蓮の道 法華経 (2011) 

2019.7.12

●法華経-001     2011/7/13(水) 午後 5:35

久しぶりにこのブログの「法華経」の記事を読んでみたのですが
ページの順番が狂っており、非常に読みにくくなっていました。

また、記事内容も、経典としての法華経の内容を解説したに過ぎず
何だか、あまり面白味がありません。

何て言うんだろう。読んで実生活に活かせる様な内容じゃないですね。


ということで、もう一度法華経を解説してみようと思います。

書庫を、「新・法華経」とし、今度は、法華経-001・・・法華経-002 ・・・の様にタイトルにシリアル・ナンバーを付けて後日見ても分かりやすくします。

解説の内容も、もっと具体的にし、実生活で活用できる様に解説できたらと思っています。

合掌。

●法華経-002     2011/7/13(水) 午後 8:24

妙法蓮華経という経典のタイトルは、
梵語の「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」からの漢訳です。
サッダルマ・プンダリーカ・スートラとは、
「正しい教えである白い蓮の花の経典」という意味ですから
正法蓮華経の方が、直訳になると思いますが
鳩摩羅什は、サッダルマの語を
正法ではなく妙法として訳しました。

正法というより、妙法の方が言葉に深みがあるからでしょうか?
妙とは、「微妙(みみょう)」の略であり、
「不可思議」「趣深く、何ともいえない美しさや味わいがあること」
「巧妙」などの意味に通じます。

また、妙法は、「妙」と「法」という二元性を同時に言い表す言葉・思想でもあります。
例えば、「妙は仏であり、法は九界の衆生」、「妙は真理であり、法は現象」の様に
妙に対して反する性質の意味を、法にもたせる場合が多い様です。


蓮華はインド原産で、白・赤・黄・青の4種があり、
白・赤は、「ハス」のことで、黄・青は「スイレン」を指します。
ハスは、水上に花茎を伸ばして花をつけ、
スイレンは、水面近くに花をつけます。

泥中から出た清い華のイメージから、蓮華は古くから宗教のシンボルとされました。
バラモン教、ヒンドゥー教では、神々の多くは、
蓮華の上に立つ姿で描かれています。
ヒンドゥー教の大いなる女神であるラクシュミー(シェリー)(仏教では吉祥天)は、
赤蓮華の上に立つ姿で登場する事が多く、
ブラフマー(梵天)、シヴァ(大黒天)、ヴィシュヌなども
蓮華上に立つ姿で表されることが多いようです。

仏教では、泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が
仏の智慧や慈悲の象徴とされ、様々に意匠されています。
如来像の台座は、蓮華をかたどった蓮華座です。

プンダリーカとは、白蓮華のことです。
白蓮華は花の中でも最も清く美しい花だとされ、
最高位の仏、教えのシンボルになっています。


以上の様に、蓮華には、泥中から出た清い華のイメージと、
仏の智慧や慈悲の象徴という意味合いがありますが、
法華経においては、もう一つ重要な意味があります。
それは、蓮華が、「華果同時」であることから、
「因果倶時」の教義に通じるとされています。

普通の植物の場合は、花が終わって実をつけますが、
蓮は、他の植物と異なり、花と実が同時につきます。
このことを「華果同時」といい、
このことが、法華経の教義である「因果倶時」に
通じているため、法華経のタイトルに蓮華の文字が入っているのです。

「妙法は因果倶時の法門なり。 華果同時の蓮華の如し。」
とは、日蓮上人の言葉です。

通常解説されている因果は、「因果異時」です。
原因があって結果が生じるという観方であって
そこには、時間の経過がみられます。
「因果倶時」とは、原因も結果も同時にあるという観方であって
そこには、時間の経過はありません。

たとえば・・・
人を虐待した時、既に地獄に落ちている。
物を惜しんだ時、既に餓鬼に落ちている。
立ち小便をした時、既に畜生に落ちている。
成仏を誓った時、既に仏になっている。
ということです。

衆生が生まれた時、既に仏性を持っている。
仏性が目覚めた時、既に成仏している。
ということです。

このことは、法華経を解説する時に
詳しく説明していこうと思っています。

スートラとは、経典のことですが、
直訳すると、「縦糸」です。
過去・現在・未来を編む縦糸のことで
いつまでも変わらない真理という意味を持っています。
ちなみに、縦糸に対する「横糸」を、タントラといい、
スートラが教義中心なのに対して
タントラは、実践中心です。

