蓮の道 法華経 (2015) |
2019.7.14
『妙法蓮華経』という経典のタイトルは、サンスクリット語の「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」"saddharma puṇḍarīka sūtra"
の中国語訳です。サッダルマ・プンダリーカ・スートラとは、「白蓮華のような最高の妙法についての教え」という意味です。
サッダルマ……正しい法・妙法
プンダリーカ…白い蓮華
スートラ………教え・経典
蓮はインドが原産です。蓮はインドの国花ですから、インド人にとって特別な意味のある花なのでしょう。蓮には、白・赤・黄・青の4種があり、白・赤は、「ハス」、黄・青は「スイレン」です。ハスは、水上に花茎を伸ばして花をつけ、スイレンは、水面近くに花をつけるという違いがあります。
泥水の中から生じても、清浄な美しい花を咲かせる姿から、蓮華は古くから宗教のシンボルとされました。ヴェーダの宗教のバラモン教・ヒンドゥー教では、神々の多くは、蓮華の上に立つ姿で描かれています。ヒンドゥー教の大いなる神のブラフマー(梵天)、シヴァ(大黒天)、ヴィシュヌなどは蓮華の上に立つ姿で表されることが多く、女神のラクシュミー(シェリー)(仏教では吉祥天)も、赤蓮華の上に立つ姿で表わされます。
プンダリーカとは、白蓮華のことです。
白蓮華はあらゆる形あるものの中で、最も浄く、最高・最勝の美しい花だとされます。このことから、「サッダルマ・プンダリーカ」というのは、白蓮華のように最も浄く、最高・最勝の正しい法の意味になります。「白蓮華のような正法」という意味ですので、そのことを強調して鳩摩羅什は、「正法」を「妙法」と訳したのではないかと、仏教学者の植木雅俊氏は論じられています。
合掌
蓮には、多くの徳があるといわれます。
その中の幾つかをお伝えします。
○淤泥不染の徳(おでいふぜんのとく)
泥より華を出すけれど、蓮の華は泥に染まらず浄く咲く。
○一茎一花の徳(いっけいいっかのとく)
一つの茎に一つの華をつける。
○一花多果の徳(いっかたかのとく)
一つの花から多くの種がとれる。
○中虚外直の徳(ちゅうこげちょくのとく)
中は空洞だけど、まっすぐに立つ。
○種子不失の徳(しゅしふしつのとく)
蓮の種は腐らず、年月がたってからも条件が合えば芽を出す。
○華果同時の徳(けかどうじのとく)
花が散って実をつける他の植物と違い、蓮は華をつけた時に同時に実をつける。
合掌
法華経の名は、「南無妙法蓮華経」というお題目としてもよく知られています。インドでも、「ナモー・サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」と言って、法華経に帰依する言葉はあったようですが、お題目を唱えることを重視し、それを勧めたのは日蓮聖人です。
南無は、サンスクリット語では、「ナマス」といいます。インドでは、挨拶の時に「ナマス・テ」と言いますが、これは、「あなたに敬意を表します」という意味です。宗教の時に「ナマス」を使う場合は、帰依の心を表わします。帰依とは、「拠り所にする」ということです。
仏教でも、仏や菩薩に対する帰依を表す場合に用います。たとえば、南無阿弥陀仏・南無釈迦牟尼仏・南無遍照金剛・南無観世音菩薩などのように、信仰の対象に対して南無を唱えます。通常は、諸仏・諸菩薩に対して帰依を表わしますが、お題目の場合は、妙法蓮華経を拠りどころにすることを表わしています。
妙法蓮華経というのは、経典の『妙法蓮華経』のことをいいますが、それだけではなく経典の妙法蓮華経でテーマになっている「妙法」への帰依の意味のほうが重要です。妙法とは、最高の真理のことですから、最高の真理と一体になることを表すのが、「南無妙法蓮華経」です。
合掌
法華経のテーマは、一切衆生の成仏です。一切衆生は成仏の可能性があり、諸仏は衆生を方便によって成仏に導くということが書かれています。このことは、方便品第二を読めば理解できます。
釈尊が菩提樹の下で悟った内容は、非常に深く、難解な内容だということは、これまでも、多くの経典で書かれていました。あまりにも難しい内容だったため、釈尊は人々に説くことをためらいましたが、梵天の勧めによって、説法の決断をしたといいます。
梵天というのは、ヴェーダの宗教のブラフマーという神のことです。仏教経典には、神々や悪魔、妖怪の類が登場しますが、それらは心のある一面を表わしています。梵天というのは、高い精神の状態のことですから、説法のためらいを高次の精神が消したのでしょう。
真理は言葉では説くことができません。そのことを言語道断といいます。思議のできないものですから、不可思議といいます。妙法とは最高の真理のことです。妙法を悟ることに依って、智慧が完成しますから、妙法と智慧とは一体です。よって、諸仏の智慧も言語道断であり、不可思議です。
