蓮の道 般若心経 (2010) 

2019.7.10

●01 般若心経 漢訳&和訳  2010/12/11(土) 午前 8:12

般若経の経典は、数多くありますが、ここでは、まず、般若心経について触れてみます。その後は、「八千頌般若経」「金剛般若経」などの有名な経典も紹介しようと思っています。では、般若心経の一回目は、和訳版と漢訳版のテキストの紹介です。

●仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観世音菩薩は、智慧の完成のための修行を、深く実践された時、この世界を構成する要素の、いずれにも実体はないと見極められ、一切の苦しみを取り除かれた。

舎利弗よ。
形のあるものは、実体がないものと異ならず、実体のないものは、形のあるものと異ならない。形あるものは、即ち実体のないものであり、実体のないものは、即ち形のあるものである。世界を構成する要素を観察すれば、形のあるものにも、形のないものにも実体はない。

舎利弗よ。
この様に一切の事物・現象には実体がないので、生じることはなく、滅することはない。汚れたものはなく、浄らかなものはない。増えることはなく、減ることはない。

これゆえに空の中にあれば、形のあるものというものはなく、形のないものというものはない。眼耳鼻舌身意という感覚器官はなく、感覚器官によって捉えられる対象はなく、感覚器官によって受ける認識はない。十二因縁の法門にて説かれた内容の無明はなく、また無明が尽きることはなく、あるいは、老死はない。また、老死が尽きることもない。苦・集・滅・道の四諦もない。智慧はなく、智慧を得ることはない。なぜならば、所得することがないからである。菩薩は智慧の完成の修行によって、心にとどこおりがなく、とどこおりがないことによって、恐怖を感じる事がない。一切の誤った考え方から遠く離れているので、安穏の境地に入ることができる。

過去・現在・未来の諸仏は、智慧の完成によって最上最高の悟りを得ることが出来るのである。智慧の完成とは、大いなる神の呪文であり、大いなる悟りのための呪文である。最高の呪文であり、他に類を見ない呪文である。よく、一切の苦を除き、真実であって虚妄ではない。では、最後に智慧の完成の呪文を説く。すなわち、その呪文とは次の様なものである。

ギャーテイギャーテイ。ハラギャーテイ。ハラソウギャーテイ。ボウジソワカ。

以上が般若心経である。

●仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。
舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩?、依般若波羅蜜多故、心無?礙、無圭礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。

般若心経

合掌

●02 般若心経 タイトルの意味   2010/12/11(土) 午前 9:34

●仏説摩訶般若波羅蜜多心経

今回は、『般若心経』のタイトルについてお勉強をしましょう。一般的には、『般若心経』というように略して言いますが、宗派によっては、『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』『摩訶般若波羅蜜多心経』ともいいます。

『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』の一つ一つの言葉の意味を調べてみましょう。

仏説=お釈迦さまの説いた教え
摩訶=偉大
般若=智慧
波羅蜜多=完成のこと。悟りの境地である彼岸へ渡るということ。
心=中心・重要の意味と同時に呪文の意味がある。
経=経典

=お釈迦さまの説かれた偉大なる智慧の完成の真言の有る経典

仏説とは、お釈迦さまが説かれた教えということです。でも、実際には、この般若心経は、お釈迦さまではなく、観自在菩薩が舎利子に対して教えを説いています。

摩訶とは、「偉大」という意味です。摩訶不思議などで、お馴染みの言葉です。

般若とは、「智慧」のことです。"ちえ"には、「知恵」と「智慧」という二種類の漢字がありますが、般若とは、智慧のことです。知恵と智慧は、混合されて使われることも多いのですが、本来の意味はかなり違います。

知恵とは、過去の知識・記憶・イメージなどを必要な時に自由に引き出せるものです。
智慧とは、仏教用語で、一般的には馴染みの薄い言葉ですが、仏教においては、非常に重要な言葉です。特に般若心経においては、テーマですので押さえておきましょう。

「智」とは照見、つまり物事の本質や実相を正しく明らかに見きわめることです。「慧」とは解了、つまり、すっかり見極めることです。
「智」は一般に世間で真理といわれるものを知ること、「慧」は出世間的な最も高く勝れた第一義の事実を照見し、それに体達するものであるとします。

ちょっと難しいですね。ややこしいので、ここでは、「空の悟り」ということにしときましょう。

波羅蜜多とは、「完成」のことです。悟りの境地である彼岸へ渡るということも波羅蜜多といいます。苦しみの世界であるこちら側の世界を此岸といい、安穏の境地であるあちら側の世界を彼岸といいますが、波羅蜜多には、到彼岸の意味もあります。ただし、この経典では、「般若波羅蜜多」といいますので、「智慧の完成」の意味を取ります。

