蓮の道 基本教義 (2010) 

2019.7.12

●基本教義  2010/12/11(土) 午前 9:54

「基本教義」のカテゴリーでは、仏教の基本的な教義を説明させていただきます。無常・無我・涅槃・苦・輪廻・業・四諦八正道・十二因縁、そして縁起などの重要な言葉の意味を学んでいきましょう。

まず、「小乗仏教」という言葉についてお話いたします。
小乗仏教というのは、元々差別用語です。自分だけの悟りを目指し、在家信者を置き去りにした上座部仏教の出家僧たちのことを、当時の新興宗教グループの大乗仏教徒たちが、劣った修行だとして、小乗と呼びました。

乗とは、乗り物のことで、「教え」「道」のことです。乗を船で譬えることが多いようです。大乗は大きな船のことで、たくさんの人々を救える教えのことです。小乗は小さな舟のことで、一人しか救われない教えと言う意味として使われました。

ここでは、小乗仏教という言葉は使わず、「部派仏教」「上座部」という言葉を使うことにします。もし、小乗仏教という言葉を使ったとしても、それは蔑称として使っていませんので、ご了承ください。

合掌

●仏教・・・無常と無我     2010/12/22(水) 午前 9:34

今日は、仏教の基本中の基本を語る事にします。

お釈迦さまが、結局のところ一体全体、
何を言いたかったのかという事なのですが、
それは、「宇宙の真理」を悟れっていう事です。

私たち普通の人間は、宇宙の真理に気付いていないし、
まったく分かっていません。
分かってたら、もっと幸せになれているのでしょうが、
分かっていないので、苦しみもがく結果になってしまっています。

宇宙の真理っていうのは、非常に奥が深く、
はっきり言って理解する事は難しいものです。
って言うか、お釈迦さまがやっとのことで悟った内容を
普通の人が簡単に分かるはずがありません。

私も完全に分かっているわけではありません。
だって、分かってたら、既に悟りを開いた事になるので、
身体が金色に輝き、7つのチャクラが開いて、
クンダリーニが発動しているはずです。
ちゃんと修行をして、智慧を磨かないと、
宇宙の真理など たやすく分かるはずがありません。
なので、ここで書く内容は、当然ながら私が分かった事どまりです。
だから、仏教の基本の基本ということになります。

まず、三つの誓いが必要です。
別に貴方に仏教徒になりなさい、というのではないのですが、
仏教を学ぶ上で避けては通れない儀式です。
それは、三宝帰依というものです。
帰依とは、拠り所にするということを表しています。

 ーら仏に帰依します。
 ⊆ら法に帰依します。
 自ら僧に帰依します。

仏とは、ご存知の通り、お釈迦さまです。
お釈迦さまを拠り所にし、お釈迦さまの説いた教えを拠り所にし、
お釈迦様とお釈迦さまの教えを拠り所にする人々を拠り所にするということです。

では、早速、宇宙の法則を学びましょう。

 〔犠錙ΑΑα瓦討里發里肋錣任鰐気ぁΑΑκ儔修遼‖
 ¬飢罅ΑΑα瓦討里發里砲麓詑里ない・・・関係の法則

ということで、いきなり超難解なことを書いてしまいました。
だけど、この二つの真理が分かれば、飛躍的に仏教が理解できる様になります。
逆に言えば、この二つの真理が分からければ、仏教の言葉の迷路に入ってしまい、
何も得ることが出来ない結果に陥ります。

変化については、比較的分かりやすいと思います。
だって、まわりの物を見れば、何だって変化しているから
色々考えなくっても分かると思います。

世の中のものは、何一つ、同じ状態のままで、あり続けることはありえません。
金属だって、ダイヤモンドだって、
変わらないように見えても、ミクロ単位では変化しています。

仏教のテーマは人間。
人間も、もちろん変化しています。
身体の細胞は、日々どんどん死んで、どんどん生まれ変わっていますし、
心がコロコロ変わっているのは、胸に手を当てれば分かります。
性格は変わらない、と思い込んでいる方もいらっしゃいますが、
生まれてから、死ぬまで、まったく同じ性格の人なんてありえません。
多少の変化は、誰だってしています。

変化の法則は、多かれ少なかれ理解できるでしょうが、
問題は、「全てのものには実体がない」ということです。
これが難解この上ないのですが、この法則を解明した事こそが
仏教の大きな特徴でもあります。

実体がない。
つまり、そのものに本質存在がない、ということは衝撃的です。
私には、これが私だという正体がないのです。
私だけじゃない、誰だってないのです。
人だけじゃない、物にもないのです。

ほとんどの宗教では、実体はあるとしています。
魂という概念がそれです。
実体がないとしているのは、おそらく仏教だけでしょう。

魂の様な永遠に続く自己があるならば、
一生懸命 修行して魂の成長、進化を目指しますが、
自分に実体がないんだったら、やる気も失せてしまうかも知れません。

または、本当に自分には実体がないのだろうかと
そっちに気がいってしまって、捉われて迷ってしまうかも知れません。

だから、仏教書の多くはこのことにあまり触れていません。
しかし、このことは、仏教の要の教えです。
変化の法則と同様に、最初にはっきりと理解する必要があります。
はっきりとはいかなくても、おぼろげながらも理解しておくと
仏教がおもしろくなります。
だから、いきなり、この難解な教えを取り上げることにします。

変化の法則を「無常」といい、
実体がないことを「無我」といいます。
無常と無我という言葉は、最低限覚えておいた方がいい仏教用語です。

   無常・・・常でない。つまり、変化すること。
   無我・・・我がない。つまり、実体がないこと。

仏教用語は、難しい漢字が多いため、なかなか、一般人にはとっつきにくい。
この漢字ばかりの用語と文章、経典のため、仏教が普及しないのだと思います。

このブログでは、出来る限り難しい漢字ばかりの用語の使用は、
避けたいとは思っているのですが、
無常、無我、空、実相などの基本中の基本の言葉は、
説明を加えながら使っていくと思います。
最小限の用語は、使った方が仏教自体を理解できると思うからです。

今回は、無常と無我のほんのさわりだけを紹介しました。
次回は、無常・無我をもっと分かりやすく説明しようと思っています。

合掌

●仏教・・・無常と無我-2     2010/12/22(水) 午前 9:54

さて前回は、仏教の基本中の基本として無常と無我を語りました。

 無常・・・常でない。つまり、変化すること。
 無我・・・我がない。つまり、実体がないこと。

この二つの教えは、非常に重要だから、
頭に叩き込んで、いつでも引き出せる様にした方がいいでしょう。

今回は、無我を理解するために「我(が)」を語ります。
我と言うと分かりにくい人もいそうなので
日本人に親しまれている言葉の、「魂」を使います。
我=魂 です。

 人間の本体は魂です。
 肉体は滅しても、魂は滅せず、存在し続け、
 輪廻説によれば、魂は、死後、次の肉体に宿ります。
 つまり、肉体は、魂の所有物です。

譬えれば、人と車の関係です。
車に人が乗ります。
車の所有者は人です。
人は車が潰れたら、新しい車に乗り替えます。
って感じです。

魂が人の本体である・・・
多くの方がこの説に同意するでしょう。
特にあの世とか、先祖供養とかを
マジに受け入れている日本人には、
人に本体あり、を信じる人が多いでしょう。

これまで、多くの人が、我について研究し、
そして、我を次の様に定義しています。

  我は滅することなく常にあり、
  我は他に依ることなく存在し、
  我はそのものを支配する。

お釈迦さまは、我を否定し、無我を説きました。
あなたの思っている様な我はないんだよ、
みたいな、軽い否定じゃなくって、完全なる否定です。

無我を真剣に考え出したら、思考は停止します。
我がないんだったら、何があの世にいくんだろう?
我がないんだったら、何が輪廻するんだろう?
じゃあ、幽霊って何?
無我を考え出すと、思考の迷路にはまってしまいます。

無我に捉われること程、意味のないことはありません
お釈迦さまは、我に捉われない様にと無我を説きました。
なのに、無我に捉われたのでは救いようがないのです。

我に捉われない様にと無我を説いた・・・
この辺りが、非常に重要なことです。

合掌

●仏教・・・無常と無我-3     2010/12/22(水) 午前 10:24

前回に続いて、「無我」を語ります。

まず、仏教の二大教義を復習しておきましょう。

  無常・・・常でない。つまり、変化すること。
  無我・・・我がない。つまり、実体がないこと。

で、前回は、広く多くの人が信じる「我」について考えてみた。

  我は滅することなく常にあり、
  我は他に依ることなく存在し、
  はそのものを支配する。

では、今回は、我の説をこっぱみじんに打ち砕きます。

_罎鰐任垢襪海箸覆常にある。

 我は、常にあり続けなければ、我とはいえません。
 というか、常にあり続けるものを想定して我と呼んでいます。
 そして、ほとんどの宗教では、肉体が死んでも我は残り、
 あの世なり、輪廻するなりして、存在し続けるものとしています。

 この説は、無常によって既に打ち砕かれています・・・
 全てのものが変化しているのに、
 自分の本体のみが、永遠不滅ということはありません。

我は他に依ることなく存在する。

 我がもし、他によって存在しているとしたら、
 既にそれは、我ではありません。
 肉体があってもなくても存在するのが我です。
 
 この世の中に、孤立してぽつんと存在するものは、
 ただの一つもありません。
 すべてのものは、必ず、他と関わりを持って存在しています。
 植物だって、動物だって、人間だって、
 水とか、太陽の光とか熱とか、地球の引力とか、空気とか、
 色んな他のものがなければ生きていけません。
 食べ物だっているし、人間だったら、着るもの、住む所もいります。
 よく観察すれば、全てのものは、他のすべてのものと
 大なり小なり、関係を持っています。

 全てのものが、他と関わりを持っているのに、
 我のみが単独で成立するはずがありません。
 
2罎呂修里發里鮖拉曚垢襦

 もし、支配するものであれば、自由自在に肉体なり、心を操れるはずです。
 しかし、誰もが経験している様に、自分をコントロールはできません。
 肉体は、自分の意思に反して病気になり、老化し、滅してしまいます。
 心なんて、ほとんど操れません。
 むしろ、振り回されているのが現実です。

以上のことからも、我はない、というのが結論です。

我の定義がおかしいのだろう、と突っ込まれそうなので
実際に我を探すという体験をしてみましょう。

まず、肉体に我はあるでしょうか?
これが、私の本体だと思えるものを探してみましょう。

事故で右手を切り落としてしまったとしましょう。
あなたの本体は、右手にあるのでしょうか?
それとも、右手以外の方にあるのでしょうか?
ここで、右手にあるという人はいないでしょう。
切断されて、その右手を見ている方が本体だと通常考えるからです。

同様に車の事故で、腹の部分が踏みつぶされてしまい、
手術によって、やむを得ず、腹から下を切断する事になりました。
この切断された上半身と下半身のどちらが本体でしょうか?
多くの人の答えは、上半身と答えると思います。

さらに、病院で爆発事故があり、
首のところで切断されることになりました。
首から上と下、どちらが本体でしょうか?
多くの人は、頭の方だと答えるでしょう。

そして、この質問の馬鹿馬鹿しさを指摘するでしょう。
本体が、肉体であるはずがないと。
本体があるであろう場所ならば、脳に決まっている、と言うでしょう。
果たして脳に本体があるか、どうかは別にして、
少なくとも、肉体が本体でない事は分かると思います。
肉体が本体であれば、例えば、それが脳であれば、
固体の脳があの世にいったり、転生することになります。
そんなことがあるはずがありません。

よって、本体は心にあると推理します。
では、自分で自分の中の本体を探してみましょう。
心を探り、これこそは本体だというものを見つけてみましょう。

かくれんぼの様ですね。
B君がA君を探している。
B君がA君を見つけた!
この場合、A君が本体ということです。

しかし、これはちょっと変です。
本体を見つけた時、見つけた方が本体ではないでしょうか?
見ている者と見られている者のどちらが、
本体かと言えば見ている方に決まっています。
これが本体だと思った瞬間、本体は本体でなくなっているのです。

本体を見つけた瞬間、それは本体ではなく
見つけた方が本体になります。
さらに、その本体を見つけた方が本体になる・・・
まるで合わせ鏡の様に本体は、奥へ奥へと永久に続いていく。
結論としては、本体は見つけることは出来ません。
捉える事の出来ないのが、本体なのです。

ちょっと難しかったかも知れません。
なので、次は、思いっきり簡単に無我を語ろうと思っています。
最初っから、そうしなさいと言われそうですが・・・
ま、ものには、順番があるという事で、ご了承ください。

合掌

●仏教・・・無常と無我-4     2010/12/22(水) 午前 10:54

今回も無我を語ります。
前回まで難しく語ったので、今回はこれまでよりも簡単に語るつもりです。

「無我を証明しようとしても意味がない。
 説けば説くほどに、自分も相手も無我に捉われる結果になる。
 つまり、無我とは、お釈迦さまが自分への執着を捨てるために説いたのに
 無我に執着したら意味がない。」

お釈迦さまが、無我を説いたのは、「執着をするな」というメッセージであると言えます。
捉われるな、こだわるな、偏るな、決めつけるな、思いこむな・・・
というメッセージを込めた言葉が、無我なのです。

無我をマジで悟ろうとするならば、
分析を主とする思考は、かえって邪魔になります。
直観、瞑想、禅定によってのみ無我が分かります。
こういう風に書くと、文字で伝えようとしている私がバカみたいですが・・・

仏教は、人を救うための教えであって、
頭でっかちになるための学問ではありません。
仏教について学んでいけば、そのうちに、
お風呂の中や散歩の時、ひなたぼっこの時などに
はっと気付く可能性があります。
実は、無我と空とは、同じ事を言っているので
後に空を語る時に、気付くかも知れません。

無我・空とは、「自分への執着を捨てる教え」なのです。

人間って、自分に執着していいます。
まず、世の中で一番大切なのは自分でしょう?
自分より、他者を大切にする人はいません。
(親の子を思う心は別でしょうが・・・)

誰もが自分が可愛い。

また、自分の幸せのため、肉体とお金にも執着します。
肉体とお金には、特に執着します。
肉体とは、健康、若さ、そして肉体的快楽であり、
肉体的快楽とは、食欲、性欲、睡眠欲を満たすものです。
お金は、お金で買える全てのものを含んでいます。

お釈迦さまは、

 自分には自分というものがない。
 よって、自分のもの、というものはない。

と説きました。

自分というものがあると信じるから、自分のものという概念が生まれます。
自分というものがないと悟れば、自分のものという概念は消えます。

自分のものとは、自分への執着です。
これは私のものだ、と思い込んでいるに過ぎません。

執着は、欲求によって起こります。
自分の快楽・満足のために、欲求が生まれ、欲求は執着になります。
自分というものがなければ、快楽・満足を得ようとする心は消え、
諸々の欲求もなくなり、諸々の執着からも離れます。

欲求は、好き嫌いから生じます。
好きなものは、自分のものにしようとし、
嫌いなものは、自分から遠ざけようとします。
だけど、世界は自分の思い通りにはなりません。
好きなものを欲しても、自分のものにならないことが多く
たとえ、自分のものになったとしても、いつかは離れていきます。
嫌いなものを避けようとしても、自分につきまとい、
逃げても追ってきます。

 智に働けば角が立つ。
 情に掉させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。
 兎角に人の世は住みにくい。

自分という本体があるとするから、人の世は住みにくい。
世の中は、苦で満ちています。

苦とは、欲求が得られない時に起こる痛みです。
欲求がなければ、苦はなくなります。
我がなければ、欲求・執着は消え、苦はなくなります。

諸々の欲求を満たすことによる幸せは次元が低い。
無我を悟り、欲求・執着を断てれば真の幸せを得る事が出来ます。

ということで、やっと仏教的になってきました。
人が真の幸せを得る方法を説いたのが仏教だからです。

次回は、さらに、「自分のもの」について語るつもりです。

合掌

●仏教・・・無常と無我-5     2010/12/22(水) 午前 11:24

今回は、「自分のもの」について語ります。
これも、無我に関する話です。

自分のものと他者のものの区別って何でしょう?

