蓮の道 法華経方便品 (2014) 

2019.7.14

●方便品-1 「巧みな方便」     2014/11/2(日) 午後 6:56

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(1) 言に寄せて権実二智を歎ず  1) 諸仏の二智を歎ず

今回から方便品に入ります。方便品は、法華経全28品の中でも『如来寿量品第十六』と共に重要な章ですので、じっくりと解説していきたいと思っています。

 Upaaya-Kauzalya-Parivarto Naama DvitiiyaH

タイトルの「ウパーヤ・カウシャリヤ」とは、「巧みな方便」という意味です。ウパーヤというのが、手段・方法・アプローチという意味で、カウシャラ "kauzala" が、巧み・正しい・賢いなどの意味です。このタイトルにあるように、方便品では、諸仏が衆生を成仏に導く巧みな方法が明かされています。

*真読

爾時。世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗。
諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知。所以者何。仏曽親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曽有法。随宜所説。意趣難解。

*訓読

その時に世尊、三昧より安詳として起って舎利弗に告げたまわく。

「諸仏の智慧は甚深無量なり。その智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。所以は何ん。仏かつて百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所、意趣解り難し。

*現代語訳

その時に世尊は、瞑想から眼を覚まされると、尊者シャーリプトラに告げました。

「諸仏の得た智慧は、非常に深く、その智慧を得ることは、非常に難しく、智慧の門にはなかなか入ることできません。一切の声聞の弟子たちや縁覚の弟子たちでは理解しがたい内容です。人々が得ることの難しい智慧を、諸仏が得ることができたのは、仏が過去に無数の諸仏を敬い、無数の諸仏の元で修行に修行を重ね、信を持って努力精進をしたからです。その結果、多くの人々に知られるようになり、尊敬されるようになりました。非常に深く得ることの難しい真実を悟って成仏した諸仏は、人々の機根に応じて教えを説かれましたが、その教えの内容の奥の奥の真意は、人々には、なかなか理解できないものでした。

*解説

三昧に入っていた釈尊は、三昧から目を覚まされると舎利弗(しゃりほつ)に向かって説法を始められます。舎利弗は、釈尊教団の中では「智慧第一」と呼ばれる程、知的な方でした。釈尊も舎利弗の知力を認められており、自分のかわりに説法を任せることも多かったようです。これから法華経の説法をするに当たって、釈尊が説法の相手として舎利弗を選んだのは、法華経の内容が非常に智的な内容だということです。

方便品の最初の内容は、法華経を要約する内容でもありますから、次回からじっくりと解説をいたします。

合掌

●方便品-2 「今、まさに」     2014/11/2(日) 午後 8:57

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(1) 言に寄せて権実二智を歎ず  1) 諸仏の二智を歎ず

*真読

爾時。世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗。
…にじ。せそん。じゅうさんまいあんじょうにき。ごうしゃりほつ。

*訓読

その時に世尊、三昧より安詳として起って舎利弗に告げたまわく。

*現代語訳

その時に世尊は、瞑想から眼を覚まされると、尊者シャーリプトラに告げました。

*解説

経典には、「爾時」(にじ)という言葉がよく出てきます。「爾時」は訓読にすると「その時」と読みます。この「その時」というのは「今」のことをいいます。サンスクリット語の経典では、方便品の最初には、"atha khalu bhagav?n〜"とあります。アッタ "atha" というのが「今」のことです。直訳すると、「今、まさに世尊は〜」という意味になります。今、まさに霊鷲山で起こっていることを述べる形式で法華経は綴られているということです。

三昧というのは、禅定において、精神集中が深まりきった状態のことです。『序品』で世尊は無量義の教えを説かれた後、三昧に入られました。これを無量義処三昧といいます。この三昧に入られた時に、天からは華が散り、大地は震動しました。そして、釈尊の眉間から光が放たれ、他方の様子が照らし出されました。説法に集まっていた人々は、照らし出された世界の、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏界をはっきりと観ることができました。

この不思議な出来事の意味を文殊菩薩が、「これから世尊は最高の教えである法華経を説かれるのでしょう。合掌して一心に待ちましょう」と人々に解説しました。そして今、まさに釈尊は三昧から覚められて、智慧第一の舎利弗に説法を始められたのです。

合掌

●方便品-3 「諸仏の智慧」     2014/11/3(月) 午前 0:34

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(1) 言に寄せて権実二智を歎ず  1) 諸仏の二智を歎ず

*真読

諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。
…しょぶつちえ。じんじんむりょう。ごちえもん。なんげなんにゅう。

*訓読

諸仏の智慧は甚深無量なり。その智慧の門は難解難入なり。

*現代語訳

諸仏の得た智慧は、非常に深く、その智慧を得ることは、非常に難しく、智慧の門にはなかなか入ることができません。

*解説

いよいよ、ここからが釈尊の法華経説法の始まりです。経典では最初の一言が重要であることが多く、法華経においても同じことが言えます。「諸仏の智慧は甚深無量なり」というのが最初の一言です。諸仏の智慧とありますから、この智慧は釈尊一人だけの智慧ではなく、諸仏に通じる智慧だということが分かります。つまり、法華経においては多くの仏を想定しているということです。このことは、『序品』で日月燈明仏が登場したり、八王子が成仏することが説いてありますから、法華経の思想では多仏であることは承知のことと思います。