心とは、「中心・重要」という意味があります。他の般若経が、8000行とか25000行、10万行もあるのに、般若心経は、わずか266文字なので、確かにエッセンス的な意味から、般若経の中心のお経とされたのかも知れません。

また、最後のところの、「ギャーテイギャーテイ。ハラギャーテイ。ハラソウギャーテイ。ボウジソワカ」が呪文(真言)であり、この呪文のことを重視していますので、心を「呪文」という意味として解釈することもあります。

経とは、経典のことです。なお、原典となるサンスクリット語の経典には、
経にあたる文字はありません。

合掌

●03 般若心経 大本般若心経   2010/12/12(日) 午前 1:51

般若心経は、いったい誰が説いたのでしょう?

タイトルに仏説という言葉がある位だから、お釈迦さまが説いたのに決まっていると思われがちですが、多くの解釈では、観自在菩薩が説いた事になっています。つまり、舎利子の名を呼び、空の智慧を説いたのは、お釈迦さまではなく、観自在菩薩だとする説が一般的です。

その根拠は、『大本般若心経』という経典にあります。日本で一般的に読まれている般若心経は、『小本般若心経』で、この般若心経とは別に、完全版とも言える大本般若心経という経典があります。

小本般若心経の代表的な漢訳は、西遊記で有名な玄奘のものですが、この経典には、仏教経典の特徴とも言える、「如是我聞」がありません。しかも、如是我聞に続く、いつ、どこで、誰が、誰の為に説いたのかも書かれていません。

しかし、大本般若心経には、それらの内容(六成就)が、しっかりと書かれています。それによれば、観自在菩薩が舎利子相手に教えを説き、ラストでお釈迦さまが、観自在菩薩の説いた内容に間違いはないと太鼓判を押しています。

よって般若心経の説法者は、お釈迦さまではなく、観自在菩薩だとする説が一般的です。

では、ここで、大本般若心経の和訳を紹介します。

●大本般若心経

このように私は聞いています。
ある時、世尊は、多くの修行僧や菩薩と共に、王舎城の霊鷲山にいました。
その時に世尊は、深遠な悟りと名づけられる瞑想に入られていました。また、その時に、智慧の完成のための修行を、深く実践されていた観自在菩薩は、世界を観察し、世界とは形のある物と形のないものの仮の和合であり、それらの本性は空なるものだと見極められました。

その時、舎利子は、仏の威徳によって、観自在菩薩に次のような質問をしました。

「もし、ある修行者が、智慧の完成のための修行をしたいと望んだならば、どのように学ぶべきでしょうか?」

観自在菩薩が答えました。

舎利子よ。
もし、ある修行者が、智慧の完成のための修行をしたいと望んだならば、世界とは、形のある物と形のないものの集まりであり、それらの本性は空なるものだと観察するとよいでしょう。

形のある物は空性であり、空性だからこそ形のある物と成りえているのです。形のある物から離れて空性があるのではなく、空性から離れて形のある物があるのではありません。形のある物であるもの、それが空性であり、空性であるもの、それが形のある物です。同様に、形のないものの構成要素である、受想行識も空性なのです。

舎利子よ。
この様に、一切の事物・現象は、空性を特徴としています。生じるのではなく、滅するのではなく、垢れているのではなく、無垢なのではなく、減るのではなく、 増えるのではありません。

舎利子よ。
それ故に、空性においては、形のある物はなく、受想行識もありません。眼・耳・鼻・舌・肌・意はなく、形ある物も、声も、香りも、味も、触れられるものも、識別対象もありません。眼の世界もなく、意の世界に至るまでなく、識別対象の世界までなく、意による識別の世界に至るまでもありません。

智慧もなく、無明もなく、それらが滅することもなく、老いることも、死ぬこともなく、老いることや死ぬことが滅することもありません。苦諦・集諦・滅諦・道諦もなく、覚智もなく、得ることもなく、得ないこともありません。

舎利子よ。
得ることがないから、諸々の菩薩は、智慧の完成に依って心の覆いを取り去り、心の覆いのないものとなります。心の覆いがないから、恐怖のない者となり、顛倒を超越したものとなり、安穏の境地に入る者となります。

過去・現在・未来の全ての仏は、智慧の完成に依って最上の悟りを得たのです。

この故に、智慧を完成させる大いなる真言、大いなる明知の真言、最上の真言、比べるもののない真言が、全ての人々の一切の苦を除く真言であると知ることが重要です。このことは真実にして、偽りではないということから、智慧の完成において真言が説かれました。

