蓮の道 般若心経 (2011) 

2019.7.11

●般若心経-1 はじめに     2011/11/16(水) 午後 10:45

以前、般若経の書庫で、般若心経の記事を書きましたが、少々訂正し、分かりやすい文章にかえて「般若心経」の書庫に記録することにします。

皆さんからのコメントを心よりお待ちしています。

合掌

●般若心経-2 現代語訳     2011/11/16(水) 午後 11:10

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(仏陀が説かれた大いなる智慧の完成の呪文のある経典)

観世音菩薩さまは、大いなる智慧の完成のために、
六波羅蜜の修行を行い、最終修行として
空と無相と無願の瞑想を行いました。
それは、すべてのものには実体がないこと、
そのものに実体がないから、そのものを認識しないこと、
そのものを認識しないから、そのものに執着しないことを
深く瞑想する修行です。
この瞑想の修行を完成させることによって
観世音菩薩さまは、一切の苦しみを取り除かれました。

シャーリプトラよ。
よく、お聞きなさい。
形のあるものには、実体はありません。
実体がないから、仮に形あるものとして存在します。
形のあるものは、即ち実体のないものであり、
実体のないものは、即ち形のあるものです。
この宇宙を構成する要素を観察すれば、
形のあるものにも、形がないものにも、
すべてのものには、実体はありません。

シャーリプトラよ。
この様に一切の事物・現象には実体がなく、
一切の事物・現象を認識することはなく、
一切の事物・現象に執着することがないと
深く瞑想をしなさい。

この瞑想によって、
生じることはなく、滅することはなく、
汚れたものはなく、浄らかなものはなく、
増えることはなく、減ることはないと
観ることができます。
それらは、認識し、執着するから
あると観ているだけなのです。
縁起に依って仮にあるのですから
それらは、ただの概念であることが分かります。

あると観ているものは、言葉と概念に依って
あると思い込んでいるだけです。
ものごとを分けて観る観方から離れ、
言葉と概念に依らずに直観で
真理を観ることが重要です。

直観によれば、
形のあるものというものはなく、
形のないものはありません。

直観によれば、
自分というものはなく、
相手というものはなく、
世界もなく、
苦しみや悲しみもなく、
しかも、安らぎや安らぎを得る道も
智慧や智慧を得ることもありません。
それらの言葉と概念から離れましょう。

菩薩は智慧の完成の修行によって、
心にとどこおりがなく、とどこおりがないことによって、
恐怖を感じる事がありません。
一切の誤った考え方から遠く離れているので、
安穏の境地に入ることができます。

過去・現在・未来の諸仏は、智慧の完成によって
最上最高の悟りを得ることが出来るのです。

ここに智慧の完成に至るための呪文があります。
瞑想の際に唱えなさい。
これは、最高の呪文であり、他に類を見ない呪文です。
よく、一切の苦を除き、真実であって虚妄ではありません。
では、最後に智慧の完成の呪文を説きましょう。
すなわち、その呪文とは次の様なものです。

「ギャーテイギャーテイ。ハラギャーテイ。
    ハラソウギャーテイ。ボウジソワカ。」

以上が般若心経です。

合掌

●般若心経-3 タイトルの意味     2011/11/16(水) 午後 11:35

○仏説摩訶般若波羅蜜多心経

まずは、般若心経のタイトルについてです。
一般的には、「般若心経」という様に略して言いますが、
「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」というのが
このお経の正式なタイトルです。

 仏説=仏陀の説いた教え
 摩訶=偉大
 般若=智慧
 波羅蜜多=完成のこと。
 心=中心・重要の意味と同時に呪文の意味がある。
 経=経典

= 仏陀の説かれた偉大なる智慧の完成の真言のある経典


仏説とは、仏陀が説かれた教えということです。
仏陀とは、悟りを開いた者のことをいい、
通常は、釈尊のことをいいます。
しかし、この般若心経は、釈尊ではなく、
観世音菩薩が舎利弗に対して教えを説いています。

摩訶とは、「偉大」、という意味です。
摩訶不思議などで、お馴染みの言葉ですね。

般若とは、智慧のことです。
ちえには、「知恵」と「智慧」という二種類がありますが、
般若とは、智慧の方です。
知恵と智慧は、混合されて使われることも多いのですが、
本来の意味はかなり違います。
知恵とは、過去の知識・記憶・イメージなどを
必要な時に引き出すことの出来る精神能力で、
智慧とは、一般的には馴染みの薄い言葉ですが
仏教においては、非常に重要な言葉です。
特に般若心経においては、核となる言葉ですので押さえておきましょう。

「智」とは照見、つまり物事の本質や実相を
正しく明らかにすることです。
「慧」とは解了、つまり、すっかり見極めることです。
「智」は一般に世間で真理といわれるものを知ること、
「慧」は出世間的な最も高く勝れた第一義の事実を照見し、
それに体達するものであるとします。

ちょっと難しいですね。
簡単に言えば、知恵とは、衆生における精神能力であり、
智慧は、仏陀が持つ精神能力です。

波羅蜜多とは、完成のことですが、
悟りの境地である彼岸へ渡るということも波羅蜜多といいます。
苦しみの世界であるこちら側の世界を此岸といい、
安穏の境地であるあちら側の世界を彼岸といいますが、
波羅蜜多には、到彼岸の意味もあります。
日本における「お彼岸」とは、この波羅蜜多を
語源としています。

この経典では、「般若波羅蜜多」といいますので、
「智慧の完成」の意味を取ります。

心とは、核心・重要の意味と同時に呪文の意味があります。
心をサンスクリット語でいうと、「フリダヤ」なのですが、
この言葉には、中心という意味と呪文の意味があります。
他の般若経が、8000行とか25000行、10万行もあるのに
般若心経は、わずか266文字なので、
確かにエッセンス的な意味から
核心のお経とされたのかも知れませんが、
呪文とする見方の方が有力だと私は思います。
最後のところの、

 ギャーテイギャーテイ。ハラギャーテイ。
       ハラソウギャーテイ。ボウジソワカ。

が、まさに呪文(真言)だからです。

経とは、経典のことです。
なお、原典となるサンスクリット語の経典のタイトルには、
経にあたる文字はないそうです。
経は、教えの意味でもあります。

合掌

●般若心経-4 般若経のエッセンス     2011/11/17(木) 午前 0:00

「般若心経は、般若経のエッセンスである!」
というのが通説ですが、
ほとんどの般若心経の解釈には、
般若経の思想が説かれていません。

八千頌般若経、金剛般若経、
善勇猛般若経などを読んでから
般若心経を読まなければ、
般若経全体の土台にある無分別の観方、
言葉への不信、空については理解しがたいと思います。

さらには、龍樹菩薩の論書である「中論」を
読まなければ、空について、誤解をしてしまうでしょう。

多くの解釈本は、「色即是空・空即是色」に捉われていて
事物・現象が、空であることを解き明かすことで懸命です。
今後、ゆっくりと説明させて頂きますが、
空と縁起とは同義であり、「空・仮・中」という龍樹菩薩の説を
参考にしなければ、この「色即是空・空即是色」は、
とんでもない解釈になってしまいます。


ただ・・・
般若経の一つのテーマは、言葉への無執着ですので、
この説は正しい、この説は正しくない、と分別するのは
般若経の思想から離れてしまいます。

参考程度にこの「般若心経」の記事のシリーズを
読まれることをおすすめします。

合掌

●般若心経-5 誰の説法か?     2011/11/17(木) 午後 6:22

般若心経は、いったい誰が説いたのでしょう?
タイトルに仏説という言葉がある位ですから、
釈尊が説いたのに決まっていると思われがちですが、
多くの解釈では、観世音菩薩が説いた事になっています。

つまり、舎利弗の名を呼び、空の智慧を説いたのは、
お釈迦さまではなく、観世音菩薩であるとするのが通説です。

その根拠は何でしょう?

根拠は、大本般若心経という経典にあります。
日本で一般的に読まれている般若心経は、
小本般若心経であり、
この般若心経とは別に、完全版とも言える
大本般若心経という経典があります。

小本般若心経の代表的な漢訳は、
西遊記で有名な三蔵法師玄奘のものですが、
この経典には、仏教経典の特徴とも言える、
「如是我聞」がありません。
しかも、如是我聞に続く、
いつ、どこで、誰が、誰の為に説いたのかも書かれていません。

しかし、大本般若心経には、
それらの内容(六成就)が、しっかりと書かれています。
それによれば、観世音菩薩が舎利弗相手に教えを説き、
ラストでお釈迦さまが、観世音菩薩の説いた事に
間違いはないと太鼓判を押しています。

よって多くの解釈では、般若心経の説法者は、
釈尊ではなく、観世音菩薩であるとするのが通説です。

合掌

●般若心経-6 旧訳と新訳     2011/11/17(木) 午後 7:53

今回は、ちょっと専門的になりますが、般若心経の訳について記事にします。
日本において、一般的に読誦され、写経されているのは、三蔵法師玄奘による漢訳です。
鳩摩羅什の漢訳とそんなに変わらないのですが、なぜか、玄奘訳のものばかりが使われます。

般若心経に登場するのは、観自在菩薩と舎利子です。
観自在菩薩とは、観世音菩薩であり、舎利子とは、舎利弗のことです。

これらの言葉の違いは、漢訳の時期に依ります。
玄奘が、多くの経典を漢訳する際にそれまでの漢訳には、ミスが多いとして、漢訳語の見直しをしました。

そして、それまでの訳を旧訳(くやく)とし、自らが始めた新しい訳を新訳として区別しました。
この新訳の登場によって、漢訳語が複数存在するようになりより、漢訳経典が日本人にとって複雑化しました。
旧訳の代表者は、鳩摩羅什(くまらじゅう)であり、
新訳の代表者は、玄奘です。

観世音菩薩や舎利弗は、旧訳です。
法華経などでは、この名称で登場します。
観世音菩薩の梵名のアヴァローキテーシュヴァラは、「遍く観た自在なる者」のことですので
漢訳すれば、観自在菩薩となるとして玄奘は、訳しなおしました。

鳩摩羅什が観世音菩薩としたのは、ミスではなく、古い梵語のテキストが、
アヴァローキタシュヴァラになっていたためであり
これだと、「遍く音を観た者」の意味ですので単に原本の違いであるという説があります。

舎利弗は、シャーリープトラの漢訳であり、シャーリー家の子供の意味です。
それを全て音訳したのが、舎利弗であり、シャーリーの子というように意訳したのが舎利子です。
なので、特に鳩摩羅什の漢訳ミスとは思えません。
ちなみにシャーリーとは、鳥の「サギ」のことです。

他にも玄奘は、
「衆生」を「有情」と変え、
「辟支仏」を「縁覚」と変え、
「十二因縁」を「十二縁起」と変え、
「果報」を「異熟」に変えました。

用語によっては分かりやすくなっていますが、
たとえば、「果報」を「異熟」に変えたことによって因果律が複雑化した様にも思えます。

般若心経においては、他にも、
「五陰」を「五蘊」と変え、
「神咒」を「心」に変えました。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経は、玄奘訳であり、
鳩摩羅什訳は、摩訶般若波羅蜜大明咒経です。
心経にすると核心のイメージが強くなりますが
大明咒経にすると、呪文のイメージが強くなります。

般若心経の場合は、「神咒」の方が良かったのではないかと思います。
「心」に変えたことによって、混乱が生じたのではないかと・・・

以上のように旧訳と新訳があって、まぎらわしいのですが、
このブログでは、あまり新旧にこだわりません。
観世音菩薩、舎利弗の名で表記し、
五蘊という表記を使いますので、ご了承ください。

合掌

●般若心経-7 観世音菩薩     2011/11/17(木) 午後 8:44

般若心経の説法者は、観世音菩薩です。
観音菩薩ともいいます。

観世音菩薩は、法華経の観世音菩薩普門品や
華厳経の入法界品、観無量寿経などにも
登場する有名な大菩薩であり、
通常、慈悲の実践を象徴します。

菩薩とは、初期仏教においては、
釈尊の過去世における修行時代のことをいいますが
後には、菩提心をおこして修行する者をいい、
大乗仏教においては、大乗のリーダー的存在のことをいいました。
つまり、多くの人々と共に成仏する道を選んだ修行者です。
大乗仏教では、それまでの菩薩という言葉と区別するために
菩薩摩訶薩とも言います。

大乗の菩薩は、成仏前の修行者という菩薩と
あえて成仏せず、衆生を救うために
娑婆世界に生まれる菩薩という二種があります。
観世音菩薩は、後者の菩薩であり、
限りなく仏陀に近い存在です。

大乗仏教は、智慧と慈悲の教えですが、
この智慧の経典である般若心経において
慈悲の大菩薩が説法することは
深い意味があります。
それは、智慧を会得するためには、
慈悲の実践が重要であるということです。