仏の智慧ということは、完成した智慧のことを言っています。法華経以前で説かれた『般若経』は、般若波羅蜜についての教えであり、般若波羅蜜とは「智慧の完成」のことです。よって、諸仏の智慧というのは、般若波羅蜜と同じことです。

智慧とは、真理を観察するはたらきのことです。私が目を閉じていれば、目の前にあるものを見ることはできません。目を開くことによってものを見ることができます。同じく智慧の目を開かなければ真理を観ることはできません。智慧のはたらきによって真理を観察することができます。真理を得れば智慧のはたらきが活性化し、智慧のはたらきが活性化すれば、さらに深く真理を得ることができます。こうして、最終的に最高の真理を得て、その果報として智慧を完成させ、成仏にいたるといいます。智慧が完成したならば、観られる対象が真理であり、観るものが智慧であるというような分別は消え、真理=智慧となります。よって、諸仏の智慧とは、最高の真理である妙法と一体です。

諸仏の智慧は甚深無量だと説かれています。甚深も無量も真理を形容する言葉です。初期仏教の経典の『阿含経』に、「此無上法甚深微妙難解難見」「十二因縁法之光明甚深難解」「無量法」などの言葉があり、大乗経典の『般若経』でも「甚深縁起」「甚深空無相無願解脱門」「此法甚深無量無辺」と説かれています。諸仏の智慧を甚深無量だと表わしているのは、諸仏の智慧と妙法とが一致しているということです。

釈尊は、菩提樹の下で煩悩を滅し、最高の真理を得て、智慧を完成させ、阿耨多羅三藐三菩提を成じました。ということは、ここでいう諸仏の智慧とは、釈尊が菩提樹下で完成させた智慧のことです。法華経では、その完成された智慧について説かれるわけです。

次に「その智慧の門は難解難入なり」とあります。難解というのは、理解することが難しいというのとはニュアンスが違います。言語道断というように、真理は言葉で表すことはできませんから、他者から学ぶだけでは限界があり、最終的には自身の智慧によって感得するしかありません。釈尊の力でも、説法だけでは人に真理を伝えることができません。真理は不可思議です。思議によっては得ることはできないので、難解なのです。智慧の門に入ることが難しいというのも同様です。言葉・概念に頼って分別し、思惟するのでは、智慧の門には入れません。智慧の門とは入口のことですから、普通の人では智慧の中に入れません。

合掌

●方便品-4 「声聞・縁覚」     2014/11/3(月) 午前 10:37

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(1) 言に寄せて権実二智を歎ず  1) 諸仏の二智を歎ず

*真読

一切声聞。辟支仏。所不能知。
…いっさいしょうもん。ひゃくしぶつ。しょふのうち。

*訓読

一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。

*現代語訳

一切の声聞の弟子たちや縁覚の弟子たちでは理解しがたい内容です。

*解説

すべての声聞・すべての縁覚の弟子たちは、諸仏の智慧を知ることができないといいます。声聞・縁覚とは出家した修行の専門家です。その修行者たちでさえも、諸仏の智慧を得ることができないというのです。声聞・縁覚・菩薩という三つの修行のコースがあることは、『序品』で説かれていますが、ここには菩薩については触れていません。声聞・縁覚ではだめだけれど、菩薩ならば諸仏の智慧を知ることができるということが暗に説かれているようです。

合掌

●方便品-5 「無数の諸仏」     2014/11/3(月) 午後 2:30

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(1) 言に寄せて権実二智を歎ず  1) 諸仏の二智を歎ず

*真読

所以者何。仏曽親近。百千万億。無数諸仏。
…しょいしゃが。ぶつぞうしんごん。ひゃくせんまんのく。むしゅしょぶつ。

尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。
…じんぎょうしょぶつ。むりょうどうほう。ゆみょうしょうじん。みょうしょうふもん。

成就甚深。未曽有法。随宜所説。意趣難解。
…じょうじゅじんじん。みぞうほう。ずいぎしょせつ。いしゅなんげ。

*訓読

所以(ゆえ)は何ん。仏かつて百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所、意趣解り難し。

*現代語訳

その理由は何でしょう?
仏はこれまで非常に多くの諸仏に親しく近づき、諸仏の教える多くの道をことごとく行じ、勇気をもって精進しました。その結果、その名は広く人々に知られるようになりました。非常に深く極めて珍しい真理を得て、その真理を相手に応じて説きますが、その真理は難解です。

*サンスクリット語

tat kasya heto??
bahu-buddha-ko??-nayuta-?ata-sahasra-paryup-?sit?vino hi ??riputra tath?gat? arhanta? samyak-sa?buddh? bahu-buddha-ko??-nayuta-?ata-sahasra-c?r?a-carit?vino 'nuttar?y?? samyak-sa?bodhau d?r?nugat?? k?ta-v?ry? ??cary?dbhuta-dharma-samanv?gat? durvijneya-dharma-samanv?gat? durvijneya-dharm?nujn?t?vina?