言葉によって明かすことのできない妙法・智慧をどのように人々に伝えたらいいのでしょう? コーヒーを飲んだことのない人に、コーヒーの味を伝えることは難しいです。「苦い」と言っても、その感覚は人それぞれですから、コーヒーそのものの味を言葉で伝えることはできません。コーヒーを飲んでもらうことによってしか、コーヒーの味を知ってもらう手段はありません。
真理を得ることも、最終的には自分で観るしかありません。そこで釈尊は、「月をさす指」として説法をすることを決めました。人々が真理という月を観ることができるように、教えを説いて導くことにしたのです。言葉によって真理へと導くということです。
法華経では、言葉に依って真理へと導くことを「方便」と呼んでいます。私たちは、言葉によって真理へと導かれますが、言葉に執着すれば、真理を観ることはできません。
合掌
真理は悟るものであり、人から学ぶものではありません。自分自身で観察し、気づいて、得るものです。しかし、何をどのように観ればいいのかが凡夫には分かりませんので、はじめは学ぶ必要があります。学ぶための教本が経典です。
真理は言葉によっては明かされません。なので、当然ながら、経典としての法華経においても真理そのものは説かれていません。では、何が説かれているかというと、真理をつかむ方法が説かれています。つまり、方便です。
「法華経には内容がない」と言われることがありますが、法華経だけでなく、どの経典でも真理そのものは書いてありません。真理は自身で観ることによって得ることができます。
合掌
天台大師智�擇蓮∨_攘个離董璽泙琉譴弔髻岾�顕」であると解説されました。開とは、「開除」のことで、執着を破して除くことです。人には固定観念がありますから、それを破して除くのが開除です。顕とは、「顕示」のことで、真実を顕し示すことです。よって、「開顕」とは、固定観念を破して除き、真実を顕し示すことです。
法華経では、方便品で「開三顕一」「開権顕実」が説かれます。
「開三顕一」とは、三乗が方便であると破して、一乗を顕すことです。法華経が編纂されていた時代、仏教の修行者には三タイプがありました。声聞・縁覚・菩薩です。
声聞とは、声を聞いて学ぶ者のことですから、師の教えを聞く修行者のことです。釈尊の時代には、釈尊の教えを聞いて学ぶ者のことでしたから、仏弟子は全員声聞と呼ばれていました。釈尊の滅後は、師から弟子へと教えは口伝されましたので、出家者だけが教えを聞きましたので、出家修行者のことを声聞と呼ぶようになっています。
縁覚とは、縁に依って覚る者のことです。独覚・辟支仏ともいいます。釈尊の時代には、道を完成させるためには、執着を断つ必要があるとされましたので、自分の家、自分の家族、自分の仕事、自分の物をすべて捨て、髪と髭を剃り、ぼろ布をつないだ袈裟を着て、仏教教団のコミュニティに参加しました。そのコミュニティを僧伽(さんが)といいます。僧伽にいれば、まだ共に道を歩む仲間がいますが、その僧伽からも離れて独りで修行する者が独覚です。独覚は、独りで山奥に入り、大自然の中で暮らしながら、あらゆるものとの因縁を観て覚りを目指しました。独覚が覚っても、他には説かないでそのまま死んでしまうといいます。
菩薩とは、菩提を求める者のことです。菩提とは悟りのこと、成仏のことです。縁覚(独覚)も成仏を求めますが、菩薩は他者と因縁を結び、共に成仏を目指します。声聞・縁覚とは異なり、在家者でも出家者でも菩薩になれます。
このように声聞・縁覚・菩薩という三つの修行スタイルが分けてありますが、これらの修行スタイルは仮のもので、真実としては成仏の道だけというのが「開三顕一」です。三乗を破して、一仏乗を表わしていますが、三乗を否定しているのではありません。人が育つ段階で、声聞・縁覚・菩薩というステップは必要です。機根を高める手段として三乗があります。
「開権顕実」とは、方便を破して除き、真実を顕すということです。「開三顕一」もこの「開権顕実」に含まれています。
合掌
法華経のテーマは、「一切衆生は成仏可能」「諸仏は方便によって一切衆生を成仏に導く」ということです。成仏というのは、最高の真理(妙法)を得て、智慧を完成させることによって、阿耨多羅三藐三菩提(最高の悟り)を成すことです。
方便品の最初、釈尊はこのように言いました。
諸仏の智慧は甚深無量なり。
その智慧の門は難解難入なり。
一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。
この言葉が、妙法蓮華経においての釈尊の第一声です。仏の智慧というのは、完成した智慧のことです。智慧の完成とは、妙法と智慧の不二の境地です。法とは観られるもので、法を観るのが智慧です。妙法と智慧が一つに成った時、自他が一つと成り、一切の差別・区別を超えて、一切平等の境地に入ります。それが諸仏の智慧です。
諸仏の智慧は甚深無量だし、その智慧の門は難解難入だと説かれ、一切の声聞・縁覚では、その智慧を知ることができないと説かれています。それほど難解な智慧を人々に悟らせる方法とは、一体どのようなものなのでしょう?
