蓮の道 無量義経 (2010) 

2019.7.12

●無量義経・・・性相空寂     2010/12/21(火) 午後 7:56

やっと、法華三部経のあらましが、終わりましたので、 少しずつ内容の吟味に入っていきたいと思います。

まずは、性相空寂から。

 性相・・・心と身体。厳密に言えば性とは、本質的なもの、相は特徴のこと。

 空寂・・・空を悟った境地

法華経の諸法実相に通じる教義ですが、同義ではありません。

ここでは、一切のものの空に焦点が当てられており、

一切のものの空性を知る事に依る安穏の境地のことを言っています。

般若心経の「照見五蘊皆空、度一切苦厄」と同義だと思います。

一切が空であると悟る事に依って、安穏の境地に入るということです。

経典では、性相空寂ということを念頭に置き、無大、無小、無生、無滅、

非住、非動、不進、不退、なお虚空の如く二法あることなしと観察しなさい、と言います。

この大小、生滅、住動、進退の8つの否定については、般若心経のところで詳しく述べた通りです。

つまり、三解脱門の瞑想による、結論です。

 そのものは空である。

 空なので無相である。

 無相なので無願である。

言いかえれば、

 そのものには、実体はない。

 実体がないので、認識がおこらない。

 認識が出来ないので、執着がおこらない。

大小、生滅、住動、進退は、ものが有るからそういう認識に至る。

よって、有ると見なければ認識に至らず、全てはスペースになる。

●無量義経・・・無量義修学の順序     2010/12/21(火) 午後 8:02

無量義修学のポイント

★菩薩が真っ直ぐに寄り道をせずに最上の悟りを得る方法

 \相空寂
 二法あることなし
 衆生の姿の観察・・・六道輪廻
 の愍の心、大慈悲心、救抜
 グ貔攴法に入れ 生住異滅 四相の始末
 η闇阿暴擦擦此⊃型靴棒弧任
 Ы粟犬虜性欲に入る
 ╂欲無量・説法無量、説法無量・義無量
 無量義は一法より生ず 一法=無相=実相
 抜苦与楽

\相空寂
 すべてのものには実体がない、実体がないことによって認識することはなく、
 認識しないから執着がなく、執着がないから安穏の境地に入る事が出来ます。
 そのものに特徴を見なければ、大小の違いはありません。
 「これは大きい」
 と判断する時、その判断の基準はどこにあるのでしょう?  
 何らかの基準がなければ、大・小とか、清い・汚い、高い・低い、美しい・見にくいなどという
 判断は不可能です。
 「これは大きい」という時、何らかの特徴を、観察者がそのものに見ているのです。
 
 生滅。住動。進退。
 これらの観察も、観察者がそのものに何らかの特徴を見ています。
 また、ここに取り上げられている言葉は、あることの両極にあるものであり、
 その両極を否定する事によって、一切の執着から解放させています。
 詳しくは、般若心経をご参考にどうぞ。

二法あることなし
 二法がないということは、一法しかない、ということです。
 観察者は、形ある物もないものも、分別してものを見る様な思考回路を持っています。
 世界を見れば、陸、海、空と分別し、陸であれば、山、動物、植物、石、土などと分別し、
 植物であれば、松、桜、バラ、パンジーなどと分別します。
 そして、分別に伴い、そのものの名称を記憶しています。
 しかし、それは、認識する事によって生じた結果であり、
 ものに実体がなければ認識はおこらず、名称はなく、分別は有りません。
 つまり、すべては一つになります。
 そうすれば、一切の執着は消え去るのです。
 大きいとか小さいと言う認識は、無意識的にそのものを実体視することであり、
 その認識を消すことによって、分別を作らないことが重要です。

衆生の姿の観察・・・六道輪廻
 しかし、空・無相・無願の境地は、非常に高く、衆生の思考にはありません。
 修行を積んだ者でも、
 「これは聖なるものだ」、「これは俗なるものだ」だと分別し、
 「これは智慧を得る行為だ」、「これは智慧を失う行為だ」と分別し、
 結果的には、仏道修行に滞りがおこり、諸々の悪業を作ることとなり、
 六道輪廻することになります。
 修行中の者でも分別するのですから、衆生は言うに及ばず、六道をさまよい、
 諸々の苦毒を受けて、非常に長い間、輪廻から解放されることはありません。
 
の愍の心、大慈悲心、救抜
 菩薩は、しっかりと衆生の思考、感情、行動を観察して下さい。
 どれほど、実体をみること、認識すること、分別すること、執着することが、
 悪の果報を引くのかをよく観て下さい。
 そして、その衆生を哀れだと思うのであれば、大慈悲心を起して、救いきることを欲して下さい。
 
グ貔攴法に入れ 生住異滅 四相の始末
 ここで、もう一度、諸法を観察するための深い瞑想に入って下さい。
 そうすれば、すべてのものが、生住異滅を繰り返していることが分かります。
 あるものは悪として生じ、あるものは善として生じる。
 住異滅も、悪ともなり、善ともなります。

η闇阿暴擦擦此⊃型靴棒弧任
 しかも、その変化は、瞬間瞬間に起こるものであり、また即時に生住異滅が起こります。 

Ы粟犬虜性欲に入る
 世界のあらゆるものの生住異滅が分かったならば、衆生の心を観て下さい。
 あらゆるものの生住異滅が、衆生の心にも起こっています。
 観察のポイントは、「機根」「性質」「欲望」です。
 世界中のあらゆるものが、生住異滅するのと同様に、衆生に心も多様に変化しています。
 まさに、地獄・餓鬼・畜生といった根性欲の持ち主もいます。
 機根とは、教えを受ける力です。
 ほとんどの者は、心がコロコロ変わりますが、有るものは、徐々に機根を高めています。
 性質も、最初は、暴れん坊で手がつけられず、怠けもので、ルール無視だった者でも
 徐々に落ち着き、他者とも調和がとれる様になれるでしょう。
 欲望にしても、最初は、自己中心的な者が、徐々に他者の利益を求める様になるでしょう。
 そんな根性欲の持ち主もいます。

╂欲無量・説法無量、説法無量・義無量
 根性欲は、人それぞれです。
 よって、その人に応じて説法が必要になります。
 そうすれば説法の数は、人の数ほどに無量になります。
 説法が無量ということは、説法の意味内容も当然ながら無量です。
 
無量義は一法より生ず 一法=無相=実相
 しかし、無量の意味内容も、一法から生じています。
 一法とは、分別しない捉え方であり、無相です。
 無相とは、特徴を否定する言葉ですので、認識しないことをいいます。
 一切を認識しないことが、実相だということです。
 このことは、般若心経での重要な修行である三解脱門の瞑想を体験しなければ
 理解できないかも知れませんが、一切のものは、切り離され、区別されて存在するものではなく
 統合し調和した存在だということです。

抜苦与楽
 衆生は、自身の思考回路の大きな欠点である分別・執着に気づいていません。
 そのことを悟った菩薩の慈悲は明らかであり、衆生の苦を見事に抜く事が出来ます。

この無量義を修行するものは、必ず、最上の悟りを得ることが可能です。

合掌

●無量義経・・・他者を讚歎しよう!     2010/12/23(木) 午前 0:32

徳行品。

この章では、お釈迦さまは、一言も話しません。
ただ、これから始まる説法会の様子を表しています。

お釈迦さまは、何も話さないのですが、非常に内容のある章です。

.蝓璽澄爾蓮∈能蕕鵬饐譴帽圓、皆が挨拶するのを受けること。
 私もある会のリーダーをやっていますが、徳行品の真似をして、
 いつも最初に会場に行き、メンバーを迎える様にしています。
 リーダーが遅れれば、皆が心配するし、本人も焦りますので
 時間前に会に参加することは重要でしょうね。

▲瓮鵐弌爾蓮必ず挨拶をする。
 挨拶は人間関係の第一歩です。
 人間関係が苦手な人は、挨拶行を実行することをお勧めします。
 きちんとリーダーの所に行き、足を揃え礼をする癖をつける習慣は、
 社会生活において、必ず役に立つでしょう。

C膣屬鳰歎する。
 直接、言葉に出してはいませんが、無量義経作者は、
 説法会に集っている人々を大いに讚歎しています。
 その人の善いところをクローズ・アップし、徳を讃えているのです。
 私たちの場合はどうでしょう?
 講習会などがあり、開演まで時間が有った時、
 参加している一人一人の個性を観察し、徳を讃えているでしょうか?