雑学ですが、カメラ・メーカーの「キヤノン」は、
" Canon " と書きますが、
これは、会社創立時に発売された
小型カメラの " Kwanon " の名から転じています。
" Kwanon " とは、「観音」のことであり、
観世音菩薩の「慈悲」にあやかった名らしいです。
よって、「キヤノン」の社名は、
観世音菩薩を由来にしています。

合掌

●般若心経-8 舎利弗     2011/11/17(木) 午後 10:08

般若心経の説法は、大乗仏教の代表として
観世音菩薩が登場しています。
そして、聞き手としては、上座部仏教の代表である
舎利弗が登場します。

 観世音菩薩・・・大乗仏教の代表。菩薩。智慧者。
 舎利弗・・・・・・・上座部仏教の代表。声聞。知恵者。

大乗代表が、上座部仏教の代表に説法をしていますので
大乗の方が、上位にあることが分かります。

舎利弗とは、シャーリプトラのことで、
シャーリーという美しい目をした女性の息子です。
幼少の頃から天才として有名であり、
釈尊教団では、知恵第一と呼ばれました。
布教に熱心であり、釈尊教団が成長したのは、
舎利弗の力に依るといわれます。

釈尊教団における舎利弗の信頼度は高く、
釈尊の次に位置する高僧でした。
釈尊は、自身が亡き後は、
舎利弗に教団を預ける予定でしたが、
釈尊の死が近いことを知った舎利弗は、
釈尊の入滅に立ち合うことが忍びなく、
釈尊より先に自殺によって亡くなったといいます。

そんな高僧の舎利弗ですが、大乗仏教においては、
上座部仏教の代表として、批判される役回りとなっています。

合掌

●般若心経-9 菩薩行     2011/11/18(金) 午後 9:43

では、本文に入ります。
本文では、観自在菩薩、舎利子になっていますが、
訳では、観世音菩薩、舎利弗と表すことにします。
こちらの方が私には、馴染みが深く
つい、観世音菩薩と書いてしまうので
最初から、これで統一することにします。

(執着をするなという教えなのに、
  執着している自分が面白いです)

●観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、
  照見五蘊皆空、度一切苦厄。

 観世音菩薩は、智慧の完成のための修行を深く実践された時、
 この世界を構成する要素の、いずれにも実体はないと見極められ、
 一切の苦しみを取り除かれた。

○菩薩行

観世音菩薩は、智慧の完成のための修行を実践された結果、
空という真理を見極められ、苦を滅せられました。
このことを言いかえると次の様になります。

「菩薩行により、空を悟り、安穏の境地に達した。」

 菩薩行 → 空の悟り → 安穏の境地

菩薩行とは、六波羅蜜の実践です。
修行内容は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六種です。
それぞれの修行内容については、次回より記事にいたします。

仏教経典は、元々梵語によって作られ、
それを漢訳しています。
その漢訳された経典を日本は使用しています。
よって、中国語の経典を使っているわけですので、
それぞれの単語は、すべて中国語です。
漢字なので、その字意を感じることは出来ますが、
かえってそれは、経典を理解するためには
邪魔になるかも知れません。

たとえば、六波羅蜜とは何でしょう?
六は、数字の6ですが、「波羅蜜」とはどういう意味でしょう?
字意から探れば、「なみ」「衣服」「みつ」ですね。
(一張羅という様に羅には衣服の意味があります)

蜜で出来た波状の衣服?
これだと、まったく意味不明ですね。

実は、「波羅蜜」とは、梵語の「パーラミター」の音訳です。
つまり当て字ですので、字そのものに意味はありません。
日本では、外国語はカタカナ表記しますが、
中国には漢字しかありませんので、音訳も漢字を当てます。
なので、字意から探ってもまったく意味がありません。

南無という言葉も音訳です。
梵語の「ナマス」への当て字です。
なので、南無を字意によって、「南が無い」とみても
南無を理解できません。

この様に経典の言葉は、
意訳と音訳による漢字表記ですので
ある程度の勉強が必要です。
それは、中国語を日本語に訳すことだからです。

なので、このブログにおいても
一字一句を翻訳していきます。
少し長いシリーズになると思います。

合掌

●般若心経-10 六波羅蜜     2011/11/18(金) 午後 10:06

観世音菩薩が、苦を滅するに至った修行は菩薩行であり、
菩薩行とは、六波羅蜜のことをいいます。
六波羅蜜という修行は、上座部仏教にはなく、
大乗仏教によって唱えられました。

上座部仏教で、苦を滅する修行は、「八正道」です。
苦・楽に偏らない中道の観方による実践を修行の中心とし、
善行を心を込めて繰り返します。
八正道は、自分を高めるための修行です。

「六波羅蜜」は、大乗の修行であり、菩薩の修行です。
よって、大乗の思想に基づく自己犠牲と奉仕の行が
修行の中心となります。
慈悲の実践、自行の実践、
そして智慧を会得するための実践を行います。

 慈悲・・・布施・持戒
 自行・・・忍辱・精進
 智慧・・・禅定・智慧

合掌

●般若心経-11 布施-1     2011/11/19(土) 午後 9:48

今回から、六波羅蜜の一つ一つの修行を
記事にしていきます。
まずは、布施からはじめましょう。

○布施(ふせ)

布施とは、他者にお金や物、
労力などを施すことです。

梵語では、「ダーナ」といいます。
音訳の漢訳は、「旦那」「檀那」です。
日本では、「だんな」と読みます。

だんなという言葉は、聞いたことがあると思います。
日本では、「布施」という意味ではなく
「布施をする人」の意味で使い、
転じて、自分を養う者に対してもこの言葉を当てています。
商売人などは、自分の主人を、だんなと言い、
妻は夫を、だんなと言います。
しかし、本来の意味は、「だんな=布施」です。

自分のものを他者に与えることを言いますので、
本来は、誰に対しても布施は実践できます。
お坊さんに金品を捧げることだけが、布施ではありません。

自分のお金を募金すること。
自分の食事を他者に分けること。
自分の物品を他者に譲ること。
自分のとっている席を他者に譲ること。
自分の労働力によって、他者を援助すること。
自分の笑顔を周囲におくること。
自分から明るく元気に挨拶をすること。

 お金、食事、物品、席、労働力、笑顔、挨拶・・・

自分のものを自分だけのものとせず、
与えること、分かち合うことによって
「自分のもの」という執着から離れる修行です。

基本的には、三種の布施があるといいます。
「三施」といい、それは次の三つです。

○三施
 財施・・・金品食事を布施する事
 法施・・・教えを布施する事
 無畏施(むいせ)・・・恐怖心などを取り除いてあげること

お金や、物品や、食事などを他者に与える事だけが布施ではなく、
教えを他者に説く事も重要な布施です。
また、苦悩の原因の一つである恐怖心を取り除いてあげることも
大きな布施です。

合掌

●般若心経-12 布施-2     2011/11/21(月) 午後 9:30

布施とは、自分のものを自分だけのものとせず、
他者に与えること、分かち合うことによって
「自分のもの」という執着から離れる修行です。

では、何のために、「自分のもの」という執着から
離れる必要があるのかというと、
それは、自分への執着から離れるためです。
言いかえれば、「無我」を学ぶためです。

仏教の教義の土台となる思想は、
二大真理ともいわれる、「無常」と「無我」です。

無常とは、「常に同じ状態のものは無い」という意味であり、
言いかえれば、「変化している」ということです。
「諸行無常」とは、すべての現象は変化する、という意味ですが、
このことは、自分自身の心や身体を観察すれば理解できるし、
世界のあらゆるもので、変化しないものは何一つないとも
観察することが出来ます。
心はコロコロ変わる、身体は新陳代謝をし老化する、
変化しない様に見える金属だって、宝石だって、
ほんのわずかではありますが、温度で変化し、風化し、
光線の影響・磁力の影響・重力の影響で変化しています。

無我とは、「実体はない」という意味です。
無常は、観察によって知り得る事の出来る真理ですが、
無我は、普通に観察しても分かるものではありません。
「私には私という実体がない・・・」
という言葉をきいて、「なるほど!」と納得できる者は
ほとんどおらず、思考停止におちいることでしょう。

「我思う、ゆえに我あり」とは、
デカルトによって提唱された命題ですが、
仏教では、「無我」こそが真理であると唱えています。

初期仏教では、「我」を、
〇筺´∋笋亮詑痢´私のもの
の三種に分けて、あらゆる事物・現象について、具体的に、
「これは私ではない」
「これは私の実体ではない」
「これは私のものではない」
と観察するように指導しています。

しかし、無我は難解でした。
なぜなら、自分に実体がないならば
何が業をつくり、何が輪廻するのかの
説明が出来なくなるからです。
釈尊時代のインドでは、バラモン教という宗教が優勢であり、
バラモン教では、業と輪廻は、重要な思想でした。

業と輪廻をつくる実体をアートマンと呼び、
肉体が死んで滅しても、アートマンという実体は、
死なずに残り、古い肉体から出て、
新しい肉体へと移るとしました。
その際、古い肉体の時に行ったことが善行であれば、
新しい肉体での環境は楽であり、
古い肉体の時に行ったことが悪行であれば、
新しい肉体での環境は苦であるとしました。
いわゆる、「善因楽果」「悪因苦果」「自業自得」の法則です。

実体があれば、業と輪廻の思想は理解できますが、
実体がなければ、業と輪廻の思想は矛盾した思想になってしまいます。
難解な無我の教義は、上座部仏教徒たちによって研究されましたが
教義を複雑化させ、より無我を難解にしてしまいました。

後に大乗仏教徒たちは、
「諸法無我」にかわる言葉として、
「空」という言葉を用いる様になりました。
「諸法無我」とは、
「全てのものに実体がない」という意味です。
大乗仏教徒たちは、「空」の解釈をするために
「般若経」経典を作成しました。

「全てのものに実体がない」ということを悟るために
まずは、「自分には実体がない」ということを悟る必要があり、
その手掛かりとして、「私のものなど存在しない」という
観察が有効です。
そして、自分に、「私のもの」という執着があることを観察し、
「私のもの」という執着から離れるための実践方法として、
「布施」の行がすすめられています。

合掌

●般若心経-13 布施-3     2011/11/21(月) 午後 9:40

布施とは、無我の境地に入るための修行です。
自分のものを他者に与えることによって、
「自分のもの」という執着を捨てます。

 私には、私というものがないのに
 なぜ、私のものというものがあり得ようか。


では、ここで、誰にでもできる布施の実践を紹介します。
無財の七施といい、お金がなくても出来る布施です。

○無財の七施

ヾ禹棔覆欧鵑察燭んせ)
  優しい温かいまなざしで人に接することです。

∀卒藥棔覆錣欧鵑察燭錣んせ)
  優しいほほ笑みをもって人に接すること。
  まるで、恵比寿様の様に人と接することです。

8声施(ごんじせ)
  優しい言葉をかけることです。

た隼棔覆靴鵑察
  肉体を使って人のため社会のために働くことです。

タ柑棔覆靴鵑察
  心から共に喜び、共に悲しみ、感謝することです。
  気配り、心配りのことです。

床座施(しょうざせ)
  自分の座席や地位を譲ること。
  列車やバスなどで席を譲ることです。

房舎施(ぼうしゃせ)
  雨露をしのぐ場所などを分け与えること。
  自分の家を一夜の宿として提供すること。
  客人などへの、おもてないなど。

お金がなくても出来るし、特別の能力もいりませんので
誰にでも出来る布施です。
最近、列車やバスなどで、席を譲る場面を見なくなりました。
お年寄り、身体障害者、妊婦さんには、すすんで席を譲りましょう。

合掌

●般若心経-14 布施-4     2011/11/21(月) 午後 10:32

弱肉強食。
弱いものが強いものに食べられることは、
この地球においては、現実に起こっていることです。
食物連鎖は、弱肉強食によって起こります。

草の葉をバッタが食べる→バッタをカマキリが食べる→
カマキリを小鳥が食べる→小鳥をタカが食べる・・・

というように、弱いものは、強いものの餌食になってしまいます。
しかし、ちょっとだけ観点を変えてみると・・・

草の葉がバッタに布施をする→バッタがカマキリに布施をする→
カマキリが小鳥に布施をする→小鳥がタカに布施をする・・・

食物連鎖とは、布施の関係だと観ることもできますね。
自然界をよく観察すれば、与えあい、分かち合って
成り立っています。

太陽は、光と熱を太陽系宇宙に布施をしています。
雨は、植物を育て、人間を含む動物たちの喉を潤します。
風は、胞子を飛ばし、花粉を飛ばし、動物たちに
涼しい環境を与えます。
火は、光と熱を与え、人々に金属を加工する術と
食べ物に熱を通す知恵を与えます。
また、太陽、水、風、火は、発電力を人に与えます。

ミツバチは、花の受粉を助け、花は人に癒しを与えます。
秋になれば、落葉樹は、葉を色づかせ落ち葉にします。
落ち葉とは、実はその樹木の不要物が集められた
排泄物なのですが、落ちて腐れば、腐葉土となり、
草や木の堆肥になります。
また、バクテリアや虫などの餌になります。
落葉樹は、落ち葉を落とし、草や木、バクテリア、
虫たちに布施をしています。