その方法とは、「方便」です。方便とは、梵語のウパーヤの訳であり、ウパーヤには、「近づく」「到達する」という意味があります。近づくというのは真理に近づくということですから、方便とは、「真理に近づけるための巧みな手段」であり、「真理に到達させるための正しい方法」ということです。
真理に近づけるための巧みな手段とは、言葉のことです。言葉によっては明かすことのできない真理を、言葉によって示すのが方便です。そのために、釈尊は因縁・譬諭・言辞によって法を説きました。因縁とは、過去からの関係のこと、譬諭とは比喩のこと、言辞とは語源のことです。仏は、これらの言葉を駆使して人々を真理へと導きました。
合掌
●妙法蓮華経序品第一 #1
第一 通序
1. 信・聞・時・主・処の経の五事
●現代語訳
このように私は聞きました。
ある時、仏はマガダ王国の都ラージャグリハにあるグリドラクータ山に住み、高い位の男性出家修行者が一万二千人集っていました。
●訓読
是の如きを我聞きき。
一時、仏、王舎城・耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆、万二千人と倶なりき。
●真読
如是我聞。一時仏住。王舎城。
にょぜがもん。いちじぶつじゅう。おうしゃじょう。
耆闍崛山中。与大比丘衆。万二千人倶。
ぎしゃくっせんちゅう。よだいびくしゅう。まんにせんにんく。
●解説
通序とは、どの経典にも共通する序文のことです。
信…如是
聞…我聞
時…一時
主…仏
処…王舎城・耆闍崛山中
「如是我聞」(エーヴァン・マヤー・シュルゥータム)
"evaṃ mayā
śrutam"というのは、「このように私は聞きました」と宣言することによって、作り話ではなく聞いた内容だということを明確にしています。では、誰が聞いたのかというと、多くの経典は阿難(アーナンダ)という釈尊の侍者だと言われます。侍者とは、仕えてお世話をする者のことで、阿難は出家して以来25年間も釈尊のそばにいて、雑用をつとめました。いつも釈尊のそばにいましたから、弟子たちが釈尊のところに来て問答をする時も、釈尊が出家者に説法をする時も、釈尊が在家信者に教えを説く時にも、いつもその話を聞いていました。阿難は、多くを聞いたので「多聞第一」と呼ばれます。
釈尊が亡くなられてすぐに、摩訶迦葉(マハーカーシャパ)の提案によって結集(けつじゅう)が行われました。結集とは、釈尊の教えが誤って伝わらないように、弟子たちが説法内容を確認し合った会議のことです。この時、最も教えを聞いていたことから、阿難の記憶をもとにして検討をしたようです。阿難は、まず、「このように私は聞きました」と宣言し、それから記憶している教えの内容を全員に伝え、一つ一つを全員で確認し合って編纂しました。間違いなく調ったならば、全員でその内容を唱えました。この時に唱えられた内容が、口伝によって後続の弟子たちに伝えられ、後に文字で綴られて経典になりました。
「如是我聞」は、その説が仏法だという証として、大乗仏教経典でも使われます。大乗仏教は、明らかに釈尊の説を書き写したものではなく、弟子たちの創作なのですが、釈尊の思想を受け継ぐものですから「如是我聞」という言葉が最初にあるのでしょう。
●タイトルの意味
○Nidaana-Parivarto Naama
PrathamaH
ニダーナ "Nidaana" = 因縁、縁起、由来
パリヴァルト "parivarto" = 章
ナーマ "Naama" = 名称
プラッタマ "prathama" = 第一の
サンスクリット語から訳せば、「因縁の章
第一」となります。ニダーナとは、その物事のゆかりという意味と因縁生起の意味があります。
●妙法蓮華経序品第一 #2
第一 通序 2. 同聞衆
(1)声聞衆
●現代語訳
この人々は、皆、聖者の悟りの位である阿羅漢たちです。諸々な欲望をすでに滅し尽くしており、煩悩はありません。自分の利益を得て、現象にとらわれることがなく、心は自在を得ています。
この阿羅漢たちの名をあげましょう。
アージュニャータ・カウンディヌヤ
マハー・カーシャパ
ウルヴィルヴァー・カーシャパ
ガヤー・カーシャパ
ナディー・カーシャパ
シャーリプトラ
マハー・マゥドガリヤーヤナ
マハー・カートゥヤーヤナ
アニルッダ
カッピナ
ガヴァーン・パティ
レーヴァタ
ピリンダ・ヴァトサ
バックラ
マハー・カウシュティラ
マハー・ナンダ
スンダラ・ナンダ
プールナ・マイトラーヤニープトラ
スブーティ
アーナンダ
ラーフラ
といいます。
多くの人々に、善き影響を与えている大阿羅漢たちです。また、学習中の弟子や学習を終えた弟子たちが二千人います。釈尊の育ての母であるマハー・プラジャーパティーが眷属六千人と共におり、釈尊の元妻であり、ラーフラの母であるヤショーダラーも多くの眷属と共にいます。
●訓読
皆これ阿羅漢なり。諸漏すでに尽くして、また煩悩なく、己利を逮得(たいとく)し、諸の有結を尽くして、心自在を得たり。
その名を、
阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)
摩訶迦葉(まかかしょう)
優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)
伽耶迦葉(がやかしょう)
那提迦葉(なだいかしょう)
舎利弗(しゃりほつ)