サッダルマ・プンダリーカ・スートラとは、
「正しい教えである白い蓮の花の経典」という意味ですが、
「因果倶時という妙法を説く経典」という意味でもあります。

合掌

●法華経-003 南無妙法蓮華経     2011/7/13(水) 午後 9:55

南無妙法蓮華経

南無は、梵語では、「ナマス」といい、帰依の意味です。
帰依とは、「拠り所にする」ということです。
インドでは、挨拶の時に「ナマス・テ」と言いますが
この言葉の語源はナマス(南無)にあります。
ただし、帰依の様に深い意味はなく、
「あなた(テ)に敬意を表します」っぽい言葉です。

通常は、仏や菩薩に対する帰依を表す場合に用います。
たとえば、南無阿弥陀仏や南無釈迦牟尼仏、南無遍照金剛、
南無観世音菩薩などのように仏や菩薩に対して用います。
つまり、信仰の対象に対して南無を唱えます。

南無三宝とは、仏法僧に帰依することをいい、
アニメ「一休さん」の歌の中で、「南無三」というのは
南無三宝のことです。
仏に帰依する言葉は、上記の様に多いのですが
法や僧に帰依する言葉は、あまりありません。
法に対する帰依の言葉は、「南無妙法蓮華経」くらいだと思います。

ただし、南無妙法蓮華経とは、
法華経という経典に帰依する言葉ではありません。
書物としての経典に帰依しているのではなく、
蓮華の様な妙法=真理、に帰依するという意味です。

宇宙の真理に、「妙法蓮華経」という名をつけ、
宇宙の真理そのもの(本仏=妙)と宇宙の真理の働き(現象=法)に
帰依する言葉が、「南無妙法蓮華経」です。
(実は、南無妙法蓮華経=南無三宝です)

南無妙法蓮華経は、中国の天台宗において唱えられ始め、
日本の天台宗でも唱えられました。
しかし、この言葉を世界に広めたのは、日蓮上人です。
日蓮上人は、真理に帰依する言葉を重要視し、
お題目を唱え続ける修行を勧めました。

合掌

●法華経-004 法華経のテーマ     2011/7/13(水) 午後 11:57

法華経のテーマ

法華経のテーマは、
「仏の智慧を衆生に悟らせること」です。
このことは、方便品第二を読めば理解できます。

 ○諸仏の智慧は甚深無量である。

 ○その智慧の門は難解難入である。

 ○それは、一切の修行者が、知る事のできない智慧である。

 ○仏は、非常に長い年月を掛け、無量の諸仏について教えを頂き、
   無量の修行を通して、その智慧を得た。

 ○舎利弗よ。
   仏は、その智慧を方便によって説いてきた。
   仏は、智慧も方便も身につけている。

 ○止めよう、舎利弗よ。
   この教えは、説くべきではない。
   この智慧は、第一希有難解の法なのだ。

 ○ただ、仏と仏のみが、諸法実相を究めているのだ。

 ○舎利弗が教えを請い、釈尊がそれを断る。
   三度釈尊が断り、三度舎利弗が教えを請う。

 ○舎利弗の求道心を本物と認め、
   釈尊は、「仏の一大事因縁」を伝えた。
   それは、仏がこの世界に現れる理由は、
   衆生に仏の得た智慧を悟らせるためである、
   という内容であった。

釈尊が菩提樹の下で悟った内容は、非常に深く、
衆生の理解しがたい内容であったことは、
これまでも、多くの経典で書かれていました。
あまりにも難しい内容だったため、釈尊は、人々に説く事をためらい
梵天の勧めによって、やっと説法の決断をしました。

釈尊は、自身が悟ったそのままを人々に説いても
誰も理解できないであろうと考え、方便にて教えを説いていこうとしました。
人それぞれの機根(教えを受ける能力)に応じて教えを説き、
徐々に機根を高めていき、最終的に真実の教えを説こうと考えたのです。
いわゆる「随宜説法」「対機説法」です。

釈尊は、まずは、中道、八正道、四諦などを説き、
次に十二因縁を説き、六波羅蜜を説きました。
その全ての教えのベースには、
真理である無常・無我・空・縁起がありましたが、
相手の機根に応じて、それらの教えを説くため
真理そのものではありませんでした。
ずっと方便を説いてきたのです。

この法華経において、やっと釈尊は真理を説くことになりました。
人々の機根が高まり、真理を説いても問題はないと感じたからです。

方便と真実(真理)。
この言葉が、法華経の重要なキー・ワードです。

 方便=権
 真実=実

合掌

●法華経-005 方便と真実     2011/7/14(木) 午前 0:43

方便と真実

法華経において、釈尊はやっと真実を説くことになりました。

と書くとウソになりますね。
いくら釈尊でも、真理そのものを言葉には出来ませんもんね。
真理は悟るものであり、人から学ぶものではありません。
自分自身で体験し、気づいて、得るものです。