ガーテー・ガーテー・パラガーテー・パラサムガーテー・ボディスヴァハ

舎利子よ。
深遠な智慧の完成を実践するときには、菩薩はこのように学ぶことが重要です。

その時、世尊は、かの瞑想より起きて、観自在菩薩に賛意を表されました。
「その通りです。その通りです。徳のある若者よ。まさにその通りです、徳のある若者よ。深い智慧の完成のためには、行の実践は非常に重要です。今、あなたによって説かれた教えは、如来たちや、阿羅漢たちが、随喜し、受け入れることでしょう」

舎利子も、観自在菩薩も、一切の会衆、および神々や人間や阿修羅たちを含む世界のものたちは、世尊の言葉に大いに歓喜したのでした。

以上で、般若心経を終わります。

合掌

●04 般若心経 観世音菩薩について   2010/12/16(木) 午後 0:32

般若心経は、観世音菩薩が舎利弗に対して、智慧の完成の修行法を説く経典です。
ただし、玄奘訳の般若心経では、観世音菩薩は観自在菩薩となっており、
舎利弗は、舎利子となっています。
サンスクリット語を漢訳した時の訳の仕方の違いに過ぎませんが、
まずは、その辺のところを説明しましょう。

○観世音菩薩=観自在菩薩
玄奘訳の観自在菩薩は、法華経に登場する観世音菩薩のことです。
サンスクリット語では、アヴァローキテーシュヴァラと言います。
これを、直訳すると、「あまねく観た自在者」なので
玄奘訳の観自在菩薩の方が意味が近いのですが、
妙法蓮華経を漢訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)は、
妙法蓮華経の内容を考慮して、観世音菩薩と意訳した様です。
中国でも、日本でも、観自在菩薩と言う名前よりも
観世音菩薩という方が通り名なので、ここでは観世音菩薩とします。

玄奘さん、御免なさいね。

○舎利弗=舎利子
同様に、サンスクリット語のシャーリプトラを漢訳の際に
プトラを音訳にしたのが、「弗」で、意訳したのが、「子」です。
プトラの意味は、「子」なのですね。
ちなみに、シャーリーとは美しい目をした鳥のことらしく
おそらくは、「鷺(さぎ)」なのではないかと言われています。
サギと言う名の女性の子供、
もしくは、サギとあだ名された女性の子供というのが、
シャーリプトラです。

○観世音菩薩と舎利弗
般若心経では、観世音菩薩が舎利弗に教えを説くのですが、
この二人の登場人物には、大きな意味があります。

観世音菩薩=大乗の菩薩 智慧と慈悲の実践者
舎利弗   =小乗の声聞 知恵第一といわれる仏教教団の長老

簡単に言えば、大乗の菩薩が、小乗の声聞に教えを説いたということです。

合掌

●05 般若心経 概要   2010/12/16(木) 午後 0:51

今回は、般若心経の概要を説明します。

般若心経の内容は、大きく三つに分けられます。

 |匏鼎隆粟について
 智慧の完成を得た者の世界の観察
 C匏鼎隆粟のための真言

つまり、最初に、智慧の完成についての修行方法が書かれており、
その後に、智慧の完成をした者の世界の観察が書かれ、
最後に智慧を完成させるための真言が書かれています。

よって、般若心経の内容は、非常に難しい。
譬えれば、富士山の頂上から、地上を観る様なものであり、
地上にいる者だと理解できない事が書かれています。

合掌

●05 般若心経 智慧の完成  2010/12/16(木) 午後 1:41

●観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

 観世音菩薩は、智慧の完成のための修行を深く実践された時、
 この世界を構成する要素の、いずれにも実体はないと見極められ、
 一切の苦しみを取り除かれた。

○六波羅蜜
観世音菩薩は、智慧の完成のための修行を実践された結果、
空という真理を見極められ、苦を滅せられました。
このことを言いかえると次の様になります。

 六波羅蜜の修行 → 空の悟り → 安穏の境地

小乗においては、安穏の境地に入るための修行を八正道としましたが、
大乗では、六波羅蜜こそが最も重要な修行であるとされています。
六波羅蜜とは、智慧の完成のための修行のことで
修行内容は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六種です。

ここでは、それぞれの修行内容について書きませんが、
次回にでも詳しく語らせて頂きます。
ただ、最重要なことを語れば、六波羅蜜の修行は、
智慧の完成を目標にしているのですが、
布施、持戒、忍辱、精進、禅定の各修行の土台には、智慧が必要です。
特に布施は、重要な修行なので、智慧による布施の実践は、大いに奨励されます。
なぜなら、六波羅蜜は八正道と同様に、「執着を捨てる」修行であり、
布施こそが最も執着を捨てる修行だからです。