大目��連(だいもつけんれん)
摩訶迦旃延(まかかせんねん)
阿菟楼駄(あぬるだ)
劫賓那(こうひんな)
憍梵波提(きょうぼんはだい)
離婆多(りはた)
畢陵伽婆蹉(ひつりょうかばしゃ)
薄拘羅(はくら)
摩訶拘絺羅(まかくちら)
難陀(なんだ)
孫陀羅難陀(そんだらなんだ)
富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)
須菩提(しゅぼだい)
阿難(あなん)
羅睺羅(らごら)
という。
是の如き衆に知識せられたる大阿羅漢等なり。また学・無学の二千人あり。摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)、眷属六千人と倶なり。羅睺羅(らごら)の母
耶輸陀羅(やしゅだら)比丘尼、また眷属と倶なり。
●真読
皆是阿羅漢。諸漏已尽。無復煩悩。
かいぜあらかん。しょろいじん。むぶぼんのう。
逮得己利。尽諸有結。心得自在。
だいとっこり。じんしょうけつ。しんとくじざい。
其名曰。阿若憍陳如。摩訶迦葉。優楼頻螺迦葉。
ごみょうわつ。あにゃきょうじんにょ。まかかしょう。うるびんらかしょう。
伽耶迦葉。那提迦葉。舎利弗。大目��連。
がやかしょう。なだいかしょう。しゃりほつ。だいもくけんれん。
摩訶迦旃延。阿菟楼駄。劫賓那。憍梵波提。
まかかせんねん。あぬるだ。こうひんな。きょうぼんはだい。
離婆多。畢陵伽婆蹉。薄拘羅。摩訶拘絺羅。
りはた。ひつりょうかばしゃ。はくら。まかくちら。
難陀。孫陀羅難陀。富楼那弥多羅尼子。
なんだ。そんだらなんだ。ふるなみたらにし。
須菩提。阿難。羅睺羅。如是衆所知識。
しゅぼだい。あなん。らごら。にょぜしゅしょちしき。
大阿羅漢等。復有学無学二千人。
だいあらかんとう。ぶうがくむがくにせんにん。
摩訶波闍波提比丘尼。与眷属六千人倶。
まかはじゃはだいびくに。よけんぞくろくせんにんく。
羅睺羅母。耶輸陀羅比丘尼。亦与眷属倶。
らごらも。やしゅたらびくに。やくよけんぞっく。
●解説
ここでは、会座に集まった声聞たちの名前が列挙されています。五比丘の一人で最初に釈尊の教えを覚ったとされる阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)の名前が最初にあり、釈尊の子の羅睺羅(らごら)が最後に書かれ、その後、釈尊の育ての母である摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)、羅睺羅の母の耶輸陀羅(やしゅだら)の名があります。耶輸陀羅は、釈尊の元妻です。
『無量義経』では、まず菩薩の名前が紹介されましたが、『妙法蓮華経』では、先に声聞衆の名前が紹介されます。これは、『無量義経』は、菩薩に対する教えだったのに対し、『妙法蓮華経』が声聞衆に対して説かれた教えだということを表しています。
このように、仏教経典では、誰に対して教えが説かれたのかを明確にしています。仏教は対機説法ですから、機根の高低によって教えの内容も異なり、時には矛盾することもありますから、きちんと最初に誰に対する教えなのかが書かれています。法華経の場合は、最初に声聞の名前がありますから、声聞を主にして説かれたということです。
●用語の解説
○声聞(しょうもん)
(梵)シュラーヴァカ "Sraavaka"
声を聞く者のこと。釈尊の教えを聞いたので声聞という。初期仏教では、釈尊の弟子は全員声聞といわれていたが、後には上座部仏教の出家した修行者のことを声聞というようになった。
○阿羅漢(あらかん)
(梵)アルハン "arhan"
アルハンの音写。意訳して、「応供」という。供養されるのに相応しい者という意味。狭義には、上座部の最高の悟りを得た者のことをいい、広義には仏教の最高の悟りを得た者のこととされる。もとは、人々から供養・恭敬・尊重・讃歎される者として、仏陀の尊称の一つだったが、後には声聞の修行の果だとされた。
○阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)
(梵)アージュニャータ・カウンディヌヤ "ājñātakauṇḍinya"
○摩訶迦葉(まかかしょう)
(梵)マハー・カーシャパ "mahākāśyapa"
○優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)
(梵)ウルヴィルヴァー・カーシャパ "urubilvakāśyapa"
○伽耶迦葉(がやかしょう)
(梵)ガヤー・カーシャパ "gayākāśyapa"
○那提迦葉(なだいかしょう)
(梵)ナディー・カーシャパ "nadīkāśyapa"
○舎利弗(しゃりほつ)
(梵)シャーリプトラ "śāriputra"
○大目��連(だいもつけんれん)
(梵)マハー・マゥドガリヤーヤナ "mahāmaudgalyāyana"
○摩訶迦旃延(まかかせんねん)
(梵)マハー・カートゥヤーヤナ "mahākātyāyana"
○阿菟楼駄(あぬるだ)
(梵)アニルッダ "aniruddha"
○劫賓那(こうひんな)
(梵)カッピナ "kapphina"
○憍梵波提(きょうぼんはだい)
(梵)ガヴァーン・パティ "gavāṃpati"
○離婆多(りはた)
(梵)レーヴァタ "revata"
○畢陵伽婆蹉(ひつりょうかばしゃ)