*サンスクリット語の現代語訳

それはどのような所以(ゆえん)なのでしょう?
真実のままに現れて真実を人々に示す聖者(如来)、供養を受けるのに相応しい聖者(応供)、正しく一切平等を悟られた聖者(正遍知)は、非常に多くの諸仏を尊敬し、非常に多くの諸仏に仕えて修行に修行を重ね、阿耨多羅三藐三菩提(最高の悟り)を求めて長期にわたって努力・精進し、希有で深い真理を感得し、難解な智慧を具え、難解な教えを説かれています。

*解説

ここは、サンスクリット語の法華経と鳩摩羅什の訳とでは、だいぶニュアンスが異なりますので、サンスクリット語についてもご紹介することにしました。読み比べると鳩摩羅什が原典を忠実に訳していないことが分かると思います。いわゆる超訳です。仏教について非常に深い鳩摩羅什の訳は評価が高く人気もありますが、原典との違いも知っておいたほうがいいと思います。

所以者何(しょいしゃが)という言葉はよく経典にでてきます。これは、サンスクリット語のタット・カスヤ・ヘートゥホ "tat kasya heto?? " の訳です。直訳すると、「それはどのような所以なのか?」です。ヘートゥ "heto" というのが、「原因」「因」「理由」の意味です。因縁・因果のときの因を、ヘートゥといいます。

原典では、"tath?gat? arhanta? samyak-sa?buddh?" という語があります。これを中国では、如来・応供・正遍知と訳します。仏の十号にもありますので馴染みがあると思います。これらは仏の尊称です。これまで非常に多くの諸仏の元で長期にわたって修行をした結果、如来・応供・正遍知と呼ばれる仏になったわけです。

ここには、百千万億無数という数が書かれていますが、これは、「百×千×万×億×無数」ということを表わしています。無数というのは、ナユタ "nayuta" のことで、無数といっても数が無いという意味ではありません。ナユタは10の60乗という極めて大きな数量を表わしています。漢字では「那由多」と音写します。百千万億無数という数字が、とてつもなく大きな数であることが分かります。

これほどの多くの諸仏と出会うには、いったいどれほどの期間が必要なのでしょう? 人類史上、仏陀と呼ばれるのは釈尊だけです。釈尊が亡くなられてから約2500年が経っているのですから、少なくても2500年間は仏は出ていません。数千年に一仏しか現われないのに、百千万億無数もの仏と出会うには途方もない期間が必要です。百千万億無数の諸仏というのは、釈尊のような仏のことではなく、他の意味がありそうです。そのことは、徐々に分かってきます。

随宜所説(宜しきに随って説きたもう所)というのは、ある条件・目的・要求などにうまく合わせて教えを説くことです。この相手に相応しい教えのことを方便といいます。方便は、法華経において重要なテーマの一つです。特に『方便品』は方便がメイン・テーマです。

合掌

●方便品-6 「方便と智慧」     2014/11/3(月) 午後 7:19

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(1) 言に寄せて権実二智を歎ず  2) 釈尊の二智を讚歎する

*真読

舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。
しゃりほつ。ごじゅうじょうぶつちらい。しゅじゅいんねん。しゅじゅひゆ。

広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
こうえんごんきょう。むしゅほうべん。いんどうしゅじょう。りょうりしょじゃく。

所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足。
しょいしゃが。にょらいほうべん。ちけんはらみつ。かいいぐそく。

*訓読

舎利弗。吾、成仏してより已来、種々の因縁・種々の譬諭をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。所以は何ん。如来は方便・知見波羅蜜皆すでに具足せり。

*現代語訳

シャーリプトラよ。私も成仏してからこれまで、様々な過去の実例や体験談、様々な譬え話によって、広く人々のために教えを説き、無数の方便の教えによって、人々を執着の心から離れさせるように導きました。なぜ、そのようなことが出来たのかというと、如来は方便と智慧を完成させているからです。

*サンスクリット語

durvijneya? ??riputra sa?dh?bh??ya? tath?gat?n?m arhat?? samyaksa?buddh?n?m
tat kasya heto??
svapratyay?n dharm?n prak??ayanti vividhop?ya-kau?alya-jn?na-dar?ana-hetu-k?ra?a-nirde?an ?ramba?a-nirukti-prajnaptibhis tair up?ya-kau?alyais tasmi?s tasmi?l lagn?n sattv?n pramocayitum

*サンスクリット語の現代語訳

シャーリプトラよ。真実のままに現れて真実を人々に示す聖者(如来)、供養を受けるのに相応しい聖者(応供)、正しく一切平等を悟られた聖者(正遍知)が、説かれた教えを理解することは難しいです。
そのことは、どのような理由から言えるのでしょう?
分けて説かれる真理の法は、識別され、正しく、賢く、哲学的に、原因を示し、推論と説明によってなされ、援助し、語源を明かし、巧妙に、巧みな方便によって人々を執着から解き放します。

