方に偏った観方を否定します。虚空のように、すべてが一つであり、二つに分かれたものではないと観察してください」

*解説

まず、一法門の名は、「無量義」だと明かされ、次にその法門の行が説かれました。最初に「性相空寂」という思想が説かれます。古代よりインドでは、事象そのものよりも、事象を成り立たせる真理のほうに興味をもっていました。リンゴがあるのは、リンゴをリンゴとして存在させる真理があるからであり、猫があるのは、猫を猫として存在させる真理があるからだとみたのです。真理によって事象があるという観方です。これを仏教では、真理についても空であり、事象についても空だとし、空なるものは安らかであると説きました。

空とは、実体がないことであり、寂とは因縁がないことです。因縁がないので変化はありません。実体がなく、因縁を結びませんので、大小という特徴は認識されず、生じるとか滅するという変化もありません。とどまることもなく、動くこともなく、進むことも、退くこともありません。「猫が歩いている」と言っても、猫という実体がないのであれば、歩くという行為はありません。一切は無量無辺の虚空のように境はなく無際であり、一切は一つであると観察することが勧められています。

このことは、般若経を学んでおけば分かりやすいのですが、仏教初心者であれば、かなり難解だと思います。法華経を読み解いていけば、少しづつ謎は解けていきますので、ここでは詳しい説明は避けておきます。

*用語の解説

○性相 (しょうそう)
性とは、不変平等絶対真実の本体や道理のことをいい、相とは、変化差別相対の現象的なすがたのことです。中国でいう「理事」と同じような意味です。真理と事象とは離れているのではなく、事象は真理によって仮に存在します。

○空 (くう)
(梵)シューニャ "Sunya"
空とは、実体がないことです。一切の事物・現象は因縁和合によって仮に生じ、滅しているので、そのものには、我体・本体・実体と呼ばれるようなものはないということです。空は大乗仏教の根本的な教義ですが、非常に難解な思想です。

○寂 (じゃく)
(梵)ニルヴァーナ "nirvaaNa"
涅槃のことです。煩悩の火を消した安らかな境地のことです。涅槃とは、一切の因縁を結ばない境地ですので、作られるものはありません。

○性相空寂 (しょうそうくうじゃく)
真理・事象は、空であり涅槃の状態だという意味です。

●説法品-7 「六道輪廻」     2014/1/17(金) 午後 10:55

●無量義経説法品第二 #7

○第六 如来広く説く分「三疑を答える-2」

菩薩に対して空の境地を説かれた後、釈尊は、衆生が空を知らないために迷いの世界を輪廻することを説かれました。

*訓読

「しかるに諸の衆生、虚妄に、これは此、これは彼、これは得、これは失と横計して、不善の念を起し、衆の悪業を造って六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自ら出ずること能わず」

*現代語訳

「しかし、人々は真理に反して、これは"甲"である、これは"乙"である、これは"得"である、これは"失"であると、決めつけて執着し、自分勝手に解釈をして、そのために善くない思いを起こし、多くの悪い業を造って、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの世界を輪廻し、数々の苦を受けて、非常に長い期間、苦の世界から出ることができません」

*解説

人々は真理を知りませんので、本来は一つのものを分けて観ます。たとえば、「これはリンゴである」と観るのは、宇宙をリンゴとリンゴ以外に分けることです。そのものに特徴をみて、他と分けて認識します。分けて知るので「分別」といいます。人類は、古代より、あらゆるものを分別し、名前を付けてきました。「これは山である」「これは海である」というように、地球を分けて認識し、「これは眼である」「これは耳である」というように肉体を分けて認識しました。

名前とは仮のものですが、多くの人々は、名前があるとそのものを独立した存在だと認識し、そのものの価値を計ります。そのものが自分にとって「得」なのか、「損」なのかを判断し、そのものとの関わりを決めます。得だと判断すれば、その物を欲しいと思い、そのものに執着して、何としても近づこうとします。損だと判断しても、そのものに執着することになり、何とか離れようとします。つまり、損得勘定によって欲望・執着が起こります。

欲望が起こり、自分の思い通りにそのものを手に入れることできれば、満足します。しかし、手に入れることができなければ、欲求不満を起こし、苦悩することになります。失敗してもまだ執着があれば、他から奪ったり、争ったり、騙したりして、無理をしてでも得ようとします。その結果、どんどん迷いの世界へと入っていくことになり、苦悩から離れられなくなります。

*用語の解説

○六趣 (ろくしゅ)
六道ともいいます。衆生が輪廻をする迷いの世界のことで、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上という六つの境界のことをいいます。大乗仏教以前では、それぞれの世界は現実に存在すると説かれていましたが、大乗仏教からは、それらは精神世界のことだとされました。

1.地獄 (じごく)
(梵)ナラカ "naraka"
音写して「奈落(ならく)」ともいいます。
人間世界(閻浮提)の地中深いところにある牢獄のことです。自己中心的で他者への思いやりがなく、殺人、強盗、強姦、詐欺などの悪業を積んだ者が墜ちるとされます。八熱地獄は、炎が燃え盛る高温の場所で、炎と熱によって身は焼け焦げ、火傷で苦しみます。獄卒の鬼たちに責められ、針や剣の山を歩かされたり、金属の溶けた釜の中で茹れたり、刀で身を切られ、棒で骨まで打ち砕かれます。地獄は死後の世界ですが、死者の世界ではありません。転生して地獄に生まれ変わります。地獄では、焼け死に、砕け散って死んでも、また地獄に転生します。ただし、西洋の地獄思想と違って、永遠に地獄に転生し続けるのではなく、いつかは別の世界へと転生することになります。

大乗仏教では、地獄とは心が苦しみに満ちた境地のことだとされます。特に「怒り」は自他を苦しめる感情ですので、常にイライラし、怒り、まわりを怒鳴り散らし、暴力によって生きものを傷つけ、物を破壊するのは、その人が地獄の境地だということです。

2.餓鬼 (がき)
(梵)プレタ "preta"
貪欲な行為の報いとして、転生後、餓鬼界に墜ちると言われます。地獄の近く、人間界、天上界に餓鬼は住みます。餓鬼は、強欲ですが、欲しても欲するものは手に入りません。たとえ食べ物を手に入れても、口に入れようとすれば炎となり、常に飢えと渇きに苦しむことになります。ある者は、口がなく、ある者は口があっても非常に小さく、喉が異常に狭かったりして、思うように飲食ができません。

大乗仏教では、貪る心を餓鬼といいます。常にガツガツとして卑しく、満たされないので欲求不満状態の心のことです。

3.畜生 (ちくしょう)
(梵)ティルヤンチュ "tiryaNc"
畜養される生き物のことですが、家畜に限らず、鳥獣虫魚などのすべての動物を畜生といいます。人間と同じ世界に生きています。愚痴の者が本能的な行為を繰り返し、その報いとして、転生後、畜生界に趣くと言われます。弱肉強食であり、他者を殺すことによって食べ物を得て生きることができ、生殖の際も同類で争ってメスを得ます。常に他者に襲われる危険があり、緊張の連続です。

大乗仏教では、無智な心を畜生といいます。智慧がないので、本能のままに生きていき、常に生理的欲求を満足させるために行動します。食欲、睡眠欲、排泄欲、性欲を満足させることに一日を使い、その日暮らし的な生き方をします。教えを受ける能力(機根)が低いために、たとえ善い教えを聞いても有り難さが分からず、続けて学ぼうとする気も起らず、ましてや実践しようという気にはなりません。

4.阿修羅 (あしゅら)
(梵)アスラ "asura"
一般的には、修羅界といいます。
大乗仏教から迷いの世界の境界に入りましたので、大乗以前には修羅界の思想はありませんでした。阿修羅は、元々、天上界の神でしたが、帝釈天との争いに敗れて天上界を追われ、海底に住むようになりました。争いを好み、何度敗れても帝釈天に挑戦し続ける存在です。

阿修羅とは、闘争心のことです。食べ物や生殖相手を求めて争うような畜生界とは異なり、自分の見栄体裁、自尊心を守るために争い、嫉妬心のために戦う心のことです。自分は正しい、優秀である、血筋がいい、選ばれた人間だ、という慢心を満足させるために相手を攻撃する心です。

5.人間 (にんげん)
(梵)マヌーシャ "manussya"
人間とは、私たち人類のことです。閻浮提(えんぶだい)という人間界に住む者です。マヌーシャとは、考えるという意味の「マナ」を語源としていますので、考える者のことです。

大乗仏教では、「疑惑」の心のことです。怒り、貪り、無智、闘争という心は、ある程度コントロールされていますが、自他への信頼がなく、疑いの心を持った状態のことをいいます。

6.天上 (てんじょう)
(梵)デーヴァローカ "devaloka"
天上界に住む神々のことです。梵天、帝釈天、大自在天、歓喜天、四天王のような神々のことです。もとは、ヴェーダ神典に登場する神々であり、古代よりインドで信仰されていました。仏教では、神も人と同じように迷いの存在で、いつかは死ぬとされています。

大乗仏教では、慢心の境地をいいます。欲しいものを得た喜び、快楽、満足感、優越感、幸福感のことです。それらは束の間の楽ですから、いつまでも続きません。いつかは苦へと転じます。

地獄=怒り(瞋恚)
餓鬼=貪り(慳貪)
畜生=無智(愚痴)
修羅=闘争(嫉妬)
人間=思考(疑惑)
天上=慢心(驕慢)

●説法品-8 「慈悲」     2014/1/18(土) 午後 1:46

●無量義経説法品第二 #8

○第六 如来広く説く分「三疑を答える-3」

釈尊の説法は続きます。人々が真理を知らないために苦しみもがくのを観たならば、菩薩は慈悲の心で救いなさいと説いています。

*訓読

「菩薩摩訶薩。是の如く諦かに観じて、憐愍(れんみん)の心を生じ、大慈悲を発して将(まさ)に救抜(くばつ)せんと欲し、またまた深く一切の諸法に入れ」

*現代語訳

「菩薩よ。この様に、真理を観る智慧がないために、迷いの世界を輪廻する人々を哀れだ思ったならば、大慈悲心を起こして救い抜くことを願い、願ったならば、もう一度深く一切の事物・現象を観察して下さい」

*解説

人々は、真理を知らないために、悪業を積み、迷いの世界を輪廻しています。どこかで歯止めをかけ、心を切り替えなければ、衆生は煩悩を太らせ、どんどん苦の世界へと墜ちてしまいます。そのような人々を観て哀れだと感じたならば、慈悲の心を起こして、救いたいという願いを持つことが大切です。その願いを持ったならば、もう一度、一切の事物・現象を観察してください、と釈尊が説かれました。

*用語の解説

○憐愍 (れんみん)
かわいそうに思うこと。あわれむこと。あわれみ。

○慈悲 (じひ)
(梵)マイトリー "maitrii"
慈とは、「慈しみ」のことで、人々の幸福を願うこころのこと。
悲とは、「憐れみ」のことで、人々の苦しみを除いてあげたいと思う心。

●説法品-9 「無常」     2014/1/18(土) 午後 5:27

●無量義経説法品第二 #9

○第六 如来広く説く分「三疑を答える-4」

次に「四相」の教えが説かれます。「四相」とは、「生相」「住相」「異相」「滅相」という4つのものの状態のことです。言いかえれば、「無常」のことです。

*訓読

法の相 是の如くして 是の如き法を生ず。
法の相 是の如くして 是の如き法を住す。
法の相 是の如くして 是の如き法を異す。
法の相 是の如くして 是の如き法を滅す。

*現代語訳

ものの姿形は、このような場合には、このような事象となって生じます。
ものの姿形は、このような場合には、このような事象となってとどまります。
ものの姿形は、このような場合には、このような事象となって変化します。
ものの姿形は、このような場合には、このような事象となって滅します。

●説法品-10 「心コロコロ」     2014/1/19(日) 午後 11:40

●無量義経説法品第二 #10

○第六 如来広く説く分「三疑を答える-5」

人の心はコロコロと変わります。そのような人々と関わるのですから、菩薩は柔軟な心で臨機応変に振る舞うことが必要です。

*訓読

法の相 是の如くして よく悪法を生ず。法の相 是の如くして よく善法を生ず。住、異、滅もまたまた是の如し。

菩薩 是の如く四相の始末を観察して、悉く遍く知りおわって、次にまた諦かに一切の諸法は念念に住せず、新新に生滅すと観じ、また即時に 生、住、異、滅すと観ぜよ。是の如く観じおわって、衆生の諸の根性欲に入る。性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量なるが故に義もまた無量なり。

*現代語訳

ものの姿形は、このような場合には、悪い事象となって生じます。ものの姿形は、このような場合には、善い事象となって生じます。とどまることも、変化も、滅するのも、同じです。

菩薩よ。以上の様に、生じること、とどまること、変化すること、滅することの原因と結果を観察して、よく理解できたならば、次に、明らかに一切の現象は、瞬間瞬間に変化し、瞬間瞬間に生滅することを観察し、また瞬時に、生じ、とどまり、変化し、滅すると観察してください。

この様に観察したならば、人々の様々な根性欲(機根、性質、欲望)の観察に入ります。根性欲は、人それぞれで異なりますから無量です。根性欲が無量であれば、その一人一人に応じて法を説く必要がありますので、説法もまた無量です。説法が無量ですから、その内容もまた無量です。

*解説

迷いの世界は、有為の世界です。有為とは、縁起によってつくられる世界のことです。この世界では、縁によって、生じ、存在し、変わり、滅します。これを「生住異滅」といいます。よく知られている無常と同じ意味です。

人々は、真理を知りませんので自他を分けます。本来は、一つであるものを二つに分けることによって縁起がはたらきます。試しに、自分の「舌」を意識してみましょう。それまでは舌の存在を忘れていたのに、舌を意識したとたんに、「舌」と「舌を認識するもの」の二つが生じ、「舌を認識する」という縁起が起こります。このように何かに注意を向ければ、認識することとなり、何らかの因縁を結びます。

自他を分ければ縁起がはたらきます。もう私たちは、とっくの昔に自他を分けていますから、どっぷりと縁起のある世界の住民です。何かと接触する度に、自分の心に、感受・想起・意志・認識という心が生じ、その心に執着し、いつしか心は変化し、そして滅します。

他の存在と接触した時に、もし自分が悪意を持っていれば、悪い現象を生み、自分が善意を持っていれば、善い現象を生みます。悪い現象は、とどまり、変わり、滅します。善い現象も、とどまり、変わり、滅します。

さらに深く観察すれば、同じ状態のままで存在するものがないことを知ります。すべての事物・現象は、瞬間、瞬間に変化しているのであって、同じ状態を保ってはいません。瞬時に、生じ、存在し、変化し、滅しています。すべての事物は、刻々と変化しています。

人の心も刻々と変化しています。教えを聞いて理解する能力(機根)も、固定されているのではなく、瞬時に縁によって変わっています。性格(習性)も、欲求も縁によって変化しています。機根・性格・欲求は、10年前と今とでは異なるし、昨日と今日とでは異なります。ある衝撃的な体験をした時には、瞬時に大きな変化も起こります。

人を救うのであれば、今現在の相手の心を観て、その機根・性格・欲求を把握し、相手に相応しい説法をする必要があります。昨日は機嫌がよかったからといって、今も同じということはありません。昨日と今日とで相手は変わっています。その時、その時で、相手の心をキャッチし臨機応変に対応することが必要です。その時間、場所、人数などによっても心は変わりますから、結果的に交流の仕方は無量にあります。そして、その交流が無量なので、伝えたい内容も無量にあります。

一人でさえそうなのですから、多くの人々と関われば、どれほどの交流があるか分かりません。

●説法品-11 「一法より生ず」     2014/1/20(月) 午後 9:50

●無量義経説法品第二 #11

○第六 如来広く説く分「三疑を答える-6」

ここには、『無量義経』の中で最も重要な「一法より生ず」という言葉がでてきます。

*訓読

無量義とは一法より生ず。その一法とは即ち無相なり。是の如き無相は、相なく、相ならず。相ならずして、相なきを名づけて実相とす。

*現代語訳

無量の教えの内容は、一つの真理から生じます。その一つの真理とは、無相です。無相とは特徴のないことです。特徴がないのですから特徴を認識することはできません。特徴を認識できないので特徴はありません。それがありのままの世界です。

*解説

仏は、相手の能力、性質、欲望を見ぬいて、臨機応変に教えを説きました。説法の内容は無量ですが、伝えたい真実は一つです。その一つの真実とは無相です。無相とは、特徴がないことであり、特徴を認識しないことです。特徴を認識せず、特徴がないことを実相といいます。実相とは、真実の相のことです。

私たちは、何らかの特徴を認識して、そのものの存在を認識します。水、火、土、虚空など、それぞれには何らかの特徴があるとし、それぞれを別のものとして認識します。しかし、それぞれのものは、仮に固体であり、仮に液体であり、仮に気体の特徴を現しているだけです。温度変化によって、凝固し、溶け、沸点で気体となります。急激に酸化すれば燃えます。

特徴とは、その時の仮の姿なのですから、刻一刻と変わっています。固定した特徴をそのものが持っているのではなく、それを認識する側が固定しているだけです。

ここにいくつかの植物があるとしましょう。

「トマト」「スイカ」「キャベツ」
「ナス」「ジャガイモ」「ブドウ」

では質問です。
この中で、「トマト」「ナス」「ジャガイモ」は、あることで共通した仲間なのですが、何が共通しているのでしょうか?