自然界を観察すれば、世界は布施で成り立っていることが
理解できることでしょう。
しかし、それらの多くは、布施をしているという自覚を持たず、
布施をしてもらっているという自覚もありません。

人間は、お金という便利な道具があるために、
自分がいかに他から布施をされているのかに気づきません。
お金という概念から離れれば、どれほどまでに他から
布施を頂いているかが分かります。

合掌

●般若心経-15 持戒-1     2011/11/21(月) 午後 10:35

六波羅蜜の二つ目は、「持戒」(じかい)です。
持戒とは、戒律を守る修行です。
仏教徒が、守るべきルールには二種があり、
それを戒・律といいます。
戒とは、道徳規範のことで、
戒を破っても特に罰はありません。
律とは、規則のことであり、その内容によっては、
破れば様々な罰を受けます。
戒は在家が守るべきことで、
律は僧侶がサンガにて守るべきことです。
よって、持戒とは、在家の場合は戒を守ることであり、
出家の場合は戒律を守ることです。

代表的な戒は五戒です。
仏教徒であれば、誰もが守るべき戒です。

●五戒

○不殺生戒(ふせっしょうかい)
 生き物を殺してはいけない。

○不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
 他人のものを盗んではいけない。

○不邪淫戒(ふじゃいんかい)
 自分の妻(または夫)以外とSexしてはいけない。

○不妄語戒(ふもうごかい)
 うそをついてはいけない。

○不飲酒戒(ふおんじゅかい)
 お酒を飲んではいけない。

合掌

●般若心経-16 持戒-2 不殺生戒     2011/11/21(月) 午後 10:39

不殺生戒(ふせっしょうかい)とは、
「生き物を殺してはいけないこと」です。
殺人はもちろんのこと、一切の生物の命を
奪ってはいけないことになっています。
人々は、蚊がいるとパチンと叩いて殺してしまいますが、
あれもダメです。
ミミズだって、おけらだって、アメンボだって
みんな生きてるのですから殺しちゃダメです。
また、食べるために、
牛や豚などを殺すことも禁じられています。
魚もエビもタコも食べてはダメです。

そう考えると、不殺生戒は、
非常に難しい戒であることが分かります。
実際に不殺生戒を守るなら、
草食にならなければなりません。
いや、草だって生物ですので、
食べるものがなくなってしまう・・・

生きるために私たちは、
この戒を破っていることを自覚しなければなりません。
自覚したならば、すべての命に感謝し、
「いただきます」
という食前の挨拶を心を込めて行うことが必要です。

真相は分かりませんが、インド人は、牛や豚を食べません。
牛が尊い動物だという認識もありますが、
輪廻思想のあるインドでは、人間が畜生に落ちる時、
まずは、牛や豚になると言われていました。
そのため、前世が人であった牛や豚は食べないのだとか。

合掌

●般若心経-17 持戒-3 五戒     2011/11/24(木) 午前 0:20

仏教徒になるとき、
三宝帰依を誓い、持戒を受けます。
持戒の最も基本的なものは五戒です。
五つの戒めのことで、これまでもこのブログでは
何度か取り上げてきましたが
今一度、復習しておきましょう。

五戒とは、
1. 不殺生戒(ふせっしょうかい)
2. 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
3. 不邪淫戒(ふじゃいんかい)
4. 不妄語戒(ふもうごかい)
5. 不飲酒戒(ふおんじゅかい)

生きものを殺すこと、
他人のものを盗むこと、
不倫・浮気・変態・痴漢などの行為をすること、
うそをつくこと、
お酒をのむこと、
これらの行為を戒めることを五戒といいます。
最低限の戒ですね。

映画やドラマ、ゲームでは、
殺人、強盗、不倫、詐欺などは、
よくテーマになっています。
飲酒のシーンも多いですね。
なぜ、映画やドラマでは、
これらの戒めとなっている行動が
取り上げられているのでしょう?
それは、人間がこれらに対し
強い欲望を持っているからだと思います。

もし、一切の罪を問われないとしたならば、
殺人を楽しみ、人のものを奪い、欲望のままにSexをし、
人を騙す行為が横行するかも知れません。
社会的なルール、マナー、モラルがなくなれば、
もろに無法状態ですので、やりっぱなしの世の中になるでしょう。
人間の欲望には、この様な暗黒面があるのだと思います。

もし、あなたが透明人間になれるとしたら何をしますか?

もし、国家予算なみの大金を手にしたら何をしますか?

もし、世界の王者となったならば何をしますか?

もし、一つだけ、望みが叶うならば何をしますか?

自分の中の固定観念を外せば、自分の暗黒面が観えます。

合掌

●般若心経-18 持戒-4 欲望と苦     2011/11/25(金) 午後 10:01

持戒は、自己中心的な欲望をコントロールする修行です。
私たちが、苦しみを受けるのは、欲望があるからであり、
欲望を断てば、苦を滅することができます。

そこにものがあり、目や耳でそれとコンタクトをします。
つまり、そのものを見たり、聞いたり、嗅いだり、触れたりして、
自分にそれを受けます。
受けた時に、「好感」「嫌悪感」「どちらでもない」という感じ方をし、
好感を持ったならば、それを欲しいと思います。
嫌悪感を持ったならば、それを避けようとします。
別に感情が起こらなければ、欲求も起こりません。

欲しいと思う事は欲求ですが、それを避けようとするのも欲求です。
避けたい、逃げたい、見たくない、捨てたい・・・
欲求ですね。

欲求が起これば、それを入手するかどうかを思案し決定します。
「入手のために行動をとる」
「今回は行動を取らず保留する」
「入手できないと諦める」という判断です。
好きな方が出来た時、
「つきあって下さいと申しこむ」
「今は様子を見て、時期がきたら打ち明けよう」
「高嶺の花だな。諦めよう・・・」
という判断をします。

避けようとする時も、
「避けるための行動をとる」
「今回は行動を取らず保留する」
「避けることが出来ないと諦める」
という判断をします。
嫌な上司がいて、さんざん理不尽な小言を言われた時に、
「よし、もう、こんな感謝やめてやる」
「我慢だ。今に見ていろ。」
「ここで負けるわけにはいかない。頑張ろう!」
という様な判断をします。

判断をしたならば、具体的に行動します。
行動をし、それがいつもうまくいくとは限りません。
うまくいけば喜びを感じ、失敗すれば、苦しみとなります。
欲しいものを得ようとするのが、生物の活動ですが、
欲しいものの内、どれほどを入手しているのでしょう?
人によって、入手率は異なるでしょうが、
100%入手できるはずがなく、
入手できない場合に苦となります。

欲求→行為→苦

人が苦悩するのは、欲求があるからです。
欲しいものがなければ、手に入れる必要もなく、苦に到りません。
ただし、まったく欲求がなければ、食べる事も捨ててしまい
そうなれば、死んでしまうため、ある程度の欲求は必要です。
なので、仏教では、小欲知足をすすめます。
必要以上のもの、分以上のものを欲しいと思わない修行です。
つまり、禁欲的な行ですが、
激しい禁欲は肉体や精神を痛めるので
必要最小限の欲をすすめます。
それが、持戒です。
特に五戒は、もっとも重要な禁欲であり、守るべき戒です。
なぜなら、他者に大きく影響する内容だからです。

生物を殺さない。
盗まない。
不倫をしない。
うそをつかない。
酒を吞まない。

飲酒も酔って他者に迷惑をかけるからですので
五戒とは、他者に迷惑をかけないようにする修行です。

という、戒をまずは、守ってみませんか?

合掌

●般若心経-19 持戒-5 不飲酒戒     2011/11/29(火) 午前 0:20

不飲酒戒(ふおんじゅかい)とは、
「お酒を飲んではいけない」
という戒です。

酔わない程度ならいいんだよ、
と解釈する方がいますが、
不飲酒戒は完全なる禁酒です。
一口も飲んではいけません。

お酒を飲むと我を忘れて、喜怒哀楽があらわになり、
暴力や性的欲情などの問題行動を起こしがちです。
お酒の席だからいいだろう、とはめをはずせば、
トラブル続出です。
また、飲酒運転という問題もあります。

どれだけ飲んでも俺は乱れないからいいんだ、
という人でも、仏教徒であれば禁酒するべきでしょう。
飲酒は、禅定の妨げになりますのでご用心を。

酒を飲むと、「つかの間の楽」を受けます。
おそらく、酔えば、しばし苦から離れられるため、
浮世のしがらみから逃れることができますので
多くの方々は、お酒を飲みます。
しかし、それは、苦をごまかしているにすぎず、
本来、苦を解決するための「苦と向き合う」という
大事なことから逃げた行為です。

本来ならば、お酒だけでなく、麻薬も、シンナーも、
競馬・競輪などのギャンブルも、依存だと思える行為は
禁止してみるのがいいでしょう。

合掌

●般若心経-20 持戒-6 持戒の目的     2011/11/29(火) 午後 10:37

持戒は、六波羅蜜の一つですので
智慧を得るための修行です。
低い段階の智慧の会得にて、
自分がないということに気づき、
自分がないのだから、自分のものがないことに気づきます。
自分のものがないのですから、欲求を起こすことがなく、
手に入れようとする行為は起こりません。
無我の智慧によって、自然に禁欲へとすすみ、
さらなる、無我・空の境地に入ることが持戒の目的です。

仏教の目的は、最高の智慧を得ることです。
最高の智慧を会得することを、
悟り、解脱、涅槃、成仏などともいいます。
この目的のために、すべての教義、すべての経典があることを
念頭におくことは最重要です。
目的意識がぶれれば、仏教は意味をなくしてしまいます。

合掌

●般若心経-21 忍辱-1     2011/11/29(火) 午後 10:52

六波羅蜜の第三は忍辱です。
忍辱と書いて、「にんにく」と読みます。
食材のにんにくは、通常、大蒜と書きますが、
訳によっては、忍辱とも書きます。
実は、にんにくの語源は、仏語の忍辱にあります。

にんにくの語源はさておき、仏語の忍辱の意味は、
「耐え忍ぶこと。あるいは怒りを捨てること。」
だとされます。
つまりは、感情のコントロールです。
喜怒哀楽という感情の揺れをしずめ
平常心を保ちます。
他者から、侮辱や非難、暴力を受けても怒らず、
褒められたり、おだてられても、
それの乗って喜ぶことがない様に自分を制します。

身心を乱し、悩ませ、智慧を妨げる心の働きを煩悩といい、
煩悩の内、もっとも毒となる三つを三毒といいます。
人間の諸悪の根源と言われるもので、
それは、貪り、怒り、愚かさの三つで、
「貪・瞋・癡」(とん・じん・ち)ともいいます。

貪りという煩悩を滅する修行は、布施と持戒です。
怒りという煩悩を滅する修行は、忍辱です。
そして、愚かさという煩悩を滅する修行は、
禅定と智慧です。

合掌

●般若心経-22 忍辱-2     2011/11/29(火) 午後 10:57

怒り・・・
この感情は、やっかいですね。
内に秘めている時には、周りに影響は出ませんが
一度、爆発すると、暴言になり、罵詈雑言になり、
相手を侮辱し、ある時は暴力をふるい、
物にあたることもあります。
相手を傷つけ、倒し、
最悪の場合は、死に至らしめることもあります。
周りがいい迷惑ですね。

怒りを奥に呑みこむと、その時はおさまりますが、
記憶には、しっかりと残っており、
何かの拍子で、どっと流れだすこともあります。

怒りの原因は何でしょう?