ぅ蝓璽澄爾鳰歎する。
 ここでは、非常に徳の高い大菩薩の大荘厳菩薩が、お釈迦さまの完全なる徳と
 衆生を救済する行を讃嘆しています。
 もちろん、口に出し、皆にも分かる様に細かく丁寧に讚歎します。
 何でもそうだと思うのですが、ダンスにしろ、スポーツにしろ、最初はリーダーの姿を
 心に焼き付け、リーダーを真似ることから始めます。
 大荘厳菩薩は、偉大なる手本であるお釈迦さまのことを讚歎し、
 皆にイメージ付けをしているのです。

合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序     2010/12/23(木) 午前 5:29

●無量義修学のポイント

★菩薩が真っ直ぐに寄り道をせずに最上の悟りを得る方法

 \相空寂
 二法あることなし
 衆生の姿の観察・・・六道輪廻
 の愍の心、大慈悲心、救抜
 グ貔攴法に入れ 生住異滅 四相の始末
 η闇阿暴擦擦此⊃型靴棒弧任
 Ы粟犬虜性欲に入る
 ╂欲無量・説法無量、説法無量・義無量
 無量義は一法より生ず 一法=無相=実相
 抜苦与楽

\相空寂
 すべてのものには実体がなく、実体がないことによって認識することがなく、
 認識しないから執着がなく、執着がないから安穏の境地に入る事が出来ます。
 そのものに特徴を見なければ、大小の違いはありません。
 「これは大きい」
 と判断する時、その判断の基準はどこにあるのでしょう?  
 何らかの基準がなければ、大・小とか、清い・汚い、高い・低い、美しい・醜いなどという
 判断は不可能です。
 「これは大きい」という時、何らかの特徴を、観察者がそのものに見ているのです。
 つまり、その人用の物差しを持っています。
 
 生滅。住動。進退。
 これらの観察も、観察者がそのものに何らかの特徴を見ています。
 また、ここに取り上げられている言葉は、あることの両極にあるものであり、
 その両極を否定する事によって、一切の執着から解放させています。
 つまり、中観です。
 詳しくは、般若心経をご参考にどうぞ。

二法あることなし
 二法がないということは、一法しかない、ということです。
 観察者は、形ある物もないものも、分別してものを見る様な思考回路を持っています。
 世界を見れば、陸、海、空と分別し、陸であれば、山、動物、植物、石、土などと分別し、
 植物であれば、松、桜、バラ、パンジーなどと分別します。
 そして、分別に伴い、そのものの名称を記憶しています。
 しかし、それは、認識する事によって生じた結果であり、
 ものに実体がなければ認識はおこらず、名称はなく、分別は有りません。
 つまり、すべては一つになります。
 そうすれば、一切の執着は消え去るのです。
 大きいとか小さいと言う認識は、無意識的にそのものを実体視することであり、
 その認識を消すことによって、分別を作らないことが重要です。

衆生の姿の観察・・・六道輪廻
 しかし、空・無相・無願の境地は、非常に高く、衆生の思考にはありません。
 修行を積んだ者でも、
 「これは聖なるものだ」、「これは俗なるものだ」だと分別し、
 「これは智慧を得る行為だ」、「これは智慧を失う行為だ」と分別し、
 結果的には、仏道修行に滞りがおこり、諸々の悪業を作ることとなり、
 六道輪廻することになります。
 修行中の者でも分別するのですから、衆生は言うに及ばず、六道をさまよい、
 諸々の苦毒を受けて、非常に長い間、輪廻から解放されることはありません。
 
の愍の心、大慈悲心、救抜
 菩薩は、しっかりと衆生の思考、感情、行動を観察して下さい。
 どれほど、実体をみること、認識すること、分別すること、執着することが、
 悪の果報を引くのかをよく観て下さい。
 そして、その衆生を哀れだと思うのであれば、大慈悲心を起して、救いきることを欲して下さい。
 
グ貔攴法に入れ 生住異滅 四相の始末
 ここで、もう一度、諸法を観察するための深い瞑想に入って下さい。
 そうすれば、すべてのものが、生住異滅を繰り返していることが分かります。
 あるものは悪として生じ、あるものは善として生じる。
 住異滅も、悪ともなり、善ともなります。

η闇阿暴擦擦此⊃型靴棒弧任
 しかも、その変化は、瞬間瞬間に起こるものであり、また即時に生住異滅が起こります。 

Ы粟犬虜性欲に入る
 世界のあらゆるものの生住異滅が分かったならば、衆生の心を観て下さい。
 あらゆるものの生住異滅が、衆生の心にも起こっています。
 観察のポイントは、「機根」「性質」「欲望」です。
 世界中のあらゆるものが、生住異滅するのと同様に、衆生に心も多様に変化しています。
 まさに、地獄・餓鬼・畜生といった根性欲の持ち主もいます。
 機根とは、教えを受ける力です。
 ほとんどの者は、心がコロコロ変わりますが、有るものは、徐々に機根を高めています。
 性質も、最初は、暴れん坊で手がつけられず、怠けもので、ルール無視だった者でも
 徐々に落ち着き、他者とも調和がとれる様になれるでしょう。
 欲望にしても、最初は、自己中心的な者が、徐々に他者の利益を求める様になるでしょう。
 そんな根性欲の持ち主もいます。

╂欲無量・説法無量、説法無量・義無量
 根性欲は、人それぞれです。
 よって、その人に応じて説法が必要になります。
 そうすれば説法の数は、人の数ほどに無量になります。
 説法が無量ということは、説法の意味内容も当然ながら無量です。
 
無量義は一法より生ず 一法=無相=実相
 しかし、無量の意味内容も、一法から生じています。
 一法とは、分別しない捉え方であり、無相です。
 無相とは、特徴を否定する言葉ですので、認識しないことをいいます。
 一切を認識しないことが、実相だということです。
 このことは、般若心経での重要な修行である三解脱門の瞑想を体験しなければ
 理解できないかも知れませんが、一切のものは、切り離され、区別されて存在するものではなく
 統合し調和した存在だということです。

抜苦与楽
 衆生は、自身の思考回路の大きな欠点である分別・執着に気づいていません。
 そのことを悟った菩薩の慈悲は明らかであり、衆生の苦を見事に抜く事が出来ます。

この無量義を修行するものは、必ず、最上の悟りを得ることが可能です。

合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序-2     2010/12/23(木) 午前 7:11

もう一度、無量義経の「菩薩が真っ直ぐに最上の教えを得る方法」を
学んでみましょう。
今回は、前回より、少し詳しく解説いたします。

,泙気飽貔攴法は、自ら、本・来・今、性相空寂にして、
 無大・無小、無生・無滅、非住・非動、不進・不退、
 なお虚空の如く二法あることなしと観察すべし。

 修行者は、第一段階では、世界の観察を十分に行いなさい、と教えられています。
 ここで、難しいのが、性相空寂という言葉です。
 「すべてのものには実体がなく、実体がないことによって認識することがなく、
  認識しないから執着がなく、執着がないから安穏の境地に入る事が出来る」
 と、私は解釈しました。
 世間では逆のことをやっています。
 あらゆる物に名称をつけ、そのもの=名称+知識・観念・イメージを記憶し、
 それらの記憶に依って、あらゆるものを認識し、分別し、執着しています。
 よって、混沌とした日々が展開しています。

 大自然の中で、性相空寂の観察をしてみましょう。
 海でもいいし、山でもいいし、空気の美味しい、出来る限り人里離れた所で
 地球と向き合ってみましょう。
 あらゆるものが空である事が直感で分かってきます。
 名称や知識など、人間社会をスムーズに生きていくための道具であり
 大自然には、そんなものは無用です。
 
 空=そのものに実体がないこと=執着しないこと

 そのものに実体がないということは、そのものに執着出来ないことを表しています。
 そのものは、変化しますので、執着の対象になどならないのです。
 
 海は大きいのでしょうか? 小さいのでしょうか?
 その答えは、何とも言えない、ということです。
 なぜなら、基準を定めていません。
 海は大きい! などと言う人は、湖や池と比べて大きいと言っているのでしょう。
 でも、宇宙に比べれば、小さなものです。
 大きいとか小さい、速いとか遅い、美しいとか醜いなどというものには基準が必要です。
 大自然を観れば、そこには基準がありませんから、無大・無小だということが分かります。

 生じているのか、滅しているのか?
 無生・無滅、不生・不滅、非生・非滅は、空の代名詞でもあります。
 簡単に言えば、リンゴが何の因縁関係もなしに、いきなり目の前に現れることがない様に
 その単体のみで、生じたり、滅したりすることはないと言うことです。
 大きいと言う時に、小さいものを想定している様に、ものが生じたり、滅したりするときにも
 縁起によって起こっています。
 縁起は、空性のものにしか生じませんし、他のものがなければ生じません。

 世間一般では、世間をこの様に捉えているのではないでしょうか?