答えは、「ナス科の植物」だということです。「トマト」と「ナス」は同じ仲間だというイメージがありますが、「ジャガイモ」も実はナス科の植物です。他には、ホオズキ、ペチュニア、トウガラシなどもナス科の植物です。このように一度覚えてしまうと、次に「ジャガイモ」を見た時に、「トマト」の仲間なんだよね、と認識することになるでしょう。それが人間の学習能力であり、固定観念をつくる認識のあり方でもあります。

もう一問。

「トマト」「スイカ」「キャベツ」「キュウリ」
「ナス」「ジャガイモ」「ブドウ」「ニンジン」

この中で、「トマト」「スイカ」「ブドウ」は、あることで共通した仲間なのですが、何が共通しているのでしょうか?

答えは、一番下に書いておきます。

『無量義』とは、無量の方便のことで、方便とは、「悟りに近づける方法」のことです。相手に応じて説かれた教えは、真実そのものではありません。赤ちゃんの時は、這えば立て、立てば歩めの親心でしょう。いきなり歩めとは言いません。その子の成長に合わせて育てます。しかし、その時も心の中では、その子が将来、自立できるようにとの願いはいつも持っているのだと思います。

『無量義』とは、無量の方便は一つの真実から生じ、一つの真実から無量の方便が説かれたということです。

答え。
「トマト」「スイカ」「ブドウ」は全て三文字です。植物という特徴をみて、そのことに執着するとその他のことを認識しにくくなります。

●説法品-12 「抜苦与楽」     2014/1/21(火) 午前 10:07

●無量義経説法品第二 #12

○第六 如来広く説く分 「三疑を答える-7」

*訓読

菩薩摩訶薩。是の如き真実の相に安住しおわって、発する所の慈悲、明諦にして虚しからず。衆生の所に於いて、真によく苦を抜く。苦 既に抜きおわって、また為に法を説いて、諸の衆生をして快楽を受けしむ。

*現代語訳

菩薩摩訶薩よ。この様な真実の相を悟り、その悟りが完全に自分のものになったことによって生じる慈悲は、明らかに本物であって偽りではありません。この世界で、誠に人々の苦を抜き去ります。苦を抜きおわったならば、また、人々のために教えを説いて、多くの人々に、人生の真の喜びを受けさせます。

*解説

人々の「苦を抜き」、「楽を与える」というのは、「抜苦与楽」といって慈悲の実践のことです。慈悲の心を持つことは重要ですが、心だけでなく、口でも身でも行為として現すことが勧められます。身口意の三業(行為)が因となり、結果を生じます。

しかし、ただ可哀そうだから助けてあげようとしたり、喜びを感じてもらおうとすると、失敗することもあります。「お金がないから貸して下さい」と知人が尋ねて来たからといって、ニコニコ笑顔でお金を貸せば、相手はそのお金でパチンコに行ったり、お酒を飲むかも知れません。関わるのであれば、相手が煩悩で一杯になっていないか位は観る必要があります。

そのために菩薩は、相手の生住異滅をみて、根性欲をみて、真理を胸に無量の方便力で関わる必要があります。

●説法品-13 「無量義の教えの結び」     2014/1/21(火) 午前 10:37

●無量義経説法品第二 #13

○第六 如来広く説く分 「結び」

無量義の教えの結びです。

*訓読

「善男子。菩薩、もし、よく是の如く一切の法門 無量義を修せん者、必ず疾く阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得ん。

善男子。是の如き 甚深無上大乗無量義経は、文理真正に尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所なり。衆魔群道、得入することあることなく、一切の邪見生死に壊敗せられず。

この故に善男子、菩薩摩訶薩 もし疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、まさに是の如き甚深、無上大乗、無量義経を修学すべし」

*現代語訳

「善男子。菩薩が、この様に一切の法門の源である無量義の教えをよく修めたならば、必ず、まっすぐに最高の悟りを得ることができます。

善男子。この様に非常に奥深い大乗の無量義の教えは、道理がきちんとしており、この上もなく尊い教えです。過去、現在、未来の諸仏が共に守護する教えです。修行を妨げる様々なものたちや仏教以外の様々な教えが入る余地はなく、一切の邪見やまわりの変化に振り回されて崩れるという事はありません。

このために善男子よ。菩薩がまっすぐに最高の悟りを得ようと願うならば、非常に奥深くこの上のない大乗の無量義の教えを修学してください」

*解説

大荘厳菩薩の質問は、「菩薩がまっすぐに最高の悟りを得る方法」であり、「一法門の名」「一法門の義」「一法門の行」でしたが、釈尊は説法の都合上、名を答え、行を答え、義を答えられました。

一法門の名…無量義の教え
一法門の行…智慧と慈悲と方便
一法門の義…無量義は一法より生ず

そして、ここでは、この教えの結びをしています。

●説法品-14 「不思議な教え」    2014/1/21(火) 午前 11:07

●無量義経説法品第二 #14

○第七 大荘厳菩薩が重ねて質問をする

「無量義」の教えを学んだ大荘厳菩薩が、その教えの深遠さを讃えます。

*訓読

その時に大荘厳菩薩、また仏に白して言さく。
「世尊。世尊の説法不可思議なり。衆生の根性、また不可思議なり。法門解脱、また不可思議なり」

*現代語訳

その時に大荘厳菩薩が、また仏に申し上げました。
「世尊。世尊の説法は、非常に深遠です。それは、人々の根性欲が深遠だからです。人々の根性欲に対して説法をするため、教えも修行方法も深遠です」

*用語の解説

○不可思議 (ふかしぎ)
(梵)アチントヤ "acintya"
認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないことです。

●説法品-15 「人々の疑惑を晴らすため」     2014/1/21(火) 午後 7:58

●無量義経説法品第二 #15

○第七 質問する理由

大荘厳菩薩が次の質問をする理由は、人々の疑惑を晴らすためです。このことも慈悲の現われです。

*訓読

「我等、仏の諸説の諸法に於いて、また 疑難なけれども、しかも諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて、世尊に諮いたてまつる」

*現代語訳

「私たちは、世尊の説かれる様々な教えにおいて、疑問や困難はございませんが、人々の中には、迷い戸惑う者もあろうかと存じます。そのような迷いや戸惑いが起こらないように、重ねて世尊にお伺いいたします」

*解説

不可思議な教えを聴いても、大菩薩は疑うことはないのでしょうが、人々が疑惑の心を起こす可能性があるから、大荘厳菩薩は釈尊に重ねて質問をします。つまり、大荘厳菩薩は、自分のためではなく他者のために質問をするのです。これも慈悲の行為です。

会社の会議で、部長が難解な話をした時、新入社員などは意味不明であっても質問ができずオロオロしているかも知れません。疑惑があっても立場によっては、質問しにくい時があります。そんな時、菩薩は、自分自身は意味を理解していても、みんなの疑惑を晴らすために、部長に質問するのでしょう。

●説法品-16 「教義」     2014/1/22(水) 午後 3:01

●無量義経説法品第二 #16

○第七 これまでの説法の教義

ここには、釈尊がこれまでに説かれてきた教義が挙げられます。無量義の中の代表的な教義を具体的に名前を挙げて列しています。

*訓読

「如来の得道より以来 四十余年、常に衆生の為に 諸法の四相の義、苦の義、空の義、無常、無我、無大、無小、無生、無滅、一相、無相、法性、法相、本来空寂、不来、不去、不出、不没を演説したもう」

*現代語訳

「世尊は、悟りを得られてから、四十余年の間、常に人々のために様々な教えを説かれてきました。それは、縁起によるものは生住異滅という変化をするという「四相の義」、縁起によることは苦であるとする「苦の義」、事物・現象は、縁起によって仮に生じ、滅するので、そのものには実体はないとする「空の義」、縁起によって生滅するものは変化するという「無常の義」、自分という認識、自分のものという認識を否定する「無我の義」、大・小にとらわれずに「無大・無小」と観ること、生・滅にとらわれずに「無生・無滅」と観ること、真理は一つであるという「一相」、有無の相を超越した「無相」、一切のものごとの真理としての性である「法性」、真理としての相である「法相」、本来は空であり寂であるとする「本来空寂」、そして「不来・不去」、「不出・不没」という涅槃の境地を演説されてきました。

*解説

ここには、これまで釈尊が説かれた教義を挙げています。それは、「四相の義」「苦の義」「空の義」「無常」「無我」「無大無小」「無生無滅」「一相」「無相」「法性」「法相」「本来空寂」「不来不去」「不出不没」です。縁起の思想を土台にしてすべての教義があります。以下にそれぞれの教義の意味を簡単に解説いたしますが、どれも不可思議の教義ですから、まずは、さらりと概要をおつかみ下さい。これらの意味は、『法華経』で徐々に明かされます。

*用語の解説

○四相の義
縁起のあるこの世界では、縁によって刻々とものの状態は変化しています。その変化している状態のなかの4つをとって四相といいます。四相とは、「生相・住相・異相・滅相」のことです。人間の一生でいえば、「誕生・維持・老化・死」とみることができますし、心も、「生じた想い」「想いへの執着」「想いの変化」「想いの消滅」とみることができます。

○苦の義
「一切皆苦」は、サルヴァ・サムスカーラ・ドゥクハ "sarva saMskaara duHkha" なので、正しくは「一切行苦」と訳されます。「行」とは、因縁和合によってある事象のことです。「苦」という言葉は、日本語の「苦しみ」と同じ意味もありますが、本来は、「思い通りにならないことによる心の痛み」「憂い」「不満」などの意味です。

縁起とは、縁に依って変わるということですから、思い通りの結果を得ることはできません。心身環境は、縁によって刻々と変化しているのですから、これからどのような変化があるのかは分かりませんので、思い通りにならないのが当然です。そのことを無視して抵抗すれば苦しみを感じることになります。

○空の義
個の実体の否定です。すべての事物・現象は、因縁和合によって仮に有るのですから、実体はありません。そのものに何らかの実体を認識したとしたら、それは誤りです。実体ではないものを実体だと妄想しています。

○無常
無常とは、「常ではない」という意味です。すべてが無常だというのではなく、一切の行を無常だといいます。「諸行無常」です。「行」とは、因縁和合によってある事象のことですから、縁によってある事象が無常であるというのは理解しやすいと思います。

「一切行苦」といい、「一切行無常」といいますので、「無常なるものは苦である」という意味になります。

○無我
アートマンの否定を意味する「アナートマン」 "anaatman"を訳して「非我」「無我」としました。アートマンは個の原理であり、主体ですから、常に認識する立場のものです。客体として認識されることはありません。そのことから、仏教では、「アナートマン」と言われます。よって、アートマンもアナートマンも同じことを言っていますが、「有無」を超えているので「無我」という表現を使うことが多くなりました。無我とは、「我は無い」というメッセージが強くなりますので、アートマンではないものをアートマンだと認識することを完全否定しています。この思想は、大乗仏教では、「空」という言葉で主張されました。

○無大無小
空の思想においては、実体が認めらないのですから、一切の特徴はありません。大きいとか小さいというのは、他と比べるときに認識されるのですから、実体が有ることが前提となります。実体はありませんから、そのものに特徴があるとするのは仮です。

○無生無滅
実体がないのに何が生じ、何が滅するのでしょう? 空においては、生住異滅はありません。

○一相
実相のことです。自他一体の境地においては、すべての特徴は認識されず、すべては一つとなります。

○無相
一相と同じく、実相の別名です。すべてが一つであれば個々の特徴を認識することはありません。

○法性
これも実相の別名です。すべての事物・現象の真の本性のことです。

○法相
これも実相の別名です。すべての事物・現象の真の相のことです。

○本来空寂
常に空であり、安らぎの境地だということです。

○不来不去
本来空寂ですので、来るという主体、去るという主体はなく、向こうからこちらに来るというような場所の移動もありません。

○不出不没
本来空寂ですので、出るという主体、没するという主体はなく、出てくる場所、没する場所もありません。

●説法品-17 「それぞれの果報」     2014/1/23(木) 午前 11:19

●無量義経説法品第二 #17

○第七 それぞれの果報

釈尊は、相手に合わせて教えを説かれましたので、修行者によって得る果報も異なりました。ここには、声聞、縁覚、菩薩の得た果を分けて話されています。

*訓読

「もし聞くことある者は、或は、忍法、頂法、世第一法、須陀亘果(しゅだおんか)、斯陀含果(しだごんか)、阿那含果(あなごんか)、阿羅漢果(あらかんが)、辟支仏道(びゃくしぶつどう)を得、菩提心を発し、第一地、第二地、第三地に登り、第十地に至りき」

*現代語訳

「もし、この教えを聞くことができた者は、最初は心温まるものを感じる程度から徐々に高まり、その教えの尊さに気づき、煩悩を捨てることによって迷いの世界から脱することができると学び、実践して、ついには阿羅漢果という声聞の最高の境地を得る事ができました。または、縁覚の者は辟支仏道を得、悟りを目指す心を起こして菩薩となった者は、菩薩の高位の境地に至りました」

*解説

法華経が編纂された時代、仏教修行者のタイプは三種類でした。学問を修める声聞と、独りで縁起を思惟する縁覚と、衆生を救済する菩薩です。釈尊は、それぞれの修行者に相応しい教えや行を伝え、それぞれの修行者はそれぞれに自分を高めました。