色々と考えられますが、
自己防衛本能による怒り、
自尊心・名誉を傷つけられたときの怒り、
信念を刺激されたときの怒り、
などなど。

自己防衛本能とは、自分を守ろうとする本能です。
つまり、自分や自分の家族などに危険が迫ると
人は怒りを感じます。

馬鹿にされたり、侮辱されると自尊心を傷つけられ、
自分が誇りに思っていることを傷つけられると
人は怒りを感じます。

信念を刺激された時にも怒りを感じます。
信念とは、
「ある事柄についてもたれる
 確固として動揺しない認識ないし考え」
だとされています。
固定観念と同じ意味です。

「男は泣いてはいけない」
「女性はおしとやかにするべきだ」

などの様に、ある事柄について持たれる
その人個人の固定的な考えです。
考えといっても、無意識になっている場合が多く
自分では意識していなくても、その信念によって
人は行動することになります。

「男は泣いてはいけない」

という信念の人は、自分の親の葬式でも
人に涙を見せない様に振舞うでしょう。
そして、もし、自分の弟が泣いたりすると、
「泣くな!みっともない!」
と怒るかも知れません。

「夜は静かにするべきだ」

という信念の人は、夜中に騒いでいる人を見たら
怒りを感じるかもしれません。

怒りを感じた時、それが危険に向き合った場面でもなく、
自尊心・名誉を傷つけられた場面でもなければ、
信念が刺激されているのかも知れません。

合掌

●般若心経-23 忍辱-3     2011/11/30(水) 午後 10:49

怒りを感じた時、一気に破壊的行為に移ることは少なく
自身の中で、怒ってもよいかが自問自答されます。
危険を感じた時、それが本当に危険なのかを判断し
信念を刺激されている場合は、
自分が正しいか否かが自問され、
自分の怒りが正当であると判断すれば、
怒りの感情が高まる傾向があります。

怒りの原因は、自己防衛本能、闘争本能、
そして、自身の信念への刺激などでしょう。
それを、少し詳しくみていきます。

私たちの遠い先祖たちは、大自然の中で暮らし
常に危険と隣り合わせでした。
ある男が、山を歩いていて、
やぶの中からガサガサという音を聞きました。
何かの動物かも知れないと、注意力を研ぎ澄まします。
さらに大きな音がして、そのものが接近していることを感じます。
オオカミか、熊か?
そして、その者が姿を現わしました。
人間だ!
知らない人間が、右手に棍棒を持ち、
戦闘態勢に入っています。

こんな時に人は、怒りを感じます。
危険な状態にでくわした時の怒りです。
恐れが怒りに変わります。
自己防衛本能の怒りです。
前傾姿勢になり、目を見開き、神経を研ぎ澄まし、
血は逆流し、震えが起こり、力が入ります。
そんな時、その人は、「戦うか?逃げるか?」の
選択がせまられます。

その様な、動物的な自己防衛本能は、
確実に人類のDNAにも組み込まれています。

現代においては、肉体的な危険を感じ、
戦闘をする様な場面は少ないでしょうが、
それでも、日常において、安全を脅かされた時には、
恐れを感じ、それが怒りへと変化します。
虐待やいじめを受けた時、ケンカを売られた時などは、
恐怖感から、怒りの感情に変わることが多々あります。

肉体的な場面だけでなく、精神的な危険においても
恐れを感じ、それが怒りへと変化します。
馬鹿にされたり、侮辱されると自尊心を傷つけられ、
自分が誇りに思っていることを傷つけられると
人は怒りを感じます。

これらの怒りは、生きていく上で必要でしょう。
危険が迫っても、へらへらしていたのでは、
すぐに、やられてしまいます。
過度のプライドであれば、
指摘されて反省する事も大事ですが、
基本的人権を傷つけられた場合などは、
怒りが生じても仕方がありません。
自分を守るための怒りは必要です。

問題は、信念を刺激されたときの怒りでしょうね。
その人の信念など、他の人は知る由がありません。

「虫を殺してはいけない」

という信念を持っている人は、むやみに蚊などを叩き潰す人に対し
怒りを感じるかもしれません。
いきなり、怒られても、相手は戸惑うだけでしょう。
通念であれば、予測はできますが、その人特有の信念だと
予測不可能ですので、怒られた人はびっくりします。

「男と女とどちらの方が人生楽しいか?」
「自分の母親と妻の二人が溺れている時、先にどちらを助けるか?」

というような議論を交わす時、興奮して怒りをあらわにする人がいます。
自分の信念こそが正しいと思うため、闘争本能が起こるのでしょう。

「私は正しい」

という思い込みを信念と言えるかどうかは分かりませんが、
「私は正しい」という主張を通すためだけに、
怒りを起こす人も割と多くいますね。

合掌

●般若心経-24 忍辱-4    2011/12/2(金) 午後 6:18

忍辱とは、感情のコントロールです。
感情の中でも、一番コントロールしにくいのが怒りですので
これまで、怒りについて観てきました。

怒りという、やっかいな感情も、必要だから人間に具わっています。
自己防衛のため、活動の原動力として、怒りは役に立ちます。

子供が悪さをしたとき、危険なことをしようとしたとき、
親は子を叱ります。
怒るのと叱るのは、よく似た行為ですが、
そのふたつには大きな違いがあります。
怒るのは自己中心的であり、
叱るのは相手を思う心から発します。

怒りという感情が涌いた時に、
暴力・暴言というような行為に及ぶことなく
うまくコントロールすることが必要でしょう。
最初の怒りは、必要な感情だと思いますが、
怒りが増長され、怒りに心が支配されれば
それは、「毒」です。
自分で毒をつくり、身体に毒を回してしまいます。
怒りは、恨み辛み、憎しみ、復讐心を生みます。
そして、ついには自他の破壊へと発展する可能性があります。

合掌

●般若心経-25 忍辱-5     2011/12/2(金) 午後 6:24

喜びを感じたならば、喜びに心を支配されない様に。
怒りを感じたならば、怒りに心を支配されない様に。
哀しみを感じたならば、哀しみに心を支配されない様に。
楽を感じたならば、楽に心を支配されない様に。

仏教に、 「二の矢を受けず」 という言葉があります。
現象に依り、喜怒哀楽の感情を起しても、
その感情に支配されないようにとの戒めの言葉です。
喜怒哀楽などの感情を感じても、その感情に執着することなく、
その感情に心を支配されない様に自分をコントロールします。
要は、感情への執着から離れることです。

合掌

●般若心経-26 精進     2011/12/2(金) 午後 7:58

六波羅蜜の四つ目は、精進です。
布施、持戒、忍辱という修行を続けることです。

 「善いことを 心をこめて 繰り返す」

布施、持戒、忍辱などの善行は、一時的ではなく、
繰り返し、繰り返し、続けることが必要です。
続けることによって、習慣となります。
その時、心をこめることが大事です。
慈悲喜捨という心を込めます。

慈悲喜捨とは、四無量心ともいい、
修行次第で、無量に成長させることの出来る
4つの心のことをいいます。

 慈=慈愛
 悲=抜苦
 喜=隋喜
 捨=浄捨

「慈」とは、慈しみであり、情け、思いやりのことで、
他者に喜びを与えることです。
原語の「マイトリー」は、友情という意味合いが強いようです。
他者の本質的な救われを望み、
情を持ち、まごころから布施をし、戒を持ち、
忍辱を行じることが重要でしょう。
柔和忍辱という言葉は、仏法に従って、心やさしく、
侮辱や迫害にも耐え忍ぶことをいいますが、
柔和忍辱の心で、布施をし、他者を大事にする心から
持戒を実践し、それを続けることが大切です。

「悲」とは、他者の悲しみ・苦しみを
除いてあげたいという思う心です。
原語の「カルナー」は、悲しみを表す言葉です。
他者が苦しんでいる時に、相手に応じて布施をし、
自分の欲望を抑え、感情をコントロールします。
そして、それを続けます。

「喜」とは、相手の幸福を共に喜ぶことです。
原語の「ムディター」は、「他人の幸せを喜ぶ」という意味です。

「捨」とは、相手に対する先入観、偏見、差別のない心です。
他者に対する平静な心、動揺しない落ちついた心のことです。
原語の「ウペッカー」とは、差別のない平等な心のことです。
よって、慈悲とは、相手を選んで実践するものではなく、
出会う人すべてに等しく、慈しみと苦を除くふれあいをします。
隋喜も、相手によりません。
例えば、自分の息子が大学受験に失敗したとしても
息子と友人が受験に成功すれば、喜ぶことの出来る心です。
そこには、無条件のやさしさがあります。

布施、持戒、忍辱を慈悲喜捨という心を込めて
実施し続けることが重要です。

合掌

●般若心経-27 禅定     2011/12/2(金) 午後 8:03

六波羅蜜の五つ目は、禅定です。
心身ともに動揺することなく、安定した状態で
散乱の心を定止し、
真理を観察・思惟することをいいます。

いわゆる、坐禅です。
静かな場所に座り、姿勢・呼吸・心を調えます。
これを、調身・調息・調心といいます。
瞑想と同義的に使われますが、厳密に言えば、
坐禅が半眼に対し、瞑想は目を閉じますので、
別の概念だとされます。

禅定は、非常に重要な修行です。
釈尊は、極端な苦行を捨て、
菩提樹の下に座り、
禅定によって悟りを開きました。
よって、釈尊の修行を追体験するには、
禅定は重要と言えます。

般若心経においても、
禅定は重要な修行とされています。

合掌

●般若心経-28 禅定-2     2011/12/2(金) 午後 8:19

(布施+持戒+忍辱)×精進
これらの修行をした後に、
心を落ち着けて、じっと振り返ってみます。
そして、真理を観察・思惟します。
真理を悟ることを智慧といいますが、
智慧を完成させる為に禅定の修行は重要です。

では、智慧の完成のための禅定とは、どの様なものでしょう?
残念ながら、般若心経内では説かれていませんが、
他の般若経においては、
明確に、「三解脱門」のことが書かれています。

○三解脱門(さんげだつもん)

解脱とは、煩悩という縛りから解き放たれて、
自由の境地に入ることをいい、
それは、智慧、涅槃、悟りなどとほぼ同じ意味です。
三つの悟りの門である三解脱門とは、
空・無相・無願の禅定の事をいいます。

ゞ解脱門
あらゆるものに実体がないことを観察する禅定。
つまり、あらゆるものを有るとイメージしないこと。

¬義蟆鮹μ
あらゆるものに特徴がないことを観察する禅定。
つまり、あらゆるものを認識しないこと。

L鬼蟆鮹μ
あらゆるものへの願望・欲望を持たない禅定。
つまり、あらゆるものに執着しないこと。

これを簡単に言えば、

  あらゆるものには実体がない、
  実体がないから認識しない、
  認識しないから執着がない。

ということになります。
この、「実体がない」「認識しない」「執着しない」と観る禅定は、
般若経を読み解く上で重要であり、
したがって、般若心経においても念頭におく必要があります。

多くの解釈本では、空を「無執着」とすることが多いのですが、
それは、この空・無相・無願の禅定から導かれた結論です。
空には、無執着という意味はなく、
「実体がない」という意味です。
また、空を「一体」と解釈する方もいますが、
これは、三解脱門によって、分別の観方が否定され、
何も分けて観ない無分別の観方を肯定した結果です。
つまり、無分別とは、
「不二」「一体」として宇宙を直観することであり、
空の観察によって引き出される観方です。

三解脱門、無分別は、最重要な教えですので
今後、ゆっくりと解説していきます。

合掌

●般若心経-29 智慧-1     2011/12/3(土) 午後 10:21

六波羅蜜の六つ目は、「智慧」です。
智慧を梵語では、「パンニャー」といい、
それを音訳して、「般若」といいます。
つまり、般若心経の般若とは、智慧のことです。

真理を悟ることを智慧といいます。
まず、そこに真理があり、
そのことを悟って、会得した果が智慧です。
私は悟っていませんので、
智慧を言葉にすることは出来ませんが、
これまでに、学んだことを記事にします。

智慧は、解脱、悟り、涅槃、成仏などと同じ意味です。
そして、六波羅蜜とは、智慧を完成させる修行です。

(布施+持戒+忍辱)×精進×禅定×智慧 → 智慧波羅蜜

智慧の修行とは、他の五つの修行のすべてを
智慧によって行う事をいいます。
布施をする場合、智慧によって布施をします。
持戒をする場合、智慧によって持戒をします。
忍辱をする場合、智慧によって忍辱をします。
精進をする場合、智慧によって精進をします。
禅定をする場合、智慧によって禅定をします。
智慧によって、他の五つの修行のすべてを実践し
そして、般若波羅蜜(智慧の完成)を目指します。

合掌

●般若心経-30 智慧-2     2011/12/3(土) 午後 10:22

智慧とは何か?
その答えは、般若心経の中にありそうです。
だって、経典のタイトルが、般若心経ですから。
般若は、智慧の意味です。
正式なタイトルは、「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」であり、
「仏陀の説かれた偉大なる智慧の完成の真言のある経典」
です。
または、「心」を呪文としてとらず、「エッセンス」の意味をとり、
「仏陀の説かれた偉大なる智慧の完成の真髄となる経典」
です。