'まさに一切諸法は、自ら、本・来・今、あらゆるものに名前が有り、特徴が有る、と観る。
  よって、すべての物を認識することが出来、分別が出来、執着が起こる。
  分別に依ってものの価値が異なるため、より高価なもの、便利なものを独占し
  自分のものとすることによって、私欲を太らせる。
  特徴を認識する習慣があるため、大・小、美・醜、高価・低価などに価値を見出し、
  価値を生じる物と滅する物、とどまる者と動く者、進む物と退く者とを区別し、差別する。

 以上が一般人でしょう。
 自分の利益中心になるのが、人間の性なのです。
 第一段階の、性相空寂の観察は非常に重要です。
 利益中心に働いていた自分の観念を共生に向けることは、
 一日、二日で達成できることではありません。
 自分の価値観を変えるため、執着や分別に依る観方をしている自分に
 まず、気づくことが大切です。

合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序-3      2010/12/23(木) 午後 8:57

⊇粟犬了僂隆兒 ΑΑο仔士慍

 諸々の衆生は、虚妄にこれは此、これは彼、これは得、これは失と横計して、
 不善のこころを起こし、諸々の悪業を造って六道輪廻し、諸々の苦毒を受けて
 非常に長い間、輪廻から出る事が出来ません。

〜先にも触れましたが、そのものに我を観ることにより、認識し、分別し、
 そして執着に至る心理は、真理に逆らって、これはこちら側、あれはあちら側、
 これは得だ、あれは損だと、損得勘定が働き、不善のこころを起こしてしまい、
 結果的に悪業となり、来世も苦の六道を輪廻する結果になります。
 悪業に依る転生は、地獄・餓鬼・畜生に落ちる事が多く、
 日々苦悩し、非常に長い間、輪廻から出る事が出来ません。

これは此、これは彼、これは得、これは失
・・・「これは俗なるものだ」、「これは聖なるものだ」、と分別し、
「これは智慧を得る行為だ」、「これは智慧を失う行為だ」と分別することも
いいますが、これらは、修行者の立場です。
ここでは、一般人のことを表しました。

  六道・・・地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・天上・人

バラモン教では、人界や天上界に転生することを目的としましたが、
仏教では、六道から離れ、涅槃に入ることを目的としています。

●無量義経・・・無量義修学の順序-4     2010/12/23(木) 午後 10:22

○小乗の六界

大乗の六界を説明する前に、まず、小乗の六界を説明することにします。
大乗と小乗の六界では、かなり意味が異なるからです。

小乗仏教においては、煩悩があって輪廻すれば、六道に転生し、
煩悩を滅すれば解脱できるとします。

小乗の六界(六道)には、二つの意味があります。
一つ目は、その世界のことを指し、
二つ目は、その世界の住民のことを指します。
例えば、地獄とは、地獄という世界の事であり、
地獄という世界に住む住民のことです。

六界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、
という六つの世界のことですが、
これらの世界は死後の世界であり、
死者の世界ではありません。

今世にて死んで、次の世界に転生するまでの間が
いわゆる死者の世界です。
仏教では、中有とか中陰といいます。
四十九日が中有の期間であり、この期間に次の転生先が決まるといいます。
この思想が中国を経て、日本に渡り、中国と日本の民間宗教と融合して
中有の世界は変貌しました。
ここでは詳細は省きますが
死出の山や三途の河があったり、賽ノ河原で幼くて亡くなった者たちが
少しでも功徳を積むために石積みをして塔を作ったり、
(仏塔を作る事は功徳である、という思想があるので)
七日毎に裁判があり、裁判官の一人が閻魔大王であったり、
閻魔大王は、死者の生前の行いを映す事の可能な
不思議な鏡を持っていたり…

これらの話は、善因善果、悪因悪果という仏教の基本を
一般民衆に分かりやすくするために
それまで親しんできた死後のイメージを
取り込んだ事によって成立したものだと思えます。
これから、お話しする地獄とか餓鬼などの十界も
一般民衆が分かりやすいようにした結果、
成立したものだといえます。

|蝋

地獄とは、生前に、煩悩にまみれ、悪い行いをしたものが、
その罪を償うために落ちる世界です。
借金地獄とか、地獄で仏ということわざ、別府の地獄めぐり、
という様に一般的にも、よく知れ渡っている言葉であり、
鬼という獄卒がいる所、針の山や大きな釜があって人を責める所、
悪い事をした人が死後落ちる所、
という知識も多くの人が持っています。

キリスト教や他の宗教にも地獄はありますが、
日本での地獄のイメージは、仏教の地獄の様です。
特に地獄草子などの絵画によるものは、
多くの人々に強烈な印象を与え、
悪い事をしたら地獄に落ちるよ、という言葉は、
子供たちを叱る時の定番でした。

一説によれば、死後、中有を経ることなく
直に地獄に落ちるといいます。
つまり、中有の期間に行われるという
次の転生を決める裁判を受けることもなく
死んだら、地獄に直行するのです。
地獄の世界は、人間世界である閻浮提(えんぶだい)の
地中深くにあるとされる地下の牢獄のことで、
熱系統の地獄と寒系統の地獄の二系列があります。
熱系統の地獄を苦しみの軽い方から紹介すると
等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻地獄(無間地獄)の
八つの地獄があり、八大熱地獄と呼ばれます。
寒系統の地獄を苦しみの軽い方から紹介すると
あぶだ地獄、にらぶた地獄、あただ地獄 、かかば地獄、
ここば地獄、うばら地獄、はどま地獄 、まかはどま地獄の
八つの地獄があり、八大寒地獄と呼ばれます。
八大寒地獄についての記述は少なく
地獄といえば、八大熱地獄が有名です。
八大熱地獄は、非常に暑い場所であり、
飲食の対象となるものはなく、
獄卒である鬼が、金棒を持って衆生を追いかけまわし
針の山、金属が煮えたぎる釜、大きな岩などによって
衆生に最悪の苦を与えます。

等活地獄は、いたずらに殺生を行った者が落ちる地獄です。
人だけでなく、虫や魚でも殺生をして、後悔・反省のない者は、
この地獄に落ちます。
この地獄では、衆生どうしが、
ばらまかれた武器で激しく殺し合いをし、
または、巨体で怪力の獄卒たちが
衆生を見つけると手にした金棒で
身体中が粉々になる程に叩きつぶします。
あっと言う間に、衆生や鬼たちに殺されるのですが
死んで責め苦が終わってしまうのではなく、
冷たくて心地よい風が吹いてくると
衆生は、元の身に等しく生きかえり、
再び、殺し合いや鬼の責め苦にあいます。
この生死を途方もない期間味わうわけです。
等しく活き返るので、等活地獄の名があるのですが、
この、「死んでも復活して苦しみが続く」という現象は
他の地獄にも共通の現象です。

黒縄地獄は、殺生に重ねて盗みを行った者が落ちる地獄です。
この地獄では、鬼に捕まえられた衆生は
身体に墨縄で縦横に線を入れられ、
その線にそって、熱く熱したのこぎりで
切り刻まれます。

衆合地獄とは、殺生・盗み・邪淫を行った者が落ちる地獄です。
この地獄の特徴は、男女の欲情が刺激されることです。
この地獄には、鉄で出来た山々があり、
その山の草木は、葉が全て薄い金属で出来ています。
つまり、剃刀の様な葉で茂った山なのです。
その山の頂上より、
その者の理想とする容姿を持った異性がその者を誘い、
その者は、剃刀の様な葉で身体がズタズタになりながらも
異性の元へと急ぎます。
やっとの思いで山頂に行くとその異性は山の麓へと降りており、
そこで、また、その者を誘います。
これを繰り返すのですが、時に鉄の山が四方から移動し
衆生を押しつぶしてしまいます。

叫喚地獄は、殺生・盗み・邪淫・飲酒を行った者が落ちる地獄です。
熱湯の大釜で煮られたり、猛火の鉄の部屋で獄卒に追い回されたり、
熱せられて赤く化した鉄の床を這いずりまわります。
飲酒の罪が深い者は、無理矢理口を開けられ、
どろどろに煮えた液体を流し込まれます。

大叫喚地獄は、殺生・盗み・邪淫・飲酒・うそをついた者が落ちる地獄です。
叫喚地獄の責め苦を10倍にしたものだと経典には書かれています。
焦熱地獄は、殺生・盗み・邪淫・飲酒・うそ、
そして、邪道な教えを人に説き、迷わせている者が落ちる地獄です。
名の示す様に、この地獄の熱さは半端ではありません。
赤白く熱せられた鉄板の上で、ある者は切り刻まれ、
また、ある者は串刺しにされて、まるで鉄板焼きの様に焼かれます。
大焦熱地獄は、これまでの罪に加えて
尼僧や童女などを強姦した者が落ちる地獄です。
焦熱地獄よりもさらに熱い炎で焼き焦がされ、
炎の山は、数千メートルにも昇ると言われ、
衆生の苦しみの声は、
この地獄の外にまで響くと言われています。