人間界では、そのものを購入することにより
自分のものというものが存在しますが
それは、絶対的なものではありません。
売買により、所有権を持てるというルールが
あるから、それが成り立っています。

それは、あくまでも、そのルールを守る人の間でしか通用しません。
ルール無視する者は、他者のものを力で手に入れようとします。
または、盗んで入手しようとします。

金銭により、力により、ものを所有できるという通念が
人々に、「自分のもの」という間違えた考え方を与えています。

人身売買というのがある。
古くは、アフリカの黒人が無理やりにアメリカに連れて行かれ、金銭で売買されました。
今でも、世界のあちこちには、人身売買の話があふれています。
あなたが、誘拐され、奴隷として売られた場合、
あなたは、その購入した者のものとして納得できるでしょうか?
私だったら納得できません。

同じように、犬とか猫も、ペット・ショップで売られたとしても
その飼い主の所有物として納得してないと思います。

仏教では、無所有だと教えます。
人は何も持っていないということです。
私は誰のものでもないし、誰もが誰のものでもない。
物も誰のものでもありません。

自分には自分というものはありません。
なのに、何故、自分のものというものがあるのでしょうか?

だからと言って、人のものを盗んじゃ、法律によって処罰されますよ。
一切のものは所有できるものなどなく、一切のものは他から所有されない、
というのは、あくまでも本来のすがたであって
本来のすがたから逸脱した現実社会には通用しません。

合掌

●仏教・・・無常と無我-6     2010/12/22(水) 午前 11:52

無我とは、ものには我(本体)がないということです。
そして我とは、

 我は滅することなく常にあり、
 我は他に依ることなく存在し、
 我はそのものを支配する。

この様に常一主宰なものである、とされます。

しかし、この世界には変化しないものはなく、
他のものと関係しないものはなく、
そのものを支配するものはない、
として我はないと仏教は主張しました。

お釈迦さまの時代、バラモン教という宗教が、インドを支配していました。
バラモン教では、徹底した身分制度があり、バラモンの僧侶がトップにいて、
その下に王族・武士階級があり、さらに、平民階級、奴隷階級がありました。
当時のインドでは、バラモンの僧侶が一番偉いのであり、
バラモン教によって、インドは支配されていたのです。
よって、バラモン教の教えは、人々に深く浸透し、
人々の生活の土台にもなっていました。

そのバラモン教の教えは有我です。
有我、つまり我が有るという教えが根本にあります。
バラモン教では、輪廻転生が真理とされ、
人は死んだら、生まれ変わるとされましたので
輪廻は、業とセットで教えられました。
業とは、行為のことで、
今世の行為の結果が来世に表れるというものです。
今世で苦悩しているのなら、その原因は前世の行為にあるとします。

分かりやすく言えば、今世、奴隷の子として生まれたのは、
前世の悪い行為の結果だということです。

バラモン教の業の思想は、
善因楽果・悪因苦果・自業自得という言葉で理解できるように
今世で善を行えば、来世は楽を受ける、
今世で悪を行えば、来世は苦しみを受ける、
自分の業の結果は、自分が受ける、
という思想を定着させました。

具体的には、現世の自分の身分は、
前世の自分が決めているということで、
来世の自分の身分は、現世の自分が決めているということです。

また、バラモン教の中心思想は、自分と宇宙との一体です。
つまり、自分の本体と宇宙の根本原理は同一であるという思想です。
よって、我の存在は重要です。

お釈迦さまは、有我を真っ向から否定しました。
我とは妄想であり、我への執着を断つことを提案して
無我を説きました。

さて、無我ということを追求する事は、
無我への執着をつくってしまい、あまり芳しくない。
そこで、分かりやすい言葉にすることにしましよう。

それは、関係という言葉でどうでしょうか。

無我ということは、他と関わりがあるということです。
孤立して存在しているのではなく、
他と関係して存在していると観ます。
正確に言えば、
他と関係して、仮に存在している、と観ます。
よって、無我とは、「関係の法則」と呼ぶ事が出来ます。

  無常・・・変化の法則
  無我・・・関係の法則

別の言い方をすれば、時間と空間の法則だと言えます。

さらに、
変化の法則を理解できれば、捉われがなくなるので、
無常とは、捉われるな、という言葉になります。
また、関係の法則を理解できれば、捉われがなくなるので、
無我も、捉われるな、という言葉になります。

よって、無常・無我は、
「捉われるな」ということになります。

合掌

●仏教・・・苦     2010/12/22(水) 午後 4:56

今回は、苦について語ります。

お釈迦さまは、この世の中は苦に満ちていると観察し
人々を苦から楽の境地へと導くために、その方法を探索しました。

お釈迦さまの教えの出発地点は、苦なのです。
そこで、私たちも苦を観察しましょう。

 苦=心身につらく感じること。くるしみ。苦労。
    思い悩むこと。心の重荷、負担など。

辞書には、上記の様に説明されています。
しかし、仏教の苦は少し意味が違います。

 仏教の苦=思う通りにならないことによる苦しみ

心身の苦痛も指しますが、思い通りにならないことを指すことが多いようです。

この世の中は自分の思い通りにはならない事だらけです。
その事が苦を生みます。

まず、変化は思い通りになりません。
全てのものは変化をします。
人間だってそうです。
生まれて、成長し、老化し、死んでいきます。
この事は、思い通りになりません。

仏教では、これを四苦といいます。

 生・・・生まれる苦しみ
 老・・・老いる苦しみ
 病・・・病気になる苦しみ
 死・・・死ぬ苦しみ

これらは、変化を受け入れないために生じる苦しみだと言えます。
つまり、無常の真理を無視した結果の苦しみです。

この内、生まれる苦しみというのは、分かりにくいのですが、
簡単に説明すると、生物の幸せは、輪廻からの脱出であり、
再びこの世界に生まれ変わると言うこと自体が苦である、ということです。

仏教では、四苦八苦ともいいます。
上記の四苦にあと4つの苦を足したものです。
ちょっと四字熟語が並ぶのでとっつきにくいのですが
とりあえず、紹介します。

 愛別離苦(あいべつりく)・・・愛する者と別離する苦しみ
 怨憎会苦(おんぞうえく)・・・怨み憎んでいる者に会う苦しみ
 求不得苦(ぐふとくく)・・・求める物が得られない苦しみ
 五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・・心身の活動による苦しみ

私たちは、愛する人と別れます。
親兄弟、夫婦、子供、恋人、友人など
永遠に共に暮らしたいと願っても、それは無理です。
どちらかが死ねば別れがきます。
それが苦になります。

私たちは、憎い人と出会います。
職場や学校、サークルなど、
嫌な人と出会う確率はけっこう高いですね。
避けようがない。
逃げようがない。
それが苦になります。

私たちは、あらゆるものを求めます。
欲しいものを全て得られることはなく
多くのものは入手できません。
大金持ちでも、欲求不満のない人はいないでしょう。
それが苦になります。

五蘊盛苦は、これまでと比べるとちょっと難しい。
五蘊という言葉自体が仏教語であり、
分かりにくいからです。
簡単に言えば、心身ということです。
心と身体です。
心身が活動すること自体が苦となる、ということです。
つまり、睡眠中の様に活動がない場合だと苦は少ないのですが
起きて、色々と行動していると苦が生じます。
引きこもってれば、直接的な苦は受けませんが
外に出れば、色んな人と出会い、色んな事があって
それが苦にまります。

後半の苦は、関係を受け入れないために生じる苦です。
よって、無我という真理を無視したことによる苦です。

合掌

●仏教・・・涅槃     2010/12/22(水) 午後 5:08

変化と関係という真理を知らなかったり、
無視すれば、苦しむことになります。

では、逆に変化と関係という真理を知り、
受け入れれば、楽になるということになります。

この苦の逆の境地を涅槃と言います。
涅槃とは、真理をはっきりと見極める智慧を得て
円満・安楽の境地に入る事をいいます。

 すべてのものは変化する。
 すべてのものは関係する。

真理は、その人が知っていようが、知ってなかろうが、
その人が、無視しようが、受け入れようが、悟ろうが
そこにあります。

真理はそこにあるのに、人々はそのことを知らず、知っていても無視をします。
なぜ、真理を知らず、無視するのかというと、人に煩悩があるからです。
煩悩があるから、真理を見極める智慧を妨げます。

煩悩とは、「心身を煩わせ、悩ませ、かき乱し、惑わせ、汚す精神作用の総称」
のことで、智慧を妨げるものをいいます。

煩悩の数は、108だといいます。
除夜の鐘が108回打つのは、煩悩を滅するためだといいますが、
インドの人達は、大雑把なところがあるので、
数にはあまりこだわらないほうがいいでしょう。
108とは、たくさん、ということくらいに解釈するのがいいと思います。

根本的な煩悩は、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三つをいいます。
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに・しんい)・愚痴(ぐち)のことで、

 貪欲・・・必要以上にものを求めること
 瞋恚・・・自分に背くものに対し怒ること
 愚痴・・・愚かで道理のわからないこと

愚痴とは、一般的にいう、「不平不満」をぶーぶー言うことではありません。
物事を知ろうとか、学ぼうという姿勢がないことをいいます。

私たちには、好き・嫌いという感情があります。
あるものを見て、好きだと感じた時、そのものを手にいれたくなり、
それが貪欲となります。.
あるものを見て、嫌いだと感じた時、そのものを避けたくなり、
それが瞋恚となります。
あるものを見て、別に何も感じず、思考もしなければ、
それが愚痴となります。

この辺の考え方は、仏教では、「十二因縁の法門」として
きっちりと説かれているので、十二因縁の法門のときに
詳しく語ろうと思います。

今回のテーマは、涅槃です。
涅槃とは、智慧を得た結果におとずれる安穏の境地です。
智慧とは、真理をはっきりと見極めることであり、
人々に智慧がないのは、煩悩があるからです。

よって、涅槃に入るためには、煩悩を断つ必要があります。

涅槃は輪廻の思想が土台にあります。
煩悩があると迷いの世界を輪廻し、
煩悩を断てば、迷いの世界から脱して
涅槃の世界に入る、という思想です。

合掌

●仏教・・・三法印・四法印     2010/12/22(水) 午後 5:19

これまでに、無常・無我・苦・涅槃という
仏教のもっとも根本的な教えを説いてきました。

初期の仏教では、無常・無我・苦を三法印といい、
後期の仏教では、無常・無我・涅槃を三法印といいます。
ひっくるめて、無常・無我・苦・涅槃を四法印ともいいます。

印とは、「しるし」のことなので
三法印・四法印は、仏教のしるしとされる教えです。
三法印・四法印は、
「これが仏教だ」「ここが他と違う」という、仏教の特徴です。

 諸行無常
 諸法無我
 一切皆苦
 涅槃寂静

という言い方をします。
仏教語は、中国経由なので漢字であり、
四字熟語が多いので、とっつきが悪いのですが
この言葉は有名なので、知る人も多いでしょう。

○諸行無常
諸行とは、全てのもののことです。
全てのものは変化する、という意味になります。

○諸法無我
諸法も、全てのもののことです。
全てのものに実体はない、という意味になります。
裏返せば、全てのものは関係しあう、という意味です。

ここで疑問が起こると思います。
諸行と諸法とでは、どう違うのか?
実は、この二つには大きな違いがあります。

諸行とは、諸々の行のことであり、
行とは、因縁によって起こる現象のことをいいます。

諸法とは、諸々の法のことであり、
法とは、全ての存在・現象のことをいいます。
その全てには、因縁によって起こらないものも含まれます。
それは、真理です。真理も無我なのです。
しかし、諸行無常には、真理は含まれていないので、
真理は無常ではありませんので、つまり、真理は変化しません。

○一切皆苦
一切は皆、苦だということです。
苦とは、思い通りにならないことを指します。

一切という言葉も全てという意味であり、
諸法とほぼ同じ意味になります。
全ての存在・現象は、自分の思い通りにならないし
真理も思い通りにはなりません。

○涅槃寂静
涅槃も寂静も同じ意味であり、安楽の境地という意味です。
諸行無常と諸法無我という事実を知る事によって
一切皆苦が涅槃寂静にチェンジします。

合掌

●仏教・・・十二因縁の法門     2010/12/22(水) 午後 6:02

お釈迦さまは、この世界は苦に満ちていると見極められました。
これが、仏教のスタート地点です。

生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死ぬ苦しみ、
愛する者と別れる苦しみ、憎い人と出会う苦しみ、
欲しいものが得られない苦しみ、心と身体が活動する事による苦しみ。

この四苦八苦は、誰もが経験する苦しみでしょう。

また、貧病争の苦もあります。
病気についてはダブっていますが、貧しいこと、争う事は苦です。
それは、肉体的・精神的・経済的な苦の代表でしょう。
飢え、差別、いじめ、虐待、いやがらせなど、この世は苦で満ちています。

そもそもの苦しみは、肉体を受けて生まれる事です。
全ての煩悩を断ち切っておれば、
再び、苦しみの世界に輪廻転生する必要はありません。
生老病死の苦の、生の苦とは、そういう苦です。