*解説

鳩摩羅什の訳では、ここでは釈尊の方便と智慧が讃嘆されています。これ以前は、諸仏の方便と智慧について述べているように訳されています。原典では、諸仏と釈尊の別はなく、如来・応供・正遍知、つまり諸仏についてずっと説かれています。

妙法蓮華経では簡潔に「種々の因縁・種々の譬諭」と書かれていますが、原典では詳しく方便の内容が説かれています。分析、思想、論理、原因の究明、議論、推論、解釈、説明、語源に依って人々を執着から離します。

合掌

●方便品-7 「力」     2014/11/7(金) 午後 9:47

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(1) 言に寄せて権実二智を歎ず  2) 釈尊の二智を讚歎する

*真読

舎利弗。如来知見。広大深遠。
しゃりほつ。にょらいちけん。こうだいじんのん。

無量。無碍力。無所畏。禅定。解脱。三昧。
むりょう。むげりき。むしょい。ぜんじょう。げだつ。さんまい。

深入無際。成就一切。未曽有法。
じんにゅうむさい。じょうじゅいっさい。みぞうほう。

*訓読

舎利弗。如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。

*現代語訳

シャーリプトラよ。如来の智慧は、広く、大きく、深遠です。人々への慈悲の心は無量にあり自由自在で、人々を救うための智力があり、畏れがなく、禅定の境地、解脱の境地、三昧の境地にあって、深く無分別の境地に入っており、これまで人類が達していない最高の真理を成就しています。

*サンスクリット語

mahop?ya-kau?alya-jn?na-dar?ana-parama-p?ramit?-pr?pt?? ??riputra tath?gat? arhanta? samyak-sa?buddh??/ asa?g?prati-hata-jn?na-dar?ana-bala-vai??rady've?ikendriya-bala-bodhya?ga-dhy?na-vimok?a-sam?dhi-sam?patty-adbhuta-dharma samanv?gat? vividhadharmasa?prak??ak??/

*サンスクリット語の現代語訳

シャーリプトラ。真実のままに現れて真実を人々に示す聖者(如来)、供養を受けるのに相応しい聖者(応供)、正しく一切平等を悟られた聖者(正遍知)は、大いなる巧みな方便と最高の智慧を完成させています。執着から離れており、智慧の力と誤りなく知り得る力と、禅定・解脱・三昧などの希有な法を具え、種々の法を顕されます。

合掌

●方便品-8 「分別」     2014/11/8(土) 午後 7:13

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(2) 言を絶して権実二智を讚歎する  1) 言を絶する由

*真読

舎利弗。如来。能種種分別。巧説諸法。言辞柔軟。悦可衆心。
しゃりほつ。にょらい。のうしゅじゅふんべつ。ぎょうぜつしょほう。ごんじにゅうなん。えっかしゅしん。

*訓読

舎利弗。如来はよく種々に分別し、巧に諸法を説き、言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。

*現代語訳

シャーリプトラ。如来は、相手に応じて説き方を様々に分け、巧みに様々な教えを説きます。相手に分かりやすい言葉を選んで柔らかく教えを説き、人々に悦びの心を起こします。

*サンスクリット語

 なし

*解説

ここには、仏の方便について説かれています。相手の機根(教えを受ける能力)・性格・欲求を知った上で、相手に応じて巧みに教えを説くといいます。相手に分かりやすく、聞きやすい言葉で教えを説き、相手を満足させ、悦びの心を起こさしめます。

ここの経文は、サンスクリット語の法華経にはありません。前の文の最後にある ヴィヴィッダダルマサンプラカーシャカーハ"vividhadharmasa?prak??ak??" が、諸法を開示するという意味がありますから、そこを詳しく表わしているのかも知れません。

合掌

●方便品-9 「無量無辺未曾有の法」     2014/12/9(火) 午前 11:50

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(2) 言を絶して権実二智を讚歎する  1) 言を絶する由

*真読

舎利弗。取要言之。無量無辺。未曽有法。仏悉成就。

しゃりほつ。しゅようごんし。むりょうむへん。みぞううほう。ぶっしつじょうじゅ。

*訓読

舎利弗。要を取ってこれを言わば、無量無辺未曾有の法を仏悉く成就したまえり。

*現代語訳

シャーリプトラ。
要約して言えば、量ることができず、際限がなく、希有なる真実を、仏は悉く悟っているのです。

*サンスクリット語

mah??cary?dbhutapr?pt?? ??riputra tath?gat? arhanta? samyak-sa?buddh??/

サハーシュチャルヤードブタプラープタハ・シャーリプトラ・タターガタ・アルハンタハ・サムヤク・サンブッダーハ.