阿鼻地獄(無間地獄)は、
地獄中最大の苦しみを受ける場所であり、
これまでの罪に加えて、
父母殺害、仏教修行者の殺害をした者が落ちる地獄です。
まず、この地獄に落ちる者は死ぬ前より苦しみにまみれ、
死んだ直後より、真っ逆さまに
ひたすら地獄へと落ちて行きます。
約二千年間、真っ暗闇を落ち続け、
落ちた阿鼻地獄は、まさに極苦の世界です。
これまでの地獄だと、責め苦が続くといっても
多少の間がありましたが、
この阿鼻地獄においては、
一瞬の間もなく、責め苦が与えられます。
よって、無間地獄という別名があります。
阿鼻地獄の獄卒も、これまでの地獄とは比べものにならない程に
巨大で強力で、しかも、醜悪であり、凶暴です。
その獄卒が、衆生を追いまわし、片っ端に舌を抜き、
身体中に針を打ち、針の山へと追いこみます。

環境は激しい炎に覆われ、恐ろしい獄卒がおり、
死んでも直ぐに活き返る事は
どの地獄にも共通しています。
地獄と浄土の描写は、他の四界に比べて繊細です。
これほどの苦しみを受ける地獄に行かない様に
生前は、善行に励みなさいというメッセージを
強く感じます。

合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序-5     2010/12/24(金) 午前 7:34

○小乗の六界

餓鬼

地獄の次に苦しみの重い場所が餓鬼界です。
生前において強欲で嫉妬深く、贅沢で、
物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が
死んで生まれ変わる世界とされています。
育ち盛りで食べ物をガツガツ食べる子供のことを餓鬼といい、
強欲な人のことを餓鬼のようだと罵ったりしますので
一般的にも理解されている言葉だと言えます。
餓鬼は、常に飢えと乾きに苦しみ、
飲食物は手に取ると火に変わってしまうので、
口に入れることが出来ず、
決して満たされることがないとされます。
極端な飢餓状態の人間と同じように、
痩せ細って腹部のみが丸く膨れ上がった姿をしています。

餓鬼には、三タイプがあります。
無財餓鬼・少財餓鬼・多財餓鬼の三種類です。
一つ目のタイプは、無財餓鬼です。
名が示す様に、一切のものを入手できない餓鬼です。
飲食しようとするものは炎となり、
常に貪欲に飢えている状態です。
ただし、無財餓鬼でも、
施餓鬼供養されたものだけは、
食べることが出来るといいます。
二つ目のタイプは、少財餓鬼です。
ごく僅かなものだけを入手出来ます。
飲食もかなり限定されたものだけを食べることが出来ます。
それらは、全て不浄のものばかりで、
人間の糞尿や嘔吐物、屍などしか食べることが出来ません。
三つ目のタイプは、多財餓鬼です。
富裕餓鬼ともいいます。
多くのものを入手出来ますが、
決して満足することが出来ず、
いつも、欲求不満状態で苦しみます。
食事も多くのものを飲食できますが、
食べても、食べても、
もっと美味しいものはないかと欲を張り、
どんなに贅沢をしても、尽きることのない欲望にとりつかれます。

餓鬼の世界は、地獄世界の近くと
人間世界、そして天界です。
ただし、天界に住む餓鬼は、
多財餓鬼のみです。

C楡

畜生とは、人間以外の生物の世界のことで
三悪道といって地獄・餓鬼とともに
六界では、下層の世界であり、
苦しみの段階でいえは、
餓鬼の次にあたります。
一般的には、畜生というと人に飼われている動物を指しますが、
仏教では、虫、魚、鳥、爬虫類、哺乳類などの全ての動物を指します。
畜生は、本能のみで行動し、知恵がなく、向上心がありません。
食べることと寝ること、そして性交に対する欲望が強く、
親兄弟でさえ食欲や性欲の対象にしてしまいます。
特に弱肉強食の関係の苦しみが深く、
肉食のものは、常に他者を殺さなければ、生きていけない宿命があり、
弱い動物は、常に殺される不安と恐怖で生きています。

畜生界は、人間と同じ世界にあります。
人間と共に生きる畜生も多く、
飼われて自由を奪われていたり、
人間の食料のために殺される畜生も多くいます。
牛・馬・豚・鶏・犬・羊は、六畜と呼ばれ、
人間と近い場所で暮らしています。
この六畜は、近い前世で人間だったという説があり、
人間の生まれ変わりなので、殺害する事は問題があるとしますが、
実際は、人間の食料のために殺されています。
衆生が死後畜生界に落ちる理由は、
愚痴や不平が多く、感謝報謝のないことだとされています。
畜生界は、人間界と同じ世界にありますが、
その大元の生息地は、海だとされています。

そね

修羅とは、阿修羅の略であり、闘争の世界のことです。
阿修羅とは、元々天上界の神の一人でしたが、
自分の正義心を満足させるために、
天上界で最も力のある帝釈天に争いを求めました。
負けても負けても帝釈天に戦いを求め続け、
天より落とされて海底に住むようになりました。
神の称号を奪われ、魔神と呼ばれる様になっても、
尚も争いを求めました。
いつしか、戦いの目的も忘れ、
勝つために戦う様になった哀れな者です。



人とは私たちのことであり、
人界とは、私たちの住むこの世界のことですので、
特に説明の必要はないとは思います。

ε珪

天とは、天界のことであり、
天に住む神々や天人のことをいいます。
六道の中では、快楽の世界であり、苦がなく、
寿命も長く、苦しみに喘ぐ衆生にとっては、まさしく天国です。
六道を説いた時、六道からの解脱ではなく、
天界への転生を望み、目的にする者が多かったようです。
しかし、天界も六道の一つであり、迷いの世界です。
天界における寿命が尽きれば、他の世界に転生します。
天界が、快楽の世界であるため、死を迎える恐怖は、
他の世界とは比べものにならないとのことです。
毎日を何不自由なく過ごし、
欲しいものは意のままに手に入れていただけに、
全てが不自由で、苦に満ちた地獄の世界や、
欲しいものが手に入らずいつも欲求不満状態の餓鬼の世界や、
お互いを食料とする弱肉強食の中にいつもある畜生の世界などに堕ちる事は、
想像しただけでこの上もない恐怖・苦しみなのでしょう。
よって、六道の頂上である天界を目指す事は、的外れであり、
六道からの解脱を目的にするのが、正しい選択です。
天界に住む神々といえば、
梵天、帝釈天、大黒天、持国天、
増長天、広目天、多聞天、歓喜天などが有名ですが、
いずれも、元々は、バラモン教の神たちです。
バラモン教では、梵天はブラフマン、帝釈天はインドラ、
大黒天はシヴァ、歓喜天はガネーシャと呼ばれていました。
これらの、元バラモン教の神々は、
仏教の中では、仏教と仏教徒を守護する者となっています。
これらの天界の神々や天人たちは、
悟りを得ておらず、迷いの衆生です。
煩悩が残っており、上記の様に天界の寿命が尽きれば、
地獄・餓鬼・畜生という悪道にさえ堕ちる可能性のある者たちです。

以上が小乗仏教の六道です。
小乗仏教では、煩悩のある者が六道を輪廻し、
煩悩を滅した者が解脱し、涅槃に入るとします。
この六道(六界)は、それぞれが別の場所にあり、
地獄の衆生は、その寿命が尽きるまで地獄にあり、
死んで、別の世界に転生するまでは、
地獄から出る事は出来ません。
地獄の衆生は、地中深くにあるという地獄の世界に住み、
餓鬼の衆生は、地獄の付近にあるという餓鬼界か、人間界か、天上界に住み、
畜生の衆生は、人間界と同居し、
修羅の衆生は、海中深くにあるという修羅の世界に住み、
人は、閻浮提という世界に住み、
天の神々と衆生は、須弥山という世界の中央にある高山の
中腹から上の世界と天空の世界に住んでいます。
この様に6つの世界は、別の世界ですので
自由に行き来できないのです。

合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序-6     2010/12/24(金) 午前 8:28

●大乗仏教の十界

小乗仏教の輪廻は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という
六界輪廻であり、そのぞれの場所は、
地獄であれば地下、天上であれば須弥山・及びその上空、
人間・畜生は閻浮提などという様にそれぞれの住む場所が決まっています。