(梵)ピリンダ・ヴァトサ "pilindavatsa"
○薄拘羅(はくら)
(梵)バックラ "bakkula"
○摩訶拘絺羅(まかくちら)
(梵)マハー・カウシュティラ "mahākauṣṭhila"
○難陀(なんだ)
(梵)マハー・ナンダ "mahānanda"
○孫陀羅難陀(そんだらなんだ)
(梵)スンダラ・ナンダ "sundarananda"
○富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)
(梵)プールナ・マイトラーヤニープトラ "pūrṇamaitrāyaṇīputra"
○須菩提(しゅぼだい)
(梵)スブーティ "subhūti"
○阿難(あなん)
(梵)アーナンダ "ānanda"
○羅睺羅(らごら)
(梵)ラーフラ "rāhula"
○摩訶波闍波提(まあじゃはだい)
(梵)マハー・プラジャーパティー "mahāprajāpatī"
○耶輸陀羅(やしゅだら)
(梵)ヤショーダラー "yaśodhara"
●妙法蓮華経序品第一 #3
第一 通序 2. 同聞衆
(2) 菩薩衆
●現代語訳
菩薩摩訶薩の八万人が共にいました。皆、最高の悟りを目指しており、その目的に向かって努力を続け、後戻りすることがありません。皆、ダーラニーを得ており、説法が巧みで、人々が修行から離れず、後退することのない教えを説いています。非常に多くの諸仏を敬い、諸仏に従って様々な善行を行い、常に諸仏に讃えられ、慈悲の心によって行動し、大いなる智慧に通達し、悟りに至り、その名は広く世間に知られ、多くの人々を救いました。
この菩薩摩訶薩の名をあげましょう。
マンジュシリー
アヴァローキテーシュヴァラ
マハー・スターマプラープタ
ニティヨーディユクタ
アニクシプタドゥラ
ラトナ・パーニ
バイシャジャ・ラージャ
プラダーナシューラ
ラトナ・チャンドラ
チャンドラ・プラバ
プールナ・チャンドラ
マハー・ヴィクラーミン
アナンタ・ヴィクラーミン
トライローキア・ヴィクラーミン
バドラパーラ
マイトレーヤ
といいます。
このような高位の菩薩摩訶薩八万人が同席していました。
●訓読
菩薩摩訶薩八万人あり。皆、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に於いて退転せず。皆、陀羅尼(だらに)を得、楽説弁才あって、不退転の法輪を転じ、無量百千の諸仏を供養し、諸仏の所に於て衆の徳本を植え、常に諸仏に称歎せらるることをえ、慈を以て身を修め、善く仏慧に入り、大智に通達し、彼岸に到り、名称普く無量の世界に聞えて、よく無数百千の衆生を度す。
その名を
文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)
常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)
不休息菩薩(ふくそくぼさつ)
宝掌菩薩(ほうしょうぼさつ)
薬王菩薩(やくおうぼさつ)
勇施菩薩(ゆうぜぼさつ)
宝月菩薩(ほうがつぼさつ)
月光菩薩(がっこうぼさつ)
満月菩薩(まんがつぼさつ)
大力菩薩(だいりきぼさつ)
無量力菩薩(むりょうりきぼさつ)
越三界菩薩(おつさんがいぼさつ)
跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ)
弥勒菩薩(みろくぼさつ)
宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)
導師菩薩(どうしぼさつ)
という。
是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。
●真読
菩薩摩訶薩。八万人。皆於阿耨多羅三藐三菩提。
ぼさつまかさつ。はちまんにん。かいおあのくたらさんみゃくさんぼだい。
不退転。皆得陀羅尼。楽説弁才。転不退転法輪。
ふたいてん。かいとくだらに。ぎょうせつべんざい。てんぷたいてんほうりん。
供養無量。百千諸仏。於諸仏所。殖衆徳本。
くようむりょう。ひゃくせんしょぶつ。おしょぶつしょ。じきしゅとくほん。
常為諸仏。之所称歎。以慈修身。善入仏慧。
じょういしょぶつ。ししょしょうたん。いじしゅしん。ぜんにゅうぶって。
通達大智。到於彼岸。名称普聞。
つうだつだいち。とうおひがん。みょうしょうふもん。
無量世界。能度無数。百千衆生。
むりょうせかい。のうどむしゅ。ひゃくせんしゅじょう。
其名曰。文殊師利菩薩。観世音菩薩。
ごみょうわつ。もんじゅしりぼさつ。かんぜおんぼさつ。
得大勢菩薩。常精進菩薩。不休息菩薩。
とくだいせいぼさつ。じょうしょうじんぼさつ。ふくそくぼさつ。
宝掌菩薩。薬王菩薩。勇施菩薩。
ほうしょうぼさつ。やくおうぼさつ。ゆぜぼさつ。
宝月菩薩。月光菩薩。満月菩薩。
ほうがつぼさつ。がっこうぼさつ。まんがつぼさつ。
大力菩薩。無量力菩薩。越三界菩薩。
だいりきぼさつ。むりょうりきぼさつ。おつさんがいぼさつ。
跋陀婆羅菩薩。弥勒菩薩。宝積菩薩。導師菩薩。
ばつだばらぼさつ。みろくぼさつ。ほうしゃくぼさつ。どうしぼさつ。
如是等。菩薩摩訶薩。八万人倶。
にょぜとう。ぼさつまかさつ。はちまんにんく。
●解説