*用語の解説

○須陀亘 (しゅだおん)
(梵)スロータ・アーパンナ "srota-aapanna"
預流(よる)と訳されます。無漏(むろ)の聖者の流れに入った者であり、四向四果の最初の段階です。この位に達すると退転することがなく、最大でも7回人間界と天界を往来するだけで悟りに達することができるとされています。

○斯陀含 (しだごん)
(梵)サクリダーガーミン "sakRdaagaamin"
一来(いちらい)と訳されます。一度天界に生れ、再び人間界に戻って悟りに入る者のことです。

○阿那含 (あなごん)
(梵)アナーガーミン "anaagaamin"
不還(ふげん)と訳されます。二度と人間界に戻ることはなく、天界以上の階位に上って悟りに至る者のことです。

○阿羅漢 (あらかん)
(梵)アルハット "arhat"
応供(おうぐ)、無学と訳されます。声聞の中では最高位の修行者。衆生から供養されるのに相応しい者のことです。

○辟支仏 (びゃくしぶつ)
(梵)プラティエーカ・ブッダ "pratyeka-buddha"
直訳すると、「各自に覚った者」の意味。独覚、縁覚とも訳されます。出家者の中で、ある程度の仏法を学んだ者が、僧伽から分かれて、人里離れた山奥、林間、洞窟などに住み、縁を観る禅定で悟りを目指す者のことです。

○菩薩の十地
菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中で、下位から数えて第41〜50番目の位のことです。第51は「等覚」、第52は「妙覚」、そして最終的に全ての行を修めて「仏地」に入ります。

41. 歓喜地 (かんぎじ)
四無量心。
菩薩が空の理を証し大いに歓喜する位。仏法を信じ、一切衆生を救済しようとの立願を起こし、ついには自らも仏になるという希望を持ち歓んで修行する境地のことです。

42. 離垢地 (りくじ)
十善心。
戒波羅蜜を成就して修惑(思惑)を断じ、他を批判し否定する罪の垢を除き、清浄にする位。十善を行い、心の垢を離れる境地のことです。

43. 発光地 (はっこうじ)
明光心。
忍辱波羅蜜を成就して修惑を断じ、真理を明らかに感得して智慧を顕す位。精進の結果、その功徳として光を放ち十種の法明門を行う境地のことです。

44. 焔光地 (えんこうじ)
焔光心。
焔慧地・焔慧心ともいいます。精進波羅蜜を成就して修惑を断じ、智慧を勢いよく燃えさせるように光らしめる位。個々の物に対する執着心を離れ、その功徳として四方を照らす境地です。

45. 難勝地 (なんしょうじ)
大勝心。
極難勝地ともいいます。禅定波羅蜜を成就して修惑を断じ、世間の真実と出世間の真実という真俗二智の行相が、互いに異なることを和合させた位。四諦の法門の外に大乗の法門を学び、利他行に取り組む境地のことです。

46. 現前地 (げんぜんじ)
現前心。
智慧波羅蜜を成就して修惑を断じ、最勝智慧を発して、煩悩に染まっているとか、煩悩を滅して浄化したというような染浄の差別を超えた位。不退転の位で決して後戻りせず、必ず仏になる確信を得る境地のことです。

47. 遠行地 (おんぎょうじ)
無生心。
方便波羅蜜を成就して修惑を断じ、大慈悲心を発して、自己中心的な救われから離れる位のことです。十十無尽の境地に入ります。

48. 不動地 (ふどうじ)
不思議心。
願波羅蜜を成就して修惑を断じ、無相観を作し、任運無功用(自らが重い荷を背負うこと)に相続する位のことです。大慈大悲の心を起します。

49. 善慧地 (ぜんえじ)
慧光心。
力波羅蜜の成就によって、大慈大悲の心を発揮し、衆生一人一人を臨機応変に救済する境地のことです。

50. 法雲地 (ほううんじ)
受位心。
智波羅蜜の成就によって、平等の原理と差別の人間とが一体となった、平等即差別、差別即平等の真如の境地のことです。大雲のように空を覆って、清浄の恵みの雨を一面に降らすので法雲といいます。

●説法品-18 「無量義が説かれた理由」     2014/1/23(木) 午後 10:01

●無量義経説法品第二 #18

○第七 無量義が説かれた理由

無量義経こそが、まっすぐに成仏に向かう行だという釈尊の説法の理由を、大荘厳菩薩が質問しました。

*訓読

「むかし説きたもう所の諸法の義と、今説きたもう所と、何等の異なることあれば、しかも、甚深無上大乗無量義経のみ、菩薩修行せば 必ず 疾く無上菩提を成ずることを得んと言う。この事如何。ただ願わくは世尊、一切を慈哀して広く衆生の為にしかもこれを分別し、普く現在 及び未来世に法を聞くことあらん者をして、余の疑網無からしめたまえ」

*現代語訳

「さて、これまでに説かれた教えと、今説かれた教えと、どの様な違いがあるのでしょう? しかも、この大乗の無量義の教えのみ、菩薩が修学すれば、必ずまっすぐに最高の悟りを成ずることができると言われるのには、どの様な理由があるからでしょう? ただ、願わくは世尊、一切の人々を哀れと思われて、広く人々のために詳しく分けてお説き頂き、広く、現在、未来に教えを聞くすべての人々が、少しの疑いを持つことのないように、お教えくださいますようお願い申し上げます」

*解説

この質問内容から、大荘厳菩薩ほどの大菩薩でさえも、無量義の教えは初めて聞いた説法だったことが分かります。「真っ直ぐに成仏に至る修行をお教えください」というストレートな質問に対し、釈尊が答えられた教えが「無量義」の教えだったのですから、修行者にとっては最も興味関心のある教えであり、後年に残すべき教えであると大荘厳菩薩は感じられたのでしょう。

●説法品-19 「質問者を讃える」     2014/1/25(土) 午後 2:37

●無量義経説法品第二 #19

○第八 如来広く説く分

釈尊が、大荘厳菩薩が質問をしたことを讃え、自他の利益・功徳が大きいことを伝えました。

*訓読

ここに仏、大荘厳菩薩に告げたまわく。
「善哉善哉、大善男子。よく如来に 是の如き甚深無上大乗微妙の義を問えり。まさに知るべし。汝よく利益する所多く、人・天を安楽し、苦の衆生を抜く。真の大慈悲なり、真実にして虚しからず。この因縁を以って、必ず 疾く無上菩提を成ずることを得ん。また、一切の今世、来世の諸有の衆生をして、無上菩提を成ずることを得せしめん」

*現代語訳

そこで釈尊は、大荘厳菩薩に告げました。
「素晴らしい。素晴らしいことです。大善男子よ。よく私に、この様に非常に奥深くこの上のない大乗の無量義の教えについて質問をしてくれました。あなたは、この質問によって、多くの功徳を得ることが出来るでしょう。この答えを得れば、多くの人々や神々は安らぎの境地に入り、人々を苦から救うことができます。あなたの質問は、真の大慈悲のあらわれです。真実であって、偽りではありません。この因縁によって、必ず真っ直ぐに最高の教えを得ることが出来るでしょう。また、今世と来世の人々は、最高の教えを得ることが出来るでしょう」

●説法品-20 「四十余年未顕真実」     2014/1/25(土) 午後 11:58

●無量義経説法品第二 #20

○第八 釈尊が質問に答える

*訓読

善男子。我 先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以って一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は云何。諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以ってす。四十余年には未だ真実を顕わさず。この故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。

*現代語訳

「善男子よ。私は昔、出家してから六年後、ブッダガヤの菩提樹の下に坐り、最高の悟りを得ました。悟りの眼で、一切の事物・現象を観察したところ、その内容を人々に説くことは、かえって善くないことだと感じました。なぜならば、人々の根性欲が、人それぞれに異なると知ったからです。思惟の結果、根性欲が異なるのであれば、人に合わせて教えを説くことが善いと想い、相手に応じた教えを方便力によって説くことにしました。悟りを開いて以来、四十余年が過ぎましたが、未だに方便の教えを説いており、真実を顕していません。そのため、人々の得た修行の結果には差があり、まっすぐに最高の悟りを得ることはありませんでした」

*解説

ここは、非常に重要なところです。
釈尊は、29歳の時に出家し、6年後、35歳の時に菩提樹下で成道しました。悟った結果、その悟りの内容があまりにも深く不可思議だったため、釈尊は人々に自分の悟りの内容を説くことを躊躇しました。

釈尊の悟りの内容は、あまりにも世間の常識から離れており、説けば人々は疑惑して信じず、顰蹙し、怒り、かえって煩悩をつくると感じたからです。たとえば、天動説を当然と思い、疑うことも知らない人々に、地動説を説くようなものだったのでしょう。

釈尊は、説くことをあきらめようかとも思いましたが、人々の機根が高まるまで、コツコツと低い教えから説いてみようかと考えました。幼稚園の子に、いきなり相対性理論を教えても伝わるはずがありませんから、まずは国語を教え、次に算数を教え、理科を教えていくように、相手に応じて教えを説いて行こうと決めました。つまり、対機説法を選んだのです。人に応じ、時に応じ、場所に応じて教えを説きましたので、無量の方便を説くことになりました。

そして、釈尊は、成道してからこれまでに、四十年以上の時が流れましたが、未だに真実の教えは説いていないと告げました。これまでの教えはすべて方便であり、真実は明かしていないために、修行者は誰も最高の悟りを得ていないとおっしゃったのです。相手に合わせて修行方法を示したために、人によって現在得ている果報も異なると告げられました。

「四十余年未顕真実」

有名な言葉なのでご存知の方も多いと思います。なぜ有名なのかというと、無量義経・法華経以前に説かれた教えは、真実ではなかったと釈尊が告げられたため、法華経こそが真実顕現の経典だという文証となったからです。

日蓮系の信者は、この言葉によって、「法華経は真実経」だと主張し、他経は「方便経」だから価値が低いと批判しました。

しかし、「無量義は一法より生ず」です。無量の方便の教えも真実を込めて説かれていますから、機根が高い者が読めば、方便経もまた真実経となります。

言語道断というように、真実は言葉で表すことができませんので、言葉で説かれている経典の『法華経』も、また方便経です。真実そのものは無相ですから、認識することができません。認識できない内容を文字にすることは不可能なのです。ただし、法華経には、真実へと導く扉はありますので、その扉が何であるかを見極める必要があります。

●説法品-21 「水の譬え」     2014/1/26(日) 午後 4:51

●無量義経説法品第二 #21

○第八 釈尊が質問に答える

*訓読

善男子。法は 譬えば水のよく垢穢を洗うに、もしは井、もしは池、もしは江、もしは河、渓・渠(こ)・大海、皆 悉くよく諸有の垢穢を洗うが如く、その法水も、またまた是の如し、よく衆生の諸の煩悩の垢を洗う。

善男子。水の性はこれ一なれども江、河、井、池、渓、渠、大海、各各別異なり。その法性も、またまた是の如し。塵労を洗除すること等しくして 差別なけれども、三法、四果、二道不一なり。

*現代語訳

善男子よ。教えを水に譬えて話しましょう。水はよく汚れを落とします。井戸、池、溝、河、谷川、運河、大海は、皆よく様々な物の汚れを落とします。教えも同じです。よく人々の様々な煩悩という汚れを落とします。

善男子よ。水の性は、汚れを落とすという点でひとつですが、井戸、池、溝、河、谷川、運河、大海とでは、それぞれに違いがあります。教えも同じです。迷いや煩悩を除く点では同じであり差はありませんが、三法、四果、二道などの様に教えの内容には違いがあります。

*解説

ここでは、教えを水に譬えています。茶碗の汚れ、服の汚れ、身体の汚れ、自動車の汚れなど、人は汚れを落とすために水を使います。井戸でも、池でも、溝でも、河でも、谷川でも、人のつくった運河でも、海でも、水があれば物を洗えます。それぞれに水の量は違っても物を洗う点では同じです。教えも同じです。一日一善の教えでも、五戒、八正道、六波羅蜜の教えでも、人々の煩悩の汚れを落とす点では同じです。

しかし、水は物の汚れを落としますが、場所によって勝手が変わります。現在は、池や川や海で物を洗うことは少ないので、身近な例で表わせば、手や顔だけを洗うのであれば洗面所のほうがいいし、身体を洗うのであれば、シャワーや風呂のほうがいいです。

茶碗を洗う、服を洗う、車を洗うなどの違いによって場所を変えて洗うように、仏も相手に応じて教えを説かれました。機根、性格、欲求の違い、時、場所、場面の違いに合わせて教えを説かれました。相手の煩悩の汚れを落とすという目的は同じですが、教えの内容は異なりましたので、教えを受けることの果報も異なりました。

*用語の解説

○三法
四諦・十二因縁・六波羅蜜の教えのことです。

○四果
声聞の修行の結果を四段階に分けて名付けています。須陀亘果(しゅだおんか)、斯陀含果(しだごんか)、阿那含果(あなごんか)、阿羅漢果(あらかんが)のことです。

詳しくはこちらをどうぞ。
http://blogs.yahoo.co.jp/jojon_folk/12459604.html

○二道
方便と真実の二つの道のことです。

●説法品-22 「一は多の意味を持つ」     2014/1/26(日) 午後 7:28

●無量義経説法品第二 #22

○第八 釈尊が質問に答える-2

*訓読

善男子。水は倶に洗うといえども、しかも、井は池に非ず、池は江河に非ず、渓渠(けいこ)は海に非ず。如来世雄の法に於いて自在なるが如く、所説の諸法も、またまた是の如し。初・中・後の説、皆よく衆生の煩悩を洗除すれども、しかも、初は中に非ず、しかも中は後に非ず。初・中・後の説、文辞一なりと雖もしかも義各異なり。

*現代語訳

善男子。水はどこの水でも汚れを落としますが、井戸は池ではありません。池は溝、河ではありません。谷川や運河は海ではありません。

如来が教えにおいて自在なように、説かれる教えもまた自在です。初期、中期、後期の教えは、どれも、よく人々の煩悩を洗い清めますが、初期の教えと中期の教えは異なりますし、中期の教えは後期の教えと異なります。初、中、後の教えは、言葉の上では同じでも、その教義は異なります。

*解説

同じ水の集合でも、井戸、池、溝、河、運河、大海は、同じものではありません。井戸と海が同じだと言う人はいません。地上に雨が降り、井戸や池にとどまる水もありますが、山奥の水は流れて集まって小川になり、小川は川へと流れ込み、やがて海へと集まります。水の集合体という点では同じでも、小川と川と海とは同じではありません。

教えについても同様です。初期に説かれた教えと、中期、後期では、はたらきは同じでもその内容は異なります。たとえば、「縁起」という言葉一つをとっても、仏教初心者に対して説く場合と高僧に対して説く場合とでは、同じ言葉を使っても深みが変わります。

唯識に「一水四見」という譬えがあります。同じように水を見ても、見るものによって感じ方が違うということを表わす譬えです。

人間にとっての川、湖、海などの水は、天の神々にとっては美しい鏡のような輝きであり、魚にとっては住み家であり、餓鬼にとっては汚水や膿に見える……。

また、「手を打てば 鳥は飛び立つ鯉は寄る 女中茶を持つ猿沢の池」という詩もあります。「ポンポン」と手を叩くと、鳥は音を怖がって逃げていき、鯉は餌がもらえると集まり、女中は自分が呼ばれたと思ってお茶を持って行くということです。その音を聞くものによって、違った意味合いになるということを見事に表現しています。