たとえば、コーヒーの味を本当に理解しようとするならば
コーヒーを飲む以外に手段はありません。
いくらコーヒーを飲んだ人にその味の説明を受けても
絶対にコーヒーそのものの味を知ることは出来ません。

なので、当然ながら、法華経においても真理そのものは説かれていません。
では、何が説かれているかというと、真理をつかむ方法が説かれています。

 真理と真理をつかむ方法・・・
 それって、結局、真理と方便ですね・・・

そうなんです。
法華経のテーマを言いかえれば、「真理と方便」なのです。
なんだ、それじゃ、これまでの仏教と同じやん・・・
と思われた方も多いかも知れませんね。
でもね、法華経以前の方便とは全く異質の方便なので
ご期待下さい。

合掌

●法華経-006 権実     2011/7/14(木) 午後 5:54

権実

権とは、仮のものの意味で、
実とは、真実の事です。

権とは、方便であり、
真実を理解させるための手がかりとなる仮の教えの事をいいます。
つまり、権実とは、「方便と真実」のことです。
前回、法華経のテーマは、「方便と真実」だと書きましたが
それを「権実」という言葉で言い表すことができます。

権教と実教

真実を説く実教は、法華経であり、
法華経以前の教えは、方便を説く権教だと言われています。
これは、無量義経の
「四十余年未顕真実」(40余年には未だ真実を顕さず)という一節から
理解することができます。
つまり、法華経直前に説かれたとされる無量義経において、
「悟りを開いて以来四十余年、未だ真実は説いていません」と
釈尊が打ち明けますので、無量義経までの教えは方便であったとします。

権智と実智

権智とは、仏や菩薩が衆生を導くために用いる方便の智慧のことで
実智とは、真実の智慧のことです。

権と実、方便と真実、これが法華経のテーマとなります。

合掌

●法華経-007 開三顕一     2011/7/14(木) 午後 11:00

開三顕一(かいさんけんいち)

仏弟子には、三つのタイプがあります。
声聞・縁覚・菩薩の三つです。

声聞とは、釈尊の教えを聞き学ぶ弟子たちのことです。
縁覚とは、外縁を観察し、瞑想によって涅槃を目指す修行者です。
菩薩とは、自分だけではなく他者と共に成仏を目指す修行者です。

声聞・縁覚を二乗といい小乗ともいいます。
菩薩を大乗といい、声聞・縁覚・菩薩の三つを三乗といいます。

乗とは、乗り物のことであり、
小乗とは、一人用の小さな乗り物、
大乗とは、多人数用の大きな乗り物のことです。

一とは、一仏乗、一乗のことで、
「仏と成ることのできる唯一の教え」のことです。
一には、「唯一無二」の意味があります。

開三顕一とは、この声聞・縁覚・菩薩の三乗は
一仏乗を説くための方便であった、という意味です。

・・・しかし。
今の世の中で声聞・縁覚・菩薩と言われてもピンときませんね。
この法華経が説かれたとされる時代や
この法華経が経典として世に出た頃には
声聞・縁覚・菩薩という分類が、身近にあったのでしょうが、
現在の一般人には、分かりにくい分類です。

もちろん、仏教には今でも分類があります。
東南アジアの仏教は、上座部仏教(小乗)であり、
中国、チベット、日本の仏教は、大乗仏教です。

経典の法華経では、方便品第二から授学無学人記品第九まで
開三顕一が説かれています。
なんと経典の 1/3 が、開三顕一なのです。
「声聞・縁覚・菩薩の三乗と分けて説いたのは、
 一仏乗を説くための方便であった」ということを
力いっぱい説いています。

声聞・縁覚・菩薩を現代風に言えば、
声聞=学習主義の人・・・文系・理系の人
縁覚=体験主義の人・・・体育会系の人
菩薩=救済主義の人・・・ボランティア
なのでしょうか?

開三顕一とは、権と実、方便と真実と同じ意味です。

権=方便=声聞・縁覚・菩薩の三乗
実=真実=一仏乗

合掌

●法華経-008 方便     2011/7/17(日) 午前 1:14

方便

では、そろそろ権と実について詳しく説明いたしましょう。

実とは、真実のこと、真理のことです。
釈尊などの諸仏の悟られた法であり、
実の悟りを阿耨多羅三藐三菩提ともいいます。
実を悟ることを成仏といい、実を悟った人を仏陀といいます。
実に即して、正しく物事を認識し、判断する能力を智慧といいます。

実=真実=真理=智慧=悟り=阿耨多羅三藐三菩提=成仏=仏陀
智慧=般若波羅蜜=空=無我・無常=縁起=無相=実相

法華経は、実を明らかにする経典です。
人々を真実、真理の解明に導く教えであり、
智慧を完成させ、悟らせ、阿耨多羅三藐三菩提の境地にし、
成仏を約束する尊い教えです。

しかし・・・
諸仏の智慧は甚深無量だし、その智慧の門は難解難入だと
釈尊自身が断言しているのに、その難解な智慧を
人々に悟らせる方法とは、一体どのようなものなのでしょう?