声聞の次に菩薩の名が列挙されています。ここに紹介されている菩薩たちは、現実に存在した修行者ではなく、法身の菩薩と呼ばれます。法身の菩薩とは、真理を本体とする菩薩のことで、分かりやすく言えば仏教の教義を象徴する菩薩たちです。
●用語の解説
○菩薩(ぼさつ)
(梵)ボーディサットヴァ "bodhisattva"
菩提を目指す人のこと。菩提とは、「目覚め」のことで日本では「さとり」と訳される。よって、悟りを求める修行者のことをいう。
○阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)
(梵)アヌッタラ・サンミャクサンボーディ"anuttara-samyaksambodhi"
無上正等覚。最高の悟りのこと。
○陀羅尼(だらに)
(梵)ダーラニー "dhaaraNii"
ダーラニーとは、「記憶して忘れない」ということ。本来は、仏教修行者が覚えるべき教えや作法などをしっかりと記憶することを言う。後に変じて、「記憶する呪文」のことをいうようになった。意訳して、総持、能持、能遮ともいう。能持とは諸々の善法をよく持つことであり、能遮とは諸々の悪法をよく遮ることをいう。
○文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)
(梵)マンジュシリー "mañjuśri"
○観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
(梵)アヴァローキテーシュヴァラ "avalokiteśvara"
○得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)
(梵)マハー・スターマプラープタ "mahāsthāmaprāpta"
○常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)
(梵)ニティヨーディユクタ "nityodyukta"
○不休息菩薩(ふくそくぼさつ)
(梵)アニクシプタドゥラ "anikṣiptadhura"
○宝掌菩薩(ほうしょうぼさつ)
(梵)ラトナ・パーニ "ratnapāṇi"
○薬王菩薩(やくおうぼさつ)
(梵)バイシャジャ・ラージャ "bhaiṣajya-rāja"
○勇施菩薩(ゆうぜぼさつ)
(梵)プラダーナシューラ "pradānaśūra"
○宝月菩薩(ほうがつぼさつ)
(梵)ラトナ・チャンドラ "ratnacandra"
○月光菩薩(がっこうぼさつ)
(梵)チャンドラ・プラバ
○満月菩薩(まんがつぼさつ)
(梵)プールナ・チャンドラ "pūrṇacandra"
○大力菩薩(だいりきぼさつ)
(梵)マハー・ヴィクラーミン "mahāvikrāmiṇ"
○無量力菩薩(むりょうりきぼさつ)
(梵)アナンタ・ヴィクラーミン "anantavikrāmiṇ"
○越三界菩薩(おつさんがいぼさつ)
(梵)トライローキア・ヴィクラーミン "trailokyavikrāmiṇ"
○跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ)
(梵)
○弥勒菩薩(みろくぼさつ)
(梵)マイトレーヤ "maitreya"
●妙法蓮華経序品第一 #4
第一 通序 2. 同聞衆
(2) 雑類衆 �〕潦�衆・色界衆
●現代語訳
そこには、シャクラ神が、その眷属の二万人の天上界の神々の子と共に参列していました。チャンドラ天子、サマンタ・ガンダ天子、ラトナ・プラバ天子と四大天王も多くの眷属と共にいました。イーシュヴァラ天子、マヘーシュヴァラ天子も多くの眷属と共にいました。娑婆世界の大神であるブラフマー神、シキン大梵、ジョーティシュ・プラバ大梵等もその眷属一万二千人の天子と共にいました。
●訓読
その時に釈提桓因(しゃくだいかんにん)、その眷属二万の天子と倶なり。また、名月天子(みょうがつてんじ)・普香天子(ふこうてんじ)・宝光天子(ほうこうてんじ)・四大天王あり。その眷属万の天子と倶なり。自在天子・大自在天子、その眷属三万の天子と倶なり。娑婆世界の主梵天王・尸棄大梵(しきだいぼん)・光明大梵等、その眷属万二千の天子と倶なり。
●真読
爾時。釈提桓因。与其眷属。二万天子倶。
にじ。しゃくだいかんにん。よごけんぞく。にまんてんじく。
復有名月天子。普香天子。宝光天子。
ぶうみょうがってんじ。ふこうてんじ。ほうこうてんじ。
四大天王。与其眷属。万天子倶。
しだいてんのう。よごけんぞく。まんてんじく。
自在天子。大自在天子。与其眷属。
じざいてんじ。だいじざいてんじ。よごけんぞく。
三万天子倶。娑婆世界主。梵天王。
さんまんてんじく。しゃばせかいしゅ。ぼんてんのう。
尸棄大梵。光明大梵等。与其眷属。万二千天子倶。
しきだいぼん。こうみょうだいぼんとう。よごけんぞく。まんにせんてんじく。
●解説
衆生が輪廻転生する世界のことを三界といいます。三界とは、欲界・色界・無色界の三つの世界のことです。この中の欲界・色界にする神々が紹介されています。釈提桓因(しゃくだいかんにん)とは帝釈天のことです。
●妙法蓮華経序品第一 #5
第一 通序 2. 同聞衆
(3)雑類衆 �⇔恐�衆
●現代語訳
八人のナーガ王も参列していました。
ナンダ・ナーガ王
ウパナンダ・ナーガ王
サーガラ・ナーガ王
ヴァースキ・ナーガ王
タクシャカ・ナーガ王
アナヴァタプタ・ナーガ王
マナスビン・ナーガ王
ウトパラカ・ナーガ王