このように同じことがあっても、その人によってとらえ方は違いますから、その人に応じて教えを説くことになります。

●説法品-23 「初説・中説・後説」     2014/1/27(月) 午後 9:15

●無量義経説法品第二 #23

○第八 釈尊が質問に答える-3

「水の譬え」で、釈尊は、人々の根・性・欲に合わせて仏法を説かれることを明かされ、ここでは、具体的にこれまでどのような説法をされたのかを説かれました。

*訓読

善男子。我 樹王を起って波羅奈・鹿野園の中にいたって、阿若拘隣等の五人の為に、四諦の法輪を転ぜし時も、また諸法は本より来空寂なり。代謝して住せず念念に生滅すと説き、中間、此、及び処処に於て、諸の比丘、並に衆の菩薩の為に、十二因縁六波羅蜜を弁演し宣説し、また諸法は本より来空寂なり、代謝して住せず念念に生滅すと説き、今、また此に於て、大乗無量義経を演説するに、また諸法は本より来空寂なり、代謝して住せず念念に生滅すと説く。

善男子。この故に、初説・中説・後説、文辞是れ一なれども、しかも義別異なり。義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法、得果、得道、また異なり。

*現代語訳

善男子。私は、ブッダガヤの菩提樹の下から離れて、ヴァーラーナシーのムリガダーバに行き、五人の比丘のために四諦の法輪を説いた時、一切の現象は本来空寂であり、常に変化してとどまることなく、刻一刻に生じ、滅すると説きました。中期には、グリドラクータや様々な処において、数々の比丘や菩薩たちのために、十二因縁、六波羅蜜を説いた時も、一切の現象は本来空寂であり、常に変化してとどまることなく、刻一刻に生じ、滅すると説きました。今、また、ここにおいて、大乗の無量義の教えを説く時も、一切の現象は本来空寂であり、常に変化してとどまることなく、刻一刻に生じ、滅すると説きました。

善男子。このように、初説、中説、後説において、言葉上では同じでも、教義は異なります。教義が異なるために人々の理解も異なります。理解が異なるために、得る教え、得る結果、得る道も異なります。

*解説

初説とは、初転法輪のことです。釈尊と共に苦行をした、かつての仲間である五比丘に対して、「四諦」「八正道」を説かれました。

中説とは、仏教教団が大きくなった頃の説法のことで、竹林精舎・祇園精舎・霊鷲山などで、多くの比丘や菩薩に「十二因縁」「六波羅蜜」を説かれました。

後説とは、この霊鷲山で、菩薩たちに対して、今まさに説かれている『無量義経』のことです。

初説、中説、後説において、釈尊は、一切の現象は本来空寂であり、常に変化してとどまることなく、刻一刻に生じ、滅すると説かれました。このことをよく知られた言葉にすれば、「縁起」です。一切は空であるから因縁和合し、縁起によって仮にありますので無常です。仏教では、最初からずっと「縁起」が中心に説かれています。

初説、中説、後説において、釈尊は、「縁起の理法」を説かれたのですが、縁起という言葉は同じでも、初説、中説、後説において、その内容は変わりました。初説においては、二種の縁起を「四諦」として説かれ、中説では「十二因縁」という連鎖縁起と衆生との因縁による行である「六波羅蜜」を説かれ、現在は、智慧と慈悲によって衆生に方便の教えを説く「無量義」を説かれました。すべては縁起の教えですが、徐々に教義は深まっています。このように教義が異なっているので、人それぞれで得る果報も異なります。

実際の仏教教義の歴史では、最初期の経典である『スッタニパータ』で「非我」「二種縁起」「連鎖縁起」が説かれ、それを本にして、阿含経で「四諦」「十二因縁」「八正道」が整いました。そして、大乗仏教の時代になり、大乗仏教徒たちが、『般若経群』で「空」「六波羅蜜」を整えています。これらの教義は、すべて「縁起の理法」が基にあります。

*用語の解説

○波羅奈 (はらない)
(梵)ヴァーラーナシー "Varanasi"
日本では、「ベナレス」とも呼ばれます。ガンジス川沿いの地方で、この地方の近くにはサルナート(鹿野園)という釈尊が初めて説法をした場所があります。

ヒンドゥー教では、ガンジス川近くで死ねば輪廻から解脱できるという伝説がありますので、この地で死を待つ人が多いといいます。そのために、ヴァーラーナシーは「火葬場の街」とも呼ばれます。

ここは、現在のウッタル・プラデーシュ州にあります。この州は最も人口の多いところです。

○鹿野園 (ろくやおん)
(梵)ムリガダーバ "MRgadaava"
釈尊が成道後、五比丘に対し、初めて説法(初転法輪)をした場所です。鹿の多い園林だったので「鹿の林」と呼ばれたようです。現在のサールナート(鹿の王)です。

○阿若拘隣 (あにゃくりん)
(梵)アジュニャ・カウンディンヤ "AjNa-Kaundinya"
通常、阿若喬陳如(あにゃきょうちんにょ)と呼ばれます。五比丘の中のリーダー格の人で、釈尊の教法を学んで最初に領解しました。釈尊は自分の悟りの内容が他者に伝わったことを非常に喜び、感動して、「カウンディンヤが悟った!!」と叫んだといいます。一時は伝道をあきらめたのですから、喜びはひとしおだったのでしょう。それ以来、釈尊は、「よく領解したカウンディンヤ」と呼んだようです。その後、その名前が定着し、経典でも「阿若拘隣」「阿若喬陳如」の名で登場します。

●説法品-24 「教えの果報」     2014/1/28(火) 午後 2:41

●無量義経説法品第二 #24

○第八 釈尊が質問に答える-4

*訓読

善男子。初め四諦を説いて 声聞を求むる人の為にせしかども、しかも八億の諸天来下して法を聴いて菩提心を発し、中ごろ処処に於いて、甚深の十二因縁を演説して辟支仏を求むる人の為にせしかども、しかも無量の衆生菩提心を発し、或は声聞に住しき。

次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども、しかも百千の比丘・万億の人・天・無量の衆生、須陀亘、斯陀含、阿那含、阿羅漢果、辟支仏、因縁の法の中に住することを得。

*現代語訳

善男子。初め、声聞を求める人のために四諦の法門を説いたのですが、天より八億の神々が来下して教えを聞き、菩提心を起こしました。中ごろ、様々な場所で、辟支仏を求むる人のために奥深い意義を持つ十二因縁の法門を説いたのですが、多くの人々が成仏を求める心を起こし、または迷いの世界を離れ声聞の位を得ることができました。

次に、菩薩のために、様々な大乗の教え、大いなる般若の教え、華厳の教えを説いて、菩薩が転生を繰り返して修行をすることを明かした時、多くの比丘たち、多くの人や天の神々、多くの者たちは、聖者のそれぞれの位を得、縁覚の位を得、縁起の法を悟る事ができました。

*用語の解説

○方等十二部経

方等=(梵)ヴァイプルヤ "Vaipulya"
平等の真理のことで、大乗経典のことをいいます。

1. 修多羅 (しゅたら)
(梵)スートラ "suutra"
経。教えを散文で述べたもの。

2. 祇夜 (ぎや)
(梵)ゲーヤ "geya"
偈。応頌(おうじゅ)。重頌(じゅうじゅ)。
散文で述べた内容を韻文で重説したもの。

3. 記別 (きべつ)
(梵)ヴィヤーカラニャ "vyaakaraNa"
仏が弟子の未来について成仏の予言を述べたもの。

4. 伽陀 (かだ)
(梵)ガーター "gaathaa"
最初から独立して韻文で述べたもの。

5. 優陀那 (うだな)
(梵)ウダーナ "udaana"
無問自説。質問なしに仏がみずから進んで教説を述べたもの。

6. 如是語 (にょぜご)
(梵)イティ・ウクタカ "ity-uktaka"
「かくのごとき言説」の意味。

または、本事 (ほんじ)
(梵)イティ・ヴリッタカ "iti-vRttaka"
「かくのごとき出来事」の意味。
仏弟子の過去世の因縁を述べたもの。

7. 本生 (ほんじょう)
(梵)ジャータカ "jaataka"
仏の過去世の修行を述べたもの。

8. 方広 (ほうこう)
(梵)ヴァイプルヤ "vaipulya"
広く深い意味を述べたもの。

9. 未曾有法 (みぞうほう)
(梵)アドブタ・ダルマ "adbhuta-dharma"
仏の神秘的なことや功徳を嘆じたもの。

10.尼陀那 (にだな)
(梵)ニダーナ "nidaana"
因縁。縁起。経や律の由来を述べたもの。

11.阿婆陀那 (あばだな)
(梵)アヴァダーナ "avadaana"
譬喩(ひゆ)。教説を譬喩で述べたもの。

12.優婆提舎 (うはだいしゃ)
(梵)ウパデーシャ "upadeSa"
論議。教説を解説したもの。

○摩訶般若 (まかはんにゃ) 大般若経のこと。

○華厳海空 (けごんかいくう) 華厳経のこと。

●説法品-25 「教えのこころ」     2014/1/29(水) 午前 10:41

●無量義経説法品第二 #25

○第八 釈尊が質問に答える-5

これまで、釈尊は多くの教えを説かれてきましたが、いつも一つの真実をもとに教えを説かれていました。

*訓読

善男子。この義を以っての故に、故に知んぬ。説は同じけれども、しかも義は別異なり、義異なるが故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法、得果、得道、また異なり。

この故に善男子、我道を得て初めて起って法を説きしより、今日、大乗無量義経を演説するに至るまで、未だ曾て、苦、空、無常、無我、非真、非仮、非大、非小、本来生ぜず今また滅せず、一相、無相、法相、法性、不来、不去なり、しかも諸の衆生四相に遷(うつ)さるると説かざるにあらず。

*現代語訳

善男子。この様な理由で、説は同じでも教義は異なります。教義が異なるために人々の理解も異なります。理解が異なるために、得る教え、得る結果、得る道も異なります。

このために善男子、私は悟りを開いて、初めて教えを説いてから、今日、大乗の無量義の教えを説くまで、未だかつて、苦、空、無常、無我、非真、非仮、非大、非小、本来生ぜず、今また滅せず、一相、無相、法相、法性、不来、不去、しかも、多くの人々は、生じ、とどまり、変化し、滅するということを説かなかったことはありませんでした。

*用語の解説

○苦 (く)
(梵)ドゥフハ "duHkha"
思い通りにならないことによる心の痛み、悩み、憂いのことです。すべては因と縁によるのですから、自分の思い通りに、ことは運びません。苦の代表である生老病死とは、それ自体が苦なのではなく、それについてあれこれと想い、否定するから苦しむことになります。老化を受け入れきれず、抵抗すれば、皺が増えるたびに苦しむように、無常であるものに逆らえば苦悩となります。

○空 (くう)
(梵)シューニャ "Suunya"
実体がないということです。すべての事象は、因縁和合によって仮にありますので、個の実体はありません。個の実体はありませんから、個の特徴は認識されず、よって個の執着の対象はありません。空は大乗仏教の基盤となる教義です。

○無常 (むじょう)
(梵)アニトヤ "anitya"
因縁和合によって、事物・現象が変化すること。

○無我 (むが)
(梵)アナートマン "anaatman"
アートマン(我)の否定です。

○非真
空においては、これは真実であるという固定した認識もしません。

○非仮
空においては、これは仮であるという固定した認識もしません。

○非大非小
空において、事象には特徴がなく、他と比べることがありませんので、大きいとか小さいという相対的な判断は出来ません。

○本来生ぜず今また滅せず
空において、事象には特徴がありませんので、生じることも、滅することもありません。

○一相
実相と同じ意味です。すべてに特徴を観ることはできませんから、すべてが一つであるということです。

○無相
(梵)アニミッタ "animitta"
「ニミッタ」とは、根拠のことです。原因、理由、因果関係とも訳されます。それらを否定して、「アニミッタ」といい、「無相」と訳されています。よって、根拠や因果関係のないことをいいます。

私たちは、そのものの特徴をみて、他と区別して名前をつけ認識しますが、空においては、そのものには特徴がありませんから、区別する根拠、さらに名前をつける根拠もありません。よって、認識するという根拠はありません。

○法相
諸法が有する本質の相状(体相)。

○法性
(梵)ダルマター "dharmataa"
法の本性のことです。これも、実相の別名です。

○不来不去
空においては、来るとか、去るという認識もありません。

●説法品-26 「身口意の行為」     2014/1/30(木) 午後 9:00

●無量義経説法品第二 #26

○第八 諸仏の身口意の行為を結ぶ

諸仏は真理を胸に、教えを説かれ、教えを実践されました。これが、仏の身口意の行為であり、この身口意の行為が仏道です。

*訓読

善男子。この義を以っての故に、一切の諸仏は二言あることなく、よく一音を以って普く衆の声に応じ、よく一身を以って百千万億那由佗無量無数恒河沙の身を示し、一一の身の中に又若干、百千万億那由佗阿僧祇恒河沙種種の類形を示し、一一の形の中に又若干百千万億那由佗阿僧祇恒河沙の形を示す。善男子、これ則ち諸仏の不可思議甚深の境界なり。二乗の知る所に非ず、また十地の菩薩の及ぶ所に非ず、ただ仏と仏とのみ乃し能く究了したまえり。

*現代語訳

善男子。このような理由から、一切の諸仏は、二つのことを説くことはなく、ただ一つの真実を説きます。よく一つの真実によって、広く人々に応じた姿となり、よく一つの身によって無量の身を示し、その一つ一つの身の中に、また無量の類形を示し、一つ一つの形の中にまた無量の形を示します。善男子。このことが、即ち諸仏の不可思議で奥深い境界です。声聞、縁覚という二乗の知る所ではなく、また十地の菩薩の及ぶところではありません。ただ仏と仏だけが究めはっきりと悟った内容です。

*解説

諸仏は、一つの真理を胸に多くの人に対して教えを説かれました。よって諸仏の説法は無量の教えとなりました。そして、あらゆる善行を実践しました。諸仏の言葉と行動によって人々は仏法を学ぶことができますが、諸仏の心をみることはできません。真意をつかむためには、受ける者が自分を高める必要があります。

ここでは、釈尊一人のことではなく、諸仏のことが説かれています。『無量義経』は三世の諸仏の守護する教えだということは前に説かれていましたが、諸仏は皆一心に無量の教えを説かれたということです。

*用語の解説

○那由佗 (なゆた)
(梵)ナユタ "nayuta"
古代インドの数量の単位で、一説では一千億のことだとされます。

○無量 (むりょう)
(梵)アプラメヤ "aprameya"
古代インドの数量の単位です。
単位としての無量は有限ですが、形容としては無限の意味です。

○無数 (むしゅ)
(梵)アサンキャ"asaMkhya"
阿僧祇(あそうぎ)ともいいます。
単位としての無数は有限です。

○恒河沙 (こうがしゃ)
(梵)ガンガー・ヴァークカ"Ganga vaaluka"
古代インドの数量の単位で、「ガンジス川の砂の数ほど」という想像を絶する数です。非常に多数ですが、無限ではなく有限です。

○百千万億那由佗無量無数恒河沙
インドでは三七日というと、37日という意味ではなく、「3×7=21」というように21日のことをいいます。
百×千×万×億×那由佗×無量×無数×恒河沙のことですので、天文学的な数字です。