その方法は、「方便」です。
方便とは、梵語のウパーヤの訳であり、
ウパーヤには、「近づく」「到達する」という意味があります。
そのことから、方便は、
「巧みな手段」「正しい方法」という意味として使われます。
これは、「真実に近づけるための巧みな手段」であり、
「真実に到達させるための正しい方法」ということです。

釈尊の教えは、対機説法、随宜説法です。
教えを受ける人の機根、性格、欲求に応じて法を説きます。
ある者には、親孝行を教え、
ある者には、道徳・倫理を教え、
ある者には、哲学を教え、
またある者には、瞑想を教え、
またある者には、利他の修行を示しました。

法華経の説法をされる直前に説かれたのが無量義経ですが、
その中で釈尊は、人々の機根、性格、欲求は十人十色であり
よって、人の数だけ、機根、性格、欲求があるので
一人一人を救おうとするならば、
人の数だけ教えが必要であることを説かれました。
さらに、無量ともいえる教えは、一つの真実から生じていると説かれました。

 無量の教え=方便

釈尊は、誰に対しても、真実を心にして説法をされ、
相手が真実を悟れる様にと説法をされたのです。
つまり、釈尊の説かれた教えは全て、方便でした。
真実に到達させるための正しい方法として、教えを説いたのです。

法華経以前の教えは、方便でした。
そして、ついに法華経によって、真実が明らかになります。
しかし、釈尊が悟った内容をズバリ、そのままに伝えることは不可能であり、
法華経においても、その内容は方便です。

ただし、方便のあり方が、法華経以前とは完全に異なります。
法華経以前では、方便とは、釈尊の説法だったのですが、
法華経においては、本仏の説法となります。
本仏とは真理そのもののことですが、
真理そのものによる説法とは、どの様なものなのでしょう?
それは、現象・事物であるといえます。

本仏は、現象を通して衆生を教化しています。
よって、方便とは、現象・事物であるといえます。

私たちは、日々様々な体験をしています。
体験とは、現象・事物との関わりであり、
体験を通して気づきを得ることが、非常に大切です。

合掌

●法華経-009 仏の三身     2011/7/17(日) 午後 11:45

仏の三身

仏には、三身があるといいます。
法身仏、報身仏、応身仏の三身です。

○法身仏(真理)
 真如身。
 宇宙のあらゆるものの根源であり、真理そのもの。

○報身仏
 受用身。智慧身。正覚身。
 修行によって悟りを得た仏。

○応身仏
 化身。慈悲身。
 衆生教化の対象に応じて現れた仏です。

人間釈尊は、在世中に、
「肉体をもった仏に頼ってはいけません。
 仏は法を悟った者ですから、法こそが真のよりどころです」
と弟子たちに説いていました。
しかし、釈尊入滅までは、目の前の釈尊に頼り、
法を拠り所にはしませんでした。

法を拠り所にしようと改めて考える様になったのは、
釈尊入滅後のことです。
肉体を持った仏と法そのものの仏という、
二身の仏の考え方を持つようになったのです。
この時、肉体を持った仏は、
人々を救うために人々に応じて出現する仏という意味の
応身仏という名称がつけられ、
永遠不滅の身である法そのものの仏は
法身仏という名称がつけられました。

その後、肉体を持った人間が、
修行によって悟りを開いた仏の身が考えられる様になり、
報身仏という名称がつけられました。
三十二相八十種好を持つ仏であり、仏像のモデルにもなっています。

 法の仏=法身仏
 肉体を持つ仏=色身仏=応身仏・報身仏

法身仏・応身仏・報身仏という三身仏の思想は、
広く普及し、通説となりました。
そして、それぞれの仏に対し、具体的な仏が当てはめられました。

 法身仏=大日如来(毘盧遮那仏)
 報身仏=阿弥陀如来
 応身仏=釈迦牟尼仏

しかし、法華経においては、
釈尊は、法身仏であり、応身仏であり、
報身仏であることが説かれています。

 法身仏=久遠実成の釈迦牟尼仏
 報身仏=釈迦牟尼世尊
 応身仏=釈迦牟尼世尊

つまり、法華経の説く実仏とは、三身相即であると説いています。
相即とは、いくつかのものが差別なく一つに融け合っていることですので、
三身相即とは、法身仏・応身仏・報身仏という三身仏が
密接に関わり合い、一つに融け合っていることをいいます。