布施とは、
自分のお金を寄付、募金、献金すること。
自分の物をみんなで分かち合うこと。
自分の知識や知恵を惜しみなく与えること、アドバイス、教育、伝授すること。
自分の時間を割いて、自分の身体を使って、お手伝いや奉仕活動をすること。
挨拶、返事、会話、やさしい言葉かけ、笑顔などを快く行うこと。
お年寄りや身体の不自由な人に席を譲ること。

これらの言動は、自己への執着、自分のものへの執着を断つ修行です。
つまり、布施は無我の実践行なのです。
しかし、何の考えもなく布施をすれば、愚かな結果を招くことでしょう。

詐欺集団に寄付、募金、献金することは愚かです。
親切行のつもりが、犯罪に加担する結果になることもあります。
犬に玉ねぎを施せば、知らなかったでは済まなくなります。
むやみに笑顔で接すれば、カン違いしたおっさんにストーキングされてしまいます・・・

などの初歩的なミスは、知識によってある程度解消できますが、
見返りを求める布施、注目を集めようとする布施、優越感を満足させる布施などは、
かえって執着をつくることになり、何のための布施か分からなくなります。
智慧による布施の実践こそ、重要な修行である。

ただし。
もう一つ重要なことは、ここで言う、「深般若波羅蜜多時」とは、
布施行ではなく、禅定波羅蜜多のことを言っています。
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という6つの修行は、
布施・・・智慧、布施、精進、布施、持戒、忍辱、精進・・・・布施・・・禅定、
というように、ランダムにまるでらせん階段をのぼる様に
ずっと上部まで続いているのですが、
ここでは、最終段階の禅定波羅蜜の修行のことを差しています。
だから、深般若波羅蜜多時と言う様に、深いと言う字がついているんですね。

合掌

●06 般若心経 布施   2010/12/16(木) 午後 2:32

●六波羅蜜 「布施」

○布施
自分のものを他者に与えることです。
お坊さんに金品を捧げることを布施と言いますが、
本来は、誰に対しても布施は実践できます。

仏教の中心教義は、無我です。
つまり、「我がない」ということです。
我とは、これこそが自分自身だと言える様な固定された存在で、決して変化せず、
他の影響に左右されず、肉体なりを主導する本体の事です。
インドでは、アートマンと言いますが、日本では、魂と言った方がピンとくるでしょう。

仏教では、無我だと言い、「無我なのだから自分への執着を捨てなさい」と教えています。
実は、無我を証明する事に積極的になっているのではなく、
無執着をテーマにして、お釈迦さまは教えを説いている様です。

 自分には本体がないのだから、当然ながら、自分のものなどあり得ない。

自分に執着せず、自分のものに執着しないことこそが、悟りへの道だと悟ったお釈迦さまは
誰もが、そのことを実践できるように、布施を説きました。
 
 お金、食事、物品、席、労働力、笑顔、挨拶・・・

自分のものを自分だけのものとせず、与えること、分かち合うことによって
無我の境地を悟るのが、布施の修行です。

○三施
 財施・・・金品食事を布施する事
 法施・・・教えを布施する事
 無畏施(むいせ)・・・苦悩する人を接し、恐怖心などを取り除いてあげること

○無財の七施
 金品がなくても出来る布施です。
 相手を自分と思って、接する事が重要ですが、最初は、親切行として取り組んでみましょう。

 ヾ禹棔覆欧鵑察燭んせ)
  優しい温かいまなざしで人に接することです。
 ∀卒藥棔覆錣欧鵑察燭錣んせ)
  優しいほほ笑みをもって人に接すること。
  まるで、恵比寿様の様に人と接することです。
 8声施(ごんじせ)
  優しい言葉をかけることです。
 た隼棔覆靴鵑察
  肉体を使って人のため社会のために働くことです。
 タ柑棔覆靴鵑察
  心から共に喜び共に悲しみ、感謝すること。
 床座施(しょうざせ)
  自分の座席や地位を譲ること。
 房舎施(ぼうしゃせ)
  雨露をしのぐ場所などを分け与えること。

合掌

●07 般若心経 持戒    2010/12/16(木) 午後 3:00

●六波羅蜜 「持戒」

○持戒
戒を守る事を持戒といいます。
戒とは、ルールのことですが、道徳的なものをいいます。
したがって、戒を破っても特に罰はありません。
代表的な戒には、五戒があります。