智慧とは、真理を悟ることですが、
その真理とは何かというと、「空」です。
「空」とは、「縁起」であり、
「縁起」は、「無常」と「無我」です。

 空=縁起=無常+無我

このことを悟るための経典が、般若心経です。

合掌

●般若心経-31 やさしい六波羅蜜     2011/12/3(土) 午後 10:25

これまで、六波羅蜜を解説してきましたが
仏教用語を並べただけで、意味不明かも知れません。
今回は、やさしい六波羅蜜を書かせて頂きます。

○布施(ふせ)
 与えること。
 みんなと分かち合うこと。

○持戒(じかい)
 ルールを守ること。

○忍辱(にんにく)
 感情のコントロール。

○精進(しょうじん)
 怠けずに努力すること。

○禅定(ぜんじょう)
 心を落ち着かせること。

○智慧(ちえ)
 真理を悟ること。

実生活では、どの様に修行するのかというと
自動車の運転を例にとって説明します。
基本的には、自己中心的な運転をせず、
平常心を保ちます。

○布施(ふせ)
 歩行者や自転車、他の車を意識し、
 道を譲ります。
 我先に、という自分優先的な心から離れ、
 「お先にどうぞ」という心で運転します。

○持戒(じかい)
 交通ルールを守ることはもちろん、
 運転マナー、モラルを守ります。

○忍辱(にんにく)
 割り込まれても怒らず、
 女の子を乗せても格好をつけず、
 平常心で運転します。

○精進(しょうじん)
 他者優先、ルール遵守、平常心の
 運転を続けます。

○禅定(ぜんじょう)
 心を落ち着かせること。

○智慧(ちえ)
 安全運転が、世のため、人のためになると
 しっかり、理解します。

安全運転ってことになりそうですね。

合掌

●般若心経-32 恋人たちの六波羅蜜     2011/12/3(土) 午後 10:28

これまで、六波羅蜜の修行について説明いたしました。
特定の場所でしか出来ない修行ではなく、
生活・仕事・遊びの場は、すべて六波羅蜜の修行の場です。

恋人との関係では、お互いを認めて、相手を思いやり、
愛しあって、分かち合いをします。
決して、浮気をすることなく、相手の嫌がることはせず、
相手の心の中にまで土足で入り込むことを戒めます。
問題が起きた時、相手の変化に動揺せず、
落ちついて話し合いをし、喜怒哀楽を必要以上に
露出しません。
そして、善いことを心を込めて続けます。
常に二人の幸せを思い、相手の立場を尊重し、
二人共に主人公である関係を築きます。

カップルの場合、それぞれのご因縁がありますから
幸せのスタイルは様々です。
以上は、一つの例ですのでこだわりのありません様に。

合掌

●般若心経-32 大乗仏教     2011/12/6(火) 午後 10:29

釈尊の在世の頃と、滅後しばらくの仏教を
原始仏教といいますが、
釈尊が亡くなられて、100年ほどして、
戒律の解釈の違いから教団は二つに分かれました。
保守的な上座部と進歩的な大衆部です。
その後、二派は、さらに多くの部派に分裂し、
この頃の仏教は、部派仏教と呼ばれました。

上座部は、大いに発展し、
大衆部はあまり発展しませんでした。

上座部の中で一番発展したのが、説一切有部です。
この部派は、釈尊が説いた内容を深く研究し、分析し、
ついには、一切が有ると主張するに至った部派です。
釈尊は、無我を説き、一切に実体は無いとしたのに
説一切有部は、実存の説を唱えました。
研究の結果、釈尊の教義とは異なる説へと
いきついてしまったのです。

また、出家の僧侶たちは、
在家仏教徒に対して説教をしませんでしたので、
きちんと仏教を学びたいと切望する
在家の人々の不満は募るばかりでした。
托鉢に来る出家僧たちに食事を施すのと、
生活の中で五戒を守る事だけが在家の修行でした。

やがて、不満が高まった在家の人々を中心にし、
新興宗教が起こりました。
それが、大乗仏教です。
大乗とは、大きな乗り物の事で
多くの人々と共に救われようというものです。
上座部の人々は、自分のみの救われしか目指していないとし、
大乗仏教の人々は、彼らを小乗と言って低く評価しました。
小乗とは、一人乗りの小さな乗り物のことです。
よって、小乗仏教という名称は蔑称です。
しかし、現代では、蔑称として使われる事はなく、
大乗仏教と区別する名称になっています。
このブログでも、時に、小乗と言う言葉を使うかも知れませんが
蔑称として使うのではありませんのでご了承ください。

大乗の人々は、「お釈迦さまの説いた教えに帰れ」、ということで
無我と同義語の「空」を中心教義とし、
全ては空である、と主張しました。
そして、説一切有部が研究してたどり着いた教義を
全ては空だ、実体はない、認識するな、捉われるな、
と徹底的に否定しました。
そんな説一切有部の教義を否定したお経が、「般若経」です。

合掌

●般若心経-33 大乗仏教のキーワード     2011/12/7(水) 午後 9:15

大乗仏教とは、大きな乗り物の意味で、
人々と共に、苦しみの世界から、
安らぎの世界へ渡ることを目的とする仏教です。

大乗仏教のキーワードは、
自利利他・菩薩・六波羅蜜・慈悲喜捨・成仏・菩提などです。

○自利利他(じりりた)
自利+利他
自らの悟りのために修行し努力することと、
他の人の救済のために尽くすこと。
この二つを共に完全に行うことを大乗の理想とします。
自益益他。自行化他。自他。

○菩薩(ぼさつ)
菩提心のある者の意味です。
(菩提心については後述します)
自利利他の修行を重ねる者のことです。
般若心経では、観世音菩薩という菩薩が
シャーリプトラに対し教えを説いています。

○六波羅蜜(ろくはらみつ)
自利利他の修行のことです。
布施+持戒=利他の修行
忍辱+精進=自利の修行
禅定+智慧=解脱の修行

○慈悲喜捨(じひきしゃ)
利他の修行をする上での心の状態です。
慈=楽を与える心
悲=苦しみを除く心。
喜=相手が楽を得るのを見て喜ぶ心。
捨=他者に対して、愛憎親怨の心がなく平常な心。
慈悲喜捨は、衆生に対して無量に起こる心ですので
四無量心ともいいます。

○成仏(じょうぶつ)
成仏は、修行の目的のことで、
真理を悟って、最高の智慧を会得することです。
同義語は、悟り・解脱・涅槃・智慧・菩提です。

○菩提(ぼだい)
菩提とは、悟りの果としての智慧のことであり、
大乗仏教では、この智慧は最上の悟りですので
阿耨多羅三藐三菩提といいます。
阿耨多羅三藐三菩提とは、梵語の最上の悟りの音訳であり、
漢字には意味はありません。
悟りを求める心を菩提心といい、菩薩とは菩提心のある者のことです。
菩提心を起こすことを、発菩提心といいます。

大乗仏教のテーマをひとことでいうならば、
「慈悲と智慧」の教えと実践です。

合掌

●般若心経-34 慈悲と智慧     2011/12/7(水) 午後 9:24

大乗仏教のテーマをひとことでいうならば、
「慈悲と智慧」の教えと実践です。

智慧の修行とは、
六波羅蜜の他の五つの修行のすべてを
智慧によって実践することをいいます。

布施をする場合、智慧によって布施をします。
持戒をする場合、智慧によって持戒をします。
忍辱をする場合、智慧によって忍辱をします。
精進をする場合、智慧によって精進をします。
禅定をする場合、智慧によって禅定をします。
智慧によって、他の五つの修行のすべてを実践し
そして、般若波羅蜜(智慧の完成)を目指します。

智慧によって、他の五つの修行のすべてを実践しますが、
その智慧を引く心が慈悲です。
他者を救うためには智慧が必要ですが、
智慧を引き出すのは、慈悲の心です。

その人が貧乏のどん底にあった時、
お金を渡せば解決になるのでしょうか?
お金を渡すことによって、一時的に楽を与えても
すぐに同様の苦しみを、その人は受けることになります。
その人の苦しみを抜いてあげたい、
本当の楽を与えてあげたいと、心の底から感じたならば、
自然に智慧が生じてくると思います。
それは、気づきです。
パッと心に生じます。
その人を救う道が見え、
その人を善行に導くことができる方法に気づき、
その人が貧乏な状態にあるのは、
正しくものを観る目がくもっているからだと悟るでしょう。
つまり、八正道ができていないから
苦しみの状態になるのですから
その人をその道へと導くのが智慧です。

つまりは、お金を施すことも一時的には必要ですが
それよりも重要な布施は、法施といって、
相手に教えを伝えることが、智慧のある布施です。
だからといって、仏教を相手に説いてあげるというのではなく、
苦しいのは、自己中心的になっていたり、
なにかに執着しているから起こるのだとこちらが見抜き、
具体的な行動を提案して、共に実践していくことです。
さらには、相手を思うがゆえに、ルールを守り、感情を鎮めます。

合掌

●般若心経-35 般若心経を読む前に     2011/12/12(月) 午後 9:34

般若心経を読む前に、
知っておいて欲しいことを述べます。

 崟皸貔斃部」の解釈への批判・論破
言葉への不信

○「説一切有部」の解釈への批判・論破

説一切有部とは、上座部仏教の教団です。
戒律を重んじて、坐禅をし、解脱を目的としました。
経典の研究が盛んであり、
経典を分析し、解釈することに熱中していた様です。
解釈に解釈を重ねる内に、根本仏教の教義から次第に離れ、
仏陀の「一切に実体がない」という教義をひっくりかえして、
三世実有・法体恒有という立場になりました。

教団の名前も、「説一切有部」というのですから
あらゆる事物・現象に実体があるという説に
余程の自信があったのでしょう。
釈尊の説は、諸行無常・諸法無我ですので、
あらゆる事物・現象に実体はないという説ですから、
釈尊仏教と説一切有部とでは、根本が異なる教義です。

そのことに注目した在家仏教徒、出家僧の集団が、
説一切有部の論説を、釈尊の教義から外れていると指摘し、
般若経典を作成して、空という思想にて、
ことごとく説一切有部の論説を論破し、
新興宗教団体を組織しました。

この新興宗教団体が、大乗仏教です。
自分たちの仏教を優れたものだとして大乗といい、
説一切有部の仏教は劣ったものだとして、
小乗だと非難しました。

この般若心経においても、説一切有部の論説は、
非難の対象になっています。
四諦の法門、十二因縁などの言葉を
「無」だといって、否定しているのはそのためです。
中間の否定の言葉は、小乗批難です。
五蘊、十八処、十二因縁、四諦などの教義を
ことごとく否定しています。

○言葉への不信

しかし、般若心経の「無」という言葉による、教義の否定は、
小乗批難をしているだけではありません。
説一切有部の用語を並べて否定するやり方で、
言葉への不信を主張しています。
実は、小乗批難よりも、言葉への不信の方が
重要なテーマです。

「如来の説く真理は、真理ではない。」

これは、金剛般若波羅蜜経の一節ですが、
これが、般若経の重要なテーマです。
如来と仏陀、釈尊は、同義ですので、
「釈尊の説いた真理は、真理ではない。」
という意味になります。
釈尊が説かれた真理が、真理でなければ
誰が説いた真理が真理なのでしょう?
キリストでしょうか?
いえ、キリストの説いた真理も、真理ではありません。
誰が説いた真理でも、それは真理ではありません。

ここで、少し解説します。
「釈尊の説いた真理は、真理ではない。」
ということは、
「真理を言葉にしたら、それは真理ではない。」
ということであり、
「言葉による真理≠真理」
ということです。

真理は言葉では、説くことが出来ません。
というより、言葉は対象となるものを
何一つ言い表すことは出来ません。
五蘊、十八処、十二因縁、四諦などは、
単に言葉であって、決して真理そのものを
説いているのではありません。

合掌

●般若心経-36 やっと本文ですw     2011/12/12(月) 午後 9:45

前置きが、非常に長くなりました。
いよいよ般若心経本文に入ります。
以前、ほんの少しだけ、本文に触れましたが、
ほとんど進んでいませんので、最初の文から復習しましょう。

●観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

 観世音菩薩は、智慧の完成のための修行を深く実践された時、
 この世界を構成する要素の、いずれにも実体はないと見極められ、
 一切の苦しみを取り除かれた。

観自在菩薩=観世音菩薩です。
日本では、観音さまの名で親しまれていますので
ここでは、観世音菩薩という呼び名にします。
と言うより、私が観世音菩薩という名の方が好みなので
こちらを使わせて頂きます。

観世音菩薩は、過去において、
智慧の完成のための修行を深く実践されました。
その修行とは、六波羅蜜の修行であり、
深く実践したとありますので
最終段階の禅定波羅蜜+般若波羅蜜の修行を
深く実践されたのでしょう。
この最終段階の修行によって、
観世音菩薩は、この世界を構成する要素のどこにも
実体はないと見極められました。

世界を構成する要素(五蘊)については、
次回より記事にいたしますが、
観世音菩薩は、世界を観察する禅定を実践し、
観察の中で、あらゆるものに実体はないと見極められました。

 あらゆるものには実体がない、
 実体がないから認識しない、
 認識しないから執着がない。

執着がなければ、欲望がないので行為を生まず、
行為がないので苦を起こしません。
一切の執着をなくしたことにより、
一切の苦を滅したというのです。

合掌

●般若心経-37 五蘊皆空(ごうんかいくう)     2011/12/12(月) 午後 9:58

観世音菩薩は、禅定と智慧の修行を深く実践され、
五蘊に実体はないと見極められました。

ここに、五蘊(ごうん)という言葉が出てきます。
五蘊は、難しい仏教用語の中でも、
さらに一般的によく知られていない言葉です。
名称と簡単な意味は、事典などを見れば書かれていますが、
きちんと内容まで理解されている方は少ないようです。

実は、四苦八苦の中の最後の項目が、「五蘊盛苦」であり、
そこに五蘊は登場しているのですが、五蘊の意味が理解されにくいため
五蘊盛苦の意味も、「心身が活発に働く事による苦」と言う風に
分かりにくい説明が多い様です。