法身仏とは、真理そのもの、
報身仏とは、真理を理解する智慧身、
応身仏とは、智慧を衆生に伝える慈悲身です。


だらだらと三身について書いてきましたが、
何を言いたいのかというと、真理=智慧→慈悲というものを
仏に譬えたものが、法身仏・報身仏・応身仏であるということです。

応身仏とは、その代表を釈尊であるとしましたが、
実は、真理・智慧を衆生に伝えるために出現するものは、
すべて応身仏です。
ある時は人の身となり、ある時は動物の身となり、
ある時は植物の身となって衆生に真理を伝えようとします。
これを、示現といいます。

示現=仏・菩薩が衆生を救うために
     種々の姿に身を変えてこの世に出現すること。

広く解釈すれば、すべての現象・事物は、示現であり、
応身仏であるということになります。

合掌

●法華経-010 六或示現     2011/7/19(火) 午後 11:11

六或示現

如来寿量品第十六は、法華経の中心となる章であり、
法華経を諸経の王とするならば、
如来寿量品は、仏教経典の核となる章です。

釈尊は、この章において、
「如来の秘密・神通の力」を説かれました。
如来の秘密とは、如来の体のことをいい、
神通の力とは、如来の働き、作用のことをいいます。

如来の秘密(体)は、前回明らかにした三身相即の仏です。
つまり、法身仏・報身仏・応身仏の仏の三身は、
それぞれが分かれて存在するのではなく
三身仏が密接に関わり合い、一つに融け合っていることをいいます。

神通の力とは、示現のことです。

 如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。
 或は己身を説き、或は他身を説き、
 或は己身を示し、或は他身を示し、
 或は己事を示し、或は他事を示す。

この場合の如来とは、三身相即の仏であり、
その如来ののべる所の経典は、
すべて衆生を悟らせるためにあると告げました。

 如来の演ぶる所の経典=神通の力=示現

示現のしかたに六種あり、
或いは・・と六回言って説明するので
「六或示現」といいます。

 或は己身を説き・・・仏の身を説く
 或は他身を説き・・・仏以外の身を説く
 或は己身を示し・・・仏の身を示す
 或は他身を示し・・・仏以外の身を示す
 或は己事を示し・・・仏の事を示す
 或は他事を示す・・・仏以外の事を示す

仏教では、世界を十区分しています。
地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天界・
声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界
の十です。
そして、それぞれの世界にいる者を
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・
声聞・縁覚・菩薩・仏
として区分します。

仏の身とは、仏界にいる者である仏陀のことを差し、
仏以外の身とは、仏界以外にいる者を差します。
つまり、菩薩〜地獄の九界の者たちのことです。
仏の事とは、仏界にて起こる現象・事物のことを差し、
仏以外の事とは、仏界以外にて起こる現象・事物のことを差します。

仏は、十界を互具していますので、
十界のそれぞれの身として現れることが可能です。

  仏身をもって得度すべき者には、
     すなわち仏身を現じて為に法を説く。

  菩薩の身をもって得度すべき者には、
     すなわち菩薩の身を現じて為に法を説く。

  辟支仏(縁覚)の身をもって得度すべき者には、
     すなわち辟支仏の身を現じて為に法を説く。

  声聞の身をもって得度すべき者には、
     すなわち声聞の身を現じて為に法を説く。

  帝釈天の身をもって得度すべき者には、
     すなわち帝釈天の身を現じて為に法を説く。

  人の身をもって得度すべき者には、
     すなわち人の身を現じて為に法を説く。

  阿修羅の身をもって得度すべき者には、
     すなわち阿修羅の身を現じて為に法を説く。

  畜生の身をもって得度すべき者には、
     すなわち畜生の身を現じて為に法を説く。

  餓鬼の身をもって得度すべき者には、
     すなわち餓鬼の身を現じて為に法を説く。

  地獄の身をもって得度すべき者には、
     すなわち地獄の身を現じて為に法を説く。

というように、仏は相手に相応しく、身を現じて為に法を説くのです。

合掌

●法華経-011 譬喩     2011/7/22(金) 午前 0:15

譬喩

仏教の真理とは、釈尊の発明ではなく、
釈尊の発見です。
つまり、釈尊が考え出したものではなく、
釈尊が、この世に出ようとも出て来なくとも
この宇宙にある真理です。

その真理を釈尊は発見しました。
真理を認識し、判断する能力を智慧といいます。
真理とは、認識されるものであり、
智慧とは、認識するものです。

何でもそうですが、すべてのものは、
認識されてはじめて存在が明らかになります。
認識されなければ、存在しないのと同じです。

富士山があるのは、その人が、
富士山のことを認識しているからです。
富士山のことを知らなかった頃は、
その人にとって富士山はありませんでした。
本とかテレビ、新聞などで、富士山の名前を知り、
その山とはどんなものかを知った時、
そして、直に富士山を見た時、
富士山はその人にとって、「存在するもの」になります。