等です。
それぞれが、多くの眷属と共にいました。
●訓読
八龍王あり。
難陀龍王(なんだりゅうおう)
跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)
娑伽羅龍王(しゃからりゅうおう)
和修吉龍王(わしゅうきつりゅうおう)
徳叉迦龍王(とくしゃかりゅうおう)
阿那婆達多龍王(あなばだったりゅうおう)
摩那斯龍王(まなしりゅうおう)
優鉢羅龍王(うはつらりゅうおう)
等なり。
各(おのおの)若干(そこばく)百千万の眷属と倶なり。
●真読
有八龍王。難陀龍王。跋難陀龍王。娑伽羅龍王。
うはつりゅうおう。なんだりゅうおう。ばつなんだりゅうおう。しゃからりゅうおう。
和修吉龍王。徳叉迦龍王。阿那婆達多龍王。
わしゅきつりゅうおう。とくしゃかりゅうおう。あなだばったりゅうおう。
摩那斯龍王。優鉢羅龍王等。各与若干。百千眷属倶。
まなしりゅうおう。うはつらりゅうおうとう。かくよにゃっかん。ひゃくせんけんぞっく。
●解説
次に龍王が紹介されています。
サンスクリット語の「ナーガ」 "naaga"
を中国で龍と訳しています。ナーガとは、インドに棲むキングコブラが神格化されたものですが、中国にはキングコブラがいなかったので、龍と訳されました。龍とは、「辰」とも言われる大蛇に似た中国の神獣です。なので、インドのナーガと中国の龍とではイメージが違います。
日本は中国の影響を受けていますので、日本人が仏教の龍を描く時は、中国の龍のイメージです。キングコブラだとは思っていません。仏像として造る時は、唐時代の武士の格好をしています。
ここには、娑伽羅龍王(しゃからりゅうおう)の名があります。娑伽羅龍王とは、提婆達多品第十二に登場する龍女の父親です。法華経には、親子で登場しているのですね。
●妙法蓮華経序品第一 #6
第一 通序
2. 同聞衆
(3)雑類衆 �6枡疝絏�衆
●概要
ここでは、参集しているキンナラ王とその眷属たちの紹介をしています。キンナラは、ナーガと同じく想像上の生き物で、ヴェーダ聖典ではシャクラ神(帝釈天)の眷属で楽器を奏でる楽師として登場します。
●現代語訳
四人のキンナラ王も参列していました。
ダルマ・キンナラ王
スダルマ・キンナラ王
マハーダルマ・キンナラ王
ダルマダラ・キンナラ王
です。
それぞれが、多くの眷属と共にいました。
●訓読
四緊那羅王あり。
法緊那羅王(ほうきんならおう)
妙法緊那羅王(みょうほうきんならおう)
大法緊那羅王(だいほうきんならおう)
持法緊那羅王(じほうきんならおう)
なり。
各若干百千の眷属と倶なり。
●真読
有四緊那羅王。
うしきんならおう。
法緊那羅王。妙法緊那羅王。
ほうきんならおう。みょうほうきんならおう。
大法緊那羅王。持法緊那羅王。
だいほうきんならおう。じほうきんならおう。
各与若干。百千眷属倶。
かくよにゃっかん。ひゃくせんけんぞつく。
●解説
緊那羅とは、サンスクリット語のキンナラ "kiṃnara"
の音写です。帝釈天の眷属で音楽を奏でる楽師として登場します。神でもなく、人でもなく、畜生でもなく、鳥でもないといわれます。
●妙法蓮華経序品第一 #7
第一 通序
2. 同聞衆
(3)雑類衆 �ごワ鯒漫覆韻鵑世弔弌鵬�衆
●概要
ここでは、参集している乾闥婆=ガンダルヴァ王とその眷属たちの紹介をしています。
●現代語訳
四人のガンダルヴァ王も参列していました。
マノージュニャ・ガンダルヴァ王
マノージュニャ・スヴァラ・ガンダルヴァ王
マドゥラ・ガンダルヴァ王
マドゥラ・スヴァラ・ガンダルヴァ王
です。
それぞれが、多くの眷属と共にいました。
●訓読
四乾闥婆王あり。
楽乾闥婆王(がくけんだつばおう)
楽音乾闥婆王(がくおんけんだつばおう)
美乾闥婆王(みけんだつばおう)
美音乾闥婆王(みおんけんだつばおう)
なり。
各若干百千の眷属と倶なり。
●真読
有四乾闥婆王。楽乾闥婆王。楽音乾闥婆王。
うしけんだつばおう。がくけんだつばおう。がくおんけんだつばおう。
美乾闥婆王。美音乾闥婆王。
みけんだつばおう。みおんけんだつばおう。
各与若干。百千眷属倶。
かくよにゃっかん。ひゃくせんけんぞっく。
●解説
乾闥婆とは、サンスクリット語のガンダルヴァ
"Gandharva" の音写です。仏教では帝釈天の眷属の音楽神とされています。香を食べるとされ、神々の酒ソーマの守り神だとも言います。
●色即是空・空即是色について 2015/6/16(火) 午後 4:30
「色即是空・空即是色」
この言葉は、仏教をあまり知らない人にも知られている有名な言葉です。日本で最も読まれている『般若心経』にあることで馴染みがあるのでしょう。言葉はよく知られていますが、この言葉の意味はほとんど知られていません。意味不明のまま、まるで呪文のように読まれています。
「色即是空・空即是色」の色とは、物質的現象のことです。空とは、実体が無いことをいいます。よって、「色即是空・空即是色」とは、次のような意味です。
「物、それは実体がないものである。実体がないもの、それは物である」
これでは、何の意味なのかさっぱり分かりませんね。少し、言葉を補うと次のように表わすことができます。
「物、それは実体がないものである。実体がないものであるから、それは物として仮にある」
こう書けば少し意味が見えてくるかも知れません。