苦の原因は煩悩です。
このことは、これまでに何度か触れました。

  煩悩→苦

煩悩があれば、苦が生じます。
煩悩が滅すれば、苦が滅します。

この様な関係を因縁といいます。
煩悩と苦には、深い関係があるのです。

お釈迦さまは、煩悩と苦の関係をさらに深く観察して、
十二因縁の法門を説かれました。

 無明(むみょう)・・煩悩のこと。真理を知らないこと。
 行(ぎょう)   ・・業のこと。
 識(しき)    ・・識別作用。
 名色(みょうしき) ・・精神現象(心)と物質現象(肉体)。
 六処(ろくしょ)  ・・六つの感覚器官。目・耳・鼻・舌・肌・意のこと。
 触(そく)     ・・六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
 受(じゅ) ・・感受。
 愛(あい) ・・渇愛。欲望。
 取(しゅ) ・・執着。取得。
 有(う) ・・迷いの存在。
 生(しょう) ・・生まれること。
 老死(ろうし) ・・老いと死。

無明→行は、過去世です。
識→名色→六処→触→受→愛→取→有は、現在世です。
生→老死は、未来世です。
現在世の苦しみは、過去世の結果であり、
現在世の結果は、未来世に出る、という説です。
 
 (生)無明→行(死)
 (生)識→名色→六処→触→受→愛→取→有(死)
  生→老死

などと書いても、さっぱり分からない方もいると思いますので
ここからは、少し簡単に説いてみます。

煩悩にまみれて行動するとそれが悪業になる。
悪業を積んだ者は、来世においても苦の世界に生まれることになる。
これが悪因悪果と呼ばれるものです。
逆に善因善果とは、
煩悩を消し、良い業を積むことにより、良い結果として涅槃に入る事をいいます。
涅槃とは、苦から脱した世界であり、輪廻しない境地になったことをいいます。

[無明]
 無明とは、煩悩の根本です。
 明るくないとは、真理について暗いということで、
 無常・無我などの真理を知らないか、無視していることを言います。

[行]
 行為のことですが、
 ここでは、無明を因として悪行をすることをいいます。
 悪行は、悪業となります。
 悪業は、再生につながります。
 転生して苦の世界に再び生まれ変わるのです。
 当然、転生後も無明の状態が続くことになります。

 無明→行→(転生)

 もし、ここで真理にしたがって生きて、悪業を残さず、
 善業を積んだとしたら、涅槃に入ります。

 明諦→善業→涅槃

[識]
 識とは、ものごとを知ろうとする心のことです。
 識別、了別の意味があります。
 悪業を原因とする識は、精子と卵子と結合して
 母体内に生命体として誕生します。

 仏教では、母体からの出産を誕生と見るのではなく、
 母親の妊娠の刹那、受精の瞬間をいいます。
 日本の年齢の数え方には二種類がありました。
 生まれた時は0歳、誕生日が来たら一歳とする満年齢と
 生まれた時は一歳、お正月が来たら二歳とする数え年の二種類です。
 現在は満年齢しか使われませんが、数え年の考え方は、
 妊娠した時を誕生とみて、胎児が母親の胎内にいる期間も
 年齢に加算することからなので、仏教の影響です。

 死ぬことも生まれることも、仏教では意識を中心に考えます。
 入胎の瞬間の意識のことを結生識といいます。

[名色]
 心と身体のことを名色といいます。
 名とは、名前があるが形のないもののことで、心のことです。
 色とは、色の着いたものということで身体のことです。
 識が入胎し、心と身体が生まれます。

[六処]
 目・耳・鼻・舌・肌・意の六つの感覚器官のことを六処といいます。
 心身が成長していくと、感覚器官が発達します。
 本格的に心身と感覚器官が育つのは、出産後です。
 母体から出ることによって、自分と他との区別が出来、
 他のものを感覚器官で明確に捉えるようになります。

[触]
 他のものと六つの感覚器官との接触を触といいます。
 眼で色を見る。
 耳で音を聞く。
 鼻で香りを嗅ぐ。
 舌で味を味わう。
 肌で物に触れる。
 意で法を意識する。
 という様に感覚器官で他と接触することです。
 この接触によって、他のものを認識することが出来ます。

[受]
 感覚器官で他と接触することにより、
 そのものを感受することを受といいます。
 感受し、好き・嫌い、快・不快の感情を起こすことです。

[愛]
 好きなもの、快楽を感じるものに対し、欲求を起こすことです。
 現代語の愛は、キリスト教の影響からか
 仏教語の愛とは、まったく意味が異なりますが、
 仏教語の愛は、貪るような欲望のことをいいます。
 ちなみに、キリスト教の愛と同義の言葉は慈悲です。

[取]
 欲しいものに執着したら、それを入手しようと行動します。
 そのことを取といいます。
 あらゆる物を見て、その中から自分の気に入ったものを選んで、
 そのものに執着して、入手しようと行動する、
 この繰り返しが人の日常です。
 この 愛→取 を煩悩といいます。

[有]
 愛取は煩悩であり、入手しようとする行為は悪業となり、
 迷いの存在になります。
 この迷いの存在のことを有といいます。
 悪業は、再生につながる。
 転生して苦の世界に再び生まれる。
 当然、転生後も無明の状態が続きます。

 (転生)識→名色→六処→触→受→愛→取→有(転生)

[生]
 転生し、再び生まれることです。
 この生自体が苦しみです。

[老死]
 そして、死ぬまで苦しむことになります。

 (転生)生→老死(転生)

整理すれば、煩悩→業→苦→煩悩→業→苦 ・・という様に輪廻します。
 
 煩悩・・・無明、愛、取
 業・・・・・行、有
 苦・・・・・識、名色、六処、触、受、生、老死

ここまでは、無明から苦までを順を追って語ってきましたが、
実際には、苦の原因を究明するための観法なので、
次の様に観たと思えます。

 生老病死などの苦の原因は有であり、
 有の原因は取であり、
 取の原因は愛であり、
 愛の原因は受であり、
 受の原因は触であり、
 触の原因は六処であり、
 六処の原因は名色であり、
 名色の原因は識であり、
 識の原因は行であり、
 行の原因は無明である。

そして、無明から苦までを観て
その連鎖因縁に間違いがないことを確認しました。

 無明があるから行があり、
 行があるから識があり、
 識があるから名色があり、
 名色があるから六処があり、
 六処があるから触があり、
 触があるから受があり、
 受があるから愛があり、
 愛があるから取があり、
 取があるから有があり、
 有があるから生があり、
 生があるから老死などの苦を受ける。

よって、苦の原因を無明として
無明を滅すれば苦が滅することを説きました。

 無明を滅すれば行が滅し、
 行を滅すれば識が滅し、
 識を滅すれば名色が滅し、
 名色を滅すれば六処が滅し、
 六処を滅すれば触が滅し、
 触を滅すれば受が滅し、
 受を滅すれば愛が滅し、
 愛を滅すれば取が滅し、
 取を滅すれば有が滅し、
 有を滅すれば生が滅し、
 生を滅すれば老死などの苦が滅する。

合掌

●仏教・・・縁起-2     2010/12/22(水) 午後 7:24

今回も縁起について語りましょう。

 因=原因。結果を引き起こすための、直接の内的原因
 縁=条件。因を外から助ける間接の原因
 果=結果
 報=影響

 因+縁=果〜報

縁起とは、因縁生起の略であり、
全ての事物・現象は、
因縁の和合に依って生起する、と仏教では説いています。

他の宗教では、天地創造は神によって成された、とされています。
人間も動物も植物も環境も、全ては神の創造に依るとされています。

仏教は違います。
人間も動物も植物も環境も、全ては因縁生起です。
他の宗教と仏教との大きな違いは、ここにあると言えます。
よって、仏・如来は創造主ではありません。
もちろん、お釈迦さまも天地を創造していません。

前回は、因果は無常の法則によると語りましたが、
今回は、因縁は無我の法則によることを語ります。

我を説く宗教は多い。
我とは、そのものの中の変化しない本体であり、
孤立しても存在可能な本体であり、
そのものを主導する本体である、
とします。

しかし、我でないとされるものが、変化し、他と関係し、他を主導しない事は
我を主張する人達も分かっていました。

例えば、人間であれば、
心や肉体が変化し、他のものと関係をし、他を支配できないことは
十分理解していたのですが、人間の中に永遠不滅の本体を求めたのです。

仏教は、無我を説きます。
一切のものは、変化し、他のものと関係をし、他を支配できない、
としています。
一切の中には、事物、現象、見えるもの、見えないもの、言葉、イメージ、概念など
文字通り、一切のものを言います。

以上の様に因果は変化であり、
因縁は関係の法則によって成り立っている。

合掌

●仏教・・・縁起-3     2010/12/22(水) 午後 9:02

今回は、縁起についての3回目です。

 因=原因。結果を引き起こすための、直接の内的原因
 縁=条件。因を外から助ける間接の原因
 果=結果
 報=影響

 因+縁=果〜報

仏教では、自然界を観察することが目的ではなく、
人々の苦を滅し、安穏の境地に導くことが目的です。
よって、人間の成長についての縁起を語ることにしましょう。

 善因善果(楽果)
 悪因悪果(苦果)
 因果応報

現在の人生が、幸せに満ちており、苦をほとんど感じていないとすれば
それは、前世の善因による結果です。
よって、現世で善い行いをすれば、未来世においても安穏の境地に入ることが出来ます。

現在の人生が、不幸の連続であり、楽をほとんど感じていないとすれば、
それは、前世の悪因による結果です。
よって、現世で悪い行いをすれば、未来世においても苦の境地に入ることになります。

善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらすのです。

この輪廻の思想については、十二因縁の法門の際にも触れました。
煩悩→悪業→苦という流れであり、悪業を持ったものは苦の世界に転生します。
煩悩を断ち切り、善業を積んだものは安穏の境地に入ることが出来ます。

輪廻の思想は、仏教のオリジナルではありません。
仏教以前から、インド哲学の根幹を成す考え方です。
インド人の思想の土台にある輪廻を、仏教は取り入れており
洗練させて、より分かりやすくしています。

善因善果、悪因悪果は、短いスパンでも起こります。
人に施せば自他が潤い、盗めば罰を受けます。
道徳を身につければ人間関係がスムーズになり、
規範を犯せば、誰からも相手にされなくなります。
忍耐を身につければ、感情に振り回されることがなくなり、
感情をコントロールしなければ、衝突ばかりします。
努力を怠らなければ、目標に確実に近づき、
怠ければ、目標は遠ざかります。
落ちついて行動すれば、確実な成果を得られますが、
散乱な行動は、全てを破壊してしまいます。
智慧をもって行動すれば、道が整いますが、
愚鈍な行動は、道を失います。

善因善果、悪因悪果は、長いスパンでも起こります。
今日の全員が、善果となるのは、数年後かもしれないし、
来世かも知れないし、数万回後の未来世かも知れません。
悪因悪果も同様です。

ですから、輪廻思想を信じ切っている者にとっては、
短いスパンだけの結果ではなく、長いスパンの結果も信じますので
たとえ、結果が直ぐに出なくても、善根を積むのです。

合掌

●仏教・・・縁起-4     2010/12/22(水) 午後 9:20

仏教の最も基本の教義は、無常と無我です。
小乗・大乗・密教など、およそ仏教と呼ばれる宗派の教えにおいて、
無常と無我が無視されることはないでしょう。
それに、この二つの教義内容は、どの宗派もほぼ一致しています。

 無常・・・常でないこと。つまり、変化するということ。
 無我・・・我がないこと。つまり、他と関係をするということ。

この二つの教義は仏教において、非常に重要です。
仏教の色んな教義の土台なので、高度な教義で解釈に悩んだ時は
この二つの教義をもう一度思惟しなおすと大きなヒントになります。

無常と無我は真理です。
この二大真理を知らなかったり、無視をすれば、
煩悩に満ちた存在となり、苦を引きます。
逆にこの二大真理を見極めれば、安穏の境地に入ることが可能です。
このことを説いたのが、十二因縁の法門です。

また、この二大真理は、この世界のすべてのものを生起する法則です。
縁起のことです。
因果は無常の法則により、因縁は無我の法則によります。

 因=原因。結果を引き起こすための、直接の内的原因
 縁=条件。因を外から助ける間接の原因
 果=結果
 報=影響

 因+縁=果〜報

今回は、少し難しい内容になりますが
もう少し突っ込んで縁起を語ります。

実は、無常の法則によらない因果があるし、
何が因で、何が縁なのかが分からない縁起があるのです。

これまで語ってきた縁起は、時間的因果関係と言われるもので
仏教用語を使えば、因果異時といいます。
多くの仏教解説書は、この因果異時を説きます。

しかし、仏教は実に奥が深く、もう一つの縁起が説かれています。
それが、空間的因果関係と言われるものです。
仏教用語では、因果倶時(いんがぐじ)といいます。
因果がともにそろって具わっていることをいいます。

例えば、水という存在は、
水素原子2個と酸素原子1個が結合してできています。
水という果には、因である水素と酸素が具わっていますが、
水素と酸素のどちらが因で、どちらが縁かは分かりません。

分子レベルでなくても、物質を果として見れば、
身のまわりには因果倶時はたくさんあります。
自動車は、車体とエンジン、デフ、車輪、座席、
インパネなどで出来ています。
自動車という果には、因である車体とエンジンなどが具わっていますが、
車体とエンジン、デフ、車輪、座席など、何が因で、何が縁かは分かりません。

人間だって、心と身体で出来ています。
人間という果には、因である心と身体が具わっていますが、
心と身体のどちらが因で、どちらが縁かは分かりません。

この様に空間上で結合しているものは、
結合したものを果としてみれば、
因果はともに具わっており、因縁は識別できません。

通常の縁起は、時間的因果関係なので、
仏教初心者は、空間的因果関係を学ぶ必要はないのかも知れませんが、
実は、因果倶時の教義は、妙法蓮華経に大いに関係します。
妙法蓮華経の重要な教義が、因果倶時だからです。

と言うことで、ひとまず縁起については終わる。

合掌

●お釈迦さまの説法・・・法説+譬喩説+因縁説     2010/12/24(金) 午後 7:38

お釈迦さまの説法には、三段階があります。
法説・譬喩説・因縁説です。

まずは、仏の智慧、薀蓄を理論的に説法する法説。
機根の高い人に向いています。
法華経では、「方便品」と「譬喩品」が法説です。

次に、理論的に説いた教えをたとえ話で説法する譬喩説。
機根が中ほどの人に向いています。
方便品で、理解できなくても、次からの譬喩品から安楽行品までの章の、
喩え話によって、方便品の内容は十分に伝わると思います。

さらに、理論的に説いた教えを今度は、
釈尊の体験談によって説法する因縁説。
これは、機根が低い人に向いています。
法華経では、「化城喩品」などが因縁説です。

 法説・・・・理論的な説法
 譬喩説・・たとえ話
 因縁説・・体験談

安楽行品までの教えが終わった時に、
もう一度、方便品を読み返すと法説の内容が
より以上に理解できると思います。

合掌

●四諦の法門-1     2010/12/25(土) 午前 6:40

四諦の法門とは、原始仏教の教えの基本が示されています。
諦とは、現代日本語の「あきらめ」ではなく、「真理」の意味です。
内容は、苦を見極め、その原因を究明し、実際に苦を滅する修行を
志すまでの過程をいいます。

 ゞ貭
   この娑婆世界は、苦に満ちているという真理です。

 ⊇個
   苦の原因は、愛執であるという真理です。

 L把
   愛執を完全に滅すれば、理想の世界に成るという真理です。

 て残
   愛執を断つには、八正道の修行が必要であるという真理です。

ゞ貭・・・苦を直視する

現在の自分に焦点を当てて考えてみましょう。
病気の人、老いた人、死を直前にしている人はいますか?
もし、このページを読まれている人が、重い病気であったり、
老いの身であったり、死を目前とされているのであれば、
どの様な心情でしょう?
穏やかで心安らかな状態でしょうか?
それとも苦しみ深い状態でしょうか?