釈尊は、宇宙の真理を発見し、
それに、「縁起」と名付けました。
そして、縁起という言葉によって、
人々は、宇宙の真理の存在を知ることになります。

しかし、縁起といってもそれは単なる名称であり
それが、どのようなものかは悟らなければ分かりません。
法華経においては、真理に対し、妙法蓮華経という名を与えています。
しかし、それも単なる名称であり、正体不明です。

 縁起=妙法蓮華経 

ということは分かりますが・・・

智慧を得る方法については、般若経に詳しく説かれています。
それは、六波羅蜜であり、特に禅定を最終段階の修行としています。
智慧(真理)そのものについても説かれていますが、
そのものズバリは説かれていません。
ものごとを否定することによって、真理・智慧を顕そうとしています。

つまり、「非・無・不」などの語で、あるものを否定することによって
存在の「空」を明らかにし、「縁起」を導いています。

否定によって智慧を顕す論理は、あまりにも難しく
人々には、意味不明の表現でした。
一部の修行者にしか、分からなかったのです。

そこで、法華経では、智慧(真理)を分かりやすく説くために
譬喩という方法をとりました。
たとえ話です。

法華経には、譬喩がたくさん説かれています。
法華七喩と呼ばれる譬え話は有名であり、
それ以外にも多くの譬えが、法華経内で説かれています。

私は、法華経という経典自体も一つの譬え話だと思うのですが、
なぜ、この様に譬喩が多いのかというと、
理解しがたい内容は、何かに譬えた方が相手に伝わりやすいからです。

とてつもなく沢山の数を表すのに、
一億個、一兆個などと言ってもピンときません。
ガンジス河の砂の数だけ、というとイメージできます。
譬えは、人々がイメージできるように説く方法であると言えます。

桃太郎の話は多くの比喩です。
桃とは、邪気を祓う霊薬だとされていましたので、
鬼退治の主人公を桃から生まれた事にしたのでしょう。
鬼は、風水でいう鬼門から来る邪気であるとされ、
鬼門は、丑と寅の間の方角(北東)であることから、
牛の角と虎の腰巻をするのだとされています。
家来となる猿・雉・犬は、鬼門の逆方向である裏鬼門の
申・酉・戌を表すとされます。
つまり、邪気の出る鬼門を封じるために猿・雉・犬が選ばれたとします。
別の説では、儒教的解釈で、猿を知恵・雉を勇気・犬を仁としています。

この様に、ある話が譬喩であっても、
それをきちんと解釈できなければ、意味がありません。
解釈がなければ、桃太郎は、単なる童話で終わってしまいます。
法華経においても、譬喩とそれを解釈する合譬とはセットになっています。

実は、この合譬が重要です。
仏は、現象を通して人々を教化しています。
しかし、凡夫は、その様なことは全く分かっていません。
現象は単なる出来事としてしか認識しておらず、
現象を体験し、その体験によって得られる気づきが
重要なのだとは、思ってはいません。
現象は譬喩であり、それを気づきにするには、合譬が必要です。
合譬によって、桃太郎からも多くの知恵を頂けるのです。

交通事故を起こした、としましょう。
そのことは現象であり、現象面を処理するためには
警察を呼び、救急車を呼び、保険会社を呼ぶ必要があります。
しかし、その事故は、その人を悟らせんがための仏の説法です。
その事故から学べることがあり、何かを気づくことが出来ます。
事故という体験を通して気づきを得るのです。
この時、現象の裏にある説法を観る能力が必要ですが、
それは、ある程度の練習、経験がなければ難しいものです。
そのため、法華経では、譬喩と合譬を多く取り入れ、
それを体験学習のレッスンとしています。

合掌

●法華経-012 十界互具     2011/7/22(金) 午後 6:31

十界互具

法華経で説かれている世界観は、十界互具です。
十界互具とは、十界それぞれの世界に
十界が具わっていることをいいます。
以前にも説明しましたが、もう一度十界について
説明いたします。

 ○地獄…苦悩に心を支配された世界。
 ○餓鬼…物欲に心を支配された世界。 
 ○畜生…本能的欲求に心を支配された世界。
 ○修羅…自我が強く、闘争本能に心を支配された世界。
 ○人間…理性によって、苦悩・物欲・本能・闘争心を
        ある程度コントロールしている世界。
 ○天上…喜び、楽しみに満ちた世界。
 ○声聞…学習主義の聖者。
 ○縁覚…体験主義の聖者。
 ○菩薩…救済主義の聖者。
 ○仏…完全なる悟りを得た境地。