○五戒
 不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を殺してはいけない。
 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない。
 不邪淫戒(ふじゃいんかい) - 自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。
 不妄語戒(ふもうごかい) - うそをついてはいけない。
 不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒を飲んではいけない。

この戒めは、悪を止めるために守ります。
仏教で言う悪とは、「仏道を歩むことの妨げ」ですので、
これらの五戒は、仏道の妨げとしてやってはいけないことになっています。

また、ルール、マナーなどは、孤立した生活では必要のないことです。
二人以上の人々が時間を共有する時に必要です。
よって、戒とは、布施とは異なる無我の実践行であると言えます。

 無我 → 我がない → 他とつながりがある

と見たときに、他とのつながりを円滑に行うのが戒なのです。
特に不殺生戒においては、相手を人間と断定せず全ての生命体を対象にしています。
植物や動物ともつながりを、深く考えれば、むやみな殺生は出来ません。

合掌

●08 般若心経 忍辱   2010/12/16(木) 午後 4:07

●六波羅蜜 「忍辱」

○忍辱
持戒は、思考のコントロールですが、忍辱は、感情のコントロールです。
悲しみ、怒り、喜び、快楽などの感情は、縁によって生じますが、
いつまでも、その感情に執着することなく、平常心に戻る修行を忍辱といいます。
忍辱には、大きく二つに分類されます。

○生忍(しょうにん)
 喜怒哀楽と言う感情は、どこからともなく生じるものですが、
 この感情をコントロールするのが生忍です。

○法忍(ほうにん)
 自分と他者との分別を取り去り、事物・現象に対する執着を離れることです。
 
通常は生忍を差して、忍辱と言いますが、修行の目標は法忍であることは
言うまでもありません。

合掌

●09 般若心経 精進     010/12/16(木) 午後 4:21

●六波羅蜜 「精進」

○精進
怠らず続けることを精進と言います。
結して、がむしゃらに突き進むことではなく、無理せず、コツコツとやり続けることです。
悪をせず、善をすすめることです。

具体的には、布施、持戒、忍辱などの修行をやり続けることです。
挨拶を続ける、花に水をやり続ける、五戒を守り続ける、感情のコントロールをし続けます。

合掌

●10 般若心経 禅定    2010/12/16(木) 午後 4:43

●六波羅蜜 「禅定」

○禅定
心を統一して瞑想し、真理を観察することです。
また、それによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指します。
三昧と同義語であり、また、禅定によって心を乱されない力を
定力または禅定力と呼びます。

般若心経においては、この禅定が核となっています。
観世音菩薩が、禅定によって、智慧を完成させたとされているからです。
では、智慧の完成のための禅定とは、どんなものでしょう?
残念ながら、般若心経内では説かれていませんが、
他の般若経においては、明確に、「三解脱門」のことが書かれています。

○三解脱門
解脱とは、煩悩という縛りから解き放たれて、自由の境地に入ることをいい、
それは、涅槃、悟り、などとほぼ同じ意味です。
三つの悟りの門である三解脱門とは、空・無相・無願の禅定の事をいいます。

ゞ解脱門
あらゆるものに実体がないことを観察する禅定。
つまり、あらゆるものを有るとイメージしないこと。

¬義蟆鮹μ
あらゆるものに特徴がないことを観察する禅定。
つまり、あらゆるものを認識しないこと。

L鬼蟆鮹μ
あらゆるものへの願望・欲望を持たない禅定。
つまり、あらゆるものに執着しないこと。

これを簡単に言えば、

  あらゆるものには実体がない、実体がないから認識されない、
  認識されないから執着がない。

ということになります。
今は、まだ詳しい説明は避けます。

合掌

●11 般若心経 智慧    2010/12/16(木) 午後 5:11

● 六波羅蜜 「智慧」

○智慧(般若)
悟りによって得られるものが智慧であり、最上の悟りによって得られるものが、般若波羅蜜です。
仏教では、止観という修行を重要視します。

 止・・・禅定のこと
 観・・・智慧のこと

つまり、禅定によって、智慧を得る事が重要なのです。
よって、

 学習→止観→動→止観・・・

という様に、単に学んで終わるのではなく、それを禅定によって思惟し、智慧を得、
様々な体験の後、それを禅定によって思惟し、智慧を得ることが重要です。
その様々な体験とは、布施・持戒・忍辱・精進であることが喜ばしいのですが、
最初は、苦しい体験、楽しい体験でもかまいません。
喜怒哀楽をともなう体験をしたならば、少し静かに自分を見つめる癖をつけるといいでしょう。