大乗仏教の輪廻では、六界輪廻に加わり、
四聖界という輪廻から外れた境界があるとしています。
四聖界とは、声聞・縁覚・菩薩・仏です。

大乗仏教の世界観は、
衆生は、心が十界に趣くとしています。
つまり、小乗においては、煩悩があれば六道であり、
煩悩を滅すれば解脱と言う世界観でしたが、
それは、肉体ごと、六道を輪廻する発想でした。

しかし、大乗では、肉体はこの娑婆世界にあり、
心のみが転生すると言う思想に変わっています。

小乗仏教では、煩悩のある・なしが、転生先を決定していました。
煩悩が強い順に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に生まれ変わったのです。
大乗では、煩悩のあるなしで、転生先が決まるのではなく
十界ともに現代世の心しだいで、転生先が決定するとしています。

心しだいとは、業のことを指し、心から起こる行動を指します。
すなわち、身・口・意の聖・善・悪の行によって
死後の転生先が決まるというのが、大乗の世界観です。

ただし、これは、法華経以前の世界観であり、
法華経では、十界互具といって、
世界観というより、精神世界観になります。
十界というようになったのも、法華経を解説した天台宗からであり、
法華経以前では、六道輪廻の思想、声聞・縁覚という小乗、
そして菩薩という大乗と菩薩の果である仏がバラバラに説かれていて
一貫したものではありませんでした。

しかし、バラバラであっても十界は説かれており、
法華経の十界互具を把握するためには必要な知識ですので
法華経以前の十界の説明を簡単にしておきます。
なお、法華経の十界互具については、次の項目で説明しています。

○地獄・餓鬼・畜生

地獄・餓鬼・畜生とは、三悪道ともいわれ、
十界において、低い次元の精神状態であるとされています。
三悪道に落ちる業は、十悪です。

 重度に十悪を行じた者は地獄へ落ち、
 中度に十悪を行じた者は餓鬼に落ち、
 軽度に十悪を行じた者は畜生に落ちます。

十悪とは、身・口・意の三業がつくる10種の罪悪のことで、
殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪淫・妄語・綺語(きご)・
悪口(あっく)・両舌・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見です。

身業とは、殺生・偸盗・邪淫のことで、
殺生は「生きものを殺すこと」、偸盗は「他者のものを盗むこと」、
邪淫は「邪まな性行為のことで、不倫・売春・買春・強姦・男色など」
のことをいいます。

口業とは、妄語・綺語・悪口・両舌のことで、
妄語は「うそをつくこと」、綺語は「真実に反した綺麗ごと」、
悪口は「相手を実際より悪くいうこと、罵詈雑言」、
両舌は「二枚舌」のことをいいます。

意業とは、貪欲・瞋恚・邪見のことで、
貪欲は「欲望にまかせて執着し貪ること」、
瞋恚は「他者を激しく憎み、怒ること」、
邪見は「心性が愚かで、一切の道理にくらいこと、愚痴」
のことをいいます。
特に意業が三悪道に落ちる決め手となり、
瞋恚盛んな者は地獄界へ、
貪欲の者は餓鬼界へ、
邪見(愚痴)多き者は畜生界へと落ちます。

○修羅

修羅の世界は、悪とも善ともとられています。
悪ととれば、地獄・餓鬼・畜生と合わせて四悪道と呼ばれ、
善ととれば、人・天と合わせて三善道と呼ばれます。
元々、阿修羅は天の神でした。
しかし、帝釈天に争いを仕掛け、負けたために
魔神へと格下げされてしまいました。
阿修羅が帝釈天に戦いを挑んだ理由は、
阿修羅の娘を帝釈天が無理やりに犯し、
宮殿へと連れ去ったからです。

それまでは、阿修羅と帝釈天の仲は良かったのですが
娘を犯された怒りによって、阿修羅は帝釈天に宣戦布告し、
負けて天界から落とされ、海中深くの宮殿に住むようになりました。
神の称号はとられ、魔神と呼ばれ、恐れられる存在となりました。
負けても、負けても、怒りはやまず、
尚も争いを求めるため戦闘神とも呼ばれる様になりました。

阿修羅の戦いの目的は、正義心であり、
地獄・餓鬼・畜生が争うのとは次元が違います。
地獄・餓鬼・畜生は、自分の私利私欲のため、
物を欲しがり、他者の物を自分の物にするために戦いますが
阿修羅は、心の満足感のために戦います。
正義感、達成感、優越感、嫉妬などのために
争う世界が修羅です。

死後、修羅界に趣く者は、
生前に五常を保つ者だと言われています。
五常とは、仁・義・礼・智・信のことで
元々は儒教の教義です。

 仁とは、「人を思いやること」、
 義とは、「悪を恥じて正しい行いを守ること」、
 礼とは、「人間関係を保つために守ること」、
 智とは、「学問に励むこと」、
 信とは、「約束を守り、誠実であること」です。

五常の内容を読むと立派な人格者がイメージされ、
何故、これほどの人格者が人より低い位置に置かれているのか
疑問に思われることでしょう。
修羅界に趣く者をもう少し詳しく述べることにします。
天台智擇遼琺纏澳僂僚夙鷽瓦砲海陵佑憤貶犬あります。
「外に仁義礼智信を揚げ、下品の善心を起す」です。
つまり、修羅界に行く者の五常は、
善心のレベルが低いようです。
形だけの五常、善の伴わない五常、または低い善の五常なのでしょう。
やくざや暴力団、暴走族などのドラマなどを観ていると
仁義を尊び、上への礼を心がけ、
団や族についての学問にはげみ
仲間内の信用を大切にしています。
もっとも、やくざなどの仁義は、
元の意味の仁義とは異なると思いますが
やくざなどの世界では、非常にレベルは低いながらも、
仁義礼智信が実行されている様です。
軍隊なども五常は実行されています。
修羅界においては、低いレベルの五常が実践されている様です。
この様に低いながらも善によって五常を実践しているから
三善道に入れられる事もあるし、
形だけの五常であり、争う心の醜さを取り上げて
四悪道に入れることもあるのでしょう。

○人

死後、人に転生する業は、三帰依と五戒です。
三帰依とは、仏と、仏の説く法と、仏教徒(仲間)を
信じて心の支えとし、頼りにすることで、
仏教を信仰するという意味になります。
つまり、仏教徒になるということです。
五戒とは、在家仏教徒が守るべき五つの戒めの事で
不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒の
五つをいいます。

 不殺生戒とは、生き物を殺してはいけない、という戒め、
 不偸盗戒とは、他人のものを盗んではいけない、という戒め、
 不邪淫戒とは、不倫や異常な性交をしてはいけない、という戒め、
 不妄語戒とは、うそをついてはいけない、という戒め、
 不飲酒戒とは、酒を飲んではいけない、という戒めです。

人間は、理性によって、ある程度五戒を守っていますが
何かの縁で理性がなくなり、欲望がむき出しになると
これらの戒めを破ってしまいます。
人は、虫や魚や動物たちを平気で殺します。
蚊やハエがいれば、叩いて潰し、
ゴキブリがいれば、コックローチを吹きかけ、
釣りという趣味のために魚を殺し、
楽しみのために獣や鳥を鉄砲で撃ち殺します。
ゲームの世界では、モンスターだけでなく、
人を殺すものまであります。
多くの人々が対戦ゲームに夢中になるのは、
人間の本能には、殺生をするというプログラムがあるからでしょう。
もし、法律が通用しない世界になり、
自分がその世界の独裁者になったとしたら、
多くの人は、五戒を守らないでしょう。
自分に逆らう者、都合の悪い者は、片っ端に処刑し、
自分の欲しいものは、他者の持ちモノであっても
無理やりにでも強奪するでしょう。
自分の好みの異性であれば、さらってでも手に入れ、
他者の妻や夫であってもおかまいなく手を出し、
人をだまし、欺き、毎日宴会を繰り返すことでしょう。
殺生、盗み、邪淫、うそ、飲酒は、理性によって抑えられるのですが
その意思が弱まると犯してしまいがちな罪です。
それゆえに仏教では、初心の仏教徒に対しても五戒を守る様に教え、
五戒を守らなければ、悪道に落ちると教えるのでしょう。

○天

天界は、三つに分かれています。
欲界の天界、色界の天界、そして無色界の天界です。
つまり、三界のそれぞれに天界があります。
欲界とは、淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた衆生の住む処であり
天界・人間界から地獄界までを含んでいます。
欲界の天界とは、六欲天といい、
淫欲と食欲のある神々や神の使いが住んでいます。
この世界には、帝釈天、四天王などがいます。
色界とは、淫欲と食欲の2つの欲望は超越したけれど
事物・現象に捉われた神々と使いが住んでいます。
この世界には、釈尊伝説でも有名な梵天がいます。
無色界とは、淫欲と食欲という欲もなく、
物質に捉われる事もなくなった神々が住んでいます。
肉体はなく、精神だけが存在するといいます。
六欲天に生まれ変わる業は、
三帰依のうちに十善を保つことです。
十善とは、先の十悪を行わないことをいいます。
色界と無色界の天界に生まれ変わる業は、
有漏の座禅を修することです。
有漏の座禅とは、三界を離れようとして
次第に上へと進む座禅方法です。