●説法品-27 「結び」     2014/1/31(金) 午前 7:06

●無量義経説法品第二 #27

○第八 無量義の教えの結び

無量義の教えを結び、勧めています。

*訓読

「善男子。この故に我説く。『微妙甚深無上大乗無量義経は、文理真正なり、尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所、衆魔外道、得入すること有ることなし。一切の邪見生死に壊敗せられず』と。菩薩摩訶薩、もし疾く無上菩提を成ぜんと欲せば、まさに是の如き甚深無上大乗無量義経を修学すべし」

*現代語訳

「善男子。この様な理由から、私は、最初に次のように説きました。『極めて奥深い大乗の無量義の教えは、道理が真正であり、この上もなく尊いのです。過去・現在・未来の諸仏が共に守護された教えであり、様々な魔物にも仏教以外の教えにも、影響されることがなく、一切の誤った見方や様々な現象に振り回されて崩れるということがありません』と。菩薩摩訶薩が、まっすぐに最高の悟りを得ようと願うならば、まさにこの様に非常に奥深くこの上のない大乗の無量義の教えを修学することが必要です」

●説法品-28 「天地感応」     2014/1/31(金) 午後 10:12

●無量義経説法品第二 #28

○第九 この世界での供養

釈尊の説法が終わった時、天地が感動し、不思議な出来事がありました。

*訓読

仏、これを説きたもうことおわって、ここに三千大千世界六種に震動し、自然に空中より、種種の天華、天優鉢羅華(うばつらけ)、鉢曇摩華(はつどんまけ)、拘物頭華(くもつづげ)、分陀利華(ふんだりけ)を雨らし、また無数種種の天香、天衣、天瓔珞、天無価の宝を雨(ふ)らして 上空の中より旋転して来下し、仏 及び諸の菩薩、声聞、大衆に供養す。天厨、天鉢器に天百味食 充満盈溢し、天幢、天旛、天軒蓋、天妙楽具、処処に安置し、天の伎楽を作して仏を歌歎したてまつる。

*現代語訳

仏がこのことを説き終わると、世界中が感動して、大地は六種に震動し、自然に空中から天上界の様々な華がふってきました。また、数多くの様々な天の香、天の衣、天の首飾り、天の高価な宝石をふらして、上空より旋転して舞い降り、仏と菩薩たち、声聞たち、大衆を供養しました。天の皿には、この上もなく美味な、見たり香るだけで自然と満足できる天の食べ物が盛られており、立派な旗や幡、天蓋、様々な道具を仏の身のまわりに配し、天は音楽を奏でて、仏を讚歎しました。

*解説

釈尊の説法が終わると大地がゆれ、天から蓮華が降ってきました。これは、天地が喜んでいるということです。喜びの表現として地震があるというと違和感を感じる方も多いと思いますが、地下世界の衆生が釈尊に喜びを伝えるのは、この方法がよいのでしょう。天から青蓮華・紅蓮華・黄蓮華・白蓮華、様々な供物が降ってきたのは、天上界の神々の喜びの表現です。仏と天地が感応した情景です。

*用語の意味

○三千大千世界 (さんぜんだいせんせかい)
須弥山を中心とする世界を一世界とし、その世界が1000×1000×1000(千の三乗)集まった世界のこと。千の三乗の世界のことを大千世界といいます。

○優鉢羅華 (うばつらけ)
(梵)ウトパラ "utpala"
青蓮華のことです。

○鉢曇摩華 (はつどんまけ)
(梵)バドマ "padma"
紅蓮華のことです。

○拘物頭華 (くもつづけ)
(梵)クムダ "kumuda"
黄蓮華のことです。

○分陀利華 (ふんだりけ)
(梵)プンダリーカ "puNdariika"
白蓮華のことです。
高貴とされる蓮華の中でも、最も高貴な華です。

●説法品-29 「他方世界の供養」     2014/2/1(土) 午後 0:09

●無量義経説法品第二 #29

○第十 他方世界の供養

*訓読

またまた六種に 東方恆河沙等の諸仏の世界を震動し、また、天華・天香・天衣・天瓔珞・天無価宝・天厨・天鉢器・天百味・天幢・天旛・天軒蓋・天妙楽具を雨らし、天の伎楽を作して、彼の仏 及び彼の菩薩・声聞・大衆を歌歎したてまつる。南西北方・四維・上下もまたまた是の如し。

*現代語訳

また、東方の諸仏の世界も震動し、また、天華、天香、天衣、天の首飾り、天の高価な宝石、天の皿に盛られたこの上もない御馳走、天の旗、天蓋、天の道具をふらし、天より音楽を奏でて、その世界の仏、菩薩、声聞、大衆を讚歎しました。南西北方四維上下も同様です。

*解説

この世界だけではなく、遠く離れた異国においても、天地が喜んで大地をゆすり、蓮華や供物を供養しました。

●説法品-30 「説法終了」     2014/2/1(土) 午後 0:34

●無量義経説法品第二 #30

○第十一 この教えを聞くことの功徳

釈尊の「無量義」の教えを聴いた菩薩や声聞たちは、それぞれに功徳を得ました。

*訓読

ここに衆中の三万二千の菩薩摩訶薩は、無量義三昧を得、三万四千の菩薩摩訶薩は、無数無量の陀羅尼門を得、よく一切三世の諸仏の不退の法輪を転ず。

その諸の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩ゴ羅伽・大転輪王・小転輪王・銀輪・鉄輪・諸輪の王・国王・王子・国臣・国民・国士・国女・国大長者 及び諸の眷属百千衆倶に、仏如来のこの経を説きたもうを聞きたてまつる時、或は忍法、頂法、世間第一法、須陀おん果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏果を得、また菩薩の無生法忍を得、また一陀羅尼を得、また二陀羅尼を得、また三陀羅尼を得、また四陀羅尼、五、六、七、八、九、十陀羅尼を得、また百千万億陀羅尼を得、また無量無数恆河沙阿僧祇陀羅尼を得て、皆 よく随順して不退転の法輪を転ず。無量の衆生は、阿耨多羅三貎三菩提の心を発しき。

*現代語訳

ここに参列する多くの男女の出家修行者と在家修行者、天上界の神々、ナーガ、ヤクシャ、ガンバルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガ、多くの王とその眷属たち、長者とその眷属たちは、仏のこの教えを聞いた時、声聞の阿羅漢果などの境地を得、辟支仏果を得、また菩薩の空の悟りを得、また多くの陀羅尼を得、皆、ことごとく随って、信念を持ち、何事にも屈しない心をもって、教えを説き弘めました。多くの人々は、最高の悟りを目指す心を起こしました。

*解説

以上で、『無量義経説法品第二』が終わりました。この説法は、菩薩への教えなので非常にレベルが高い内容でした。『法華経』は、同様の内容を声聞衆にしますから、だいぶ砕いて説かれます。

『説法品』の内容をひと言でいえば、「説法」についてです。菩薩がストレートに最高の悟りを得たいのであれば、智慧と慈悲による「方便力」を磨きなさいというものです。

●十功徳品-1 「流通分」     2014/2/1(土) 午後 11:04

●無量義経十功徳品第三 #1

○第一 正説の経を標歎する

『無量義経』の流通分(るつうぶん)です。流通分とは、この教えを広める方法が述べられます。

*訓読

その時に大荘厳菩薩摩訶薩、また仏に白して言さく。
「世尊。世尊この微妙甚深無上大乗無量義経を説きたもう。真実甚深甚深甚深なり」

*現代語訳

その時に大荘厳菩薩は、また仏に申し上げました。
「世尊。世尊は、非常に奥深い大乗の無量義の教えを説かれました。それは真実であり、非常に奥深い教えです」

*解説

ここからは、『無量義経十功徳品第三』です。
この経典の功徳を、十項目に分けて説かれています。

●十功徳品-2 「利益を得た者たち」     2014/2/5(水) 午後 2:38

●無量義経十功徳品第三 #2

○第二 所利益の人を挙げて能利益の経を歎ず

この教えによって利益を得た人々のことを告げ、この『無量義の教え』を讃えます。

*訓読

「所以は何ん、この衆の中に於て、諸の菩薩摩訶薩 及び 諸の四衆・天・龍・鬼神・国王・臣民・諸有の衆生、この甚深無上大乗無量義経を聞いて、陀羅尼門・三法・四果・菩提の心を獲得せざることなし。当に知るべし、この法は文理真正なり、尊にして過上なし。三世諸仏の守護したもう所なり。衆魔群道、得入することあることなし。一切の邪見生死に壊敗せられず。所以は何ん、一たび聞けば よく一切の法を持つが故に」

*現代語訳

「なぜならば、この会の中において、多くの菩薩たち、多くの男女の出家修行者と在家修行者たち、天上界の神々、龍神たち、鬼神・国王・臣民・多くの人々は、非常に奥深い大乗の無量義の教えを聞いて、それぞれに陀羅尼門・三法・四果・悟りを目指す心を得る事が出来たからです。まさに知るべきでしょう。この教えは道理が真正であり、この上もなく尊いものです。過去、現在、未来の諸仏の守護された教えであり、様々な魔者や仏教以外の教えに影響されることはありません。一切の誤った思想や現象に振り回されて崩れるということがありません。なぜならば、一度聞けば、よく一切の教えを授かるからです」

●十功徳品-3 「聞く者の益、聞かぬ者の失」     2014/2/7(金) 午後 8:09

●無量義経十功徳品第三 #3

○第三 得聞の益を挙げて未聞の失を示す

*訓読

もし衆生あって、この経を聞くことを得るは、則ちこれ大利なり。所以は何ん、もし、よく修行すれば、必ず疾く無上菩提を成ずることを得ればなり。それ衆生あって聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等はこれ大利を失えるなり。無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は何ん、菩提の大直道を知らざるが故に、険径を行くに留難多きが故に。

*現代語訳

もし、人々がこの教えを聞いたならば、大きな利益を得るでしょう。なぜならば、この教えをよく修行すれば、必ずや真っ直ぐに最高の悟りを得ることが出来るからです。逆に人々の中で、この教えを聞かない者たちは、大きな利益を失います。非常に長い年月を過ぎても、悟りを得ることが出来ません。なぜならば、悟りへの真っ直ぐな道を知らないために、険しい道を行き、困難が多いからです。

●十功徳品-4 「大荘厳菩薩の質問」     2014/2/7(金) 午後 8:18

●無量義経十功徳品第三 #4

○第四 大荘厳菩薩の質問

*訓読

「世尊。この経典は不可思議なり。ただ願わくは世尊、広く大衆の為に慈哀して、この経の甚深不思議の事を敷演(ふえん)したまえ。世尊、この経典は何れの所よりか来たり、去って何れの所にか至り、住って何れの所にか住する。すなわち是の如き無量の功徳不思議の力あって、衆をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしめたもうや」

*現代語訳

「世尊。この教えは、人々の常識をはるかに超えています。ただ、願わくは、世尊、広く人々のために、慈悲と哀れの心をもって、非常に奥深く、人々の常識をはるかに超えているこの教えの趣旨をお教え下さい。世尊、この教えは、どこから来て、どこへ去って、どこへ留まるのでしょうか? このことを理解できれば、この教えの功徳がどれほど優れているのかが分かりますので、人々は真っ直ぐに最高の悟りを得ることができると存じます」

*解説

大荘厳菩薩が三つの質問をしました。

〔砧無舛龍気┐呂匹海ら来たのか?
¬砧無舛龍気┐呂匹海惶遒襪里?
L砧無舛龍気┐呂匹海卜韻泙襪里?

●十功徳品-5 「釈尊が答える」     2014/2/8(土) 午後 0:54

●無量義経十功徳品第三 #5

○第五 如来の答

*訓読

その時に世尊、大荘厳菩薩摩訶薩に告げて言わく。
「善哉善哉、善男子。是の如し是の如し、汝が説く所の如し。善男子、我、この経を説くこと甚深甚深真実甚深なり。所以は何ん。衆をして疾く無上菩提を成ぜしむるが故に、一たび聞けば、よく一切の法を持つが故に、諸の衆生に於て大に利益するが故に、大直道を行じて留難なきが故に」

*現代語訳

その時に釈尊は、大荘厳菩薩におっしゃいました。
「素晴らしい、素晴らしいことです。善男子よ。その通りです。その通りです。あなたが言う通りです。善男子。私が説いた教えは、非常に奥深い真実です。なぜならば、この教えによって、人々が、真っ直ぐに最高の悟りを得ることが出来るからです。一度聞けば、よく一切の教えを授かるからであり、多くの人々が、大きな利益を得ることが出来るからです。真っ直ぐに迷わずに修行が出来、様々な困難がないからです」

*用語の解説

○善哉 (ぜんざい)
(梵)サドゥ "sadhu"
「素晴らしい!」「正しい」「優れている」「聖なる」などの意味で、相手を讃える時に発する言葉です。小豆を甘く煮て餅をいれた食べ物を「ぜんざい」というのは、一説には、一休禅師がこれを食べて「善哉、善哉」と褒めたからだと言います。また、インドでは、サドゥというと「苦行」のこともいいます。

○善男子 (ぜんなんし)
(梵)クラ・プトラ "kula-putra"
「良家の息子」の意味です。
菩薩の自覚を持つ者たちに対して、このように呼んでいます。
善女人は、「クラ・プトリー」"kula-putrl"といいます。

●十功徳品-6 「来至住」     2014/2/10(月) 午後 10:56

●無量義経十功徳品第三 #6

○第五 来至住の問に答う

釈尊が、大荘厳菩薩の質問に答えます。

*訓読

「善男子。汝、『この経は何れの所よりか来り、去って何れの所にか至り、住って何れの所にか住する』と問わば、当に善く諦かに聴くべし。善男子、この経は、本諸仏の室宅の中より来り、去って一切衆生の発菩提心に至り、諸の菩薩所行の処に住す。善男子、この経は是の如く来り、是の如く去り、是の如く住したまえり。この故に、この経はよく是の如き無量の功徳不思議の力あって、衆をして疾く無上菩提を成ぜしむ」

*現代語訳

「善男子よ。あなたは、この教えが、どこから来て、どこへ去り、どこへとどまるのかを問いました。では、お答えしましょう。しっかりと聞いてください。善男子。この教えは、本、諸仏の心の内より来て、去って一切衆生の悟りを求める心に至り、多くの菩薩の修行の中にとどまります。善男子。この教えは、この様に来て、この様に去って、この様にとどまります。

*解説

〔砧無舛龍気┐呂匹海ら来たのか? → 諸仏の心の内
¬砧無舛龍気┐呂匹海惶遒襪里?  → 一切衆生の悟りを求める心
L砧無舛龍気┐呂匹海卜韻泙襪里? → 多くの菩薩の修行の中

●十功徳品-7 「十功徳」     2014/2/17(月) 午後 6:09

●無量義経十功徳品第三 #7

○第六 如来の試問
○第七 菩薩問わんと欲して答え奉る

釈尊が、無量義経の功徳を知りたいかを大荘厳菩薩に質問して、大荘厳菩薩が説法をお願いします。

*訓読

「善男子。汝、寧ろこの経に、また十の不思議の功徳力あるを聞かんと欲するや不や」
大荘厳菩薩の言さく。
「願わくは聞きたてまつらんと欲す」

*現代語訳

「善男子よ。あなたは、むしろこの教えに、十の常識を超えた功徳の力があることを聞きたくはありませんか?」

大荘厳菩薩は申し上げました。
「願わくは、ぜひとも聞かせて頂きたく存じます」

*解説

釈尊が、無量義経の「十の不思議の功徳力」を知りたいかを大荘厳菩薩に確認をして、大荘厳菩薩がそのことをお聞きしたいと願いました。この「十の不思議の功徳力」をとって、「十功徳品」という品題があります。これから先は、「十の不思議の功徳力」を譬えを入れながら説かれます。