*サンスクリット語の現代語訳

シャーリプトラ。
真実のままに現れて真実を人々に示す聖者(如来)、供養を受けるのに相応しい聖者(応供)、正しく一切平等を悟られた聖者(正遍知)は、大いなる素晴らしく希有なる真実を得ているのです。

*解説

これまでのところを要約すれば、諸仏は大いなる法、素晴らしく驚異的な法、非常に稀な法を得られているということです。これを鳩摩羅什は、「無量無辺未曾有の法」と訳しています。

無量とは、量ることのできないほどに多いことです。無辺とは際限のないことです。どこまでも広がる空間のように、広大無限のような真実です。イメージとしては宇宙空間をイメージのようですが、そこには一切の妨げがありませんから、星とかブラックホールのような存在のない「スペース」です。未曽有とは、未だかつてなかったことのことで、非常に稀なことをいいます。

合掌

●方便品-10 「諸法実相」     2014/12/9(火) 午後 2:10

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(2) 言を絶して権実二智を讚歎する  2) 正しく言を絶する

*真読

止。舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。

し。しゃりほつ。ふしゅぶせつ。しょいしゃが。ぶっしょじょうじゅ。だいいちけう。なんげしほう。ゆいぶつよぶつ。ないのうくじん。しょほうじっそう。

*訓読

止みなん、舎利弗。また説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏といましよく諸法の実相を究尽したまえり。

*現代語訳

止めましょう、シャーリプトラ。このことは、説かないほうがいいでしょう。なぜなら、仏の悟った真実は、最高であり、稀であり、非常に難解です。ただ、仏と仏だけが、よく諸法の実相を見極めているのです。

*サンスクリット語

ここからは、サンスクリット語原典と鳩摩羅什の訳はかなり違いますので、サンスクリット語のほうは略します。

*解説

「止みなん、舎利弗」と言って、釈尊は説法を止めようとします。なぜなら、仏の悟られた真実は非常に難解だからです。仏と仏だけが、最高の真実を見極められているといいます。

ここには、「唯仏与仏」(ゆいぶつよぶつ)という言葉がでてきます。「与」というのは、英語でいえば、"and" に当たる言葉ですから、「与える」という意味はありません。「ただ仏と仏」という意味です。この最高の真実は、釈尊だけではなく諸仏が悟られた真実なので、「唯仏与仏」といいます。つまり諸仏という意味です。

諸仏の悟られた最高の真実を鳩摩羅什は、「諸法実相」と名付けています。法華経は最高の真実について説かれていますので、法華経は諸法実相について説かれた経典だともいえます。

合掌

●方便品-11 「十如是」     2014/12/10(水) 午後 9:21

第一 略して開三顕一を顕す

1. 長行

(2) 言を絶して権実二智を讚歎する  2) 正しく言を絶する

*真読

所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

しょいしょほう。にょぜそう。にょぜしょう。にょぜたい。にょぜりき。にょぜさ。にょぜいん。にょぜえん。にょぜか。にょぜほう。にょぜほんまつくきょうとう。

*訓読

いわゆる諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。

*現代語訳

ここは、現代語には訳しにくいので略します。

*解説

ここには、非常に有名な「十如是の法門」が説かれています。諸法を十に分けて説いてあります。最高の真実としての法は、無量無辺だと説かれました。それは、大いなる「ひとつ」です。どこまでも広大に広がるスペースのイメージです。二つ目の真実、三つ目の真実はありません。真実としては一つですが、事物・現象として現れる場合は、個々それぞれとして展開します。私たちが見たり聞いたりしている事象は、差別・区別のある世界ですから、具体的にそれらを観察するために、事象を十のカテゴリーに分けています。

十如是とは、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・等という十の事象とその真実について説かれています。

相(そう)…ラクシャナー "lak?a?a"

性(しょう)…スヴァバーヴァ "svabh?va"

体(たい)…カーヤ "k?ya"

力(りき)…バラ "bala"

作(さ)…カーラカ "k?raka"

因(いん)…ヘーツ "hetu"

縁(えん)…プラトヤヤ "pratyaya"

果(か)…パラ "phala"

報(ほう)…ヴィパーカ "vip?ka"

本末究竟等(ほんまつくきょうとう)

合掌

●十如是-1 「如是」     2014/12/13(土) 午後 9:55

十如是は、『妙法蓮華経』の方便品第二で説かれている重要な法門です。相・性・体・力・作・因・縁・果・報・等という十の事象とその真実について説かれています。

いわゆる諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。

  相(そう)…ラクシャナー "lak?a?a"

  性(しょう)…スヴァバーヴァ "svabh?va"

  体(たい)…カーヤ "k?ya"

  力(りき)…バラ "bala"

  作(さ)…カーラカ "k?raka"

  因(いん)…ヘーツ "hetu"

  縁(えん)…プラトヤヤ "pratyaya"

  果(か)…パラ "phala"

  報(ほう)…ヴィパーカ "vip?ka"

  本末究竟等(ほんまつくきょうとう)

十如是は、鳩摩羅什の訳した『妙法蓮華経』にしか出てきませんので、鳩摩羅什の超訳だとされています。サンスクリット語の『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』には、「それらのものごとが、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような性を持っているのかを如来だけが知り得ている」と書いてありますので、これらの5つの分別を基にして、法華経全体を要約するかたちで、鳩摩羅什がまとめたのが十如是でしょう。

この十如是は、中国の天台大師智擇砲茲辰動貲飴粟蕕隆冕,鉾展し、さらに日本では、日蓮聖人によって事の一念三千の思想に成りました。多くの仏教者が注目する重要な法門ですので、じっくりと学んでいきたいと思います。