五蘊とは、人間の五つの構成要素のことで、
色受想行識の五つをいいます。
色とは、色のついたものということで肉体のことです。
受想行識は、こころ、精神のことをいいます。

 肉体=色
 精神=受想行識

分かりやすく説明すると心身ということですね。

釈尊は、「五蘊無我」を説かれました。
心身のどこにも我(実体)はない、という説です。

釈尊が亡くなった後、上座部仏教徒の説一切有部は、
釈尊の教義を研究しました。
五蘊に執着し、五蘊の各要素を徹底的に研究しました。
釈尊が五蘊を説いたのは、無我の証明のためなのですが、
説一切有部は、無我を見ずに五蘊を研究しました。

中国の諺に、
「指で月をさすとき、愚者は指を見る」
というのがありますが、
まさに説一切有部は、月を見ずに指を見ました。
その結果、色の解釈に変化が起こりました。
色とは、肉体の意味だったのですが、
一切の物質のことを差すようになりました。
その後、説一切有部は、こともあろうに、
「物質に実体がある」、と説く様になってしまいました。

新興宗教である大乗仏教徒は、説一切有部の主張を否定し、
「釈尊の教えに戻ろう」、ということで、
無我よりも、さらにインパクトの強い用語である
「空」を用いる様になりました。

 五蘊無我 → 五蘊皆空

意味はどちらも同じですが、無我の場合だと
人間に限定される恐れがあるため、空という言葉を使い
一切の物質を意味する色に実体がない、という説を唱えました。

五蘊皆空と五蘊無我とでは、全く同じことを言っています。
しかし、五蘊皆空は、まさしく一切のものに実体がないという意味なので
事物・現象だけでなく、言葉や観念、イメージなどにも
実体はないとしています。

この教義は、正しいと大乗仏教徒たちは確信をもちました。
説一切有部に反論するために使い始めた空でしたが、
ひょうたんから駒の如く、空の教義は、大乗思想の中心教義となりました。
それは、まさしく一切のものへの執着を断つ教えであり、
空という教義にさえも執着するな(空空)、という徹底したものでした。

観世音菩薩は、空の悟り、空空の悟りを得ることによって
一切の苦厄を滅し、安穏の境地に入ったのです。

般若経の主張は、事物・現象だけでなく、
「言葉や観念、イメージなどにも実体はない」、
と説いたことにあります。
このことは、般若心経のこの後の文面によって説明があります。
「言葉や観念、イメージなどにも実体はない」ということは、
般若心経を読み解く上で非常に重要です。
このことを理解しないで、読み進めば、
何を書いているのかチンプンカンプンになります。
やたらと、「無」という文字が並んでいるだけで、
意味不明の単語の羅列となってしまうのです。

今現在、私の言っていることが理解できる方は、
既に般若経を把握されている方でしょう。
初めて般若経に触れる人や、
般若経についてあまり深くない人は、
まだ、理解できないと思います。

合掌

●般若心経-38 五蘊(ごうん)     2011/12/19(月) 午後 6:19

今回は、五蘊の意味を記事にします。
蘊とは集まりのことなので、
五蘊とは、「五つの集まり」という意味になります。
では、その五つとは何かと言うと、
「色受想行識」です。

 色=物質
 受=感受作用
 想=表象作用
 行=意志作用
 識=認識作用

○色

初期仏教では、色を肉体としましたが、後には、色を物質としました。
色を肉体と観れば、五蘊は、人間を構成する要素となり、
色を物質と観れば、五蘊は、世界を構成する要素となります。
なぜ、色と言うのかと言えば、形ある物には、
何かしらの色が付いているからです。
ここでは、外界の事物・現象という意味とします。

○受=感受作用

外界の事物・現象を感覚器官によって受け取ることです。
簡単にいえば、外界と触れることによる
「苦、楽、不苦・不楽」などを感じることをいいます。
不苦・不楽とは、苦でもなく、楽でもない感覚のことです。
単細胞生物であれば、細胞膜と外界との接触や
光を感知することなどが、受になりますが、
高度な動物の場合は、眼・耳・鼻・舌・身・意という
感覚器官(六根)によって、
外界を感じ取ることを受といいます。

○想=表象作用

過去の知識の蓄積、イメージ・観念一般のこと。
感受作用によって取り込まれた情報によって、
脳などの内部情報が引き出されることです。
それらは、データ化されています。

 内部情報=名称+知識・イメージ・観念

○行=意志作用

欲しいものを定め、入手するための言動を促す思考のことです。
外部情報を得て、感受し、内部情報によって入手するべきか否かを決め、
それを行動に移すか否かを決定する作用です。

○識=認識作用

対象を明確に把握することです。
受・想・行を把握する心のことを識といいます。

 色=外界の事物・現象のこと
 受=外界の事物・現象を目や耳で感じとること
 想=外界の事物・現象を感じとることによって内部の情報を引き出すこと
 行=外界の事物・現象を入手するかどうかを決めること
 識=受・想・行を把握・認識する意識のこと

外界の、「あるもの」を見た時、そのものの色、形などの特徴を捉え、
自身の中の内部情報によって、そのものの名前や概念を引き出します。
「これは、リンゴです。」
「これは、バナナです。」
というように外界の、そのものを認識し、そのものに欲求を感じれば、
それを得る行動を取ることを決定します。
私たちは、そのものを感受したとき、
瞬間的に、「苦、楽、不苦・不楽」の原初的な感情を持ちますので
認識しようとする場合は、「苦、楽」のどちらかを感じた場合であり、
苦とみれば、避けようとし、楽とみれば、得ようとします。

私たちは、外界のすべてを、感受し、
内部情報から名称と概念を引き出し、
得るか、避けるか、現状維持かの選択をしています。
この感受、表象、意志を把握・認識するのが、識です。

この五つの構成要素には、実体がないと観ることが重要ですが
五蘊=空については、次回から説明します。

合掌

●般若心経-39 色即是空!     2011/12/24(土) 午後 9:36

観世音菩薩は、六波羅蜜の修行をし、
最終的に真理を観る禅定を深く実践して
空という真理を悟り、その果として大いなる智慧を会得し、
苦を滅した安穏の境地に入りました。 

 六波羅蜜の修行→空の悟り→大いなる智慧→涅槃

ここでは、簡潔に仏道について書かれています。
もし、涅槃を目指すのならば、空の悟りを得なさい、
空の悟りを得るためには、六波羅蜜の修行を深く行いなさい、
とまとめています。

ここで、非常に目を引くのが、「五蘊皆空」という言葉です。
この世界を構成する五蘊には実体がない、という意味ですが
このことを悟れば、一切の苦しみから解放されるわけです。

しかし、言葉の意味が分かったって、ほとんど意味がありません。
実際の世界をよく観察して、この世界は空なんだと、
見極めることが重要の様です。
では、空を観るにはどうすればいいのでしょう?
そのヒントが、次の色即是空・空即是色です。

●色不異空、空不異色、色即是空、空即是色

仏教のあらゆる経典の中で、最も有名な文章は、
「色即是空、空即是色」だと思います。
意味は分からなくても、言葉は広く知られています。

「色即是空」を検索してみると、
実に色々な解説が氾濫していて驚かされます。
空の意味は、素粒子だとか、エネルギーだとか、波動だとか
様々に解釈されています。
中には、空を夢だとする人もいます。
幻だと主張する人もいます。
みんな色々考えたんでしょうね。
そういえば、私が高校生の頃の友人は、
「色情は空しいもんだ」みたいな妙な解説をしている人もいました・・・
般若心経の全文は読まずに、
「色即是空」だけを読んで考えたのでしょう。
まあ、「色情は空しいもんだ」自体は当たっているかも知れませんね。
私は、空の直接的な意味合いは、「実体がない」ことだとしています。

色不異空=形ある物は、実体がないことと異ならない。
空不異色=実体がないことは、形があることと異ならない。
色即是空=形あるものは、即ち実体のないものである。
空即是色=実体のないものは、即ち形のあるものである。

色とは、五蘊の色のことです。
まず、色は空と異ならず、空は色と異ならない、
色は空であり、空は色であることを述べ、
本来ならば、次に五蘊の他の一つ一つの要素についても
述べたいところなのですが、
略して、「受・想・行・識も、またまたかくの如し」とまとめています。
般若心経の作者は、余程、字数を少なくしたかったのでしょうね。
やや面倒くさくもありますが、
「五蘊の全てが空である」、ということを略さずに書いてみます。

色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。
受不異空、空不異受、受即是空、空即是受。
想不異空、空不異想、想即是空、空即是想。
行不異空、空不異行、行即是空、空即是行。
識不異空、空不異識、識即是空、空即是識。

この様に、ここでは、五蘊皆空を説いてあります。
色即是空、空即是色のところのみが、よく取り上げられていますが、
決して色についてのみ書いているのではありません。

合掌

●般若心経-40 色即是空-2     2011/12/24(土) 午後 9:47

●色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。

 形ある物は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、形があることと異ならない。
 形あるものは、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち形のあるものである。

色とは、色の付いた物を差します。
つまり、物質のことです。
空とは、「実体がないこと」をいいます。

実体がないことは、どういうことでしょう?
実体とは、「常一主宰なもの」という定義があります。

例えば、多くの人は、霊魂を実体として観ています。
霊魂は、常にその肉体に存在し、
その肉体が死んで焼かれても消え去ることなく存在し、
他に依らなくても孤立して存在する事が出来、
肉体の主として存在するもの、というように捉えています。

しかし、この世界には、常に同じ状態で存在するものはありません。
仏教では、無常と言って、常なるものを否定しています。
また、この世界には、他に依らず孤立して存在するものはありません。
必ず、他のものと関係し合って存在しています。
因縁和合して、事物・現象は生じているのです。
ですから、あるものを観た時、観方によって、
因にも、縁にも、果にもなりますので
他を常に主宰するものはありません。

変化するもの、他と関係をもつもの、支配しないものを
実体とは言いません。
全てのものは、変化し、他と関係を持って生じるのであるから
全てのものには、実体はない、と仏教では言いきっています。

よって、形あるものは、実体がないことと異ならない、
形あるものは、即ち実体のないものである、と説いています。

では、逆はどうでしょう?
実体がないものが、即ち形のある物なのでしょうか?
このことは、普通に考えては理解できません。
縁起の法則を知らなければ、チンプンカンプンになります。
先ほど、少し触れましたが、事物・現象は、因縁和合して生じています。
縁起は、それぞれの因、縁に実体がないから和合できます。
因が因のままで、変わらなければ、果は生じないのです。

実は、縁起と空は同義です。
縁起=空です。
実体がないものが、即ち形のある物である・・・
というのは、縁起によって、即ち形のある物となる、
という意味が隠れています。

 形ある物は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、形があることと異ならない。
 形あるものは、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち形のあるものである。

合掌

●般若心経-41 空と縁起     2011/12/24(土) 午後 9:53

縁起とは、「縁によって起こる」の意味です。
縁によって何が起こるのかというと
すべての事物・現象です。
これを分かりやすくすれば、

 因+縁=果  

因とは、果を起こす直接的原因です。
ここでは、原因と呼ぶことにします。
縁とは、果を起こす間接的原因であり、
因が果へと変わるための条件ですので
ここでは、条件と呼ぶことにします。
果とは、因と縁が和合する事によって
起こった事物・現象のことです。
ここでは、結果と呼びます。

 原因+条件=結果

因縁とは、関係のことです。
因果とは、変化のことです。

種に水などを与えると芽が出ます。
表現的には、芽が出る、と言いますが、
実際は、種と呼ばれたものが、変化し、
芽というものになったのです。
その変化のための条件が、
土であり、水であり、温度なのです。

コップに水が入っています。
気温が上がると水は、変化して蒸発し、
気温が下がると水は、変化して氷となります。

まわりを観察するとあらゆるものは、
すべて変化しているのが分かります。
瞬間、瞬間に、変化しています。
その変化には条件があり、条件にしたがって変化します。

縁起。
縁によって起こるということですが、
関係によって、変化すると言い換えてもいいでしょう。
逆に言えば、関係がなければ、変化しないということです。

空とは、実体がないことですが、
実体とは、常一主宰のものです。
常とは、変化しないもの、
一とは、関係のないもの、
主宰とは、他を支配するものです。

仏教では、
常にあるというものは、存在しないとみて無常を説き、
一(孤立)では、存在しないとみて無我を説き、
主宰はないとして、縁起を説きました。

無常とは、変化することなので、因果。
無我とは、関係することなので、因縁。
空とは、常一主宰のものを否定していますので、
縁起と同義です。

空=実体がない=縁起
空=縁起ですね。

合掌

●般若心経-42 空     2011/12/24(土) 午後 10:05

空とは何でしょう?