 ‐心不思議力
 義生不思議力
 Aセ嬋垰弋栂
 げ子不思議力
 ノ胸夘垰弋栂
 治等不思議力
 Ь淺不思議力
 得忍不思議力
 抜済不思議力
 登地不思議力

『無量義経』は、成仏へと導く教えなのですから、最初の功徳は、「発菩提心」であり、最終的な功徳が、成仏であることは言うまでもありません。

●十功徳品-8 「発菩提心」     2014/2/22(土) 午前 9:32

●無量義経十功徳品第三 #8

○第八 如来、正に答う
‖莪譴慮徳 浄心不思議力

*訓読

仏の言わく。
「善男子。第一に、この経は、よく菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、慈仁なき者には慈心を起さしめ、殺戮を好む者には大悲の心を起さしめ、嫉妬を生ずる者には随喜の心を起さしめ、愛著ある者には能捨の心を起さしめ、諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、きょう慢多き者には持戒の心を起さしめ、瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ、懈怠を生ずる者には精進の心を起さしめ、諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、愚痴多き者には智慧の心を起さしめ、未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起さしめ、十悪を行ずる者には十善の心を起さしめ、有為を楽う者には無為の心を志さしめ、退心ある者には不退の心を作さしめ、有漏を為す者には無漏の心を起さしめ、煩悩多き者には除滅の心を起さしむ。善男子、これをこの経の第一の功徳不思議の力と名く」

*現代語訳

釈尊はおっしゃいました。
「善男子。第一に、この教えは、菩薩の未だ成仏を目指していない者には、菩提心を発さしめ、情け深さのない者には、慈しみの心を起こさしめ、生き物を好んで殺す者には、生命を助けたいという心を起こさしめ、自分にある劣等感から、他者に対し嫉妬を生じる者には、自分を高める喜びの心を起こさしめ、執着する者には、執着を捨てる心を起こさしめ、物惜しみする者には、布施の心を起こさしめ、おごり高ぶって人を見下し、自分勝手なことをする者には、持戒の心を起さしめ、怒りや恨みの多い者には、忍辱の心を起さしめ、怠け心のある者には、精進の心を起さしめ、心の乱れやすい者には、禅定の心を起さしめ、真理を知らない者には、智慧の心を起さしめ、未だ他者を救う心のない者には、他者を救う心を起こさしめ、十悪を行ずる者には十善の心を起さしめ、物質的幸せを願う者には、精神的幸せを願う心を志さしめ、修行に対しあきらめの心を起こす者には、不退の心を作さしめ、煩悩のままに生きる者には、煩悩から離れる心を起こさしめ、煩悩多き者には、煩悩を捨て去る心を起こさしめます。善男子。これをこの教えの第一の功徳、不思議の力と名付けます」

*解説

これから第一の功徳から第十の功徳までが説かれますが、最初に説かれる第一の功徳が最も重要です。

○未発心者→発菩提心
『無量義経』は、成仏を目指し達せさせるための教えですから、まずは、成仏を求める心のない者には、成仏を目指す心を起こさしめます。成仏を求める心を菩提心といい、菩提心を起こすことを「発菩提心」といいます。もし、『法華三部経』を学ぶ者で、発菩提心がないのであれば、すべての教えは単なる言葉の羅列となってしまいます。ぜひ、菩提(悟り)とは何か、菩提心とは何か、自分は発菩提心の功徳を頂いているのかをご確認下さい。

○無慈仁者→起於慈心
○好殺戮者→起大悲心
○生嫉妬者→起隨喜心
○有愛著者→起能捨心
○諸慳貪者→起布施心
○多驕慢者→起持戒心
○瞋恚盛者→起忍辱心
○生懈怠者→起精進心
○諸散乱者→起禅定心
○於愚癡者→起智慧心
○未能度彼者→起度彼心
○行十悪者→起十善心
○楽有為者→志無為心
○有退心者→作不退心
○為有漏者→起無漏心
○多煩悩者→起除滅心

●十功徳品-9 「一は多に通じる」     2014/2/26(水) 午後 8:59

●無量義経十功徳品第三 #9

○第八 如来、正に答う
第二の功徳 義生不思議力

*訓読

善男子。第二に、この経の不可思議の功徳力とは、もし衆生あって、この経を聞くことを得ん者、もしは一転、もしは一偈 乃至一句もせば、則ちよく百千億の義に通達して、無量数劫にも受持する所の法を演説すること能わじ。所以は何ん、それこの法は義無量なるを以ての故に。

善男子。この経は、譬えば一の種子より百千万を生じ、百千万の中より一一にまた百千万数を生じ、是の如く展転して、乃至無量なるが如く、この経典もまたまた是の如し。一法より百千の義を生じ、百千の義の中より一一にまた百千万数を生じ、是の如く展転して乃至無量無辺の義あり。この故にこの経を無量義と名く。善男子、これをこの経の第二の功徳不思議の力と名く。

*現代語訳

善男子よ。第二にこの教えの優れた功徳力とは、もし、ある人がこの教えを聞くことができたとき、もしは、一通り聞き、もしくは、一つの詩を聞き、もしくは、一句を聞いたならば、数多くの教えに通じて、数多くの他の教えをも理解することができるようになります。数多くの教えを受持することになりますので、長い年月をかけても、その教えを説きつくすことが出来ない程になるでしょう。なぜならば、この教えは、教義が無量の教えに通じているからです。

善男子よ。たとえば、一つの種が芽を出し、成長し、花を咲かせ、種をつけた時、一つの種から多くの種を生じます。その多くの種の一つ一つからは、また、さらに多くの種を生じ、次々と増えて、いつしか無量の収穫になる様に、この教えも、一つの教えから多くの教義が生じ、多くの教義の一つ一つからさらに多くの教義が生じ、次々と教義が通じて、無量の教義が生じます。このために、この教えを無量義と名付けます。善男子よ。これをこの教えの第二の功徳、不思議の力と名付けます。

●十功徳品-10 「実践」     2014/3/1(土) 午後 7:47

●無量義経十功徳品第三 #10

○第八 如来、正に答う
B荵阿慮徳 船師不思議力

*訓読

善男子。第三に是の経の不可思議の功徳力とは、もし衆生あって、この経を聞くことを得て、もしは一転、もしは一偈乃至一句もせば、百千万億の義に通達しおわって、煩悩ありと雖も煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想なけん。諸の衆生に於て憐愍の心を生じ、一切の法に於て勇健の想を得ん。

壮んなる力士の諸有の重き者をよく担いよく持つが如く、この持経の人もまたまた是の如し。よく無上菩提の重き宝を荷い、衆生を担負して生死の道を出す。未だ自ら度すること能わざれども、已によく彼を度せん。

なお、船師の身重病に嬰り、四体御まらずして、この岸に安止すれども、好き堅牢の舟船常に 諸の彼を度する者の具を弁ぜることあるを、給い与えて去らしむるが如く。この持経者もまたまた是の如し。五道諸有の身、百八の重病に嬰り、恒常(つね)に相纏(あいまと)わされて無明・老・死のこの岸に安止せりと雖も、しかも堅牢なるこの大乗経無量義のよく衆生を度することを弁ずることあるを、説の如く行ずる者は、生死を度することを得るなり。善男子、これをこの経の第三の功徳不思議の力と名く。

*現代語訳

善男子よ。第三にこの教えの優れた功徳力とは、もし、ある人がこの教えを聞くことができたとき、もしは、一通り聞き、もしくは、一つの詩を聞き、もしくは、一句を聞いて、多くの教義に通達したならば、煩悩があっても煩悩がない者の様に、現象の変化を恐れることがなくなります。多くの人々に対して、哀れだという心を起こし、一切のものに対して、力強く健やかな想いを得ます。

勇ましき力士が重たいものを持ち挙げ、よく保つように、この教えを保つ者もまた同じです。悟りという重い宝をかつぎ、人々をかついで、現象に振り回される生き方から救いだします。未だ、自分が救われていなくても、よく他者を救います。

船頭が重病にかかり、身体が動かなくなり、こちら岸に船を止めている時も、船が頑丈であり、船の操縦方法を伝える事が出来れば、船を向こう岸へと渡すことが出来ます。この教えを保つ者もこの船頭と同じです。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人という五道を輪廻する身であり、百八の煩悩に満ち、常にその状態にあって、真理を知らず、老いや死の苦しみのこの世界にあったとしても、非常に優れた大乗の無量義の教えが衆生を救うということをしっかりと理解して、その教えの様に修行するならば、人々を苦しみから救いだすことができます。善男子よ。これをこの教えの第三の功徳、不思議の力と名付けます。

*解説

本人の智慧や慈悲が、たとえ低くても、この無量義の教えを学び、実践すれば自他を成仏へと導くことができます。最初からすべてを悟って行動を始める人はいません。

子供の頃、親や学校の先生に言われて以来、ずっと「あいさつ」をし続けてきましたが、あいさつの大切さを心から感じたのは大人になってからのことです。そして、最近になってあいさつは成仏の道だと深く感じました。子供の頃は、ただ言われてあいさつをしていましたが、その行為は善業となっていると思います。本人が深く分かっていなくても、実践をすれば功徳があります。実践を繰り返すうちに智慧が起こり、慈悲の心も起こるのでしょう。

●十功徳品-11 「仏子」     2014/3/14(金) 午後 3:37

●無量義経十功徳品第三 #11

○第八 如来、正に答う

ぢ荵佑慮徳 王子不思議力

*訓読

善男子。第四にこの経の不可思議の功徳力とは、もし衆生あって、この経を聞くことを得て、もしは一転、もしは一偈 乃至 一句もせば、勇健の想を得て、未だ自ら度せずと雖もしかもよく他を度せん。諸の菩薩と以て眷属と為り、諸仏如来、常に是の人に向ってしかも法を演説したまわん。この人聞きおわって悉くよく受持し、随順して逆らわじ。転(うた)たまた人の為に宜しきに随って広く説かん。

善男子。この人は譬えば、国王と夫人と、新たに王子を生ぜん。もしは一日もしは二日、もしは七日に至り、もしは一月、もしは二月、もしは七月に至り、もしは一歳、もしは二歳、もしは七歳に至り、また国事を領理すること能わずと雖も已に臣民に宗敬せられ、諸の大王の子を以て伴侶とせん、王及び夫人、愛心偏に重くして常に与みし共に語らん。所以は何ん、稚小なるを以ての故にといわんが如く。

善男子。この持経者もまたまた是の如し。諸仏の国王とこの経の夫人と和合して、共にこの菩薩の子を生ず。もし菩薩、この経を聞くことを得て、もしは一句、もしは一偈、もしは一転、もしは二転、もしは十、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億万恒河沙無量無数転せば、また真理の極(ごく)を体(さと)ること能わずといえども、また三千大千の国土を震動し、雷奮梵音をもって大法輪を転ずること能わずといえども、すでに一切の四衆・八部にたっとみ仰がれ、諸の大菩薩を以て眷属とせん。深く諸仏秘密の法に入って、演説する所違うことなく失なく、常に諸仏に護念し慈愛偏に覆われん、新学なるを以ての故に。善男子、これをこの経の第四の功徳不思議の力と名く。

*現代語訳

善男子。第四にこの教えの優れた功徳力とは、もし、ある人がこの教えを聞くことができたとき、もしは一通り聞き、もしくは、一つの詩を聞き、もしくは、一句を聞いて、勇ましく健やかな想いを得たならば、まだ自分自身が救われていなくても、他者を救うことができます。多くの菩薩たちの仲間となり、諸仏如来は、常にこの人に向かって教えを説かれます。この人は、その教えをよく聴き、よく受持し、その通りに修行して逆らうことはありません。受持した教えを次々と広く人々に伝え、伝えるときは、相手に応じて教えを説くでしょう。

善男子。この人は、譬えば、国王と王妃との間に生まれた王子の様です。その王子は、もしは一日、もしは二日、もしは七日に至り、もしは一月、もしは二月、もしは七月に至り、もしは一歳、もしは二歳、もしは七歳に至り、まだ国事を治めることが出来なくても、家臣や国民に尊敬され、多くの大王の王子たちと仲間となります。王と夫人からの愛はひとえに重く、常に王子を可愛がり、いつも共に話します。なぜならば、王子はまだ幼いからです。

善男子。この教えを保つ者も同じです。諸仏が国王であり、この教えが王妃にあたり、二人が和合して誕生した王子は菩薩にあたります。もし、菩薩が、この教えを聞くことができたとき、もしは一句、もしは一つの詩、もしは一通り、もしは二度、もしは何度でも繰り返し学び、さらに数えきれない程に学んだならば、まだ究極の真理を悟っていなくても、世界の国土を感動によって震動させることができなくても、その声が雷の様に震えることがなく、綺麗な声色をもって大いなる説法を他者に弘めるに至らなくとも、一切の男女の出家者、在家者や天の神々、魔神たちに尊敬され仰がれ、多くの大菩薩たちの仲間となるでしょう。深く諸仏の秘密の教えに入って、演説するところは、真実を誤ることがなく、重要な点を損なうことがなく、常に諸仏に護られ、慈愛に包まれます。それは、新しく菩薩の仲間に入ったばかりだからです。善男子よ。これをこの教えの第四の功徳、不思議の力と名付けます。

●十功徳品-12 「龍の子は龍」     2014/4/12(土) 午後 8:28

●無量義経十功徳品第三 #12

○第八 如来、正に答う

ヂ荼泙慮徳 龍子不思議力

*訓読

善男子。第五にこの経の不可思議の功徳力とは、もし善男子・善女人、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、それ是の如き甚深無上大乗無量義経を受持し読誦し書写することあらん。この人また具縛(ぐばく)煩悩にして、未だ諸の凡夫の事を遠離すること能わずと雖も、しかもよく大菩薩の道を示現し、一日を演べて以て百劫と為し、百劫をまたよく促(ちぢ)めて一日と為して、かの衆生をして歓喜し信伏せしめん。

善男子。是の善男子・善女人、譬えば、龍子始めて生れて七日に、即ちよく雲を興し、またよく雨を降らすが如し。善男子、これをこの経の第五の功徳不思議の力と名く。

*現代語訳

善男子よ。第五にこの教えの優れた功徳力とは、もし善男子、善女人が、もしは仏の在世に、もしは滅度の後に、この非常に奥深い大乗の無量義の教えを受持し、読誦し、書写することが出来たならば、この人がまだ煩悩に縛られていて、まだ、様々な凡人の生活習慣から離れ切れない状態にあったとしても、よく大菩薩と同じ修行を実現することができ、一日を百万年に延ばし、百万年を一日に縮めることができ、多くの人々が、教えを受け、学び、実践することに喜びを感じるように導くことができ、信じて従う様にすることができます。

善男子よ。この善男子、善女人は、譬えれば、龍の子が生まれて七日で、よく雲を集めて雨をふらすのと同じです。善男子。これをこの教えの第五の功徳、不思議の力と名付けます。

*解説

ここに受持・読・誦・書写という表現が出てきます。これは、法師の行と呼ばれるもので、『法華経』においては重要な行とされます。『法華経』では、受持・読・誦・書写に「解説」が入って「五種法師の行」といいます。十功徳品では、第七の功徳のときに五つを為した者の功徳が説かれることになります。