また、恋人との別れ、家族との別れを体験されている方はどうでしょう?
長い出張、単身赴任、別居も苦しいでしょうが、
永遠の別れともいえる死別であればどうでしょう?
それは、穏やかで心安らかな状態でしょうか?
それとも苦しみ深い状態でしょうか?

また、嫁しゅうと、職場の人間関係、学校やサークルなどでの人間関係の中で、
どうしても馬の合わない人がそばに居る場合はどうでしょう?
それは、穏やかで心安らかな状態でしょうか?
それとも苦しみ深い状態でしょうか?

また、欲しい物が手に入らない場合はどうでしょうか?
好きな異性にふられ、志望の学校に行けず、就職したくても就職先は無く、
定職につきたくてもあるのは派遣やバイトばかり。
それは、穏やかで心安らかな状態でしょうか?
それとも苦しみ深い状態でしょうか?

一瞬先は闇。
今が幸せ状態であっても、状況は変化し、ある時は最悪な状態へと展開します。
今、私は幸せだ、と思っていても、それは逃げによる幸せ感ではないでしょうか?
本当は苦しみもがいているのに、それを紛らわすために、ギャンブル、お酒、
異性に逃げている事はありませんか?
どうにかなるさ、明日があるさと、何の根拠もない思いで苦しみを中和し、
一時しのぎをしていませんか?

一度、自分の現状の苦しみ度を測ってみるといいでしょう。
逃げや一時的でない幸せ感で満ちているのなら、既にあなたは滅諦の境地にあります。
しかし、苦しみが心の中の一部分、もしくは大部分を占めているとしたら、
肝に据えて、苦しみと直面する必要があります。
今、私は苦しんでいる、と大いに実感する事が重要です。

中途半端に苦を実感しても、中途半端な解決しか出来ません。
ここは、一つ、しっかりと自分の現在、過去、未来を考え、
自分と家族、会社、あらゆる集団、社会、世界との関係を見定め、
苦しみの真っただ中にあることを実感します。

私たちの心は、六界を輪廻しているといいます。

 地獄・・・苦しみによって心が支配されている状態。
 餓鬼・・・欲しい物が得られないという苦しみにもがいている状態。
 畜生・・・たとえ苦しみの真っただ中にあっても、
       それには気付かず他者に依存して生きている状態。
 修羅・・・他者との争いの中で苦しんでいる状態。
 天上・・・束の間の幸せを楽しんでいる状態。
 人間・・・苦楽を受けても、それに振り回されず、ある程度コントロールしている状態。

どの世界も苦しみの世界であり、地獄・餓鬼・畜生は、苦しみの世界の代表です。

○四苦八苦

 \原譟ΑΑ生まれる苦しみ
 ∀袈譟ΑΑο群修垢覿譴靴
 I其譟ΑΑι袖い砲覆覿譴靴
 せ犇譟ΑΑ死ぬ苦しみ
 グκ摸ザ譟覆△い戮弔蠅) - 愛する者と別離する苦しみ
 Ρ總会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
 У疉堝清譟覆阿佞箸く) - 求める物が得られない苦しみ
 ┯溽樟攻譟覆瓦Δ鵑犬腓Δ) - あらゆる精神的な苦しみ

どれも、だいたいの意味は分かると思いますが、
「生苦」と「五蘊盛苦」については、説明がいると思います。

○生苦
 生きる苦しみではなく、生まれる苦しみです。
 有る方は、母親の産道を通過する苦しみであると主張されていましたが、
 通説では、輪廻転生の苦しみだとされています。
 つまり、苦しみの世界である六道に再び転生してきたことの苦しみを生苦といいます。

○五蘊盛苦
 五蘊が活発になることに依る苦しみのことですが
 五蘊自体が、難しい仏教用語ですので
 五まずは、蘊とは、何かの説明からしましょう。
 
○五蘊

  色=肉体・物質
  受=感受作用
  想=表象作用
  行=意志作用
  識=認識作用


初期仏教では、色を肉体としましたが、後には、色を物質としました。
色を肉体と観れば、五蘊は、人間を構成する要素となり、
色を物質と観れば、五蘊は、世界を構成する要素となります。
なぜ、色と言うのかと言えば、形ある物には、何かしらの色が付いているからです。

⊆=感受作用
外界の事物・現象を感覚器官によって受け取ることです。
簡単にいえば、外界と触れることによる苦、楽、不苦・不楽などを
感じることをいいます。
不苦・不楽とは、苦でもなく、楽でもない感覚のことです。
単細胞生物であれば、細胞膜と外界との接触や光を感知することなどが、
受になりますが、高度な動物の場合は、眼・耳・鼻・舌・身・意という
感覚器官(六根)によって感じ取るものを受といいます。
外界の色・声・香・味・触を六境といい、
外界の六境を六根によって感じ取っているものを受というのです。

A曄疉従欹醉
過去の知識の蓄積、イメージ・観念一般のこと。
高度な思考も想に含まれます。
感受作用によって取り込まれた情報によって、脳などの内部情報が引き出されることです。
それらは、データ化されています。

 情報=名称+知識・イメージ・観念

す圈甍媚嶌醉
欲しいものを定め、入手するための言動を促す思考のことです。
外部情報を得て、感受し、自分のデータによって入手するべきか否かを決め、
それを行動に移すか否かを決定する作用です。

ゼ院畴Ъ浦醉
対象を明確に把握することです。
受・想・行を把握する心のことを識といいます。
訳者によっては、識を思惟だとする方もいらっしゃいます。

五蘊の働きが活発になれば、感受作用が鋭くなって欲しいものを探しやすくなるし、
表象作用がめまぐるしく動いて、どのものを即座に分別・分類できるし、
入手しようとする意志作用の働きもスピード・アップします。
仕事などで五蘊が活発になれば、会社も喜ぶのでしょうが、
普段の生活で五蘊盛苦が起こると大変なことに成ります。
欲しいものを得ようにも得られない求不得苦が慢性化してしまうからです。

○貧病争

戦後、Sの会やRの会は、急速に会員を確保しました。
それは、貧病争に苦しむ人々があふれ、伝統宗教では手が負えず、
新興宗教にすがってきたからです。
貧病争とは、貧乏、病気、争いのことですが、他にも差別問題などが
人々を苦しめました。

 貧乏・・・経済的苦しみ
 病気・・・肉体的苦しみ
 争い・・・精神的苦しみ

戦中戦後と現代とでは、貧病争の内容も変わりましたが、
確実に苦しみの原因としてあげられる項目です。

○苦しみを把握する

四苦八苦、貧病争は、誰でもが抱えやすい苦しみです。
もし、苦しみを解決したいと思うのであれば、真剣に苦と向き合うといいでしょう。
適当なノートとペンを用意し、

 私は、○○が苦しい。

という文章を出来る限り書いてみてください。
一つ、一つ、じっくりと確認しながらではなく、
機械的でも構いませんので、「私は、人と会うのが苦しい」などという風に
どんどん羅列してみてください。
人に依っては、20〜30項目はすぐにいくと思います。
書き終わったら、一度目を通して落ちがないかを確認し、
出来る限り、正直に書きあげてみます。
それが、現在の自分の苦しみですので、真面目に取り組むことをお勧めします。

合掌

●四諦の法門-2     2010/12/25(土) 午前 8:23

⊇個・・・苦の原因を知る

お釈迦さまは、この世は苦に満ちているとお悟りになりました。
その代表が、四苦八苦、貧病争、差別などだと思います。

では、その苦の原因とは何なのでしょう?
お釈迦さまが、徹底して苦の原因を究明されたのが
十二因縁の法則です。

  無明(むみょう)・・煩悩のこと。真理を知らないこと。
  行(ぎょう)   ・・業のこと。
  識(しき)    ・・識別作用。
  名色(みょうしき) ・・精神現象(心)と物質現象(肉体)。
  六処(ろくしょ)  ・・六つの感覚器官。目・耳・鼻・舌・肌・意のこと。
  触(そく)     ・・六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
  受(じゅ) ・・感受。
  愛(あい) ・・渇愛。欲望。
  取(しゅ) ・・執着。取得。
  有(う) ・・迷いの存在。
  生(しょう) ・・生まれること。
  老死(ろうし) ・・老いと死。

      http://blogs.yahoo.co.jp/jojon_folk/901687.html

  この十二項目は連鎖因縁になっており、最終項目の苦(生老病死)は、
  無明に原因があるとしています。
  よって、無明を滅すれば、苦が滅するとする説です。
  無明とは、煩悩のこと、真理を知らないことなのですが、
  これは、根本的煩悩のため非常に対処しにくく、
  途中段階の、「触・受・愛・取・有」のところをクローズ・アップし、
  渇愛を苦の原因とする場合も多いようです。

L把・・・苦を滅する

  苦の原因を知ったならば、理論的に苦を滅する境地を設定します。
  それは、お釈迦さまが到達された境地であり、涅槃といいます。
  具体的には、割愛、煩悩を滅した状態です。

て残・・・苦を滅する道

  滅諦を目的として定めたなら、具体的修行によって目的を達成させます。
  お釈迦さまは、苦を滅する道として、八正道を定めました。
  これが、小乗の具体的修行方法であり、次回にて詳しく説明いたしまします。

○苦悩は、人の数ほどあります。
 パターンにすれば、数十種になるのでしょうが、苦の内容は人それぞれです。
 しかし、無量とも言える苦の原因は、割愛であり、無明であり、
 目的地は涅槃、修行方法は、八正道という様に実にシンプルな
 構図になっています。
 言いかえれば、どんな苦しみを抱えていようとも、涅槃を目指し、
 八正道を修行すれば苦は滅せられると説かれています。

 ただし、これは、小乗の修行であって、大乗では六波羅蜜を
 重要な修行としています。

合掌

●四諦の法門-3     2010/12/25(土) 午前 9:17

苦を滅したければ、八正道を実践することが重要です。
逆に言えば、八正道を実践することにより苦を滅することが出来ます。
善因善果です。

苦は人それぞれですが、どんな苦であろうと
八正道を実践すれば安穏の境地に入ることができます。
と言うことで、今回は仏教の重要な実践修行である八正道を語ります。

まず、正しいという意味は、中道のことをいいます。
中道とは、二つの対立するものを離れるという教義のことで、
二つのものを否定する事によって正しい立場、真理を説くものです。
最初にお釈迦さまが説いた中道を、「非楽非苦の中道」といいます。
つまり、快楽主義・苦行主義の両端に偏るのではなく、
楽でもなく、苦でもない立場を正しいとします。
楽に執着せず、苦に執着するな、ということです。

お釈迦さまは、釈迦族の王子として生まれました。
よって、何不自由なく育ちました。
欲しいものは、全て与えられたのです。
本人の意思とは別にして、快楽主義の中で暮らしました。

お釈迦さまは、29歳の時、家も家族も財産も王位も捨てて出家しました。
出家後は、師について、無執着・無想の瞑想を学びましたが
そこに苦を滅する答えはないと見極め、瞑想の道を捨てました。
その後、お釈迦さまは、一麻一米の苦行に入りました。
一麻一米とは、一日に胡麻一粒・米一粒のみしか摂らない断食であり、
お釈迦さまは、その苦行をなんと6年間続けました。

結局、苦行主義では、苦を滅することは出来ないと見極めると
お釈迦さまは、快楽にも苦行にも偏らないところに真理はあると直感し
菩提樹の下で中道の瞑想に入り、四諦を悟りました。

「非楽非苦の中道」は、中の思想に発展しました。
八正道の正とは、中のことを指します。
よって、執着から離れた境地のことである。

 正見・・・執着から離れた観方
 正思惟・・・執着から離れた思惟
 正語・・・執着から離れた言葉つかい
 正業・・・執着から離れた行為
 正命・・・執着から離れた生活
 正精進・・・執着から離れた努力
 正念・・・執着から離れた精神的努力
 正定・・・執着から離れた禅定

次回は、八正道を詳しく語ろうと思います。

合掌

●八正道-1     2010/12/25(土) 午前 11:07

苦を滅したければ、八正道を実践することが重要です。
逆に言えば、八正道を実践することにより苦を滅することが出来ます。
善因善果です。

苦は人それぞれですが、どんな苦であろうと
八正道を実践すれば安穏の境地に入ることができます。
と言うことで、今回は仏教の重要な実践修行である八正道を語ります。

まず、正しいという意味は、中道のことをいいます。
中道とは、二つの対立するものを離れる立場の教義で
二つのものを否定する事によって正しい立場、真理を説きます。
最初にお釈迦さまが説いた中道を、「非楽非苦の中道」といいます。
つまり、快楽主義・苦行主義の両端に偏るのではなく、
楽でもなく、苦でもない立場を正しいとします。
楽に執着せず、苦に執着するな、ということです。

お釈迦さまは、釈迦族の王子として生まれました。
よって、何不自由なく育ちました。
欲しいものは、全て与えられたのです。
本人の意思とは別にして、快楽主義の中で暮らしました。

お釈迦さまは、29歳の時、家も家族も財産も王位も捨てて出家しました。
出家後は、師について、無執着・無想の瞑想を学びましたが、
そこに苦を滅する答えはないと見極め、瞑想の道を捨てました。
その後、お釈迦さまは、一麻一米の苦行に入りました。
一麻一米とは、一日に胡麻一粒・米一粒のみしか摂らない断食であり、
お釈迦さまは、その苦行をなんと6年間続けられました

結局、苦行主義では、苦を滅することは出来ないと見極めると
お釈迦さまは、快楽にも苦行にも偏らないところに真理があると直感し、
菩提樹の下で中道の瞑想に入り、最上の悟りに至りました。

「非楽非苦の中道」は、中の思想に発展します。
八正道の正とは、中のことを指します
よって、執着から離れた境地のことです。

 正見・・・執着から離れた観方
正思惟・・・執着から離れた思惟
正語・・・執着から離れた言葉つかい
正業・・・執着から離れた行為
正命・・・執着から離れた生活
正精進・・・執着から離れた努力
正念・・・執着から離れた精神的努力
正定・・・執着から離れた禅定