如是とは、エーヴァム "evam" の訳として使われる言葉ですが、サンスクリット語の『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』には、エーヴァムという語は出てきませんので、鳩摩羅什がどのような意味でこの言葉を使ったのかは分かりません。

天台大師智擇蓮如是という言葉には三つの意味があると解説しています。

\Я蠻 是性如〜是報如

「相は即ち空である」

現象としては、相・性・体〜報という区別がありますが、それぞれを観察すれば、すべては因縁に依るので実体はありません。つまり、相・性・体〜報のそれぞれは空であり、区別はなく平等です。

如是相・如是性〜如是報

「相は即ち仮である」

一切は空であり、一切は固定していないので、相・性・体〜報という区別が仮にあります。

A蠻\А性如是〜報如是

「相は即ち中である」

諸法は空であり、仮にあります。しかも、そのどちらにも偏っていません。

合掌

●十如是-2 「如是相」     2014/12/17(水) 午後 1:24

如是相は身なり

今回から、十如是の一つ一つのカテゴリーを学びます。十如是は、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』にしかありませんので、テキストは、天台大師智擇痢慄_攜宍繊戮鮖箸い泙后

まず最初のカテゴリーは相です。サンスクリット語のラクシャナ "lak?a?a"を中国では、相と訳しました。ラクシャナとは特徴のことです。諸法実相の実相とは、真実の特徴のことです。この実相については、『無量義経』の説法品に次のような一節があります。

「無量義とは一法より生ず。その一法とは即ち無相なり。是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして、相なきを名づけて実相とす」

無量の教えは一つの真理から生じています。その一つの真理とは、即ち無相です。この無相とは、特徴がなく、特徴を否定します。特徴を否定し、特徴がないので無相と呼ばれます。

無相とは、相が無いということですが、無いというのは「有・無」においての無いという意味ではなく、否定のことです。よって、無相とは、「特徴の否定」のことです。特徴とは、ある物と他の物を比べたときの目立つ点のことですから、他に依って特徴は見い出されます。大きい・小さい、長い・短い、優しい・厳しいなど、そのものの特徴は他と比べた時に生じます。地球は月より大きく、太陽よりも小さいと観ることができますが、他がなければ大小を観ることはできません。一切の特徴は他に依りますから、それ自体が特徴を固定して持っていません。

十如是の場合の相は、「様相・形相」の意味で使われています。天台大師智擇『法華玄義巻二』にて、「相をもって外による。見てしかも別つべし。名づけて相となす」と解説するように、ものにあらわれた外形、容貌のことです。

天台大師智擇蓮◆崘\Я蝓廚稜,鮖按未蠅貌匹鵑任い泙后G,箸惑ー臓△弔泙蠖人のことだと観て、空諦・仮諦・中諦という三諦を十如是に当てました。空仮中の三諦は、龍樹の「縁起とは、空仮中と同じである」という見方から発展させた智擇両Г┐浸彖曚任后

龍樹は、釈尊の説かれた「縁起」と、空、仮名、中道とは名は違うけれど、同じことを指しているとしました。縁起=空=仮=中です。智擇蓮縁起によって仮に有る、仮にあるのだから実体は無い、仮に有ること、実体が無いことに偏らず中である、と説かれています。智擇蓮◆峅召僕る・実体は無い」ということを有無両辺としてとらえ、その両辺に偏らない中を説いていますから、龍樹の論とは内容が違うことに注意する必要があります。

ここでは、智擇龍仮中の三諦によって十如是を解釈します。

●如是相(にょぜそう)

これを「是相如」と読めば、空諦として理解出来ます。「この相は空である」ということです。

たとえば、リンゴとは、直径10センチくらいの赤い球体という特徴を持っていると一般的には見られますが、それらはすべて相対的に観た結果であり、そのものが固定的に持っているとはいえません。特徴は、すべて因縁に依ります。因縁に依る特徴には実体がありません。よって、そのものの外形的な特徴は空だと観ることができます。そのものには固定的な特徴はなく空です。

これを「如是相」と読めば、仮諦として理解出来ます。「仮として相がある」ということです。

リンゴの実は、種から育ち、芽が出て、やがて木となり、花を咲かせ実をつけます。その熟れた実の一つが目の前にある時、それは変化するリンゴの形相を切り取っているに過ぎません。長く観察すれば、リンゴの実の時期の短いことを知ることができます。そのものには固定した特徴というものはなく、変化のひとこまですから、特徴とは仮にあることが分かります。もちろん、リンゴだけでなくすべては無常ですから、特徴とは仮のものです。

リンゴが赤い球体である、と観るのは人間だけかも知れません。昆虫の見るリンゴ、鳥の見るリンゴ、象の見るリンゴとは、それぞれにとらえ方が違うことでしょう。人間どうしであっても、色盲の人もいますから、私の見る赤と他者の見る赤とは違うかも知れません。人間にとっては小さめの果実ですが、蟻にとって見れば巨大なものです。それぞれによって、リンゴの特徴は違います。それぞれの因縁によって、仮に特徴はあります。