空とは、そのものが存在しないという意味ではありません。
そのものは、あるのであり、ないのであり、
あるのではなく、ないのでもないのです。
つまり、有るとか、無いという執着から離れた言葉です。

人は、「有る」と「無い」にこだわりますが、
大乗仏教では、有ると無いにこだわらない見方をします。

合掌

●般若心経-43 色即是空-3     2011/12/25(日) 午後 6:44

●色即是空、空即是色。

 形あるものは、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち形のあるものである。

ここでは、形あるものを観察して空であるとし、
さらに、空の見方によって、さらに深く観察して、
実体がないから、形あるものとして存在すると
教示しています。

色即是空の「色」の段階では、
色は、単なる物質の意味で使われています。
そこに確かにある物質です。
見ることが出来、触れることの出来る物であり、
聞くことが出来、匂うことが出来る物です。

その物を観察すれば、刻々と変化していることが分かります。
仏教では、生・住・異・滅といいますが、
あらゆる物は、生じ、しばらくは形をとどめ、形を変え、
最後には滅します。
人間だって、生まれ、一時形をとどめ、老化し、死にます。
永遠に同じ状態であり続けるものはないし、
滅しないものもありません。
諸行無常の真理です。

また、その物を観察すれば、
まわりのものと関係を持っていることが分かります。
人間であれば、太陽の光や熱を受け、地球の重力を受け、
空気や水を受け、動植物の生命を受けて生きています。
まわりの人々の中で生きています。
決して、自分一人では生きていません。
諸法無我の真理です。

無常であり、無我であるとすれば、
そのものに、「実体がない」ということが分かります。
実体とは、変化せず、他との関係を持たずに孤立して
存在するものだという定義があります。
もし、実体が変化すれば、それは実体とは言えません。
また、実体が他との関係にあれば、それは実体とは言えません。
つまり、そのものに実体がないからこそ、変化するのであり、
他と関係することができます。
よって、無常と無我の真理によって、
色が空だと分かります。
色即是空です。

無常とは「変化」であり、無我は「関係」です。
これを縁起の法則である、「因縁果」に当てはめれば、

 因果=変化
 因縁=関係

と観ることが出来ます。
ただし、これは、時間経過による因果律の場合であって、
因果具時、言葉とものとの縁起とは、別の概念です。

色(物)は、縁に依って生じ、縁に依って滅するとしますので、
色即是空とは、色=空=縁起だということが出来ます。

空即是色。
空とは、縁起であると分かりました。
なので、空即是色とは、
実体がないことによって、縁起の法則が成り立ち、
縁起の法則に依って物が存在する、
という意味です。

縁起の法則が成立するのは、ものに実体がないからです。
実体があれば、変化も、関係もありませんので
縁起の法則は成立しません。

 因+縁=果

ここに朝顔の種がある時、それは、因でしょうか?
縁でしょうか? 果でしょうか?
答えは、因でもあるし、縁でもあるし、果でもあります。
朝顔の種を因として見ようと思えば、
未来において、朝顔の花を咲かせる原因であると見ることが出来ます。
朝顔の種を縁として見ようと思えば、
動物たちの餌となる縁だと見ることが出来ます。
朝顔の種を果として見ようと思えば、
過去において、花をつけ、
実となった結果としての種だと見ることが出来ます。

固定した見方こそが、実体を生むことです。
あらゆるものは、因でもあり、縁でもあり、果でもあるのです。
もし、種が因であるという実体を持ったならば、
結果としての種を見ることが出来なくなります。

あらゆるものには実体がありません。
実体がないから、縁起の法則が成り立ち、
ものは、存在することが出来ます。
しかし、存在するとしても、それは仮の存在です。
確固としてあり続けるものではありません。
瞬間、瞬間に、仮に有るのです。

色即是空、空即是色。
色即是空の色は、観察初期の事物・現象ですが、
空即是色の色は、観察が深くすすんでからの事物・現象です。
なので、同じ色でも、その意味合いは随分と異なります。

合掌

●般若心経-44 色即是空-4     2011/12/25(日) 午後 8:10

前回は、縁起の法則に依って
存在を空とする見方を示しましたが、
般若心経における「色即是空・空即是色」は、
もう少し深いところにあります。

それは、「名称と概念」という縁によって
そのものを捉えようとする人間の分別の見方を
指摘するものです。

実体というものを思惟すると、
それは、「名称と概念」という分別から
ねつ造されたものだと分かります。
つまり、実体は名前に過ぎません。

私たちが、ものを認識するのは、分別によります。
Aというものを認識するとき、
A以外のものを同時に認識しています。
宇宙を二分し、AとA以外に分けて認識します。

私というものを認識するのは、
私以外のものを同時に認識しているからです。
宇宙を私と私以外のものとに分けて認識しています。

このように、分けて認識することを分別といいます。
分けて認識したものには名称を与えます。
名称がついたものは、他とは異なる特徴を持ちますので
その特徴は、概念として、名称と合わせて記憶され
そのもの=名称+概念という認識を持つことになります。

言うまでもなく、そのものには、初めから名称などありません。
そのものに、「灰皿」と名をつければ、
たばこの灰を処理する器と認識され、
「食器」と名をつければ、食事用の器だと認識されます。

色即是空とは、形あるものに実体がない、という意味ですが、
それは、「名称と概念」によって、
実体だと観ていることの指摘です。
「名称と概念」という見方をせず、無分別によって存在するのが
本来の色であるので、空即是色と続きます。

合掌

●般若心経-45 受即是空     2011/12/29(木) 午後 8:07

●受不異空、空不異受、受即是空、空即是受。

 感受作用は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、感受作用と異ならない。
 感受作用は、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち感受作用である。

感受作用とは、外界の事物・現象を
眼や耳などの感覚器官によって
受け取ることをいいます。
外界とコンタクトすることによって、
苦しいとか、楽しいなどの感情を引くことです。
夏に暑いと感じたり、冬に寒いと感じることであり、
雨が降り始めたこと、風が吹いていることを感じることです。
人に出会って、嫌な感じがしたり、良い感じがしたり、
特に何にも感じなかったり。
その時に受ける、快感、不快感が、感受作用です。

受ける、という意味からして、縁起であることが分かります。
外界の出来事という縁があり、それを眼や鼻や耳で受けるから
感受作用は生じます。
よって、感受作用が空であることが分かります。

また、受というのは、言葉によって認識されるものであり
受という言葉がなければ、受という概念も起こりません。
受という言葉によって、生物には感受機能があることを
理解することができますが、受という実体はないのだと
知る必要があります。

合掌

●般若心経-46 想即是空     2011/12/29(木) 午後 8:15

●想不異空、空不異想、想即是空、空即是想。

 概念は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、概念と異ならない。
 概念は、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち概念である。

想とは、表象作用のことであり、
言葉をはじめとする過去の知識の蓄積、
イメージ・観念などのことをいいます。
感情・思考も想に含まれます。

感受した外界の出来事によって、
言葉・知識・イメージ・観念が引き起こされ
感情・思考につながります。

 感受 → 表象作用
    (言葉・知識・イメージ・観念 〜 感情・思考)

感受作用によって引き出されるのですから
縁起であることがわかります。
よって、表象作用が空であることが分かります。

人は、その物を見たときに、
「これはリンゴだ」「これは石だ」「これは球根だ」と
ほぼ、反射的にその物の名前を浮かべます。
名前とは、単なる言葉です。
言葉とは、情報交換、思考、記憶、記録のために
人類が発明した道具です。
実に便利な道具ではありますが、いつの間にか、
人は言葉に実体を見る様になっています。
「リンゴとは果物です」
という様に、人は名前に対し、固定的な意味を持たせます。

「これは何ですか?」
という問いに対し、通常、その物の名前を答えるますが、
はたして、それは答えになっているのでしょうか?

「これは何ですか?」 
「リンゴです。」
「リンゴって何ですか?」 
「果物です。」
「果物って何ですか?」 
「木の実です。」
「木の実って何ですか?」 
「・・・」

「何ですか?」
を続けても、答えはずっと名前であることが多いものです。
名前は言葉であり、決してそのものの実体ではありません。

「リンゴとは、ほぼ球形の果物で、食べると甘酸っぱさがありますよ。」
と、名前の次に出てくるのが知識です。
そして、続けて、その人の持つイメージや観念が引き起こされます。
「リンゴはジューシーで凄く美味しいんですよ。
 おそらく、誰もが好きな果物じゃないかな。」
などと、その人独自の観念を並べます。
言葉や知識や観念、イメージが実体でないことは分かり切ったことですが、
ほとんどの人が実体化しているのが現実です。
この表象作用が空であることは、般若経の核心でもあります。

合掌

●般若心経-47 行即是空     2011/12/31(土) 午前 11:08

●行不異空、空不異行、行即是空、空即是行。

 意志作用は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、意志作用と異ならない。
 意志作用は、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち意志作用である。

外界を目や耳でとらえて、
内界の言葉・知識・イメージ・観念が
引き起こされることによって、
そのものが、自分にとって必要か否かが判断され、
欲求が起こります。
その欲求をどのようにするかを決めるのが、意志作用です。
意志作用とは、欲しいものを定め、
入手するための言動を促す思考のことです。

リンゴを見て、美味しそうだと感じ、
「よし、買うことにしよう。」
と行動を決めることが意志作用です。

コンビニに行くと
出入口にヤンキーのお兄さんたちがたむろしていて、
(危なさそう・・・)と感じ、
「コンビニ行きは、止めておこう。」
と行動を決めることが意志作用です。

欲求には、プラスとマイナスがあり、
そのものを手に入れたいと欲すれば、入手しようとし、
そのものを避けたいとすれば、そのものを遠ざけようとします。

見て聞いて、イメージを引き出し、欲求を生じ、
欲求に従って行動を決めますので、
意志作用は、縁起です。
縁起と空は同義ですので、
意志作用が空であることが分かります。

また、行というのは、言葉によって認識されるものであり
行という言葉がなければ、行という概念も起こりません。
行という言葉によって、生物には意志作用があることを
理解することができますが、行という実体はないのだと
知る必要があります。

合掌

●般若心経-48 識即是空     2011/12/31(土) 午後 0:01

●識不異空、空不異識、識即是空、空即是識。

 認識作用は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、認識作用と異ならない。
 認識作用は、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち認識作用である。

識とは、認識作用です。
認識作用とは、対象を明確に把握することであり、
対象とは、受・想・行です。

外界そのもの・・・色。
外界の様子を目や耳で感じる感受作用・・・受。
感じて受けたことによって、
自分の内面から引き出される
知識やイメージ、観念などの表象作用・・・想。
そのイメージや観念などによって生じた欲求を
どの様にするか、という意志作用・・・行。
そして、これらの感受作用・表象作用・意志作用を
把握する心を認識作用・・・識とよびます。

受・想・行を把握するのであるから縁起です。
縁起と空は同義ですので、
よって、認識作用が空であることが分かります。

般若経は、すべての言葉と概念を否定して、
空という言葉を前面に出していますが、
「空とは何か?」
という説明はしていません。
よって、空の意味が分からないため、
難しい内容の経典だとされ、
あまり般若経は、普及しませんでした。
その般若経典のテーマである空を
論じたのが竜樹菩薩です。
竜樹菩薩の論議内容は、空を中という言葉で論議したので
中観派といいます。
つまり、空とは相対的なものであり、
生・滅、有・無、聖・俗、浄・不浄のような
一辺に偏った見方をしないところにあるとして、
両辺に偏らず、中を観ることをすすめました。
また、空とは縁起と同義であることを論じ、
ものは、因と縁の和合によって、仮に果として
事物・現象となりますが、
因縁や果報は空であり、実体はありません。
仮に因として観るだけであり、見方を変えれば、
縁でもあるし、果でもあります。
そのように因縁と果報に実体がないからこそ、
縁起は可能であることが、竜樹菩薩の論であり、
大乗仏教の思想の柱となっています。

しかし、一切は空である、とした場合、
心を認識する「識」までが空となってしまい、
今ここにあって、思考するこの私というものの
存在が分からなくなってしまいます。
そこで、
「唯識のみはある」、
という論を唱える者が出てきました。
唯識派の登場です。
弥勒を初めとして、無着・世親らによって始められました。
ただし、唯識においても、空を基盤にしています。
外界と内界という境をのぞいた、主観と客観の一致が識ですので、
一切に実体はなく、また、識自体も最終的には、空であるとされます。

このように、識については、諸説ありますが、
最終的には、五蘊が空であるという説に落ち着きます。
重要なのは、五蘊と五蘊それぞれの色受想行識は、
どれも、名称と概念です。
それぞれに実体があると見誤るのは、
名称によって実体視しているからです。

合掌

●般若心経-49 我について     2011/12/31(土) 午後 0:30

様々な般若心経の解説を読むと、
「色」のところが、強調されているものが多いようです。
「色即是空」がひとり歩きしている様に思えます。
般若心経は、五蘊が空であることを述べたお経であり、
重要なのは、むしろ受・想・行・識の方だとおもうのですが・・・