小乗仏教においては、
地獄界は、地底の奥底にあり、
血の池や針の山、炎が燃え盛る苦痛に満ちた場所だとされ、
餓鬼界は、地獄界の側や人間界、天上界にあり、
欲しい物が手に入らない場所だとされ、
畜生界は、人間界と同じ場所にあり、
修羅界は、海の底にあり、
天上界は、須弥山という世界の中央にある高山の
中腹から上の世界と天空にあるとされました。

大乗仏教では、それらの六界も人間界と同じ場所にあり、
個人の精神的状態によって、世界のあり方が変わるとしています。

ただし、経典や解釈本によって、十界の説明はまちまちであり、
混乱してしまいますが、ここでは、大乗の十界は、
精神的世界であるということにします。

法華経の世界観は、十界互具です。
この教義は、非常に重要であり、
法華経を理解するためには
押さえておく必要があります。

合掌

●法華経-013 十界互具-2     2011/7/22(金) 午後 8:51

十界互具-2

法華経の世界観は、十界互具です。
十界互具とは、十界のそれぞれの世界に
他の九界が具わっていると観る世界観です。

たとえば、地獄界の者の心に
餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の
境地を具えていることをいいます。

戦争とは、まさに地獄です。
だと言って戦地にいる人が、全員地獄の境地にあるとは言えません。
過去の業と現在の縁によって、九界の境地を表します。

戦地において、戦いの中にある人の心にも
怒りや恐怖、不安の心でいっぱいになり苦悩する地獄、
他人の物を貪る餓鬼、
何も考えず本能のまま行動する畜生、
戦う事を楽しむ修羅、
戦争に疑問を持つ人、
一時的な快感を楽しむ天、
尊敬できる人の意見から学ぶ声聞、
戦争を通して自分を見つめる縁覚、
戦争の中でも自己犠牲の精神で他者を救う菩薩、
そして、戦争の中でも、慈悲の心で敵・味方の区別なく
仏の道へと導く仏、
という様に様々な心境が表れます。

十界の内に様々な心境が表れるのは、
元々、十界に他の十界が互具しているからです。

地獄の心の者にも仏の心境が具わっているのと同様に
仏の境地の者にも地獄の心境が具わっています。
しかし、たとえ地獄の心境を具えていたとしても
仏は地獄の心に支配されることはありません。
仏は、地獄の心を具えることにより、
地獄の衆生と異体同心となることができ、
地獄の衆生を仏道に導くことが可能なのです。

仏が、九界の心を互具するのは、
一切衆生を救うために必要です。

九界の衆生は、仏の心境を互具しています。
このことは、一切衆生に仏性が有るという意味であり、
一切衆生は、成仏の可能性があるということです。
このことは、衆生の成仏を証明する理論となっています。

方便品の後半に、「万善成仏」が説かれています。
]伺藩緻を修する人は、既に仏道を成している。
∩?(ぜんなん)の心の人は、既に仏道を成している。
J塔を建てる人、仏像をつくる人、仏画を描く人は、
  既に仏道を成している。
ざ〕椶鬚垢訖佑蓮既に仏道を成している。
ノ蘿劼鬚垢訖佑蓮既に仏道を成している。
Α崙醋喫」と唱える人は、既に仏道を成している。

ここで説かれていることは、どのような事でも
善の行為によって、ただちに成仏するということです。
善因によって、即成仏するのです。
このことは、善因によって、仏の心境が引かれることであり、
仏界を互具しているから成せることです。

この「万善成仏」の説では、
人を例にして、人に仏性ありと説かれていますが、
十界互具ですので、すべての界において
善を起こせば成仏が可能だと言えます。

ただし、小善においては、成仏は刹那であると言えます。
瞬間的に仏性が表れても、ほんの瞬間でしょう。
本格的に仏性を開眼し、成仏するには、
本格的な修行が必要です。

合掌

●法華経-014 十界互具-3     2011/7/22(金) 午後 11:48

十界互具-3

十界互具の教えは、一切衆生の成仏を説くものです。
つまり、一切衆生が仏性を具えているという説に
通じる教えです。

そして、十界互具とは、一切衆生を救うための
仏・菩薩の示現の説に通じる教えです。
仏・菩薩が、地獄〜縁覚の心境を具えているから
あらゆる境地の衆生に化身でき、
あらゆる境地の衆生を救うことができるという説です。