概念的にも仮です。「赤い実」というのは、言葉によってそのものの特徴を表そうとするものですが、言葉自体が人間の作りだしたものですから、言葉で表される特徴というものは仮です。仮にそのような言葉で表現しています。特徴とは、他と比べて仮に観られたものを、さらに言葉と言う仮のもので表わしています。

これを「相如是」と読めば、中諦として理解出来ます。「相は中である」ということです。

中というのは、偏った見方をしないことです。リンゴの特徴が仮に有るということにも、リンゴには特徴と呼べる実体がないということにも執着せずに観ます。リンゴには固定的な特徴は無い、瞬間的にはその時の因縁和合によって仮に特徴が有る、と観るのが中です。

空仮中として、そのものの特徴を観ることによって、あるがままのそのものを観ることができることでしょう。

合掌

●十如是-3 … 如是性     2014/12/17(水) 午後 5:44

如是性は心なり

●如是性(にょぜしょう)

性とは、心のことです。天台大師智擇蓮◆慄_攜宍繊戮砲董◆崟はもって内による。自分改めず、名づけて性となす」と解説しています。自分自身では改めることの難しい本性のことで、智擇榔錣砲茲辰討浪めることも可能だと説いています。

リンゴであれば、赤い球体にする性質のことです。外面に現れる特徴に対して、内面の特徴と観ることができます。リンゴには赤くしようという性質、球体になろうとする性質があり、それに基づいて外形の特徴があります。

人間の場合、怒りを表しているのであれば怒りが心にあり、笑顔であれば喜びが心にあります。心を表現しているのが表情です。作り笑顔は、作ろうとする心がありますから、それが表れてぎこちなくなったり、目が笑っていないという不自然な様相になります。

服装や髪形は、その人の心の表れです。自分を強く見せたい男性は、ヤクザっぽい格好をするでしょうし、自分を可愛らしく見せたい女性は、アイドルっぽいファッションを選ぶことでしょう。異性にもてたい人と異性に興味のない人とでは、身の飾り方が異なります。外見の個性は、内面の個性の表れです。

これを「是性如」と読めば、空諦として理解出来ます。「この性は空である」ということです。

心は空です。実体はありません。多くの人々は、現実的に考えている自分がいるのだから実体があると思っていますが、残念ながらそのような実体はありません。

自分の心を観れば、感じている心、想う心、選んでいる心、認識している心があります。喜びや楽しみ、苦しみ、憂い、悲しみ、妬み、怒りという感情があるのですから、それを感じている自分があると思っています。また、ものを理解し、分析し、記憶し、記憶していることを思いだし、思惟し、推理している思考があるのですから、それを考えている自分があると思っています。また、行動する前には何らかの選択をしているのですから、瞬間瞬間が選択の連続であり、選択の連鎖です。選ぶこと、決めることをしているのですから、それを決めている自分があると思っています。また、心のはたらきをいつも認識している意識があるのですから、意識を持つ自分があると思っています。

感情、思考、意志、意識はあるのだから、それを持つ自分があると思うのは当然のことです。しかし、仏教では本性でさえも空だと説いています。「われ思う。されど我なし」というのが仏教の根本思想です。感情、思考、意志、意識という受想行識をよく観察すれば、それらは因縁によってあるのであり、固定して常住するものではないことが分かります。

いつも怒りを持つ人はいません。怒りに執着し、こじらせている人はいるでしょうが、生まれてから死ぬまで怒りを持ち続けている人はいないでしょう。怒りは縁に依って起こります。去年の怒りを今でも固定して持ってはいないでしょう。怒りには実体はなく、因縁に依って仮にあります。喜びも悲しみも、常にあり続けることはありません。思考も意志も意識も常にあるのではなく、因縁に依って仮にあるのですから、それらには実体はありません。

少なくとも、これは私の怒りである、これは私の記憶である、これは私の意志である、これは私の認識であると観るのであれば、すべて私に属するものです。私がその心をとらえているのですから、実体は私のほうにあり、それらのとらえられた心は実体ではありません。私の実体とは、主体であり客体ではありません。決して観られる側には立ちません。認識の対象にはならないのが実体なのです。

試しに、自分の実体を求めて心の中を探ってみれば分かりますが、これが自分の実体だと思ってつかまえても、つかまえた瞬間にそれは客体になっていますから、実体ではありません。探しているものが実体であることに間違いはないのですが、それを認識することは不可能です。目が自分の目を見ることができないように、実体を観ることはできません。あるけれどないのが実体です。これを仏教では空と呼んでいます。初期仏教では、無我・非我と呼んでいます。

空とは、決してとらえられない実体のことをいいます。認識の対象にはならないので、実体はない、という表現になりますが、それだけではない奥深さがあります。認識の対象にならないものを表すことは不可能ですから、ただ空というしかありません。認識の対象にならないものを言葉で表すことはできないので、一切の概念や定義を寄せ付けません。