空とは、ものが存在しないというものではありません。
空とは、実体がない、ということです。
実体とは、常一主宰のものであると説明されます。
常にあって変化せず、固定されたものであり、
他に影響されず、他に依らなくても存在することができ、
他を支配するものです。
日本人の場合は、本体というと「霊魂」を想定するかも知れません。
霊魂は、身体が滅しても在り続けて、他の新しい身体に宿り、
輪廻転生する主だとしています。
霊魂は、常にあって、他に依らずにあって、
その肉体なりを支配するものだと考えられています。
霊魂の有る無しを議論すると、少々面倒なのでここではしませんが、
仏教では、実体はない、としていますので
一般的に考えられているような霊魂は存在しません。
ただし、実体のない霊魂は仮に存在する可能性はありますが・・・

人は形あるものに、実体は見ていないと思います。
肉体と心のどちらかに実体を観るとしたら、
ほとんどの人が心の方にあると観るでしょう。
肉体が、変化もせず、他と関わりを持たずに存在するなどと
本気で考える人は、おそらく一人もいないと思います。
肉体は、老化し、やがて死に、放っておけば腐り、
やがて土にかえります。

なので、すべての物質を観る時も、
物質に実体ありとは思わないでしょう。
その内側のスペースに実体を探すと思います。

仏教では、心を4つに分けて説明しています。
受・想・行・識です。
そして、その4つのどこにも実体がない、
と結論を出しています。
身体と心の二つに分けるのではなく、
色・受・想・行・識の五つに分けるところから、
仏教が心を中心に思惟したことが分かります。

実体がない、という言葉は、
初期仏教においては、「無我」という言葉で表現されました。
「無我」の思想のそもそもの出発点は、
バラモン教のアートマンの否定からです。
バラモン教では、生物は死んだら滅してしまうのではなく、
実体を残すと教えました。
その実体をアートマンといいました。
漢訳では、「我」です。
生物は死に、アートマンは残り、次の肉体を受けて転生します。
死んでは生じ、生じては死ぬ、この生死を輪廻といいます。

輪廻を仏教の独自の思想だと思っている方もいますが、
輪廻は仏教以前からあり、釈尊の時代には、
誰もが当然のこととして、受け入れられていた思想の様です。
バラモン教では、輪廻のことを「サンサーラ」といい、
漢訳されて輪廻と言われます。
業もバラモン教の教義であり、「カルマ」と言います。

我、輪廻、業は、バラモン教の中心教義です。
生物は悪い行いによって悪い業をつくり、その悪業の報いに依って
死んでから苦しみの世界に転生します。
生物が善い行いをすれば、善い業となり、その善業の報いに依って
死んでから楽の世界に転生します。
それが、バラモン教の教えです。
善因楽果、悪因苦果、因果応報と言われます。

この教えは、カーストという身分制度を
人々に納得させるのに効果がありました。
カースト制度とは、人々を4つに分類する身分制度です。

バラモン・・・バラモン教の聖職者。司祭。
クシャトリア・・・王族や貴族、武士。
ヴァイシャ・・・平民。
シュードラ・・・奴隷。

一応、この4つが身分制度の枠組みですが、
この枠組みに入れない人達もいました。
つまり、人間扱いされていない人達であり、
アチュート(不可触賎民)と呼ばれました。

この身分制度は、上下の差別であり、
バラモンは浄であり、シュードラは不浄だとされました。
バラモンの子はバラモンであり、シュードラの子はシュードラで
死ぬまでその身分は変わりません。

バラモン教では、奴隷の子として生まれたのは、
前世で悪いことをしたからだ、
来世でもっと上の身分に生まれたかったら、
今世で善業を積みなさい、と教えました。

この教えを完全に信じ切って、
身分制度は、人間が勝手に作り上げた制度だとは捉えず、
神のつくった制度であり、
悪果は自分のせいだとして、
善業を積むことに生涯をかけました。

今の世のありかたは、前世の約束事だと誰もが信じました。
その説を裏付けたのが、我・業・輪廻という教義だったのです。
死んだら全てが終わる、というと、今世限りの人生となりますので
善業を積むという考えは起こらず、身分制度に反発し、
シュードラの位に満足することはなく、暴動などによって、
バラモンに都合のよいカースト制度は、崩壊することでしょう。

なので、バラモン教では、死んでも続きがある、とし、
我・業・輪廻という教義を説きました。

実体説は、インドだけの教えではありません。
キリスト教だって、実体はあると言う前提で教えを説いています。
世界中の多くの宗教は、実体説です。
日本人の多くも、実体説を信じています。
信じていなければ、霊魂の存在など口にもしないだろうし、
都市伝説や怪談話で、霊のことが取り上げられ、
怖がられることもないでしょう。

そんな実体説を仏教は真っ向から否定しました。
アートマンの否定形であるアナートマンを説いたのです。
つまり無我を説きました。

学者によっては、無我ではなく、非我だという方もいますが、
ここでは、無我を説いたとしておきます。
確かに、無我・非我・大我という思想はありますが、
今は、無我を語る事にします。
そうしないと、ややっこしくなりますからねw

仏教は無我を説きました。
これは、強烈な思想です。
思考が凍りつきそうな衝撃があります。
常識的な実体説を根本からくつがえす教義です。

奇想天外な説によって、自分の宗教に注目を集め
信者を獲得しよう、などという まやかしではありません。
仏教の旗印として無我を説きました。

最初は、人には実体がないという説だったのですが、
後に諸法無我という言葉で、全てに実体はないことを主張しました。
さらに、上座部仏教徒が、諸法の実体を説き始めたため
空という言葉を使い、全てに実体がないことを強調するに至りました。
全てに実体がないことを強調するために、
説かれた教えこそが般若経であり、
その後の大乗仏教では、空を中心教義にしています。

合掌

●般若心経-50 諸法空相-1     2011/12/31(土) 午後 4:15

●舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。

 舎利弗よ。
 この様に一切の事物・現象には実体がないので、
 生じることはなく、滅することはない。
 汚れたものはなく、浄らかなものはない。
 増えることはなく、減ることはない。


さて、五蘊皆空を説いたところで、あらたまって舎利弗の名を呼び、
諸法空相だと述べています。
これまでと言い方が異なっています。
五蘊皆空ではなく、諸法空相だと言っています。
相とは、そのものの特徴のことです。
見られたり、認識されたりするもののすがたを意味するので、
諸法空相とは、諸々の事物・現象の空のすがた、ということになります。
したがって、

 諸々の事物・現象が、空であるすがたは、
 不生不滅、不垢不浄、不増不減である。

という意味になります。
つまり、これまでは、五蘊が空であることを証明することにより、
すべてのものに実体がないことを説いてきましたが、
これから先は、五蘊が空であるという前提で
一切の事物・現象を観察した結果を述べています。
空を理解したものに、次の段階の教えを説いています。
その教えとは、諸々の事物・現象が空であると知った上での真相です。

 生じることはなく、滅することはない。
 汚れたものはなく、浄らかなものはない。
 増えることはなく、減ることはない。

さすがは智慧による観方ですね。
これまでより、ぐんと難しい。
「生滅はない」とは、どういうことでしょう?
まるで縁起の否定のような言葉であり、
目の前で実際に生じたり、滅したりしていることを
否定しているようで理解しにくい言葉です。

 不生不滅

仏教において非常に重要な言葉ですが、
大きく誤解されている言葉でもあります。
諸々の事物・現象の空なる相は、不生不滅である、
という文章を読んで、諸々の事物・現象の奥に
永遠性を持たせるという解釈をするという誤解を
割と多くの方がしています。

つまり、事物・現象は、
変化と関係の法則によって存在しているが、
その因縁和合による存在の奥には、
生滅変化しないという真理が働いており、
本来は、永遠であるというように誤解しています。
実体がないことを説いているのに、
結局は実体があるという、
矛盾のある説を展開しています。

不生不滅は、他の経典では、無生無滅という言葉で表されます。
不だと、「論理的否定」ですが、無だと、「存在否定」です。
どちらにせよ、生滅は否定されています。

長文になりましたので、今回はここまでとします。

合掌

●般若心経-51 諸法空相-2     2011/12/31(土) 午後 5:34

●舎利子。是諸法空相、不生不滅・・・

 舎利弗よ。
 この様な一切の事物・現象の実体がない相というものは、
 生じることはなく、滅することはない。


縁起とは、縁に依って生じ、縁に依って滅することをいいます。
だとすれば、この不生不滅という言葉は、縁起の否定なのでしょうか?

文章を読めば理解できるのですが、ここで不生不滅だとしているのは、
事物・現象ではありません。
相というものが、不生不滅だと説いているのです。

 因+縁=果

というのが、縁起ですが、ここでいう相とは、
因そのもの、縁そのもの、果そのもののことです。

朝顔の種を土に蒔き、水、温度、養分、空気などの縁を与えれば、
種は芽を出し、双葉を出し、やがて蕾をつけて花を咲かせます。
この時、種を因とし、水などを縁とし、発芽を果とした時に
種、水、芽などが、相です。
諸法は空ですので、種にも、水にも、芽にも、
実体はありません。
諸法空相とは、一切の事物・現象を空だと理解した者が、
その空の理解をもって、それぞれの個としての存在(相)を
観察することを言います。

それぞれの相は空です。実体はありません。
芽に芽としての実体があるならば、
芽の実体は、原因や条件によって生じることはありません。
原因や条件によって生じたものは、
作られたものになってしまうからです。
実体というものは、作られたものではなく、
他のものに依存しないものです。
芽が本質としての存在性を持つのであれば、
それは、非存在となることはありません。
なぜなら、本質には、決して変化はありえないからです。

実体というものは、自らの存在のために、
他のものを必要としない、完全なる自立した存在です。
変化せず、関係を持たず、主となって存在するものを実体といいます。
芽という実体があるとすれば、
そのものは、芽の実体を持ち続ける存在となり、
変化しないものになってしまいます。

種という実体を持つものは、種の実体を持ち続けるのですから
水などを与えても、その実体に変化が生じることはありません。
種という実体を持つものが、
どのようにして、芽という実体を持つものに変わるというのでしょう?
それは、不可能です。

水という実体をもつものは、どこへ行ってしまったのでしょう?
実体は、恒常的な存在であり、滅することなどないのに、
水は種に吸収され、摂りこまれます。

種に実体があれば、芽を出しません。
種に実体がないからこそ、水などの縁に依って変化し
芽を出すことが可能です。
水に実体があれば、種の縁にはなれません。
水に実体がないからこそ、他を助ける縁となることが可能です。

以上のように事物に実体がないからこそ、縁起が可能です。
事物に実体があれば、縁起はなく、生滅はありえません。

 因+縁=果

因に実体がなく、縁に実体がないから、実体のない果が生じます。
因は仮であり、縁は仮であり、果は仮です。
では、仮の存在としての種を観察した時、
それは、はたして生滅をするのでしょうか?

その答えは、次回にてお送りします。

合掌

●般若心経-52 諸法空相-3     2011/12/31(土) 午後 7:58

●舎利子。是諸法空相、不生不滅・・・

 舎利弗よ。
 この様な一切の事物・現象の実体がない相というものは、
 生じることはなく、滅することはない。

縁起とは、縁に依って、事物・現象が、生滅変化することをいいます。
だとすれば、縁がなければ、そのものは、生滅変化しません。

縁がなければ生じないし、縁がなければ滅しません。
つまり、不生不滅です。
不生不滅を、永遠だと解釈する人もいますが、
不生とは、生じることの否定ですから、
そもそも何も起こりません。
何も生じていないのに、何が永遠なのでしょう?

不滅とは、滅することの否定です。
何も生じていない存在が、滅することなどできません。
仮の存在も、何の縁もなければ、滅することなど不可能です。

そのものの相とは、仮の存在です。
無でもなく、有でもありません。
すべては、因縁によって生滅しています。
縁がなければ、生滅しません。
よって、不生不滅です。

一切の事物・現象は、因縁によって生滅しています。
縁起が成り立つのは、五蘊が空であるからです。
つまり、一切のものが空であるから、縁起が成り立ちます。
また、それぞれのものを観察すれば、
個々のものは、縁がなければ、生滅のないものであり、
変化という結果は、縁に依ります。

合掌

●般若心経-53 諸法空相-4     2012/2/2(木) 午後 7:44

●舎利子。是諸法空相、不生不滅・・・

 舎利弗よ。
 この様な一切の事物・現象の実体がない相というものは、
 生じることはなく、滅することはない。

前回、不生とは、生じることの否定ですから、
そもそも何も起こりません。
何も生じていないのに、何が永遠なのでしょう?

と、疑問形にしていましたが、
「不生不滅」とは、体のない一点であり、
その一点は、一点であると同時に永遠を意味します。
そこに時間が有りませんので、静止の状態であり、
同時に永遠の状態です。

不生不滅は、縁起と空を知るための重要な説ですが
なんだか、不生不滅のほうが難しく思えますね。

合掌

 

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