以上が大乗の六界それぞれの果報を引く業の説明です。
次に声聞・縁覚・菩薩・仏という四聖を説明します。

Ю縞

声聞とは、本来は、釈尊の教えを直に聴き、
学んだ修行僧のことをいいました。
つまり、釈尊の声を聞いた弟子たちのことを声聞といいます。
有名な釈尊の十大弟子たちは、みな声聞です。
釈尊入滅後は、出家し、主に四諦の法門を学習し、
自己の解脱のみを求める学習主義の修行僧を声聞と呼ぶようになりました。
声聞に生まれ変わる業は、
多くの戒を持ち、苦・空・無常・無我を学ぶことです。

┗鏗

縁覚とは、縁に依って悟りを得ようとする体験主義の修行僧のことです。
師を持たず、独自で悟りを開こうとする者のことで、
十二因縁を観じる修行方法をとる修行者を縁覚といい、
飛花落葉などの外縁を観じて覚ったものを独覚と呼んで区分しています。
過去世において、声聞だった者が転生して縁覚になるといいます。
縁覚に生まれ変わる業は、
多くの戒を持ち、苦・空・無常・無我を縁によって観じることです。

菩薩
菩薩に生まれ変わる業は、
三聚浄戒(菩薩戒)を守り、
六波羅蜜を実践し、
四弘誓願の菩提心を発すことです。


仏に生まれ変わる業は、
菩薩行に邁進することです。

以上が法華経以前の十界の説明です。
読んで頂いてお分かりの様に
法華経以前では、前世の因業の果報が
十界のそれぞれの世界であると解釈しており、
十界のそれぞれは差別して存在している、としています。
仏性についてみれば、
小乗教や大乗の初期の教えには、明確な説はなく、
ただ、菩薩の発心を仏性である、としています。
菩薩のみに説かれたとする、いわゆる別教では、
二乗である声聞・縁覚には、仏性はないと説き、
法華経以前の円教でも、別教の影響を受けて、
二乗の仏性を論じないとしています。
円教とは、完成された仏教のことなのですが、
法華経以前の円教は、一切衆生の仏性については説いておらず
まだまだ、不完全な教えだった様です。
つまり、法華経以前の教えでは、
十界はバラバラに存在しており、
菩薩のみが成仏できると説いているのです。
この説が法華経では、
十界はバラバラに存在しているのではない、
菩薩のみではなく一切衆生が成仏できる、
という風に大きく変わります。
しかも、一見関係のない様に思える
十界の有り方と一切衆生の成仏とが、
見事に一つの説で説明されます。
その見事な説が、十界互具です。

合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序-7     2010/12/24(金) 午前 8:50

●十界互具

さて、いよいよ法華経の十界互具を説明いたします。
無量義経のところではなく、妙法蓮華経のところで説明すべきかとも思いましたが、
無量義経にも、十界互具思想が有るようなのでここで説明する事にします。

まず、法華経の十界なのですが、
法華経の十界は、死後転生する場所ではなく、
精神世界を十に分類したものです。
つまり、身体や環境を指すのではなく、
その人の心のことをいいます。

|蝋の精神世界

精神界の地獄とは、心の状態の中では最悪の状態です。
苦しみを次々と受け、怒り、悲しみ、恨み、妬み、憎しみ、
欲求不満、猜疑心、暗鬼などの
マイナス感情とマイナス思考が心の中を支配し、
どっぷりと浸かった状態です。
自分が苦しみの状態であることを十分に認識しています。
地獄の状態に陥った精神は、
なかなか、他の心の状態に移ることができません。
苦しみに満ちて、心が乱れきってしまえば、狂った状態に変化し、
さらに落ちれば破壊された状態になります。
そうなると、苦しみが苦しみを呼び、
心の中の暗黒面がどんどん広がることになります。

餓鬼の精神世界

精神界の餓鬼とは、強欲であり、私利私欲が強く、
自己中心で、貪欲な心の状態です。
常にガツガツとしており、決して足ることを知らず、
欲求不満によって苦しみあえぎます。
人間に限らず、全ての生命体は、
欲しいものを手に入れるために行動します。
食物、生活の場所、子孫を残すための異性などを求めることは、
基本的な欲求であり、生きるため、子孫繁栄のために必要な欲求です。
それは餓鬼とはいいません。
餓鬼とは、欲求にこだわり、捉われた心の状態をいいます。
菩薩の修行に六波羅蜜があります。
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六種の実践項目ですが、
この中でも布施の修行は非常に重要です。
布施とは、他者への施しですが、餓鬼は布施の心が欠落し、
他者のものまで自分のものにしようとする強欲者ですので、
解脱するまでに時間がかかります。

C楡犬寮鎖誓こ

精神界の畜生とは、愚かであり、知恵がなく、
本能の趣くままに行動する状態です。
畜生の状態にある者は、
苦しみの中にあるという自覚は少ない様ですが、
知恵がないために仏縁に気付かず、学ばず、
畜生界から脱しようという志も持てないため、
人間界へさえもなかなか転生できません。
それゆえに、地獄・餓鬼と同列の苦しみの世界だとされ、
この三つの世界は三悪道といわれます。

そね紊寮鎖誓こ

精神界の修羅とは、自分の正しさ、優位性、
自我意識の満足のために他者と闘争する心の状態をいいます。
自分が正しいという主張が強く、その立場を守るためには、
他者が自分の非を口にすることも許しません。
自分の方が上だ、自分の方が強い、自分の方が価値がある、
自分の方が選ばれている、自分の方が美人だ、
という風に他者との比較がベースにあり、
優越感や自分の正しさのために戦い続けます。
「私は正しい」、「私の家族は正しい」、「私の考え方は正しい」、
「私の先生は正しい」、「私が正しいと思っているのだから正しい」、
「私の学校の方が上だ」、「私の学力の方が上だ」、
「私の体力の方が上だ」、「私の国の方が上だ」、
「私の民族の方が勝れている」・・・、
という様な観念の持ち主です。

タ佑寮鎖誓こ

精神界の人とは、知恵があり、
自分をある程度コントロールできる心の状態です。
地獄に落ちる様な罪を起こすことはなく、
餓鬼の様に欲望の虜になることはなく、
畜生の様に本能のままに生きることもなく、
修羅の様に自我にこだわり他者と争うこともありません。
たとえ、地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界に入ったとしても、
知恵によって反省をし、その世界に長居することがありません。
人間らしく生きている人です。
外部からの情報の蓄積を知識というのに対し、
自己の内部から生まれるものを知恵といいます。
また、知恵と智慧とはレベルが違います。
知恵は人間界を生きるためのものですが、
智慧とは、真理を悟るものだからです。
人間は、知恵をもって向上し、六道から離れ、
修行によって智慧を磨きます。

ε靴寮鎖誓こ

精神界の天とは、快楽を得た状態をいいます。
成功感、達成感、満足感、幸せ感などですが、
それらは無限に続くのではなく、有限です。

Ю縞垢寮鎖誓こ

精神界の声聞とは、学習に依って知恵・智慧を磨こうとする境界です。
大学などの学生や、セミナーなどの受講者、
読書などによって学ぼうとする精神状態です。

┗鏗个寮鎖誓こ

精神界の縁覚とは、体験に依って道を究めようとする境界です。
学問による智慧を求めるのではなく、自然界を観察し、直観にて縁起を悟った者たちです。
また、空手道、柔道、合気道、剣道などの武術、野球、サッカーなどのスポーツ、
瞑想、三昧、禅定などの体験によって、道を究めようとする精神状態をも
現在では、縁覚の精神世界と捉える事が出来ます。
最初は、修羅の境地に依って、武道、スポーツを始める人は多いのでしょうが、
その道の達人ともなれば、直観に依る心技体の鍛錬を重要視します。
その精神状態の方々を縁覚といいます。

菩薩の精神世界

精神状態の菩薩とは、自他の区別を捨て、
他者に布施をする状態です。
バスや列車でお年寄りや妊婦さんに席を譲ったり、
困っている人がいたら手を貸してあげたり、
他者に親切行をする人の精神は、菩薩の状態です。