●十功徳品-13 「まずは人さまを」     2014/4/12(土) 午後 8:50

●無量義経十功徳品第三 #13

○第八 如来、正に答う

β莽擦慮徳 治等不思議力

*訓読

善男子。第六にこの経の不可思議の功徳力とは、もし善男子・善女人、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、この経典を受持し読誦せん者は、煩悩を具(ぐ)せりと雖も、しかも衆生の為に法を説いて、煩悩生死を遠離し一切の苦を断ずることを得せしめん。衆生聞きおわって修行して、得法・得果・得道すること、仏如来と等しくして差別なけん。

譬えば、王子また稚小なりといえども、もし王の巡遊し、及び疾病するに、この王子に委せて国事を領理せしむ。王子この時大王の命に依って、法の如く群僚百官を教令し正化を宣流するに、国土の人民各其の要に随って、大王の治するが如く等しくして異ることあることなきが如く。持経の善男子・善女人も、またまた是の如し。もしは仏の在世、もしは滅度の後、この善男子未だ初不動地に住することを得ずといえども、仏の是の如く教法を用説したもうに依って、しかもこれを敷演せんに、衆生聞きおわって一心に修行せば、煩悩を断除し、得法・得果・乃至得道せん。善男子、これをこの経の第六の功徳不思議の力と名く。

*現代語訳

善男子よ。第六にこの教えの優れた功徳力とは、もし善男子、善女人が、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、この教えを受持し、読誦する者は、煩悩があったとしても、人々のために教えを説いて、煩悩と迷いを遠ざけ、一切の苦を断ち切ることを得させます。人々は、この人の教えを聞いて修行して、教えを得ること、教えの果を得ること、修行の道を得ること、仏・如来と同じであり差がありません。

譬えば、王子がまだ幼くても、王が国土を巡回していて不在だったり、または病気で倒れた場合などには、この王子に国事をまかせることがあるでしょう。王子は、この時、大王の命令に従って、国で定めた法律の通りに大臣や官僚、役人たちに指示を出し、正しくことを述べ伝えれば、国民一人一人がその重要なところにしたがって、大王が行う政治と同様の結果に成ります。この教えを保つ善男子・善女人も同じです。もしは仏の在世、もしは滅度の後に、この善男子が、まだ空の悟りによる大慈大悲の心にとどまっていなくても、この教えを説く仏の心を理解して、人々に説き弘め、人々が聞いて一心に修行したならば、煩悩を断ち切って除き、教えを得、教えによる結果を得、教えの道を得ることができます。善男子。これをこの教えの第六の功徳、不思議の力と名付けます。

*解説

「五種法師の行」の書写がなく、かわりに解説が入っています。この第六の功徳では、まだ自分自身が未熟であっても、仏法に従って教えを説けば、相手を教化できるということです。この教えは、まずは人様を成仏へと導きなさいという教えですから、その心で教えを説くことによって、人々は仏道実践を始めるということです。

●十功徳品-14 「六波羅蜜」     2014/4/12(土) 午後 11:41

●無量義経十功徳品第三 #14

○第八 如来、正に答う

第七の功徳 賞封不思議力

*訓読

善男子。第七にこの経の不可思議の功徳力とは、もし善男子・善女人、仏の在世、もしは滅度の後に於て、この経を聞くことを得て、歓喜し信楽し希有の心を生じ、受持し読誦し書写し解説し説の如く修行し、菩提心を発し、諸の善根を起し、大悲の意を興して、一切の苦悩の衆生を度せんと欲せば、未だ六波羅蜜を修行することを得ずといえども、六波羅蜜自然に在前し、即ちこの身に於て無生法忍を得、生死・煩悩一時に断壊して菩薩の第七の地に昇らん。

譬えば、健やかなる人の王の為に怨を除くに、怨既に滅しおわりなば王大に歓喜して、賞賜するに半国の封悉く以てこれを与えんが如く、持経の善男子・善女人も、またまた是の如し。諸の行人に於て最もこれ勇健なり。六度の法宝求めざるに自ら至ることを得たり。生死の怨敵自然に散壊し、無生忍の半仏国の宝を証し、封の賞あって安楽ならん。善男子、これをこの経の第七の功徳不思議の力と名く。

*現代語訳

善男子よ。第七にこの教えの優れた功徳力とは、もし善男子、善女人が、もしは仏の在世、もしは滅度の後において、この教えを聞くことを得て、歓喜し、信じ、感謝の心を起こし、受持し、読誦し、書写し、解説し、教えの様に修行し、悟りを求める心を起こし、様々な善根を起こし、大悲の心を興して、一切の苦悩する人々を救おうと願ったならば、まだ六波羅蜜を得ていなくても、六波羅蜜が自然にそなわり、即ち、この身において空の悟りを得、迷いや煩悩がたちまちの内に断ち切られ、菩薩の第七の境地である遠行地に昇ります。遠行地は、方便波羅蜜を完成させ、自他の間の差別をなくした境地です。

譬えれば、勇者が王のために敵を全て倒した時、王が大いに歓喜して、国の半分を褒美として与える様に、この教えを保つ善男子・善女人も同様のことが言えます。様々な修行をする人の中で、最も勇ましく健やかです。六波羅蜜の行を求めてはいなくても、自然に身についてきます。現象の変化による迷いも自然に消え去り、仏の悟りの半分である空の悟りを得ることができ、ほうびとして仏よりさらなる悟りに導かれ、安らかで楽しい境地になります。善男子よ。これをこの教えの第七の功徳、不思議の力と名付けます。

*解説

第七の功徳では、受持・読・誦・解説・書写という「五種法師の行」が揃います。この「五種法師の行」は、仏法を説く方法が示されています。受持とは、教えを聞いて同意して歓喜し、信じ、感謝の心を起こして、その教えをしっかりと保つことです。教えを受持し、行じることによって、この教えの第一の功徳を得ることができます。それは菩提心を起こし、善行を為す心を起こし、慈悲の心を起こし、衆生を救おうという心を起こすことであり、この第一の功徳を得て「五種法師の行」を為せば、なんと六波羅蜜を修行しようと努めなくても、自然に六波羅蜜を得ることが出来るといいます。

六波羅蜜とは、『般若経群』で説かれる菩薩の行のことで、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六行の完成のことを言います。

*用語の解説

○六波羅蜜(ろくはらみつ)
(梵)サット・パーラミター "sat paaramitaa"
空の智慧を慈悲の心で実践する菩薩の六つの行のことです。布施・持戒・忍辱の行を為し、それを続け(精進)、禅定に入ることによって智慧を得ます。空の智慧とは、「よってあるものに実体はない。実体がないので自他という差別・区別はなく自他一体である」という智慧です。自他一体について、最初は学んで知識として知ることになりますが、自他の区別なく布施をすることによって、自他一体の境地に近づいていきます。

”杙棔覆佞察
(梵)ダーナ "daana"
与えること、分かち合うことです。
自分、自分のものという執着を捨てて、自他一体の境地を得るために、自分を布施し、自分のものを布施します。「自分が他者に心身物品を与える」と想うのは、「自分」「他者」「心身物品」というものに執着していることですから、布施をする者、布施をされる者、布施されるものという想いさえも想いません。

∋戒(じかい)
(梵)シーラ "Siila"
戒を守ることです。
ルールがなければ、各自は自身の想いによって行動します。秩序を保ち、共に成仏を目指すためには、行動の基準を定め、僧伽の全員が同意して誓い、守ることが必要です。戒とは、律とは違って罰はありません。自らが誓い、自らが守り、もし破戒すれば懺悔します。持戒とは、自己中心的な想いを捨てて、全体に自分を合わせますから、自他一体の行です。

G辱(にんにく)
(梵)クシャーンティ "kSaanti"
忍耐のことです。
他者からの攻撃を受けても怒らず、褒められても浮かれることがなく、平常心を保ちます。自分と他者という分別があるから、嫉妬し、憎み、怨み、怒りという感情を起こします。自他一体の境地であれば、これらの感情は起こりません。自分の感情を観て、自分の感情をコントロールすることによって、自他一体の境地を目指します。

だ鎖福覆靴腓Δ犬鵝
(梵)ヴィーリヤ "viirya"
布施・持戒・忍辱の行を日々怠らず、頑張らずに実践することです。ただし、初期においても、禅定・智慧の行も実践することが必要です。最初は、布施や持戒や忍辱の行をし、その行を振り返って反省し、気づきを得るようにします。慣れてきたら、布施・持戒・忍辱の行をし、禅定によって智慧を得て、その智慧によって、布施・持戒・忍辱の行を為すという、螺旋階段を登って行くようにすべての行を完成へと進めていきます。

チ議蝓覆爾鵑犬腓Α
(梵)ディヤーナ "dhyaana"
心を集中して思惟し、さらには概念から離れた無分別の観法によって、自他を観察することです。初期においては、一日に少しの時間でも心を落ち着かせ、静かな時間を過ごすようにし、慣れてきたら自分を振り返り、反省し、自分を観察する時間を持ち、禅定へと進めていきます。禅定は、自己流では危険ですし、気づきを得られませんから、本格的な禅定を実践するのであれば、きちんとしたお寺や道場に行き、学ぶことが必要です。

γ匏邸覆舛─
(梵)プラジュニャー "prajNaa"
パーリ語のパンニャー "paJJaa" を音写して「般若」といい、意訳して「智慧」といいます。
真理を悟ることによって得ることの出来る心のはたらきのことで、最高の真理を悟ることによって、智慧が完成するといいます。智慧の完成のことを、「般若波羅蜜」といいます。

●十功徳品-15 「仏法を敬信する」     2014/4/15(火) 午後 2:01

●無量義経十功徳品第三 #15

○第八 如来、正に答う

第八の功徳 得忍不思議力

*訓読

善男子。第八にこの経の不可思議の功徳力とは、もし善男子・善女人、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、人あってよくこの経典を得たらん者は、敬信すること仏身を視たてまつるが如く等しくして異ることなからしめ、この経を愛楽し、受持し読誦し書写し頂戴し、法の如く奉行し、戒・忍を堅固にし、兼ねて檀度を行じ、深く慈悲を発して、この無上大乗無量義経を以て、広く人の為に説かん。

もし人先より来、すべて罪福あることを信ぜざる者には、この経を以てこれを示して、種種の方便を設け強て化して信ぜしめん。経の威力を以ての故に、其の人の信心を発し炊然として回することを得ん。信心既に発して勇猛精進するが故に、よくこの経の威徳勢力を得て、得道・得果せん。

この故に善男子・善女人、化を蒙る功徳を以ての故に、男子・女人即ちこの身に於て無生法忍を得、上地に至ることを得て、諸の菩薩と以て眷属と為りて、速かによく衆生を成就し、仏国土を浄め、久しからずして無上菩提を成ずることを得ん。善男子、これをこの経の第八の功徳不思議の力と名く。

*現代語訳

善男子。第八にこの教えの、優れた功徳力とは、もし善男子、善女人が、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、よくこの教えを得た者は、この教えを仏と同等にみて、敬い信じることでしょう。この教えを愛し、受持し、読誦し、書写し、頂戴し、教えの様に行い、持戒、忍辱をしっかりとし、兼ねて布施波羅蜜を行い、深く慈悲の心を起して、この大乗の無量義経を広く人のために説くことでしょう。

もし、ある人が、過去の業が、現在の罪や福の元になっていることを信じないならば、この教えによって、因果応報による罪・福を示し、色々な方便を使い、強く教化して信じさせます。教えの力によって、その人の信心を引き起こし、燃え立つ想いで生きて、転生することを得ます。信心をすでに起して、勇ましく力強く修行にはげむことによって、よくこの教えの、立派で徳が高く、勢いのある力を得て、修行の道を得、修行の果を得ます。

このために善男子・善女人、教化を受けた功徳によって、男性も女性もこの身において空の悟りを得、上の境地に至ることを得て、数々の菩薩たちの仲間となって、速やかによく人々の人格を完成させ、世界を浄め、近い将来に無上の悟りを得ます。善男子よ。これをこの教えの第八の功徳、不思議の力と名付けます。

*解説

ここには、教えを仏と同格として敬うことを勧めています。諸仏を敬うことは大切なことですが、仏教で重視するのは、法への敬信です。仏さまを朝夕に敬い、供養をすることは信仰心として尊いのでしょうが、仏教は仏への信心よりも、仏法への敬信を勧めます。仏法を学び実践することによって、成仏へと至るからです。このことは、法華経でも重視されます。

●十功徳品-16 「救済力」     2014/4/17(木) 午前 6:19

●無量義経十功徳品第三 #16

○第八 如来、正に答う

第九の功徳 抜済不思議力

*訓読

善男子。第九にこの経の不可思議の功徳力とは、もし善男子・善女人、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、この経を得ることあって歓喜踊躍し、未曾有なることを得て、受持し読誦し書写し供養し、広く衆人の為にこの経の義を分別し解説せん者は、即ち宿業の余罪重障一時に滅尽することを得、便ち清浄なることを得て、大弁を逮得し、次第に諸の波羅蜜を荘厳し、諸の三昧・首楞厳三昧を獲、大総持門に入り、勤精進力を得て速かに上地に越ゆることを得、善く分身散体して十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を抜済して悉く解脱せしめん。この故にこの経に此(かく)の如きの力います。善男子、これをこの経の第九の功徳不思議の力と名く。

*現代語訳

善男子。第九にこの教えの優れたの功徳力とは、もし善男子、善女人が、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、この教えを得ることが出来て、歓喜し、躍動し、未だかつてなかった程の感動を覚え、受持し、読誦し、書写し、供養し、広く人々のためにこの教えの教義を分類して解説する者は、即ち宿業の余りある罪、重い障害をたちどころに滅することを得、まっすぐに清浄なる身となります。大いなる話力を自分のものとし、次第に様々な修行を完成させていくことで輝きを増し、様々な三昧、菩薩における高度な三昧の首楞厳三昧を得、大いなる陀羅尼門に入り、勤めて精進をし、進んでいく力を得て、速やかに菩薩の境地に昇ることを得、よく分身・散体を十方の国土に顕し、一切の世界である三界、六道、二十五有の極度の苦しみにあえぐ衆生を救済して、ことごとく迷いを滅します。この教えには、この様な力があります。善男子よ。これをこの教えの第九の功徳、不思議の力と名付けます。

*解説

仏法に同意して歓喜をもって受持し、読誦し、広く人々のために解説し、書写し、仏法を供養したならば、六波羅蜜を完成させて清らかな身となります。たとえ真理を悟ったとしても、涅槃には入らず人々の教化に努めます。迷いの世界を輪廻する衆生の前に分身を現し、救済して迷いを滅します。この救済力の功徳は、かなり悟りに近い境地です。

*用語の解説

○首楞厳三昧(しゅりょうごんさんまい)
(梵)"zuuraGgamasamaadhi"
阿耨多羅三藐三菩提(最高の悟り)を得ても仏の位には入らず、一切衆生の救済を行うための三昧のことです。

○二十五有(にじゅうごう)

凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界三つに分けたものを、欲界・色界・無色界といい、それをさらに分けて二十五有といいます。