次回は、八正道を詳しく語ろうと思います。

合掌

●八正道-2     2010/12/25(土) 午前 11:25

今回は、八正道を詳しく語ります。
八正道とは、苦に満ちた人生を安穏の境地に変える修行方法であり、
執着から離れた観方、行為、努力、瞑想のことを言います。

最初に、八正道の八つの正しい修行方法と
十二因縁の十二項目の連鎖内容を書いておきます。
八正道は十二因縁から導きだされた修行方法だからです。

 八正道
  正見→正思惟→正語・正業→正命→正精進→正念→正定

 十二因縁
  無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死

○正見

正しく見ること。
この見るというのは、目でものを見るという意味ではなく、見解のことをいいます。
見解(けんげ)とは、ものの見方、考え方、解釈のことです。
また、深く真理を見きわめる力、洞察力のことをいいます。
この正見が、八正道の要であり、下記の7つの正道はどれも
正見との合わせ技です。

○正思惟(正思)

正しく思惟すること。
思惟とは、一般的には、「しい」と読みますが、
仏教では、「しゆい」と読みます。
意味は、一般でも仏教でも、「深い思考」のことです。

 触→受→愛→取→有

人は、あらゆる事物・現象を見て、それを自分に受け、
受けることにより、事物・現象という対象に関心・無関心を示し
そして、好き嫌いに従って、手に入れるための行動、避ける行動をとります。

心理学でも、人は欲求を満たすために行動する、と言いますが
このことが、愛→取です。
欲求のあり方は、人それぞれです。
その物を見て、見た人の全員が好きになり、欲しくなるわけではありません。
人それぞれの受け取り方があり、
それぞれの受け取り方によって欲望のあり方が決定します。
すなわち、「受」を因として「愛」を生じます。

では、出来事を受け取るとき、人はどの様に受け取っているのかというと
観念という判断基準を使っています。
観念とは、「物事に対するイメージ・考え方」です。

その人のリンゴに対する観念が、「美味しいもの」であるならば、
その人は、リンゴを見た時に、快く感じ、欲しくなり、購入するでしょう。
その人の観念が、「リンゴは不味いもの」であるならば、
その人は、リンゴを見た時に、不快に感じ、避けたくなり、その場を離れるでしょう。

多くの方々は気づいていませんが、人はあらゆる物にその人特有の観念を持っています。

 その物=名前+情報(知識)+観念

という、辞典をその人その人で持っているのです。

 その物=富士山=日本で一番高い山であり、旧火山だ。
       観念1:頂上に登ると気持ちいいだろう。
       観念2:富士山には神様が宿っているぞ。
       観念3:一度は登るべきだ。

 その物=ダンス=リズムに合わせ身体を動かし、様々な表現をする。
       観念1:ダンスなど男性の行うものではない。      
       観念2:楽しいので、みんなも踊るべきだ。
       観念3:ダンスは、天性のセンスと日頃の努力のたまものだ。

と言う様に、情報による知識は、同じ文化圏であれば同様ですが、
観念は、それぞれで異なっています。
富士山と聞いて、全員が登れば気持ちいいだろうとは思いません。
逆に登るのはきつそうだ、と思う人もいます。

また、不合理な観念を持つ人だっています。
子供は、叩いて教育しなければならない、
全ての人に好かれないといけない、
と言う様な感じの合理的ではない観念を持つ人は多い。

観念は、思いこみです。
過去の経験によって、自身に刻まれた記憶の蓄積です。
過去に良いイメージを持っていたら、前向きに捉えようとする観念となり、
過去に悪いイメージを持っていたら、後向きに捉えようとする観念となります。
また、他者からの言葉に依っても、イメージは左右されます。
特に三歳までの両親から受ける言葉の影響は大きい様です。

 男は泣いてはいけない。
 女の子は上品にしなさい。
 勉強をしないとダメだぞ。
 人の言う事を聞きなさい。

これらの言葉を受けた人は、その言葉に応じて観念を育てます。

 触→受→愛→取→有

出来事を体験した時、人は観念を通してそのことを判断し、
欲求を起して行動に移します。
この、触→受→愛→取という連鎖は、大人になれば、
ほぼ瞬間的に行われ、観念を通して判断していることすら気づいていません。
しかし、結果として悪業によって苦を生じているのであれば、
この一連の連鎖が悪因なので、自分の観念を知り、断ち切る必要があります。

そこでまず、観念を使わないで判断する修行を提案しています。
それが、正思惟です。
正思惟は、次の正語・正業に関わるので、先に正語・正業を説明します。

○正語 & 正行(正業)

正しい言葉つかいと行為のことです。
話をすることも行為に含まれますが、ここでは別項目として取り上げています。

 触(体験)→受(受け取り方)→愛(欲望)→取(行為)→有(悪業)

 Aさんは、「挨拶は年下や後輩からするべきだ」という観念の持ち主だ。
 ある日、新入社員と出勤の際に出会った。
 Aさんは、当然ながら、自分から挨拶はしない。
 相手が頭を下げるのを確認してからじゃないと挨拶しない。
 しかし、相手の新入社員は無視して行ってしまった。
 怒るAさん。
 そんなことが一週間も続けば、Aさんのその新入社員への評価は最悪となる。
 その新入社員を見ると無性に腹が立ち、不機嫌になる・・・

Aさんの不機嫌の原因は、「挨拶は年下や後輩からするべきだ」という観念です。
この観念を見直し、人に出会ったなら無視をせず、自分から挨拶しよう、と決めてみましょう。
そして、自分から笑顔で挨拶をしてみます。
もしかしたら、新入社員は単に挨拶が苦手なだけかも知れません。
上司から挨拶される内に挨拶に慣れて、誰にでも挨拶が出来る様になるかも知れません。

およそ、人の悩みの大半は人間関係です。
その中で、言葉の使い方は重要です。

出会いの時の挨拶。
お互いが近づくための雑談・社交。
共に何かを実行する活動。
人間関係の完成とも言える親密。

これらの交流の中で、言葉は重要です。
特に挨拶の言葉は重要であり、第一段階の接近がなければ、
その人は永遠に閉鎖的状況、引きこもりになってしまいます

もし、自分が閉鎖的であると感じ、誰とも交流が出来ず
恋人はおろか友人さえも出来ずに悩んでいるとしましょう。
結果的に苦を味わっているのなら、判断基準である観念が不合理なのだから
まずは、自分の観念を観てみます。

 (人は俺を馬鹿にしている。そういう人たちと付き合うべきでない。)
 (人間は分かりあえるはずがない。)
 (一人の方が楽だ。)

必ず、一人でいる方が得に思える様な観念を持っています。
一人でいる方が得だから、人から馬鹿にされたくないから、
誰とも交流しないという行動を選択し、実行しているのです。
もし、心から一人が嫌だと思っていたなら、もっと開放的であるだろう。

自問自答が必要だ。

 (私は引きこもっている。その事によって何を欲しているんだろう?)
 (私が引きこもるのは、どういう観念によるのだろう?)

正見により、自分の観念を見極めます。
観念を観る時は、いいとか悪いという判断をするのではなく
ただ、(何が欲しかったのだろう?)(どんな観念があったのだろう?)
と見つめてみます。
すると、やがて「気づき」が訪れます。
自分の観念に気づくということは、正見の重要な第一歩です。

気づくと分かるのですが、観念には、不合理なものが多いようです。
不合理な観念を判断基準にしていたから、悪業に繋がってたのだが・・・
よって、観念に気づいたら観念を外します。
観念を外すのは簡単です。

 (私は、一人の方が楽だって思い込んでたんだな。なるほど。)

と言う様に納得すればいいのです。
観念を外したら、正思惟によって判断し、行動してみます。
この時、無常・無我を念頭に入れて判断します。
不合理な観念とは、無常・無我を無視した考え方です。
つまり、指示・命令形、「〜するべきだ」とか、「〜しなければならない」
「〜のはずだ」「〜のはずがない」という様な
執着的な文章である事が多い様です。
決めつけやこだわりです。
よって、執着のある観念を捨て、執着のない思惟に替えて判断してみます。

(一人の方が楽である事もあるし、苦しいこともある。
 複数の方が楽である事もあるし、苦しいこともある。
 では、これまでとは、違ったやりかたを試してみよう。)

例えば、家族に朝の挨拶をしてみる、など
実際に行動してみます。

ポイントは、その出来事を体験して、どの様に感じ、どの様に考え、
どの様に行動したかです。
そこから観念が観えてきます。

 体験→[観念]→思考・感情→行動(言動)→悪業

観念が観えたなら、未来を変えるために
これまでとは異なる選択をしてみます。
その言動が真理に従っていれば、善業となります。

 [正思惟]→行動(言動)→善業→プチ安穏の境地

○正命

正しい生活のこと。
正思惟によって、正語・正業を連続して行います。
最初は、なかなか観念に気づかないため
苦悩を感じた時に観念を観る機会を持つようにし
慣れてきたら、色んな観念に気づいていく様にします。
そうすれば、正しい生活に繋がることになります。

○正精進

正しい生活を続けるように努力することです。
さらに正思惟による正語・正業を日常化していきます。
特に頑張って続ける必要はありません
マイペースで続けていきます。

○正念

正しい記憶のこと。
正思惟による正語・正業を日常化することに慣れたら
無常・無我の真理を基にした思惟による行為が
これまでの観念の代わりになる。

観念とは過去の産物だが、正思惟は未来への志向となる。
新しい記憶へと塗り替えるわけだ。

○正定
正しい禅定のことです。
禅定とは、瞑想の事です。
瞑想には、静止する瞑想と観察する瞑想があり、
ここで言う禅定は、観察する瞑想のことをいういます

お釈迦さまは、苦行を捨てて、禅定に依って悟りをえましたが、
その禅定が、観察する瞑想でした。

正思惟による正語・正業を日常化し、
正念を保つ事が出来たなら、
自身の心身に落とすために瞑想を行います。
自分の思惟と行為が、きちんと無常・無我に依っているかを
深く反省することです。

この正定によって、正見が完成されていき、智慧へと高まります。

この様に八正道は、一つ一つの修行が分かれているのではなく、
八つの修行をらせん階段をのぼる様に実践していくことが必要です。
どれも重要な修行であるが、まずは、観念に気づく内観が第一歩です。

合掌

●十二因縁の法門-01     2011/7/28(木) 午後 5:52

先日、私の属する教会にて
「十二因縁の法門」の研修がありました。
対象者は、信仰のベテランさんで
法華経を毎日読誦する方々なのですが
残念ながら、ほとんどの方が理解できていませんでした。

対象者は、私を除けば、全員主婦です。
普通のおばちゃん、おばあちゃんが仏法を習うこと自体
本当は、素晴らしい事なのですが、
せっかくの研修なのに、理解できないのは、
もったいないな、という気持ちも起こります。

研修内容は、十二因縁でした。
これって、確かに難しいですね。
連鎖する項目が、十二もあるし、
それぞれの項目が、難解な仏教用語なので
とっつきも悪いです。

このブログにおいても、過去に十二因縁の法門を
さらりと紹介しましたが、難しかったと思います。
今回、再び、十二因縁を説いてみようと思います。
分かりやすく十二因縁を説くための
私自身の挑戦です。

つづく。

合掌

●十二因縁の法門-02     2011/7/28(木) 午後 7:42

まずは、十二因縁のポイントを
確認しましょう。

○苦の原因を探求するための教え

これが最重要なポイントです。


私たちの人生は、苦しみで満ちています。

生まれる苦しみ。
老いる苦しみ。
病気になる苦しみ。
死ぬ苦しみ。
愛する人と別れる苦しみ。
憎い人と出会う苦しみ。
欲しいものが得られない苦しみ。
心と身体が活発に働くことによる苦しみ・・・

失恋、三角関係、片思い、不倫。
夫婦・嫁姑・職場などの人間関係。
失業、貧乏、借金、ローン地獄。
暴力、虐待、苛め。
交通事故、天災、戦争・・・

時は流れ、すべてのものごとが変化していますので、
今は、平常心でも、次の瞬間には何かが起こり
苦しみを味わうかもしれません。
数秒後に、天災が起こったり、事故が起こるかもしれないのです。

 この世界は、苦に満ちている。
 この人生は、苦に満ちている。

そのことを人々は、よく知っていますので
苦をもろに受けないように
苦を受けても深みに入らないように
苦を避ける方法、苦から逃げる方法を
人々は、幼少の頃から経験の中で学びます。

苦を受けない様に・・・

ある人は、笑顔を作り、挨拶をし、お世辞を言って
周りからの攻撃がないように努めます。

ある人は、身体を鍛え、怖い顔を作り、危険な人だと思わせ、
周りからの攻撃がないように努めます。

ある人は、勉強をし、いい大学に入り、いい会社に勤め、
社会的地位を確立することによって、自分を守ります。

ある人は、人間関係をあえて作らず孤立し、
ある人は、引きこもって社会から孤立し、
周りからの攻撃がないように努めます。

様々な苦を受けない方法を
人それぞれが知っており、
その方法を使って、
苦と直面することを避けています。

苦から逃げるために・・・

ある人は、仮病を使い、
学校とか会社を休み、苦から逃げます。

ある人は、お酒を飲み、
ある人は、ギャンブルをし、
ある人は、異性に走り、現実から逃げます。

趣味・娯楽・スポーツ・サークル・宗教・セミナーなど、
苦から逃げるためにそれらに没頭する事もあるでしょう。

家出。
暴力。
犯罪。
自殺。
他殺・・・

様々な苦から逃げる方法を
人それぞれが知っており、
その方法を使って、
苦から逃げています。

ある人は、一生、苦を避け、
苦から逃げ続けるでしょう。
何か嫌なことがあれば、職場を辞め、
離婚をし、逃げ回ります。
癒しの空間を求め、人間関係に積極的になれず、
感情を殺すことになります。

苦と直面せず、逃げることは、
当然ながら、苦を解決する方法ではありません。
よって、逃げる人生は、さらなる苦を生むことになります。

仏教では、苦をきちんと受けとめよ、苦と直面せよ、と説きます。
そして、苦の原因をつかみ、苦を滅した状態を目指し、
苦を滅する方法を説きます。

今回のテーマである「十二因縁の法門」は、
苦の原因をつかむ教えです。

つづく。

合掌

●十二因縁の法門-03     2011/7/28(木) 午後 10:52

苦の原因を探るために
釈尊は、縁起の法を用いました。

縁起とは、

 AがあればBがあり、AがなければBがない。

であり、
苦の原因を探るために、

 Aがあるから苦があり、Aがなくなれば苦がなくなる。

という二種の縁起で観ます。
Aは、様々な項目が考えられます。

生老病死の苦は、肉体があるから生じます。
または、感情があるから苦が生じます。
または、思考があるから苦が生じます。

愛別離苦。
つまり、愛するものと別れる苦しみは、愛するから生じます。
または、そのものと関係を保ち続けたいという
執着があるから苦が生じます。

怨憎会苦。
つまり、憎いものと出会う苦しみは、憎いから生じます。

求不得苦。
つまり、欲しいものが得られない苦しみは、
欲しいものがあるから生じます。
欲しいものを見たり、聞いたりする
六感があるから苦が生じます。
見たり、聞いたりしたものを
心に受けるから苦が生じます。