自分を見つめれば、やがて気づきが起こり、連続した気づきによって大きな気づきを得ます。
それを、悟りと言います。
悟りにも段階があり、最上の悟りである阿耨多羅三藐三菩提を得た時、人は本格的に目覚めると言います。
目覚めとは何なのかは、目覚めた者にしか分かりませんが、最初は、小さな気づきを得る事が大切です。

止観が、般若心経のテーマであることは言うまでもありません。
このことは、本論でじっくりと述べさせていただきます。

合掌

●12 般若心経 五蘊皆空    2010/12/16(木) 午後 5:18

○五蘊皆空

観世音菩薩は、禅定波羅蜜を深く実践され、五蘊に実体はないと見極められました。
ここに、五蘊(ごうん)という言葉が出てきます。
五蘊は、難しい仏教用語の中でも、さらに一般的によく知られていない言葉です。
名称と簡単な意味は、事典などを見れば書かれていますが、
きちんと内容まで理解されている方は少ないようです。
実は、四苦八苦の中の最後の項目が、「五蘊盛苦」であり、
そこに五蘊は登場しているのですが、五蘊の意味が理解されにくいため
五蘊盛苦の意味も、「心身が活発に働く事による苦」と言う風に
分かりにくい説明が多い様です。

五蘊とは、人間の五つの構成要素のことで、色受想行識の五つをいいます。
色とは、色のついたものということで肉体のことです。
受想行識は、精神のことをいいます。

 肉体=色
 精神=受想行識

最も分かりやすく説明すると心身ということですね。

お釈迦さまは、初期の頃、「五蘊無我」を説かれました。
心身のどこにも我はない、という説です。
自分自身に我がないことを理解させ、
その後に、「あらゆるものには実体はない」、という諸法無我の真理を説きました。
つまり、五蘊無我と諸法無我とは同じ義です。
そして、この教義によって、お釈迦さまが説きたかったことは、
「執着するな」ということです。

お釈迦さまが亡くなった後、小乗仏教徒は仏教の教義を研究しました。
五蘊に執着し、五蘊の各要素を徹底的に研究しました。
お釈迦さまが五蘊を説いたのは、無我の証明のためなのですが、
小乗仏教徒は無我を見ずに五蘊を見ました。

中国の諺に、「指が月をさすとき、愚者は指を見る」というのがありますが、
まさに小乗仏教徒は、月を見ずに指を見ました。
その結果、色の解釈に変化が起こりました。
色とは、肉体の意味だったのですが、一切の物質のことを差すようになってしまいました。
しかも、説一切有部という小乗中最も勢力のあった宗派は、
こともあろうに、「物質に実体がある」、と説く様になってしまいました。

新興宗教である大乗は、説一切有部の主張を否定し、
お釈迦さまの教えに戻ろう、ということで、
無我よりも、さらにインパクトの強い用語である「空」を用いる様になりました。

 五蘊無我 → 五蘊皆空

意味はどちらも同じですが、無我の場合だと
人間に限定される恐れがあるため、空という言葉を使い
一切の物質を意味する色に実体がない、という説を唱えました。

五蘊皆空と五蘊無我とでは、全く同じことを言っています。
しかし、五蘊皆空は、まさしく一切のものに実体がないという意味なので
事物・現象だけでなく、言葉や観念、イメージなどにも実体はないとしています。

この教義は、真理だと大乗仏教徒たちは確信をもちました。
小乗に反論するために使い始めた空でしたが、
ひょうたんから駒の如く、空の教義は大乗思想の中心教義となりました。
それは、まさしく一切のものへの執着を断つ教えであり、
空という教義にさえも執着するな(空空)、という徹底したものでした。

観世音菩薩は、空の悟り、空空の悟りを得ることによって
一切の苦厄を滅し、安穏の境地に入った、のです。

般若経の主張は、事物・現象だけでなく、
「言葉や観念、イメージなどにも実体はない」、と説いたことにあります。
このことは、般若心経のこの後の文面によって説明があります。
「言葉や観念、イメージなどにも実体はない」ということは、
般若心経を読み解く上で非常に重要です。
このことを理解しないで、読み進めば、何を書いているのかチンプンカンプンになります。
やたらと、「無」という文字が並んでいるだけで、
意味不明の単語の羅列となってしまうのです。

今現在、私の言っていることが理解できる人は、既に般若経を把握できている人でしょう。
初めて般若経に触れる人や、般若経についてあまり深くない人は、
まだ、理解できないと思います。

合掌

●13 般若心経 五蘊    2010/12/16(木) 午後 5:40

○五蘊

般若心経を理解するためには、五蘊の意味は知っておいた方がいいでしょう。
と言うか、五蘊を理解していなければ、般若心経は意味不明なので
五蘊の解説を少々詳しく行います。