これを「如是性」と読めば、仮諦として理解出来ます。「仮として性がある」ということです。

粘土は固定した形を持たず、力を加えれば簡単に形を変えることができます。粘土が何らかの形を固持するならば、壺や皿や人型に作ることは出来ません。水であれば、さらに形を固持しませんから、型に合わせて自由に形を変えることができます。さらに、空気であれば自由自在です。風はどこにでも流れていくことでしょう。

同様に心は固定した実体を持っていないので、縁に依って仮に感情を引き起こし、思考をひらめかせ、選択をし、認識をしています。すべては仮ですから、縁が変われば心のあり方も変わります。

これを「性如是」と読めば、中諦として理解出来ます。「性は中である」ということです。

心は、因縁に依って仮にあり、仮にあるのですから実体はありません。有ること、無いこととは離れていますから、有無に執着しても時間の無駄です。

合掌

●十如是-4 「如是体」     2014/12/17(水) 午後 8:15

●如是体(にょぜたい)

 如是体は身と心なり

天台大師智擇蓮◆慄_攜宍繊戮砲董◆崋膽舛鯡召鼎韻涜里箸覆掘廚伐鮴發靴討い泙后主質とは、主たる質(からだ・実体)のことをいいますので、相(身)と性(心)とを共に具えた存在そのものが体です。

これを「是体如」と読めば、空諦として理解出来ます。「この体は空である」ということです。

相性を空と観ることができたならば、体もまた空だと観ることができると思います。存在は、因縁に依って仮にあるのですから実体はありません。

これを「如是体」と読めば、仮諦として理解出来ます。「仮として体がある」ということです。

これを「体如是」と読めば、中諦として理解出来ます。「体は中である」ということです。

そのものとして存在する時、様相があり、様相をつくる性があります。リンゴは、赤くて丸いという様相を持ち、赤くて丸いものになろうとする性質を持っています。その様相と性質を持つ存在が体です。

合掌

●十如是-5 「如是力」     2014/12/17(水) 午後 9:06

●如是力(にょぜりき)

 如是力は身と心となり

天台大師智擇蓮◆慄琺纏澳儡五上』にて、「如是力とは、堪任の力用なり。王の力士の千万の技能も、病めるが故になしという、病いゆれば用あるがごとし。心もまたかくのごとし。つぶさに諸々の力あるも、煩悩の病の故に運動すること能わず。実のごとくこれを観ずれば一切の力を具するなり」と解説しています。

堪任とは、じっと持ちこたえ得るはたらきのことです。怪力の力士でも、病気の時は技能を発揮できませんが、病気が治れば技能を充分に出すことが出来ます。同様に人々が煩悩という病を癒し、真実を観察することができれば、一切の力を具えることができると智擇浪鮴發靴討い泙后このように内に秘めた力、力用、潜在能力のことを力といいます。

これを「是力如」と読めば、空諦として理解出来ます。「この力は空である」ということです。

これを「如是力」と読めば、仮諦として理解出来ます。「仮として力がある」ということです。

これを「力如是」と読めば、中諦として理解出来ます。「力は中である」ということです。

力は、因縁に依って仮にあり、実体はありません。煩悩に依れば力は失せ、智慧に依れば力を発揮します。

合掌

●十如是-6 「如是作」     2014/12/17(水) 午後 9:48

●如是作(にょぜさ)

 如是作は身と心となり

天台大師智擇蓮◆慄琺纏澳儻涵紂戮砲董◆岷唇抃立を作と名づく。もし心を離るればさらに所作なし。故に知んぬ。心に一切の作を具することを」と解説しています。また、『玄義巻二』では、「構造を作と為し」とあります。作とは、身と心とに具わる力が実際のうえにはたらき、身・口の二業を運動して未だ善なきところに善の構造を、悪なきところに悪の構造を建立することをいいます。

この作のはたらきは、「もし心を離るれば、さらに所作なし。故に知んぬ。心に一切の作を具することを」とあるように、心がはたらくこと(意業)によって力が身・口の二業を運動して、様々な構造を創るわけであるから、作も身と心との双方にわたります。

作とは、身口意によって、他と因縁を結ぶようにはたらくことです。心が決まれば、身体が働き、力が発動します。その力の発動のことを作といいます。

これを「是作如」と読めば、空諦として理解出来ます。「この作は空である」ということです。

これを「如是作」と読めば、仮諦として理解出来ます。「仮として作がある」ということです。

これを「作如是」と読めば、中諦として理解出来ます。「作は中である」ということです。

合掌

●方便品-12 「偈文」     2014/12/28(日) 午前 10:27

第一 略して開三顕一を顕す

2. 偈頌

*真読

爾時。世尊。欲重宣此義。而説偈言。

にじ。せそん。よくじゅうせんしぎ。にせつげごん。

*訓読

その時に世尊、重ねてこの義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく。

*現代語訳

その時に世尊は、これまでの内容を詩にして、もう一度説かれました。

*解説

序品でもそうでしたが、釈尊の説法も散文のあと偈文が続く形式です。散文に比べて偈文は、やや俗っぽい表現がありますから、より古い時代に編纂された内容だと言われています。

合掌

 

 

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