五蘊盛苦。
つまり、心身が盛んになることによる苦は、
心身があるから生じます。

 肉体があるから苦があり、肉体がなくなれば苦がなくなる。
 感情があるから苦があり、感情がなくなれば苦がなくなる。
 思考があるから苦があり、思考がなくなれば苦がなくなる。
 愛があるから苦があり、愛がなくなれば苦がなくなる。
 執着があるから苦があり、執着がなくなれば苦がなくなる。
 憎しみがあるから苦があり、憎しみがなくなれば苦がなくなる。
 欲求があるから苦があり、欲求がなくなれば苦がなくなる。
 六感があるから苦があり、六感がなくなれば苦がなくなる。
 感受があるから苦があり、感受がなくなれば苦がなくなる。
 心身があるから苦があり、心身がなくなれば苦がなくなる。

いくつかの項目はだぶってますが、
以上の様に苦の原因を探ることが出来ます。
この因果は、二種縁起と呼ばれます。

ここで、五蘊について説明します。
五蘊とは、五つの要素の集合の意味であり、
あらゆる生命体は、「色・受・想・行・識」という
五つの要素が仮に和合したものと観ます。
この内、色は身体を意味し、
残りの受・想・行・識は、心を意味します。

身体には、眼・耳・鼻・舌・肌という感覚器官があり、
それらの感覚器官によって得た情報は、
感受作用によって心に受け、
心に受けた内容は、記憶にあるイメージ、知識を引き起こし、
ある思考をし、その思考から、
ある行為を起こそうとします。
この感受・思考・決定という流れは、
認識作用によって認識され、
身体によって、行動に移されます。

 色=身体
 受=感受作用
 想=表象作用
 行=意志作用
 識=認識作用

世界の物や現象を眼や耳によって心に受け、
その中から、欲しいものを選び、
それを入手するか否かを決定し
それを実施する・・・

簡単に言えば、「欲しいものを得る」のが
五蘊の作用です。
よって、五蘊盛苦とは、心身が盛んになることによる苦であり、
言いかえれば、欲しいものを得る活動が活発になるために
生じる苦しみです。
なので、五蘊盛苦から苦しみの原因を引けば、

 眼や耳があるから苦があり、眼や耳がなくなれば苦がなくなる。
 感受作用があるから苦があり、感受作用がなくなれば苦がなくなる。
 記憶があるから苦があり、記憶がなくなれば苦がなくなる。
 思考があるから苦があり、思考がなくなれば苦がなくなる。
 決定があるから苦があり、決定がなくなれば苦がなくなる。
 認識があるから苦があり、認識がなくなれば苦がなくなる。
 肉体があるから苦があり、肉体がなくなれば苦がなくなる。

という二種縁起を観ることができます。

つづく。

合掌

●十二因縁の法門-04     2011/7/29(金) 午後 4:42

前回は、苦の原因を探るための
二種縁起について説明しました。

○Aがあるから苦があり、Aがなくなれば苦がなくなる。

苦の原因となるAには、色々とありますが、
前回は、四苦八苦の苦の代表的なものを考えてみました。

 A=肉体、感情、思考、愛、憎しみ、執着、欲求、六感など

さらに、八苦の中の五蘊盛苦の苦の原因を観た時、

 A=感覚器官、感受作用、欲求、執着、感情、思考、記憶、
    決定、認識、肉体など

四苦八苦の苦の原因であるAは、
五蘊盛苦の苦の原因であるAと重なります。
苦の原因となるAは、五蘊の中にあることが分かります。

難しい言い方をしましたが、苦の原因は外にはありません。
内側にあります。
つまり、私たち自身の心と身体にあります。
五蘊とは、前回も説明しましたが、
心と身体を意味する言葉です。

(ただし、小乗の説一切有部によって、
 色は身体ではなく、すべての物質の意味となります。
 大乗においても、色はすべての物質の意味です。
 ですが、ここでは、根本仏教の段階ですので
 色は身体という意味として使っています。)

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-05     2011/7/29(金) 午後 10:34

これまでは、二種縁起によって
苦の原因を探りましたが、
今回は連鎖縁起を説明します。

初期には、二種縁起と連鎖縁起は
並行して説かれていた様です。

連鎖縁起とは、

 AがあるからBがあり、BがあるからCがある。
 AがなくなればBがなくなり、BがなくなればCがなくなる。

という様にAはBの原因であり、BはCの原因となるような
連鎖する縁起のことです。

 A→B→C

初期の代表的な連鎖縁起は、五種縁起であったといいます。

 愛→取→有→生→老死

 愛=渇愛
 取=取り入れること
 有=迷いの生存
 生=生まれる苦
 老死=苦しみ

ただし、生は、後の十二因縁に見られるような
「転生」の意味ではなく、「生苦」です。
よって、生・老死は、生老病死の苦を表します。
ということは、

 愛→取→有→苦

ということです。
(四種縁起っぽいですね)

すべての生命体の活動は、
欲しいものを得るということです。
欲があり、入手し、それによって生存します。
(愛→取→有)

ほとんどの生命体は、外部にある物を食べ物として感知し、
それを欲しがり、手に入れるために行動し、
成功すれば、自身の栄養となり、生存につながります。
ということは、生命活動自体が苦の原因だということになります。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-06     2011/7/31(日) 午後 11:32

連鎖縁起の一つである、「五種縁起」のつづきです。

 愛→取→有→生→老死

生・老死は、生老病死の苦のことをいいます。
つまり、苦のことです。

 愛=渇愛、欲求
 取=取り入れること
 有=迷いの生存
 生老死=苦しみ

 愛→取→有→生老病死などの苦

この連鎖は、原因から結果を観ていますが
苦の原因を探るためには、結果から原因を観ます。
つまり、生老病死などの苦は結果ですので、

○結果→原因

 生老病死などの苦→有→取→愛

という様に観ます。


生老病死などの苦しみの原因を探ると、
「生存」であることが分かります。
苦しみは、自分というものが有るから生じます。
身体がなければ、病気も老いも死もありません。
自分という生存がなければ、当然ながら苦は生じません。

生存するものを、「有」といいます。

○結果→原因

 苦→有

○原因→結果

 有→苦

有とは、有情としての存在です。
つまり、この世界にある存在の中で
心のあるものを有情といいます。
心があるから苦を感じるのであり、
肉体があるから苦を生じます。

存在を消せば、苦が消えます。
ということは、人生の苦を受けたくなければ
死ねばいいということになります。

死ねば苦が解決する・・・
しかし、この短絡的な考え方は
輪廻説によって否定されます。
死んでも、再び肉体を持って生まれるため
根本的な解決にはなりません。
生存する事の原因をさらに探り、
根本的な解決につながる原因を
見つけることが必要です。

では、生存することの原因は何でしょう?
それは、外部の色んなものを取り入れることです。
食べ物、空気、水、光、熱などを身体に取り入れた結果
人は生存を続けることになり、苦を受けることになります。

○結果→原因

 苦→有→取

○原因→結果

 取→有→苦

食べ物などを取り入れなければ
生存が消え、苦が消えます。
これでは、やはり根本的な解決にはなりません。
さらに、苦の原因を探る必要があります。

そのものを取り入れるということの原因を探ってみましょう。
それは、欲求です。
そこにものがあっても、欲求がなければ行動にでません。
欲しいと感じるから、入手しようとします。

○結果→原因

 苦→有→取→愛

○原因→結果

 愛→取→有→苦

苦の原因は、「生存」であり、
「生存」の原因は、「手に入れようとする行動」であり、
「手に入れようとする行動」の原因は、「欲求」です。

「欲求」があるから、「手に入れようとする行動」があり、
「手に入れようとする行動」があるから、「生存」があり、
「生存」があるから、「苦」があります。

「欲求」がなければ、「手に入れようとする行動」がなくなり、
「手に入れようとする行動」がなければ、「生存」がなくなり、
「生存」がなければ、「苦」がなくなります。

苦を滅しようとするならば、愛→取→有→苦の連鎖の
どこかを断ち切らなければなりません。
欲求を断つか、行動を断つか、生存を断てば、苦は滅します。
しかし、これまでに観た様に、「手に入れようとする行動」や
「生存」を断つことは、根本的な苦の解決にはつながりません。

というより、「手に入れようとする行動」や「生存」は、
それ自体のみを消すことは出来ません。
なぜなら、欲求がないと行動は起こらないからです。

 愛→取 = 欲求→行動

行動の全ては、必ず欲求に基づいています。
たとえ無意識的であっても、
行動は欲しいものを得るためにあります。
欲求があっても行動しない場合もありますが、
欲求がなくて行動することはありません。
必ず、行動の前提には欲求があります。
よって、行動を消すには、
欲求を消すしか方法はありません。

欲求を消して、行動を消し、
生存を消して、苦を消す・・・

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-07     2011/8/3(水) 午前 0:00

欲求が苦の原因であるということは
初期の経典にも見られるし、
法華経にも書かれています。
仏教の一つの結論でしょう。

 愛→取→有→生老病死などの苦

仏教の愛という言葉は、
サンスクリット語の「トリシュナー」の漢訳です。
「トリシュナー」を日本語に直訳すれば「渇き」です。

渇き・・・
つまり、のどが渇いて水を欲する様な心を
愛といっています。
そのことから、渇愛とか、執着とか、貪欲
などとも訳されます。
ここでは、話の都合上、欲求としていますが
愛とは、その様な意味があります。

英語の "love" を「愛」と訳したため
愛という言葉に混乱が生じていますが、
仏教の愛とキリスト教の愛とでは
大きな違いがありますので
注意が必要です。

苦の原因は、愛です。
このことは、実は仏教以前からの結論でした。
仏教以前のインドの宗教であるバラモン教においても
愛は、苦しみの根源であるとされています。

よって、バラモン教では、苦を滅する方法として
苦行がすすめられます。
それは、極端な禁欲であり、苦をもって苦を制す方法であり、
思考を止める瞑想でした。

釈尊も出家後は、苦行を実践しますが、
そこに悟りへの道はないとして、
思惟の瞑想によって悟りにいたります。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-08     2011/8/3(水) 午後 5:14

十二因縁の法門は、苦の原因を探るための教義です。
苦には、四苦八苦があり、
前半の四苦は肉体がからむ苦、
後半は、心を中心とする苦です。

ここで、四苦について
もう一度、詳しく説明します。
四苦とは、生老病死の苦です。

○生苦

生まれる苦しみ。
アニメの「手塚治虫のブッダ」では、
生苦とは、「産道を通過する際の苦しみ」としていましたが、
この説は、通説ではありません。

生苦とは、輪廻転生説に基づく考え方です。
輪廻転生説は、仏教以前のバラモン教の根本となる教えで
人は生まれ変わり、死に変わるというものです。
バラモン教には、カースト制度という身分制度がありました。
いわゆる、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラ
という4つの身分です。

 バラモン=バラモン教の僧侶
 クシャトリア=貴族・武士
 ヴァイシャ=平民
 シュードラ=奴隷

バラモンの子はバラモンであり、
シュードラの子はシュードラとして生きることになります。
シュードラとして生まれた子は、どんなに努力しても
上の身分にはなれず、死ぬまで同じ身分です。

しかし、死後、次に生まれ変わる際に
身分を変えることは可能だとしました。
つまり、生きている間に善業を積めば、
転生して上の身分となり、
生きている間に悪業を積めば、
転生して下の身分になるとしたのです。
シュードラの身分として生まれても
真っ当に人生をおくり、善業を積めば、
次の生では、ヴァイシャやクシャトリアに
生まれ変わる可能性があるとしました。

この輪廻転生説は、人々に広く信じられ
下位の人々は、次の人生の楽を夢見て
生きていました。
もし、この人生しかなく、
これっきりの人生であったならば
下位の人々は人生に失望し、
生きる気力を失い、自分たちの自由を願って
脱走、暴力、暴動などを起こす事態も
あったと思います。

バラモン教の世界を維持するために
輪廻転生説は、実にうまくいっていたようです。
しかし、少し考えてみれば理解できるのですが、
自身の業によって転生後のカーストが変わるというのは変です。
カースト制度は、バラモンが作りだした説であり、
バラモンにとって都合のよい世界だからです。

輪廻転生が真実であるならば、
人間の作りだした枠内で輪廻するという説は
信じられません。

仏教も輪廻転生説を肯定しています。
しかし、人はみな平等であると唱える仏教の思想には
カースト制度というものはなく、
転生後には、業にしたがって、
善趣(よい境遇)か悪趣(悪い境遇)に
生まれ変わるとしました。
後に、悪趣については具体的に地獄が説かれるようになり、
さらに、餓鬼や畜生も説かれ、
善趣としては、天が説かれる様になりました。
これに、人という境界を合わせて、
五趣(五界)の世界があるとされ、
生命体は、この五趣を輪廻するものとされました。
後に闘争の境遇としての修羅が加わり、
六趣(六界)という思想になりました。

この六趣(六界)は、いずれも苦の世界です。

 地獄・・・最悪の苦しみの世界
 餓鬼・・・常に欲求不満の状態を味わう世界
 畜生・・・本能のままに生きる世界
 修羅・・・闘争の世界
 人・・・・・人間世界
 天・・・・・一時的な楽の世界

大乗以前の仏教では、
修行の目的を六趣からの解脱だとしました。
悪業によって転生後は苦の世界を輪廻しますが、
善業を積み、悪業の繋縛を開放することにより
六趣から抜け出せるとしたのです。

よって、人身を受けて誕生することは、
再び、苦の世界に転生してきたことを意味します。
生まれる苦しみ、生苦とは、その様な苦をいいます。

五種縁起では、

  愛→取→有→生→老死

としました。
老死とは、老病死憂悲悩苦のことです。
老死などの果は、生を因としていますので
生→老死としたのだと思います。

ただし、初期の連鎖縁起には、
輪廻の教義を取り入れてはいません。
生苦は、輪廻の思想ですが、
愛→取→有までと、生→老死とは、
別の人生だとは説いていません。
連鎖縁起と輪廻説が融合されるのは、
五種縁起が説かれてから、ずっと後のことです。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-09 老病死の苦     2011/8/3(水) 午後 11:34