蘊とは集まりのことなので、五蘊とは、「五つの集まり」の意味になります。
では、その五つとは何かと言うと、「色受想行識」です。

 色=物質
 受=感受作用
 想=表象作用
 行=意志作用
 識=認識作用

○色
初期仏教では、色を肉体としましたが、後には、色を物質としました。
色を肉体と観れば、五蘊は、人間を構成する要素となり、
色を物質と観れば、五蘊は、世界を構成する要素となります。
なぜ、色と言うのかと言えば、形ある物には、何かしらの色が付いているからです。

○受=感受作用
外界の事物・現象を感覚器官によって受け取ることです。
簡単にいえば、外界と触れることによる苦、楽、不苦・不楽などを
感じることをいいます。
不苦・不楽とは、苦でもなく、楽でもない感覚のことです。
単細胞生物であれば、細胞膜と外界との接触や光を感知することなどが、
受になりますが、高度な動物の場合は、眼・耳・鼻・舌・身・意という
感覚器官(六根)によって感じ取るものを受といいます。
外界の色・声・香・味・触を六境といい、
外界の六境を六根によって感じ取っているものを受というのです。

○想=表象作用
過去の知識の蓄積、イメージ・観念一般のこと。
高度な思考も想に含まれます。
感受作用によって取り込まれた情報によって、脳などの内部情報が引き出されることです。
それらは、データ化されています。

 情報=名称+知識・イメージ・観念

○行=意志作用
欲しいものを定め、入手するための言動を促す思考のことです。
外部情報を得て、感受し、自分のデータによって入手するべきか否かを決め、
それを行動に移すか否かを決定する作用です。

○識=認識作用
対象を明確に把握することです。
受・想・行を把握する心のことを識といいます。
訳者によっては、識を思惟だとする方もいらっしゃいます。

合掌

●14 般若心経 色即是空    2010/12/16(木) 午後 6:11

●観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

 観世音菩薩は、智慧の完成のための修行を深く実践された時、
 この世界を構成する要素の、いずれにも実体はないと見極められ
 一切の苦しみを取り除かれた。

まず、観世音菩薩の修行方法とその修行によって得た空の悟り、
そして、空の悟りによって得た涅槃の境地について語られています。

 六波羅蜜の修行→空の悟り→涅槃

ここでは、非常に簡潔に仏道について書かれています。
もし、涅槃を目指すのならば、空の悟りを得なさい、
空の悟りを得るためには、六波羅蜜の修行を深く行いなさい、
とまとめています。

ここで、非常に目を引くのが、「五蘊皆空」という言葉です。
この世界を構成する五蘊には実体がない、という意味ですが
このことを悟れば、一切の苦しみから解放されるわけです。

しかし、言葉の意味が分かったって、ほとんど意味がありません。
この世界は空なんだと、悟りきらないとダメな様です。
では、空を悟り切るにはどうすればいいのでしょう?
そのヒントが色即是空・空即是色です。

●色不異空、空不異色、色即是空、空即是色

仏教のあらゆる経典の中で、最も有名な文章は、
「色即是空、空即是色」だと思います。
意味は分からなくても、言葉は浸透しています。

色即是空を検索してみると、実に色々な解説が氾濫していて驚かされます。
空の意味は、素粒子だとか、エネルギーだとか、波動だとか様々に解釈されています。
中には、空を夢だとする人もいます。
幻だと主張する人もいます。
みんな色々考えたんでしょうね。
そういえば、私が高校生の頃の友人は、
「色情は空しいもんだ」みたいな妙な解説をしている人もいました・・・。
私は、空の直接的な意味合いは、「実体がない」ことだとしています。

 色不異空=形ある物は、実体がないことと異ならない。
空不異色=実体がないことは、形があることと異ならない。
色即是空=形あるものは、即ち実体のないものである。
空即是色=実体のないものは、即ち形のあるものである。

4つの文章があるが、色不異空・空不異色は否定文であり、
色即是空、空即是色は肯定文です。
空とは、執着を捨てるための教えなので、通常は肯定文を使いません。
非とか不とか無などの非定形を使うことが多い様です。
なぜなら、肯定文だと、イメージ・観念が固定化されてしまい執着を起す可能性が大きいからです。
この辺の事情は、もう少し後から話しますが、
色即是空、空即是色と言いきっているところが面白いと思いました。

色とは、五蘊の色のことです。
まず、色が空であり、空が色であることを述べ、
本来ならば、次に五蘊の他の一つ一つの要素についても述べたいところなのですが、
略して、「受・想・行・識も、またまたかくの如し」とまとめています。
般若心経の作者は、余程、字数を少なくしたかったのでしょうね。