この十界互具は、因果倶時の思想です。
因果倶時とは、原因と結果が同時にあるというもので
因に果が具わることです。
蓮は、花が咲いた時に既に実を付けていますので、
因果倶時の説に通じるとして、
妙法蓮華経というタイトルにも入りました。
つまり、妙法蓮華経とは、
因果倶時という妙法を説いた経典であると言えます。

 因=九界
 果=仏界

列車でのこと。
満席の車内でしたが、やっと席が空き座る事ができました。
そこに、ヨボヨボのおばあちゃんが乗ってきたとしましょう。

「くそ!やっと座れたのに、絶対に替わるもんか!
 こっちに近寄るんじゃねえよ。ババア!」
と思った瞬間、地獄に落ちています。

「ここは俺の席だもんね。譲らないよ。さあ、寝たふりしよ!」
と思った瞬間、餓鬼に落ちています。

「・・・・」
まったく気づかず、よって、何も動じない時、畜生に落ちています。

誰かがお婆さんに席を譲ったのを見て、
「俺が替わろうと思ったのに!先を越しやがったな!」
と競争心をむき出しにした瞬間、修羅に落ちています。

「どうしよう。譲った方がいいんだろうけど、勇気がないな・・・」
などと良心が痛み、迷う時、人間の状態です。

「ここ、どうぞ!」
席を譲って、お婆ちゃんにお礼を言われて有頂天の時、
天の状態です。

一緒に居た先輩にどうするべきかを尋ねる時、
声聞の状態です。

お婆ちゃんという縁をどう捉えるか、何を学ぶか、
と内観する時、縁覚の状態です。

お婆ちゃんに快く席を譲り、譲ったことによって
見返りを求めない時、菩薩の状態です。

他の人が座るのではないかと予知して席を空けておき、
お婆ちゃんが何の障りもなく座れる様に見守る時、
仏の境地です。

地獄の衆生の場合、常態が地獄ですので
仏の境地に上がるのは難しく思えます。

暴れん坊の気難しい不良青年が、
列車に乗り込んで空いた席があった時、
ホームを見て、誰かが乗らないかと気配りをし、
お婆ちゃんが乗りそうなので自分は座らず、
お婆ちゃんが安全に座れるまで
見守るという光景を見ることは
非常に稀でしょう。

でも、可能性はあります。
それは、縁に依るのです。
その不良青年が、お婆ちゃん子だった場合、
自分のお婆ちゃんの姿と重なって
乗ってきたお婆ちゃんに席を譲るかも知れないし、
尊敬する先輩に諭され、これが真の男道だと教えられたならば
不良青年は、試してみるかも知れません。
漫画とか、映画とか、テレビなどで、
そういう情景を見て、実施することもあるでしょう。

善行を成した時、即仏道を成しています。
そして、その善行を成すきっかけをつくるのは、
縁なのです。
果は縁に依って生じる、
これこそが縁起観であり、仏教の真理と言われるものです。

合掌

●法華経-015 六界     2011/7/23(土) 午前 0:35

六界

六界について、もう少し詳しくお伝えします。
六界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のことで
迷いの境地とも言われます。

私たち生物は、基本的には、二つのことをしています。
一つは、「より良く生きること」
一つは、「他のものの役に立つこと」
この二つです。

言いかえれば、
「個として生きること」「全体として生きること」です。
または、「生きること」「生かすこと」です。

ただし、ほとんどの生命体は、自己中心的ですので
個として生きることに懸命であり、
他を生かす働きは、意識していません。
しかし、知らず知らずの内に、
この宇宙は、他の役に立つようなシステムになっています。

たとえば、弱肉強食の掟は、
弱いものが強いものに自分の命を与えています。
弱いものの命を強いものが頂き、自分の命にしているのです。
仏教的には、「布施」といいますが、
弱者は強者に命を布施しています。
でも、弱者は、意識して布施はしていないでしょう。
これは、自然界のシステムであり、
自身は意識していなくても、他のものの役に立ち、
全体として生き、そして、他を生かしています。
他を生かそうという無意識的な働きは後日詳しく述べる事にして、
今回は、「より良く生きること」「個として生きること」に焦点を当て、
十界について説明いたします。

生命体は、「より良く生きること」がプログラムされています。
これは、欲しいものを手に入れる、という働きです。

○あるものを認識する

○欲しいと思う=餓鬼
○欲しくないと思う=それを嫌う=地獄
○別に何も思わない=畜生

○欲しいものを手に入れるために他と争う=修羅
○欲しいものが手に入らない=怒り=地獄
○欲しいものが手に入る=天

○手に入れたものに執着する=餓鬼

人間とは、ある程度感情をコントロールし、
地獄・餓鬼・畜生に落ちても、
立ち直る事の出来る境地です。

この様に、六界という迷いの境地にあるのは、
「個として生きること」に執着しているからです。

合掌

 

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