○老苦、病苦、死苦

老いること、病気になること、死ぬことは、苦しみです。
これらの苦しみは、肉体があるから起こります。

肉体的苦しみは、痛みを伴います。
老化すれば、身体のあちこちにガタがきて、
身体のあちこちが痛む様になります。
病気も苦痛であり、死も苦痛です。
死ぬ瞬間は、痛みを感じないという説もありますが
ほとんどの死には、痛みがある様に思います。

私は、これまでに、尿管結石、痛風、股関節炎などの
激痛を数度経験しました。
虫歯の痛みも激痛だと思います。
これらの痛みは、本当に辛い・・・ 

身体がなければこの痛みはないのでしょうから
苦痛の原因は生存であり、
生存の因は、欲しいものを得るという行動です。
そして、そもそもの原因は、欲であることが分かります。

ここまでは、肉体的な苦を観てきました。
では、次に精神的な苦を観ていきましょう。
老いること、病気になること、死ぬことは苦しみですが、
その苦しみは、痛みによる苦痛だけではなく、
そのことを受けて、気にし、心にとめるために
生じる苦しみが多々あります。
というより、心に受けて、感じたり、思ったりしなければ
苦は生じませんので、全ての苦しみは、
心があるから生じます。

星新一のショート・ショートで
こういうのがありましたね。

ある人が、一度死んで生き返り、
死ぬことは苦痛ではなく、むしろ快感だったと
発言しました。
しかも、死後の世界はまるでパラダイスであり、
この世界より、はるかに素敵だと言い、
生き返ってすぐに自殺しました。
すると、せきを切った様に
自殺者が増えたという物語です。

死ぬ瞬間の痛みや
死後の世界の不明さから
人々は死を恐れますが、
死の瞬間が快感であり、
死後の世界がパラダイスならば
誰も死を恐れず、死を選ぶでしょう。

最大の苦は死でしょう。
しかし、死が苦しみなのは、
死の正体が分からないからです。

死ぬ瞬間の痛みとはどんなものか?
死んだあと、どうなるのか?
死について何も知らないために
人々は、死ぬことに不安を感じ、恐れます。

死を受け入れず、拒否すればするほど、
苦悩は増すことでしょう。

病気、老化、死は、あらゆるマイナス感情を引き出します。
恐怖、不安、心配、悲哀、疑惑、恨み、嫉妬、怒り、憎しみ、
嫌悪、劣等感、惨め感、激情、逃避、あきらめ、悩み、虚脱感・・・
そのマイナス感情を抱くことを苦というのでしょう。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-10    2011/8/7(日) 午前 1:22

病気、老化、死は、苦痛を感じる苦と
マイナス感情を引き起こす苦があります。

それらの苦は、肉体と精神があるために起こりますので
苦の原因は、生存だといえます。
そして、生存はあらゆるものを取り入れるから起こり、
取り入れる行為の原因は、欲求にあります。
苦の原因は、欲求である、というのが一つの結論です。

なので、欲求を滅すれば、取り入れる行為は滅し、
取り入れる行為を滅すれば、生存が滅し、
そして、生存を滅すれば苦が滅します。

では、欲求を滅するとは、
具体的にはどういうことかというと、
禁欲をいいます。

仏教以前のバラモン教においても、
インドの他の宗教であるジャイナ教においても
欲求が苦の根源であるとみなされ
修行の中心は、禁欲であるとされました。

禁欲の修行。
それは、単に欲をなくすだけでなく、
苦をもって、苦を制する修行でした。
つまり、苦を積極的に受ける事によって
心身の欲を滅する修行です。

肉体の楽を欲するから、痛みを嫌う、
ならば、むしろ痛みを積極的に受け
欲を断とうとするものです。
禁欲、苦行は、苦を滅する修行として
大いにすすめられました。

釈尊は出家し、
バラモン教の三人の師の指導を受けましたが、
いずれも悟りへの道ではないと判断し
それらの師の元を離れました。

その後、釈尊の選んだ修行法が苦行であり、
一麻一米という極端な禁欲苦行を続けました。
死の寸前、痩せてガリガリになった釈尊は、
苦行では悟りは無理だと判断し、
苦行を捨てます。

 楽・・・王子としての生活
 苦・・・苦行

楽も苦も捨てた釈尊は、
菩提樹の下に座り、思惟の瞑想に入りました。

悟りへの道は、楽でもなく、苦でもなく、
その両辺に偏らないところにあると見極め
中道を悟ったといいます。
そして、中道によって、正しく内観をし、
縁起の法を悟り、苦を滅する方法を悟りました。
悟りが悟りを起こし、
遂には最高の悟りを得ることとなります。

釈尊は、苦の根本原因は、「愛」ではあるけれど、
さらに、その原因を探求することを試みたのです。
欲求でさえ深層心理であると思えますが、
釈尊は、さらに奥へとメスを入れ、
有名な十二因縁の法門を打ちだすに到りました。

いよいよ、次回からは、十二因縁に入ります。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-11     2011/8/7(日) 午後 10:55

これまでは、五種縁起(五支縁起)を
紹介してきました。

 愛→取→有→生→老死

今回からは、十二縁起の紹介に入ります。
項目が5つから12に増えますので
ちょっと複雑に思えますが、
考え方は五支縁起と同じです。
つまり、

 A→B→C→D→E→・・・苦

AはBの原因となり、
BはCの原因となるような因果の連鎖です。

苦の原因を探求するための教義ですので
結果から原因を思惟します。
これまでは、苦の原因は生存であり、
生存の原因は、得る行動であり、
得る行動の原因は、欲求であるという事まで
調べることが出来ました。
それが、五支縁起です。

十二因縁の法門では、さらに奥を観ます。
欲求の原因を探ろうというのです。

欲求は、何故起こるのでしょう?
欲しいと思う心が生じる原因は何でしょう?

それは、対象物があるからです。
そこに ものがなければ欲求など起こりません。

そこに美味しいものがあるから食べたくなり、
そこに異性がいるから近づきたくなり
そこにお金があるから手にいれたくなり
そこにお酒があるから飲みたくなります。

最初から、そういうものがなければ
欲求など起こりません。

 そこにものがある→それを欲しくなる

欲求の原因は、対象物があるから・・・
しかし、これだと、釈然としません。
対象物と自分とを結びつけるものがなければ
欲求は起こらないからです。

対象物があっても、自身がそれを感知できなければ
無いのと同じです。
私たちは、そのものを見たり、耳にしたりして、
そのものの存在を捉え、そのものに欲求を感じます。
ということは、

 対象物→眼や耳などの感覚器官→接触→感受→欲求

という連鎖がある事が理解できます。

○名色(みょうしき)・・・対象物

この世界には、三種のものがあります。
一つは、形があり、色がついており、
私たちの感覚器官で捉えることのできるものです。
一つは、形がなく、色がないけれど、
名前があることによって、あると意識できるものです。
その代表的なものは、心ですので
名色を心と物という様に定義することが多いですね。

もう一つは、形がなく、色がなく、しかも名前もないものです。
これは、私たちの感覚器官では捉えることが出来ず、
意識することも出来ません。
よって、それを欲する感情も湧きません。

名色とは、認識の対象となるものの総称をいいます。
ただし、宗派によって名色の意味は多少異なります。

○六処(ろくしょ)・・・感覚器官

六つの感覚器官のことで、
目・耳・鼻・舌・肌・意をいいます。
目・耳・鼻・舌・肌を五感といい、
それに意根を加えて六処とします。
五感が捉えるものは、色の世界ですが、
意(心)は、名色を捉えることの出来る感覚です。

○触(そく)・・・接触

対象物がそこにあり、私たちに眼や耳などの感覚があっても、
対象物と私たちの感覚器官が接触しなければ
そのものをあるとは認識しません。
つまり、そのものとの出会いが必要です。

○受(じゅ)・・・感受

対象物と自分の感覚器官が接触し、
そのものを自分が感受することです。

この時、快・不快の原初的感情を生じ、
その感情が、欲求を引き起こします。

 名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死

名色とは、対象物ですが、
この対象となるものは、二元的な感覚が
ベースにあります。

内の世界と外の世界、
私と私以外のもの、
見るものと見られるもの・・・
この自他を分ける作用を生むものを識といいます。
自分意識が識です。

自分意識は、
何が原因で生じるのでしょう。
それは、何らかの行為が原因です。

動いてみて、何かを認識した時に
他を感じ、自分意識が芽生えます。
最初に何らかの意識があっても
他を認識するまでは、
自他の識別は出来ません。

行為を起こし、自他を分ける自分というものは、
無明を根本原因としています。
無明とは、真理について無智な状態であり、
無智であるために、行為によって、
自他を分けます。

 無明→行→識→
 名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-12     2011/8/11(木) 午後 11:04

十二因縁の法門は、実に難しい教義です。
というのは、根本仏教としての十二因縁と
上座部仏教になってからの十二因縁とは、
かなり解釈が異なるからです。
しかも、上座部仏教においても
様々な説があり、どれを主に学べばいいのか迷います。

このブログでは、根本仏教の十二因縁をまず紹介し、
次に上座部仏教の数種の十二因縁を紹介する予定です。

これまで、根本仏教としての十二因縁を紹介しました。
仏教書などで説かれている十二因縁は、
通常、上座部仏教の十二因縁ですので
違和感をお持ちになった方も多いと思います。
根本仏教としての十二因縁では、
まだ、業とか輪廻の思想が入り込んでいません。

これまでのところを復習しましょう。

 無明→行→識→
 名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死

○無明(むみょう)
 真理について無智なこと。
 仏教の真理とは、無我・無常です。

○行(ぎょう)
 無明に基づく原初的な行為のことです。
 または、原初的な行為を起こそうとする
 根本的な意識ともいいます。

○識(しき)
 自分意識。
 自他の区別をつける意識。
 無明に基づく原初的な行為によって、
 自他の区別を意識します。

○名色(みょうしき)
 名のあるものと色のついたもの。
 つまり、眼に見えなくても名前のついたものは
 心にて認識できるし、
 色のあるもの、即ち物質は眼や耳で認識できます。
 名色とは、宇宙を自他で分けた場合の、他の方です。
 自分側が捉える事の出来るもの、対象物のことをいいます。

○六処(ろくしょ)
 六入とも。
 自分側が他を捉えるための感覚器官です。
 自分の目・耳・鼻・舌・肌の五感と意根のことです。
 
○触(そく)
 自他の接触(コンタクト)です。
 外界の対象物を自分の五感と意根にて捉えます。 

○受(じゅ)
 感受のこと。
 対象物と接触することにより、
 対象物の情報を自分に取り入れることです。
 感受により、快・不快の原初的感情を起こします。
 
○愛(あい)
 欲求のこと。
 快・不快の感情によって、
 そのものを自分のものにしたいという欲求が生じます。
 
○取(しゅ)
 欲求に従って、対象物を自分のものにするために
 行動することです。

○有(う)
 生存のこと。
 心と肉体を持って生きることです。

○生(しょう)
 生まれる苦です。
 この世界を苦の世界だとし、
 この苦の世界に生まれることを
 生苦としました。

○老死(ろうし)
 老病死などの苦です。
 生を加えて生老病死の苦ともいいます。
 つまり、苦のことです。

苦を探求する場合、苦の原因を連鎖的に探っていきます。
老死の原因は生苦であり、生苦の原因は有であり、
有の原因は取であり、取の原因は愛であり、
そして、連鎖を探って大本の原因を無明とします。

よって、無明を滅すれば行が滅し、
行を滅すれば識が滅し、
そして、連鎖をたどって苦が滅します。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-13     2011/8/12(金) 午前 10:19

十二因縁の法門は、実に難しい・・・
などと書くと、難しいイメージばかりを植え付けてしまい
かえって、みなさんを十二因縁から遠ざけてしまいそうですね。

だけど、やはり私は、十二因縁は難しいと言います。
おそらく、仏教を永く学んでいても、
確実にその意味を把握できている人は少ないでしょう。
もちろん、縁起を悟るとは仏教を悟るのに等しいため
完璧に把握している人は、少数でしょうが、
基本的理解をしている人すら少ないと思います。

まず、一つ一つの言葉が仏教用語であり
それらの用語を理解する必要があります。
無明と言われても、行と言われても
その言葉の意味することを学ばなければ
教義を理解できません。
この言葉の壁は大きいと思います。

しかも、時代により、宗派により、
その言葉の意味さえも変わってしまうのですから
迷ってしまいます。

だけど、十二因縁は重要な教えです。
人間の苦しみの原因を明確にし、
苦しみを滅するためには、
必要な教義です。

なので、早急に理解しようとするのではなく
じっくりと取り組まれることを提案します。
このブログでもじっくりと紹介していきます。
私自身が未熟者ですので、
解釈の甘さや不備があるとは思いますが
よろしくお願いいたします。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-14     2011/8/12(金) 午前 10:52

根本仏教においての十二因縁の法門を
法蔵館の「仏教学辞典」にて調べてみました。

**********************************************

自覚的な人間の生存(有)は、
精神の主体である識の活動から始まるものであるが、
その識の活動は、生活経験(行)となって、
還ってその活動の蓄積によって識を内容づける。
ところで、識の活動とは、
識が感覚器官(またはその機能)である
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(六処)を通じて
認識の対象であるすべての心や物(名色)と接触(触)し、
これを主観の上に感受(受)することによる。
凡夫にあっては、
識は無明(仏教真理に対する無自覚)を内相とし、
渇愛(求めて飽くない我欲)を外相とするものであり、
客観的対象にはたらきかける識の根基的な相は、
この渇愛に他ならず、
かつ、渇愛は発展してすべてをわがものとして
取り込もうとする執着(取)となる。
それ故にこのような染汚である識の活動(行)によって
内容づけられた識は、
それ相応に生・老死などによって代表された人間苦、
無常苦を経験しなければならない。
これに反して、聖者においては、
無明および渇愛がないから、従って人間苦もない。

***********************************************

この様に、単純に十二項目が連鎖していると観るのではなく
識を中心にしていることがよく分かります。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-15 上座部仏教の十二因縁     2011/8/12(金) 午後 5:59