経典の中で最初に「色即是空・空即是色」という言葉が登場するのは、鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』です。全27巻の経典の中で、数回、「色即是空・空即是色」という言葉が使われています。『摩訶般若波羅蜜経』は、玄奘訳の『大般若経』全600巻の中では、『二万五千頌般若経』というタイトルで訳されています。
『摩訶般若波羅蜜経』で、初めて「色即是空・空即是色」という言葉が出てくるのは、『奉鉢品第二』です。ここで説かれた内容をベースにして、空がどのようなものかが徐々に明かされていくのですから、ここを読まなくては『摩訶般若波羅蜜経』の理解は出来ないし、『般若心経』を解説しても、単に個人の感想・意見の類でしかありません。重要な内容ですので紹介いたします。
●摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二より〜
舎利弗は仏に問いました。
「菩薩摩訶薩にとって、智慧の完成の行とはどのようなものなのでしょうか?」
仏は舎利弗に告げました。
「菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行ずる時には、菩薩を見ず、菩薩という名を見ず、智慧の完成を見ず、また自分が智慧の完成の行を行じていると見ません。また自分が智慧の完成の行を行じないと見ません」
「それはなぜかといえば、菩薩という存在、菩薩という名の本性が空だからです。空の中には物質的現象はなく、感受作用・表象作用・意志作用・認識作用はありません。物質的現象から離れて空はなく、感受作用・表象作用・意志作用・認識作用から離れて空はありません。物質的現象はそのまま空であり、空はそのまま物質的現象です。感受作用・表象作用・意志作用・認識作用もそのまま空であり、空はそのまま認識作用です」
「それはどのような理由によるのでしょうか?
舎利弗。ただ名称があるために、菩提(悟り)があります。ただ名称があるために、菩薩(悟りを求める者)があります。ただ名称があるために、空があります」
「それは何故でしょうか?
すべての事物の本性は、生じず、滅せず、垢はなく、浄いということはありません。よって、菩薩摩訶薩は生を見ず、滅を見ず、垢を見ず、浄いということを見ない、という行を行じます」
「それはどのような理由によるのでしょうか?
名称は、この因縁が和合して作るものです。ただ、分けることによって、心に想うことによって、仮の名称をつけます。このことから、菩薩摩訶薩が智慧の完成の行を行じる時は、一切の名称を見ず、見ないことによって執着をしません」
舍利弗白佛言。菩薩摩訶薩云何應行般若波羅蜜。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見菩薩。不見菩薩字。不見般若波羅蜜。亦不見我行般若波羅蜜。亦不見我不行般若波羅蜜。何以故。菩薩菩薩字性空。空中無色無受想行識。離色亦無空。離受想行識亦無空。色即是空。空即是色。受想行識即是空。空即是識。何以故。舍利弗。但有名字故謂爲菩提。但有名字故謂爲菩薩。但有名字故謂爲空。所以者何。諸法實性。無生無滅無垢無淨故。菩薩摩訶薩如是行。亦不見生亦不見滅。亦不見垢亦不見淨。何以故。名字是因縁和合作法。但分別憶想假名説。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見一切名字。不見故不著。
般若経に出てくる「菩薩は菩薩ではありません。故に菩薩といいます」という文は、意味が分かりにくいのですが、これを分かりやすい文にすれば次のようになります。
菩薩にはもともと菩薩という名前が固定してついているわけではなく、人が菩薩という名を便宜上つけています。菩薩と呼ばれるものには名前はありません。名前が固定してついていないから、私たちは菩薩という名をつけ、共有することができます。
一切には名はありません。そのことは少し考えれば分かることです。私は、男・人間・動物・生物です。しかし、それらは、私に固定してついているわけではなく、人がそのように名づけて、それに従っているだけです。一切の事物が名を持っていないのならば、言葉もまた仮であり、定義されたことも仮であり、概念も仮であることが分かります。
「色即是空・空即是色」を学ぶ時、最初は、「菩薩は菩薩ではありません。故に菩薩といいます」という見方でもいいと思います。「リンゴはリンゴではない。リンゴではないのでリンゴと呼ばれる」ということです。リンゴは空である、つまりリンゴには名前によって呼ばれるような実体は無い、というだけでは、世界の事象を観たことにはなりませんので、実体が無いから、リンゴという名を仮につけることができるということを知る必要があります。固定していないので、「アップル」「ヤブロカ」「ミロ」など色んな名前でそれを呼ぶことができます。つまり、すべては仮にあるということです。
ここから始めれば、因縁に依るものを空と呼び、それを仮と呼ぶという意味も分かると思います。そして、そのことが中道だという龍樹の論も理解できることでしょう。
ご意見等がありましたら、think0298(@マーク)ybb.ne.jp におよせいただければ、幸いです。
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