●十功徳品-17 「成仏」     2014/4/25(金) 午前 6:52

●無量義経十功徳品第三 #17

○第八 如来、正に答う

第十の功徳 登地不思議力

*訓読

善男子。第十にこの経の不可思議の功徳力とは、もし善男子・善女人、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、もしこの経を得て大歓喜を発し、希有の心を生じ、既に自ら受持し読誦し書写し供養し説の如く修行し、またよく広く在家出家の人を勧めて、受持し読誦し書写し供養し解説し、法の如く修行せしめん。既に余人をしてこの経を修行せしむる力の故に、得道・得果せんこと、皆この善男子・善女人の慈心をもって勤(ねんごろ)ろに化する力に由るが故に、この善男子・善女人は、即ちこの身に於て便ち無量の諸の陀羅尼門を逮得せん。凡夫地に於て、自然に初めの時によく無数阿僧祇の弘誓大願を発し、深く能く一切衆生を救わんことを発し、大悲を成就し、広く能く衆の苦を抜き、厚く善根を集めて一切を饒益せん。

しこうして法の沢(うるおい)を演べて洪(おおい)に枯涸(こかく)に潤おし、よく法の薬を以て諸の衆生に施し、一切を安楽し、漸見超登して法雲地に住せん。恩沢(おんたく)普く潤し慈被すること外なく、苦の衆生を摂して道跡に入らしめん。この故にこの人は、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得ん。善男子、これをこの経の第十の功徳不思議の力と名く。

*現代語訳

善男子。第九にこの教えの優れた功徳力とは、もし善男子、善女人、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、もしこの教えを得て大歓喜を発し、感謝の心を起こし、すでに自ら受持し、読誦し、書写し、供養し、説の如く修行し、またよく広く在家や出家の人に教えを説いて、受持、読誦、書写、供養、解説を勧め、教えに従って修行する様に導いたなら、他者を教化する力によって、教えの道を得、教えに依る果を得ること、皆、この善男子・善女人の慈心をもって、勤めて教化する力によって、この善男子・善女人は即ちこの身において、数多くの様々な陀羅尼門を得ます。凡人であっても、自然に初めから多くの大誓願を起こし、深く一切衆生を救う心を起こし、大悲を成就して、広くよく人々の苦を抜き、厚く善根を集めて一切の人々に利益を与えることでしょう。

水がすべてにいきわたり、涸れた土地を潤すように、病の人々に薬を施して治療するように、教えは人々に安らぎを与えます。徐々に世界を見る目が冴えてきて、次第に自己を高めて菩薩の最高の境地である十地(法雲地)の境地にとどまります。恩のある湖は、広く人々を潤し、慈しみの心は一切に及び、苦の人々を仏の道へと穏やかに導きます。このことから、この人は長い時間を待たずとも最高の悟りを得ることができます。善男子よ。これをこの教えの第十の功徳、不思議の力と名付けます。

*解説

自分だけでなく、他者にも五種法師の行を勧め、広く人々が実践したのであれば、この修行者の功徳は、最高のものです。それは、修行の目的である「成仏」であることがあかされています。

●十功徳品-18 「十功徳力の結び」     2014/4/29(火) 午後 3:46

●無量義経十功徳品第三 #18

○第八 十功徳力を結す

*訓読

「善男子。是の如き無上大乗無量義経は、極めて大威神の力ましまして、尊にして過上なし。能く諸の凡夫をして皆聖果を成じ、永く生死を離れて皆自在なることを得せしめたもう。

この故にこの経を無量義と名く。よく一切衆生をして、凡夫地に於て、諸の菩薩の無量の道牙を生起せしめ、功徳の樹をして欝茂扶蔬(うつむふそ)増長せしめたもう。この故にこの経を不可思議の功徳力となづく」

*現代語訳

善男子。このように大乗の無量義の教えは、極めて大きな力を持っており、この上もなく尊いものです。多くの凡人が、誰もが聖者と成り、現象に振り回されることがなくなり、誰もが心に障りなく、自由自在な境地を得ることができます。

このことから、この教えを無量義と名付けます。一切衆生の凡人の境地にある人に、菩薩の芽を起こさせ、育てて功徳の樹へと成長させます。このためにこの教えを不可思議の功徳力と名付けます。

●十功徳品-19 「説法品を領解する」     2014/4/29(火) 午後 4:08

●無量義経十功徳品第三 #19

○第九 菩薩の領解

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*訓読

時に大荘厳菩薩摩訶薩 及び 八万の菩薩摩訶薩、声を同じゅうして仏に白して言さく。

「世尊。仏の所説の如き甚深微妙無上大乗無量義経は、文理真正に、尊にして過上なし。三世の諸仏の共に守護したもう所、衆魔群道、得入することあることなく、一切の邪見生死に壊敗せられず」

*現代語訳

その時に大荘厳菩薩と八万の菩薩摩訶薩たちは、声を合わせて仏に申し上げました。

「世尊。仏の説かれた大乗の無量義の教えは、道理が正しく、この上もなく尊い内容です。過去・現在・未来の諸仏が共に守護された教えであり、あらゆる邪魔者や仏教以外の教えに影響されることなく、一切の誤った思想や現象に振り回され、破壊されることはありません」

●十功徳品-20 「十功徳力を領解する」     2014/4/29(火) 午後 4:59

●無量義経十功徳品第三 #20

○第九 菩薩の領解

⊇集徳力を領解する

*訓読

是の故にこの経は乃ち是の如き十の功徳不思議の力います。

*現代語訳

このような理由から、この教えには十種の功徳不思議の力があります。

*解説

大荘厳菩薩をはじめとする菩薩たちが、説法品の内容をよく理解し、また十の功徳不思議の力をよく理解しましたので、釈尊に理解したことを発表しました。仏が説き、理解したならばそのことを発表するという対話は重要です。このように対話することによって、学びは深まっていきます。

●十功徳品-21 「弟子たちの功徳」     2014/5/2(金) 午前 10:33

●無量義経十功徳品第三 #21

○第十 重ねて時会の得益を讃ず

*訓読

「大いに無量の一切衆生を饒益(にょうやく)し、一切の諸の菩薩摩訶薩をして各無量義三昧を得、或は百千陀羅尼門を得せしめ、或は菩薩の諸地・諸忍を得、或は縁覚・羅漢の四道果の証を得せしめたもう。世尊慈愍して快く我等が為に是の如き法を説いて、我をして大いに法利を獲せしめたもう。甚だ為れ奇特に未曾有也。世尊の慈恩実に報ずべきこと難し」

*現代語訳

大いに一切の人々に利益を与え、一切の多くの菩薩たちは、それぞれが無量義の三昧を得、あるいは多くの善を勧め悪を止める力を得、あるいは菩薩の様々な境地、様々な不動の心境を得、あるいは縁覚の果、声聞の四果の証を得ることができました。世尊は、慈しみ深く、快く私たちのためにこの様な深遠な教えを説いて下さり、大きな教えの利益を与えて下さいました。これは仏さまだけが持つ超人的な力であり、これまでにない程の大いなる体験です。世尊の慈悲と恩にお報いすることは難しいでしょう。

*解説

『無量義経』を聞いた人々の功徳を表しています。声聞や縁覚も功徳を得ているとあります。

●十功徳品-22 「この世界での供養」     2014/5/24(土) 午前 9:54

●無量義経十功徳品第三 #22

○第十一 瑞を現わして供養する

〆‥擇龍〕

*訓読

この語を作しおわりし、その時に三千大千世界六種に震動し、上空の中より、また種種の天華・天優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華を雨らし、また無数種種の天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らして、上空の中より旋転して来下し、仏及び諸の菩薩・声聞・大衆に供養す。天厨・天鉢器に天百味充満盈溢(よういつ)せる、色を見、香を聞(か)ぐに自然に飽足す。天幢・天幡・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して仏を歌歎す。

*現代語訳

この言葉を終えた時、この世界は感動して六種に震動し、上空より、様々な天の花をふらし、また多くの様々な天の香り、天の衣、天の首飾り、天の高価な宝石を上空よりふらして旋転して舞い降りて、仏と多くの菩薩たち、大衆を供養しました。天の皿には、この上もなく美味な、見るだけで香るだけで自然と満足できる天の食べ物が盛られ、立派な旗や幡、天蓋、様々な道具を仏の身のまわりに配し、天より音楽を奏でて、仏を讚歎しました。

*解説

天優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華とは、4種の蓮華のことです。分陀利華(プンダリーカ)というのが、白蓮華のことですから、妙法蓮華経のタイトルになっています。

 優鉢羅華=青蓮華
 鉢曇摩華=紅蓮華
 拘物頭華=黄蓮華
 分陀利華=白蓮華

●十功徳品-23 「他の世界での供養」     2014/5/24(土) 午前 9:59

●無量義経十功徳品第三 #23

○第十一 瑞を現わして供養する

他土東方の供養

*訓読

またまた六種に東方恒河沙等の諸仏の世界を震動す。また天華・天香・天衣・天瓔珞・天無価の宝を雨らし、天厨・天鉢器・天百味、色を見香を聞くに自然に飽足す。天幢・天幡・天軒蓋・天妙楽具処処に安置し、天の妓楽を作して、かの仏及び諸の菩薩・声聞・大衆を歌歎す。

*現代語訳

また、東方の諸仏の世界も震動しました。様々な天の花、天の香り、天の衣、天の首飾り、天の高価な宝石をふらして、天の皿には、この上もなく美味な、見るだけで香るだけで自然と満足できる天の食べ物が盛られており、立派な旗や幡、天蓋、様々な道具を仏の身のまわりに配し、天より音楽を奏でて、その世界の仏と菩薩衆と声聞衆、大衆を讚歎しました。南西北方、四維上下も同様にその世界の仏と菩薩衆と声聞衆、大衆を讚歎しました。

●十功徳品-24 「他の九方向世界での供養」     2014/5/24(土) 午前 10:09

●無量義経十功徳品第三 #24

○第十一 瑞を現わして供養する

B湘擽緤の供養

*訓読

南西北方四維上下もまたまた是の如し。

*現代語訳

東方以外の南西北方と四維上下の諸仏の世界も同様でした。

*解説

十方とは、東南西北の方向、北西・南西・南東・北東の方向、上下の方向を足した十方向のことです。

●十功徳品-25 「菩薩に託す」     2014/6/7(土) 午後 11:00

●無量義経十功徳品第三 #25

○第十二 菩薩等に付属す

*訓読

その時に仏、大荘厳菩薩摩訶薩 及び 八万の菩薩摩訶薩に告げて言わく。
「汝等、当にこの経に於て深く敬心を起し、法の如く修行し、広く一切を化して勤心に流布すべし。常に当に慇懃に昼夜守護して、諸の衆生をして各法利を獲せしむべし。汝等真にこれ大慈大悲なり。以て神通の願力を立てて、是の経を守護して疑滞せしむることなかれ。汝、当時に於て必ず広く閻浮提に行ぜしめ、一切衆生をして見聞し読誦し書写し供養することを得せしめよ。是れを以ての故に、また疾く汝等をして速かに阿耨多羅三藐三菩提を得せしめん」

*現代語訳

その時に仏は、大荘厳菩薩と八万の菩薩たちに告げました。
「皆さんは、この教えによって、深く敬いの心を起こし、教えの通りに修行し、広く人々を教化して、勤めてこの教えを広めて下さい。常に丁寧に昼夜に教えを守護して、多くの人々に教えの利益を与えてください。この教えを保ち、弘めることは大きな慈悲です。よって神通の願いを立てて、この教えを守護して、疑ったり滞らせてはいけません。皆さんは、今、広くこの世界の隅々まで教えを説き弘め、一切衆生が世界を正しく見る智慧を得、読誦し、書写し、供養することを得る様に導いてください。このことによってあなたは真っ直ぐに最高の悟りを得ることができます」

*解説

仏が大荘厳菩薩と多くの菩薩たちに、この教えを説き広めるようにと託すところです。ここで重要なのは、人々に受持・読誦・解説・書写するように導くことによって、導いた者が最上の悟りを得ることが出来るということです。菩薩は、他者を菩薩にすることによって、成仏に至るということです。

●十功徳品-26 「菩薩が弘経を引き受ける」     2014/6/7(土) 午後 11:13

●無量義経十功徳品第三 #26

○第十三 滅後弘経の仏勅を敬い受く

*訓読

この時に大荘厳菩薩摩訶薩、八万の菩薩摩訶薩と即ち座より起って仏所に来詣して、頭面に足を礼し遶ること百千匝して、即ちすすんで胡跪し、ともに声を同じゅうして仏に白して言さく。

「世尊。我等快く世尊の慈愍を蒙りぬ。我等が為にこの甚深微妙無上大乗無量義経を説きたもう。敬んで仏勅を受けて、如来の滅後に於て当に広く是の経典を流布せしめ、普く一切をして受持し読誦し書写し供養せしむべし。ただ願わくは憂慮を垂れたもうことなかれ。我等、当に願力を以て、普く一切衆生をして、この経を見聞し読誦し書写し供養することを得、この経の威神の福を得せしむべし」

*現代語訳

その時に大荘厳菩薩摩訶薩は、八万の菩薩たちと共に座より立って、仏の近くに歩み寄り、頭を深く下げて仏の御足に額をつけて礼拝し、その場を何度もまわって帰依の心を表しました。さらに仏に近づき、ひざまずき、声を合わせて仏に申し上げました。

「世尊。私たちは、世尊の慈悲の思いを頂き、喜びでいっぱいです。私たちのためにこの大乗の無量義の教えを説かれました。私たちは、世尊に敬意を表し、世尊のご命令を受けて、如来の滅後において広くこの教えを弘め、広く一切衆生が、受持し、読誦し、書写し、供養することを得るように導きます。ただ願わくは、ご心配なさらずご安心ください。私たちは、誓願の力をもって、広く一切衆生がこの教えを見聞し、読誦し、書写し、供養することを得、この教えの大いなる福を得るように導きます」

*解説

釈尊が菩薩たちに無量義経を広めることを託しましたので、菩薩たちがそれを喜んで受けました。

●十功徳品-end     2014/6/7(土) 午後 11:44

●無量義経十功徳品第三 #28 End

○第十五 経を聞いて受持する

*訓読

その時に大会皆大いに歓喜して、仏の為に礼を作し、受持して去りにき。

*現代語訳

その時に、この大会の人々は大いに歓喜して、仏に深く礼をし、無量義の教えを受持してグリドラクータ山を後にしました。

*解説

これで無量義経は終わりです。
無量義経をひと言でまとめれば、「菩薩よ。人々を菩薩にしなさい」ということになります。「菩薩よ。人々を成仏に導きなさい」と言った方がいいのかも知れません。菩薩とは、菩提心を起こした者のことです。菩提とは悟りを開くことですから、成仏と同じ意味です。菩薩が、真っ直ぐに成仏を目指すのであれば、一切衆生を成仏へと導きなさい、ということが無量義経で説かれました。

では、人々を成仏に導く方法は何かというと、無相によるといいます。無相とは、一切に特徴を観ないことです。一切に特徴を観ないということは、一切を平等に観ることです。差別することなく、区別することなく人々と関わることです。最も難しいのは、自他の分別を捨てることですので、六波羅蜜の行を行じ、智慧を得て慈悲喜捨の心を養うことが必要です。

無相とは、またの名を実相といいます。無相・実相は、無量義経においてもしっかりと説かれていますが、菩薩向けの教えですから、分からない方も多いと思います。私も最初読んだ時には、まったく意味不明でした。この無量義経をもっとかみ砕いて説いてあるのが法華経です。

今回で無量義経は終わりますが、この経典は法華経の開経としてとらえ、次回からの『妙法蓮華経』を本題として読み進めていきましょう。

ありがとうございました。

合掌

 

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