仏の精神世界

仏陀とは、最上の悟りを開いた者のことです。
智慧と慈悲を持つ覚者です。

 慈とは、慈愛のことで、他者の幸せを望む心をいい、
 悲とは、抜苦のことで、他者の苦しみを除いてあげたいと望む心をいい、
 喜とは、随喜のことで、他者の幸せを共に喜ぶ心をいい、
 捨とは、浄捨のことで、相手に対する平静で落ち着いた心のことです。

この慈悲喜捨のことを四無量心といい、仏陀は四無量心を完成された方です。

つづく

合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序-8     2010/12/24(金) 午前 11:27

●十界互具

以上が精神的境界である十界です。
ここで、もう一度、十界を簡潔にまとめてみます。

 地獄…苦悩に心を支配された世界。
 餓鬼…物欲に心を支配された世界。 
 畜生…本能的欲求に心を支配された世界。
 修羅…自我が強く、闘争本能に心を支配された世界。
 人間…理性によって、苦悩・物欲・本能・闘争心をある程度コントロールしている世界。
 天上…喜び、楽しみに満ちた世界。
 声聞…学習主義の聖者。
 縁覚…体験主義の聖者。
 菩薩…救済主義の聖者。
 仏…完全なる悟りを得た境地。

人の精神には、以上の十種の精神的境界があり、
この境界をベースにして、
それぞれの境界に十種の境地がある、
とするのが、法華経の十界互具です。
つまり、地獄の境界の人にも
餓鬼・畜生・修羅・人・天・
声聞・縁覚・菩薩・仏という境地が互具し、
仏の境界の人にも
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・
声聞・縁覚・菩薩という境地が互具しています。
ここで重要なのは、具です。
具とは、「具わる」の意味ですので、
まだ発動する前の状態です。
縁に依って、具わっている心の一つが選ばれ、
その状態の心が起こり、
行動し、環境を創る事に成ります。
小乗の六道や大乗の十界は、「心生」ですが、
法華経の十界は、「心具」であり、
さらに、十界互具です。
ここが、大いに異なります。

十界互具は、十界×十界=百界 です。
百法界ともいいます。
一切衆生には、この百法界が心具しており、
縁に依って、その中の一つの世界が心を支配します。

ピアノの鍵盤を喩えにしましょう。
一番低い音を出す鍵盤から、一番高い音を出す鍵盤まで、
88の鍵盤がずらりと並んでいます。
言いかえると、ピアノは88の鍵盤を具えています。
鍵盤は具わっていますが、それだけでは音は出ません。
誰かが、鍵盤を叩かなければ音は出ません。
その時、奏者が低い音を出したければ、
低い音を出す鍵盤を叩き、
高い音を出したければ、高い音を出す鍵盤を叩けばいいのです。
88の音色をピアノは出す事が出来ます。
なぜなら、ピアノに88の鍵盤が具わっているからです。

衆生は、縁によって、100の世界の一つが心を支配します。
なぜなら、衆生には、100の世界が具わっているからです。
もし、人の心に仏が具わっていなければ、仏にはなれないし、
人の心に地獄が具わっていなければ、地獄に落ちません。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の話を引用しましょう。
泥棒ばかりを繰り返していたカンダタが、
一度だけ、蜘蛛を殺さずに助けたことがあったため、
極楽にいたお釈迦様が、地獄に落ちたカンダタに
一本の蜘蛛の糸を垂らして地獄から極楽へと
引き上げようとします。
カンダタは蜘蛛の糸に気付いて、糸をつたって
上へ上へと上って行きました。
しかし、途中で下を見下ろすと数多くの罪人が
自分に続いて上ってくるのが見えました。
ただでさえ細い蜘蛛の糸なのに、
こんなに沢山の人が上れば切れてしまう、
そう考えたカンダタは、
「この蜘蛛の糸は俺様のものだ!
 勝手に上って来るんじゃねえ!降りろ!」
とみんなに怒鳴りつけました。
すると、次の瞬間カンダタの手元から蜘蛛の糸は切れ、
カンダタは、再び地獄へと堕ちて行きました。
泥棒ばかりを繰り返していたカンダタの心は、
地獄に落ちていたのでしょう。
しかし、蜘蛛を助ける瞬間は、菩薩の境地でした。
その果報として、極楽に向かう道が開いたのでしょう。
蜘蛛の糸を見てカンダタは、有頂天になったと思います。
これで、俺様は助かる、と。
しかし、連なって来る罪人たちを見て、
自分だけが助かればいいという無慈悲な心に支配されたため、
カンダタは、再び地獄界へ堕ちました。
この短編を読む限りでは、カンダタの心は地獄界にあったようです。
ベースが地獄です。
そのベースとなる地獄界にも九界が互具していますので、
カンダタは蜘蛛を助ける瞬間は菩薩に成り、
蜘蛛の糸を見た時は、天上界になり、
他の罪人たちを見て、地獄になったのでしょう。
つまり、カンダタの心に100界が具わっていたから
心が色々な状態に変化するのです。

この様に一つの境界に他の9つの境地があるのです。
縁によって、100界の中の一つの世界が心を支配します。
この様に私たちの心には、100界が具わっています。
ここで、最も重要なことは、地獄から菩薩までの九界の精神全てに
仏の境地が具わっている事です。
よって、一切衆生は縁に依って成仏出来るのです。
これまでの大乗の十界では、声聞・縁覚の二乗は
成仏できないとされていましたが、
法華経によって、目出度くも成仏できるという教えとなりました。
また、地獄から縁覚・仏までの九界の精神全てに
菩薩の境地も具わっていますので、
地獄で罪人を責めまくる獄卒も菩薩と呼ばれる可能性があり、
声聞・縁覚の二乗も菩薩として修行できる可能性を持ったのです。
また、仏や菩薩も他の九界を具えていますので
地獄・餓鬼・畜生の気持ちがよく分かり、
どう接すればいいのかも理解できるのです。
しかし、100界がそこにあって、仏性がそこにあると分かっていても、
具わっているだけで、発動しなければ意味がありません。

合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序-9     2010/12/24(金) 午後 0:10

の愍の心、大慈悲心、救抜

衆生は、空・無相・無願の心が覚れていません。
実体がないものに実体を観て、それを認識し、分別して、執着します。
欲望が強ければ、餓鬼道へと落ち、本能の趣くままに行動すれば畜生に落ち、
そのものに嫌悪感を持てば地獄界へと落ちてしまいます。

菩薩は、しっかりと衆生の思考、感情、行動を観察して下さい。
どれほど、実体をみること、認識すること、分別すること、執着することが、
悪の果報を引くのかをよく観て下さい。
そして、その衆生を哀れだと思うのであれば、大慈悲心を起して、
救いきることを欲して下さい。

グ貔攴法に入れ 生住異滅 四相の始末

ここで、もう一度、諸法を観察するための深い瞑想に入って下さい。
前回は無我の観察でしたが、今回は無常の観察をしましょう。
世界のものが、その様な変化をしているのかを、観察してみましょう。

そうすれば、すべてのものが、生住異滅を繰り返していることが分かります。
 
 生・・・すべては縁起に依って生じていることの観察
 住・・・すべては縁起に依って住していることの観察
 異・・・すべては縁起に依って辺にしていることの観察
 滅・・・すべては縁起に依って滅していることの観察

すべての生住異滅は、縁起です。
悪を成すのも、善を成すのも、すべては縁次第です。

まったく同じように育った双子がいるとしましょう。
姿形、性格はほぼ同様とします。
7歳の頃、二人は両親を失い、
その内、A君は、金持ちの善人の家に引き取られ、
B君は、貧乏人の悪党に引き取られました。
20年後のA君、B君の、姿形、性格は果たして同じでしょうか?

η闇阿暴擦擦此⊃型靴棒弧任

生住異滅は、即時にも起こります。
ジャンバル・ジャンはひもじい思いをしている子供たちの為に
一斤のパンを盗んで捕まりました。
出来ごころというものは、誰にでもあると思います。
縁に依り、悪の生住異滅が展開し、善の生住異滅が展開するのです。
   
合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序-10     2010/12/24(金) 午後 1:15

Ы粟犬虜性欲に入る

世界のあらゆるものの生住異滅が分かったならば、よく衆生の心を観て下さい。
観察のポイントは、「機根」「性質」「欲望」です。

 ゞ気┐鮗ける力は、様々な縁を受けるため毎日が一定ではない。
   教えを無性に学びたいという気持ちが起こる時も有るし、
   その気持ちが持続する場合もあれば、単にマンネリ化する場合もある。
   嫌気がさして怠け心が起こる時もあるし、やがて止めてしまう時も来る。
 ∪質は、個人の思考・感情・行動のパターンであるため、
   個人に依って千差万別の違いを持っています。
 M瀚召睚儔修垢襦6肪爾妨世┐弌¬椶砲Δ弔詈にランキングをつけ、
   欲しいものと、どうでもいいもの、避けたいものを避けている。
   しかも、生住異滅のパターンが複雑です。
   それは、恋愛を観ればよく理解できるでしょう。

六道のパターン、根性欲のパターンに合わせて説法をすれば、説法は無量です。
説法が無量であれば、説法の内容も無量です。

例えば、(地獄+修羅)という世界に住み、機根が高く、冷血で頭脳的であり、
組織のボスを狙っている人を、仏道に導くにはどうすればいいのでしょう?