根本仏教の十二因縁では、

業と輪廻の思想との結合は

はっきりとは見れませんが、

上座部仏教においては、

十二因縁に、業と輪廻の思想が

取り入れられています。

 (過去世) 無明→行→

 (現在世) 識→名色→六処→触→受→愛→取→有→

 (未来世) 生→老死

まず、「生」という解釈が変わりました。

根本仏教では、生苦の意味合いであり、

生老病死の一つとして考えられていたのですが

上座部においては、転生のことだとされました。

つまり、老死などの苦の原因としての転生だと観たのです。

よって、無明〜有までの十支と

生→老死は別の一生だと考えられる様になりました。

生→老死は、未来世だと観たのです。

この解釈によって、「有」の解釈も変わりました。

未来世の苦の原因である「有」に、

業の思想を取り入れたのです。

最初は、生存の意味であった「有」ですが、

「迷いによる行為」だと観るようになりました。

さらに、無明→行を過去世だと観るようになりました。

識〜有までを現在世とし、

これで十二因縁は三世に渡る連鎖へと発展しました。

「行」は、現在世の苦の原因であるため、

「有」と同様に業の思想が取り入れられました。

「行」は、業と同意になったのです。

識の解釈も変わりました。

自分意識という意味合いから、

転生後の原初的な意識へと

意味が変わりました。

また、名色の解釈も変わりました。

根本仏教では、認識の対象だったのですが、

全く意味合いが変わり、

自分の心と身体という意味になりました。

転生後の原初的な意識が生じ、

心と身体が創造されることを

名色といいました。

上座部仏教による初段階の

十二因縁です。

○無明(むみょう)

 過去世の無明。

 無明とは、真理について無智なことで

 煩悩とも解釈されます。

 仏教の真理とは、無我・無常です。

○行(ぎょう)

 無明に基づく過去の行為です。

 行=業であるといえます。

 煩悩に基づく行為ですので

 悪因となり、次の転生を引く事になります。

 死・・・

○識(しき)

 現在世への転生時の

 原初的な意識です。

 つまり、「生」と同じ意味ですが、

 ここでは詳しく説いてあるため

 母親の胎内にて芽生えた命を

 識としています。

○名色(みょうしき)

 心と身体のことです。

 母親の胎内で生じた命は、

 徐々に成長し、心と身体を形成します。

○六処(ろくしょ)

 六入とも。

 眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚器官が

 形成されることです。
 
○触(そく)

 他との接触(コンタクト)です。

 外界の対象物と自分の感覚器官との接触です。

○受(じゅ)

 感受のこと。

 対象物と接触することにより、

 対象物の情報を自分に取り入れることです。

 感受により、快・不快の原初的感情を起こします。
 
○愛(あい)

 欲求のこと。

 快・不快の感情によって、

 そのものを自分のものにしたいという欲求が生じます。
 
○取(しゅ)

 欲求が高まり、対象物に執着することです。

○有(う)

 現世における行為のこと。

 有=業です。

 死・・・

○生(しょう)

 転生のことです。

 現世の業によって、未来世の転生が引かれます。

○老死(ろうし)

 老病死などの苦です。

 転生後は、前世の業によって、

 苦しむ事になります。

この十二因縁の基本的な考え方は、

惑→業→苦 という連鎖です。

惑とは、煩悩のことですので、

ここでは、煩悩→業→苦 と書きなおします。

 (過去世) 無明→業

 (過去世) 苦→煩悩→業

 (現在世) 苦→煩悩→業

 (未来世) 苦→煩悩→業

ここでは、過去世の転生も未来世の転生も

一度しか書いていませんが、

実際には、何度も転生を繰り返すとされています。

これを単純に表せば次の様になります。

 (過去世) 無明→業

 (現在世) 苦→煩悩→業

 (未来世) 苦

これを十二因縁にあてはめると、

 (過去世) 無明(煩悩)→行(業)→

 (現在世) 識(苦)→名色(苦)→六処(苦)→触(苦)→受(苦)→

        愛(煩悩)→取(煩悩)→有(業)→

 (未来世) 生(苦)→老死(苦)

という様になります。

過去世の業が現世の苦の原因となり、

現世の業が未来世の苦の原因となりますので

両重の因果関係がそこに観えます。

よって、この上座部の十二因縁のことを

「三世両重因果説」といいます。

おそらく、一般的によく知られているのは、

この十二因縁でしょう。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-16 分位縁起(外縁起)     2011/8/12(金) 午後 10:24

説一切有部(有部)という上座部仏教最大の教団は、

十二因縁を、胎生学的な解釈で

十二の支分は、有情が生死に流転する過程における

それぞれの位態を示すものと観ました。

○無明

 過去世の煩悩。

○行

 煩悩による行為。業のこと。

有部では、この過去世の無明と行を五蘊としました。

つまり、五蘊という分位として観ました。

五蘊が、煩悩を起こし、業を造ったとしました。

○識

 過去世の無明と行の二因によって転生し、

 母体に心識が初めて託生する瞬間の

 有情の分位のことです。

○名色

 心と身体のことで、母体に命が生まれ

 成長して心身が育っている分位のことです。

○六処

 胎内にて、心身が成長し、

 六根を具える分位のことです。

○触

 出胎した後に、ただ接触感覚だけがある

 2〜3歳位までの分位のことです。

○受

 感受性の勝れている4〜15歳位までの

 分位のことです。

○愛

 愛欲の盛んな16歳以降の分位のことです。

○取

 貪欲の心の勝れている30歳以降の分位のことです。

○有

 愛取によって業を造る分位のことです。

○生

 現世の業によって、未来世に転生する分位のことです。

○老死

 生まれて以降、死に至るまでの分位のことです。

この十二因縁を、「外縁起」として説く事もあります。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-17 龍樹説     2011/8/13(土) 午前 0:14

これまで、根本仏教、上座部仏教の

十二因縁を観てきました。

今回は、龍樹説による十二因縁の法門をご紹介いたします。

龍樹は、大乗仏教の基盤である「般若経」の空を

釈尊の説かれた縁起と同義であると説き、

大乗仏教全般に大きな影響を与えた方です。

なので、龍樹の説かれた十二因縁の法門は、

比較的新しい十二因縁の解釈であり、

大乗仏教徒による十二因縁の解釈であるといえます。

○無明

 過去世の煩悩。

○行

 煩悩による行為。

○識

 過去世の業によって転生した時の根本の心識。

○名色

 根本の心識が、生存の場所に入った時に生じる

 心と身体のこと。

○六処

 心と身体が現れた時に生じる六根のこと。

 
 心と身体と六根によって、識が生じる。

○触

 外界と六根と識との接触のこと。

○受

 接触によって、感受が生じる。

○愛

 感受によって、欲求が生じる。

○取

 欲求の対象に執着を覚えて

 その対象を得るための行動を起こす。

○有

 行動によって、対象物を得て生存する。

 それは、五蘊である。

○生

 五蘊の有り方によって、未来世の生を引く。

○老死

 生まれて以降、死に至るまで苦しみが起こる。

よって、輪廻の根本である「行」を為さなければ転生しません。

無明が滅したならば諸行は生じません。

所行が生じなければ、それから先の支分は滅しますので

苦の集合は完全に滅します。

龍樹の説かれた十二因縁の法則は、実に分かりやすいですね。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-18 無明と愛     2011/8/13(土) 午後 11:38

これまで、様々な十二因縁の法門について、ご紹介いたしました。

色んな解釈があるもんだなあとつくづく思います。

しかも、ここにご紹介したものは基本的なものであり、

ヴァリェーションは他にも山ほどあります。

試しに、ネットで十二因縁、十二縁起を検索すれば

その解釈の多さに唖然とされると思います。

中には、すごくユニークなのがあったりします。

それらの山ほどの解釈にも、共通の教義があります。

 無明→愛→苦

苦の原因を探れば 愛であり、

さらに、愛の原因を探れば 無明である、

ということは、全ての解釈に共通です。

よって、苦の原因は、愛と無明の二つが多くの経典でも取り上げられています。

二つの苦の原因がありますので、苦を滅する修行にも二段階があります。

一つは、愛を滅する修行です。

それは、欲求のコントロールであり、禁欲です。

身体の痛感を強く刺激する様な苦行は、仏教ではすすめていませんので戒律を守ることによって禁欲します。

もう一つは、無明を滅する修行です。

無明とは、真理についての無智ですので無明を滅するために、智慧の完成を目指します。

そして、もう一つ重要な修行は、禅定です。

禅定とは、精神統一であり、瞑想であり、三昧ですが、なぜ、十二因縁から禅定の修行が観えるのかというと十二因縁の法門自体が禅定だからです。

十二因縁の連鎖縁起は、思惟の瞑想によって自身で調べるものです。

一応のアウト・ラインは、経典にありますが詳しい内容は、じっくりと自身で観ることが非常に重要です。

過去に多くの方々が、瞑想によって十二因縁を観じた結果様々な解釈が生じたのではないかな、なんて思ったりします。

戒律、禅定、智慧。

これは、戒定慧といって仏教修行の三つの要目だと言われています。

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-19     2011/8/18(木) 午前 9:41

 (過去世) 無明→行→

 (現在世) 識→名色→六処→触→受→愛→取→有→

 (未来世) 生→老死

過去世では、現世の苦の原因を明かし、未来世では、現世の業の結果を説いています。

そして、現在世においては、

 苦→煩悩→業

という連鎖を詳しく説いています。

十二因縁は、元々、苦の原因を探求する教義でしたがいつの間にか、有情の生存の在り方を説く内容になっている様な気がします。

なので、名色が、結生識によって始める心と身体の誕生の様な解釈として定着しました。

(結生識とは、受精の瞬間に生じる識のこと)

私は、根本仏教が説いた様に名色は、外界の認識の対象とした方がしっくりします。

そうすれば、無理に識を結生識にしなくてもよいし、六処も六根の成長という解釈にしなくても済みます。

また、分かりやすくするためには、識の前に生を、行の後と、有の後には、老死を示した方がいいでしょう。

生老死は、どの人生でも必ず味わう苦だからです。

よって、私の提唱する十二因縁は、

 (過去世) 無明→行→老死→

 (現在世) 生→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→老死→

 (未来世) 生→老死

こうすれば、分かりやすいと思うのですが・・・

つづく。

合掌。

●十二因縁の法門-20     2011/8/18(木) 午前 11:53

 (過去世) 無明→行→老死→

 (現在世) 生→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→老死→

 (未来世) 生→老死

この観方は、私のオリジナルです。

というより、生老死を補足して書き込んだだけですがこれだけで、十二因縁が少し分かりやすくなると思います。

今日は、識→名色→六処→触→受→愛→取→有について考えてみましょう。

この八支縁起は、実に面白い教義ですのでご紹介させて頂きます。

識とは、自分意識です。

私たちは、私と私以外という様に宇宙を二分して捉えています。

皮膚の内側を自分とし、皮膚の外側を自分以外としてみます。

この場合の自分を意識するものを識とします。

名色とは、宇宙を二分して捉えた場合の自分以外のものです。

しかし、自分以外のもの全てを言っているのではなく認識可能なもののことを言っています。

リンゴとか、ミカン、猫、犬などは形がありますから眼とか耳で捉えることが出来ます。

しかも、人間は、生物・物質的なものには、名前をつけていますので、そのものを見てそのものの名前も認識できます。

また、形がなくても、名前があれば認識できます。

例えば、心です。

思考、記憶、発想、想い出、恋愛感情、憎悪、心配、不安、恐怖、苦悩などは、形はありませんが、情報によって、これが恋愛感情だという知識がありますので心で認識が出来ます。

よって、名前のあるもの、形のあるものは認識できます。

しかし、未知のものは認識できません。

人類の誰も知らない宇宙の外れの星のことや海底深くの未発見の動物のことは、認識の仕様がありません。

近くにあるものでも、形がなく、名前がなければ、認識するのは無理です。

そんな自分以外のものを名色といいます。

六処とは、自分以外のものを自分が認識するための感覚器官のことです。

代表的には、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根をいいます。

外界には光があり、音があり、臭いがあり、味があり、形や温度があり、そして、眼には見えなくても名前のついたものがあります。

それらを感じるのが、六処です。

触とは、内外の接触です。

自分の感覚器官が、自分以外のものと接触することをいいます。

受とは、自分の感覚器官が、自分以外のものと接触した内容を自分の脳内に取り入れることです。

例えば、リンゴがそこにあり、私はリンゴを見ました。

 リンゴ(名色)→眼(六処)→見る(触)

リンゴと私とのコンタクトがありました。

この時、まるで私がリンゴというものを知らず見た事もなければ、形と色を観て、似たものを思い浮かべ、果物であろうと想像するでしょう。

しかし、情報がなく、そのものが食べられかどうかも分かりませんのでほとんどの人は、無視をします。

リンゴを見て、それが自分の大好物であれば欲しくなります。

リンゴを見て、苦手でしたら、手にしようとは思いません。

この一連の脳の働きを受といい、結論として、愛を引きます。

ただし、愛には二種があります。

「欲しい」か「欲しくない」のどちらかです。そして、「無反応」を入れて、三つになります。

  受→欲しい

    欲しくない

    どちらでもない。

この様に、欲しいとか、欲しくない、無反応は、なぜ起こるのでしょう。

誰もが同じ物を見ているのに、欲求のあり方に個人差が起こるのは何故でしょう?

 対象物(名色)→六処→触→受→欲しい

                欲しくない

                どちらでもない。

明らかに、受によって個人差が生じています。

受を詳しく観ると、

 対象物→眼で見る→

 知識・イメージ・過去の体験・観念など→感情→欲求

 受=知識・過去の体験・イメージ・観念など+感情

つまり、人はリンゴを見た時、自身の記憶をたどり、リンゴに関する知識を取り出します。

まず、名称を思いだし、果物であることを認識します。

そして、過去に食べた時の体験とその時のイメージを思い出し、同時にリンゴについての観念を引き出します。

観念とは、自分自身のそのものへの意味付けであり、「リンゴとは美味しい果物だ。お母さんが好きだった。」

の様に個人によって異なる意味付けです。

人は、対象物を見て、そのものの知識・過去の体験・イメージ・観念などを引き、結果的に感情を起こします。

それは、そのものをOKと見るか、OKと見ないかの判断感情であり、快か不快かの感情です。

この感情によって、欲求へとつながります。

通常は、対象物を見ると瞬間的に快か不快かの感情が出てきますが、対象によっては、迷う事があります。

愛とは、欲求のことです。

仏教では、通常、愛というと、「渇愛」を差します。

つまり、喉が渇いて水を欲する様な執着の強い欲情のことをいいます。

だけど、ここでは、分かりやすく欲求としています。

受によって生じた快か不快かの感情を元に欲しい、欲しくない、どちらでもない、を選びます。

取とは、欲しいものを自分のものにすることです。

または、欲しくないものから離れることです。

取に成功すれば、満足感を得ることが出来、取に失敗すると、欲求不満を起こします。

この満足感、欲求不満の感情は、新たなる欲求を引きます。

愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦などの苦は、この愛→取のところからくる苦でしょう。

有とは、生存です。

ただし、有情の生存ですので、煩悩多き生存であり、悪業を積んだ生存です。

この悪業が、次の転生を引き、再び苦の世界に生まれ、老死の苦を味わう事になります。

つづく。

合掌。

 

 :現在の閲覧者数:

     

 ご意見等がありましたら、think0298(@マーク)ybb.ne.jp におよせいただければ、幸いです。

 ホームページアドレス: https://think0298.stars.ne.jp