例えば、(畜生+餓鬼)という世界に住み、機根などないに等しく、
怠けもので、ホームレスのその日暮らし、欲も別にない・・という人を
仏道に導くにはどうすればいいのでしょう?

それをよくよく観察します。

合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序-11     2010/12/24(金) 午後 3:45

無量義は一法より生ず 一法=無相=実相

 無量義とは一法より生ず。其の一法とは即ち無相也。 
 是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを名づけて実相とす。

 無量である教えの内容は、一つの教えより生じます。
 その一法とは、即ち無相です。
 無相とは、縁起するものとしないものの両方の相を超えたものであり、
 簡単に言えば、相とは特徴のことのないものですので、
 「特徴のないもの」のことを無相といいます。
 つまり、空そのもののことを差しています。
 この様な無相は、相がなく、相にならず、
 相にならないことによって相がないことを、
 名付けて実相といいます。

人の数だけ、十界互具のありかたがあり、根性欲がありますので、
世界人口でいえば、16億通りの教え方、教えの意味・内容があることになります。
しかも、その個人個人は日々、根性欲に変化が有るのですから教えの数は
まさしく、無量としか言いようがありません。

だけど、安心して下さい。
無量の教えも、元をたどれば、ただ一つの教えなのです。
それが、「空」という真理です。
空とは、実体のないことであり、実体がないから無相です。
すなわち、特徴が有りません。特徴がないので認識に至らず、
空に依って認識に至らない観方を名付けて、「ありのままの世界」といいます。

しかし・・・

もし、瞑想に依り、空の悟りを得たとして、さらに衆生の輪廻の姿、
根性欲のありかたを観察できたとしても、方法論が分かりませんね。
借金地獄でしかも能天気なお調子者とどの様に関わればいいのでしょう?

その答えは、無量義経には書かれていませんが、法華経で明らかになります。
答えは、「方便力」です。
方便力については、法華経で勉強いたしましょう。

合掌

●無量義経・・・無量義修学の順序-12     2010/12/24(金) 午後 4:21

抜苦与楽

 衆生は、自身の思考回路の大きな欠点である分別・執着に気づいていません。
 そのことを悟った菩薩の慈悲は明らかであり、衆生の苦を見事に抜く事が出来ます。
 この無量義を修行するものは、必ず、最上の悟りを得ることが可能です。

無量義経の内容は、般若経にそっくりですが、
重大な違いが一つあります。
それは、智慧の完成である空の智慧を以って、
他者に仏法を説き広めなさいとおっしゃています。
これは、まことに高度な修行と言えます。
なぜなら、智慧の完成である空の智慧とは、阿耨多羅三藐三菩提と同義であり、
最上の悟りであり、成仏の教えだからです。

最上の智慧に依って、他者に関わり、その人の分別・執着を見抜いて
慈悲をもって取り組めばきっと相手の方は救われることでしょう。
この無量義を修行するものは、必ず、最上の悟りを得ることが可能です。

合掌

●無量義経・・・四十余年未顕真実     2010/12/24(金) 午後 5:48

●四十余年には未だ真実を顕わさず

 善男子、我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、
 阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得たり。
 仏眼を以って一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。
 所以は云何、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。
 性欲不同なれば種種に法を説きき。
 種種に法を説くこと方便力を以ってす。
 四十余年には未だ真実を顕わさず。
 是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。
 
 善男子よ。
 私は昔、ブッダガヤの菩提樹の下に端坐すること六年にして、
 最上の悟りを得ました。
 悟りの眼で一切の現象を観察したところ、その悟りの内容を衆生に説くのは、
 かえって善くない事だと感じました。
 なぜならば、諸々の衆生の根性欲が、人それぞれに異なることを見極めたためです。
 多くの人々にとっては、悟りの内容はあまりにも深遠であり、
 まったく興味を持たないでしょうし、また、多くの人々は自分の好みの道のみにしか
 興味を示さず、悟りの道には見向きもしないかも知れません。
 説くべきか、説かざるべきか、私は深く思惟し、人々を救う道を選びました。
 衆生の根性欲が異なるのならば、その人その人に応じた教えを説く事が必要であり、
 私は、相手に応じた教えを方便力によって説くことにしました。
 悟りを開いて以来、四十余年が過ぎましたが、未だに方便の教えを説いており、
 真実を顕していません。そのため、衆生の得た修行の結果には差があり、
 まっすぐに最高の悟りを得る事はありませんでした。

最上の悟りの内容を得た上での衆生の救いは、
大いに期待が出来ると思います。
まるで、大学の数学教授が幼稚園児に足し算を教える様なものでしょうか?

しかし、お釈迦さまが覚ったのは、「空寂」でした。
足し算であれば、生活に使うし、幼児も興味を引きますが、空だと意味不明で
誰も相手にしないであろうことが、予想されました。
この最上の悟りである空を皆に説くべきか、説かざるべきかを
お釈迦さまは大いに悩みました。

空とは、「実体がないこと」と、仮に説明していますが、
実は言葉で説明できる内容ではないのです。
「実体がないこと」ということは、「執着がないこと」であり、
言葉では説明できないのです。
なぜなら、言葉にしてしまえば、必ず何かしらの執着を生んでしまいます。
言葉を使わずに、最高の真理を説くことなど不可能です。

例えれば、生まれてこのかた味覚の全くない人に
コーヒーの味を伝えられるでしょうか?

ただでさえ、根性欲の異なる衆生に対し、この難解な教えを
言葉を使わずに教えることなど、出来るわkrがないと何度も諦めかけたそうです。

 この教えを説き広めることが出来たなら、人々は本質的に救われる。
 この教えを説き広めることを断念したならば、世の人々の苦悩は続く。

悩んだ結果、お釈迦さまは、困難な道を選ばれました。
教えを説くことを決めたのです。
衆生の根性欲が異なるのならば、その人その人に応じた教えを説く事が必要であり、
お釈迦さまは、相手に応じた教えを方便力によって説くことにしました。

そう決心して以来、お釈迦さまは方便の教えを説き続けてきました。
悟りを開いて以来、四十余年が過ぎましたが、未だに方便の教えを説いており、
真実を顕していません。そのため、衆生の得た修行の結果には差があり、
まっすぐに最高の悟りを得る事はありませんでした。

実は私たちは、「空」について、ほとんど何も分かっていません。
「実体がないこと」
「縁起のこと」
「数字のゼロのこと」
などと、色々と仮に説明はされていますが、 
説き明かされてはいないのです。  

「空」とは何か?
その答えは、実は法華経にもありません。
しかし、大きなヒントが有ります。
 
合掌

●無量義経・・・諸仏の三密     2010/12/24(金) 午後 6:17

●諸仏の三密

 善男子、
 是の義を以っての故に、一切の諸仏は二言あることなく、 
 能く一音を以って普く衆の声に応じ、能く一身を以って
 百千万億那由佗無量無数恆河沙の身を示し、
 一一の身の中に又若干 百千万億那由佗阿僧祇恆河沙種種の類形を示し、
 一一の形の中に又若干 百千万億那由佗阿僧祇恆河沙の形を示す。
 善男子、是れ則ち諸仏の不可思議甚深の境界なり。
 二乗の知る所に非ず、亦十地の菩薩の及ぶ所に非ず、
 唯仏と仏とのみ乃し能く究了したまえり。
 
 善男子。
 こういう理由から、一切の諸仏は、ただ一つの真理を説きます。
 よく一つの真理をもって、普く衆生にとって相応しい姿となり、
 よく一つの身をもって無量の身を示し、一つ一つの身の中に、
 また無数の類形を示し、一つ一つの形の中にまた多くの形を示します。
 善男子。これが、即ち諸仏の不可思議で奥深い境界なのです。
 声聞、縁覚という二乗の知る所ではなく、
 また十地の菩薩の及ぶところではありません。
 ただ、仏と仏とのみが究めはっきりと悟った内容です。

気になる一説です。
法華経の六或示現を思い出させますね。

簡単に言えば、私たちの身のまわりの全ては仏であるという意味であり、
全ての事物・現象は、仏の説法であると言うことです。

この思想は、法華経の如来寿量品以降で、詳しく述べる予定です。

合掌

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