やや面倒くさくもありますが、五蘊の全てが空である、ということを書いてみます。

 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。
受不異空、空不異受、受即是空、空即是受。
想不異空、空不異想、想即是空、空即是想。
行不異空、空不異行、行即是空、空即是行。
識不異空、空不異識、識即是空、空即是識。

この様に、ここでは、五蘊皆空を説いてあります。
色即是空、空即是色のところのみが、よく取り上げられていますが、
決して色についてのみ書いているのではないのです。

合掌

●15 般若心経 色=空   2010/12/16(木) 午後 6:49

○色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。

 形ある物は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、形があることと異ならない。
 形あるものは、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち形のあるものである。

色とは、色の付いた物を差します。
つまり、物質のことです。
空とは、実体がないことをいいます。
物質に実体がないことは、どういうことでしょう?

実体とは、「常一主宰なものである」という定義があります。
例えば、霊魂の様に、常にその肉体に存在し、
その肉体が死んで焼かれても消え去ることなく存在し、
他に依らなくても孤立して存在する事が出来、
肉体の主として存在するものだ、ということです。

しかし、この世界には、常に同じ状態で存在するものはありません。
仏教では、無常と言って、常なるものを否定しています。
また、この世界には、他に依らなくても孤立して存在するものはありません。
必ず、他のものと関係し合って存在しています。
因縁和合して、事物・現象は生じているのです。
ですから、あるものを観た時、観方によって、
因にも、縁にも、果にも、報にもなりますので
他を常に主宰するものはありません。

という説に依って、仏教では、無我を法印にしています。
変化するもの、他と関係をもつもの、支配しないものを
実体とは言いません。
全ての物は変化し、他と関係を持って生じるのであるから
全ての物には実体はない、と仏教では言いきっています。

よって、形ある物は、実体がないことと異ならない、
形あるものは、即ち実体のないものである、と説いています。

では、逆はどうでしょう?
実体がないものが、即ち形のある物なのでしょうか?
このことは、普通に考えては理解できません。
縁起の法則を知らなければ、チンプンカンプンになります。
先ほど、少し触れましたが、事物・現象は、因縁和合して、生じています。
縁起は、それぞれの因、縁に実体がないから和合できます。
因が因のままで、変わろうとしなければ、果は生じないのです。

実は、縁起と空は同義です。
縁起=空です。
実体がないものが、即ち形のある物である・・・
というのは、縁起によって、即ち形のある物となる、という意味が隠れています。

 形ある物は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、形があることと異ならない。
 形あるものは、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち形のあるものである。

合掌

●16 般若心経 空=0    2010/12/16(木) 午後 7:37

○空(くう)

今回は、難問である、「空」について書かせて頂きます。
しかし、空を文字にするのは難しいものです。
と言うより、文字にした時点で、それは空ではなくなりますので、
空は、文字には出来ません。
あえて書けば、「 」かな?
いやいや、これでも執着は起こりそうですね。

維摩経の維摩居士は、空とは何かを問われて、「・・・」と口をつむりました。
言葉にした時点で、空は空でなくなるからです。

サンスクリット語では、空の事を、「シューニャ」と言います。
直訳したら、「〜を欠いている事」です。
また、インドでは、数字の "0"「ゼロ」をシューニャと言います。

 ゼロ・・・±0

事物・現象は、±0である、と言うことは、事物・現象自体には何の意味もない、ということです。
全てのものは、何の意味もないのですが、それに意味を持たせているのは、
それを感受しているこちら側だということです。

 これはリンゴだ。
 あれは鳥だ。
 山がある。

それぞれに名称をつけ、それに意味を持たせるのが人間です。

そんな、事物・現象が、±0である、と言うことを「空」と仮に呼んでいるわけです。
でも、この説明にも執着してはいけません。

合掌

●17 般若心経 受=空    2010/12/16(木) 午後 7:44

○受不異空、空不異受、受即是空、空即是受。

 感受作用は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、感受作用と異ならない。
 感受作用は、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち感受作用である。

感受作用とは、外界の事物・現象を感覚器官によって受け取ることをいいます。
簡単にいえば、外界と触れることによって、苦、楽、不苦・不楽などを
感じることをいいます。
夏に暑いと感じたり、冬に寒いと感じることであり、
雨が降り始めたこと、風が吹いていることを感じることです。
その時に受ける快感、不快感が、感受作用です。

受ける、という意味からして、縁起であることが分かります。
外界の出来事という縁があり、それを眼や鼻や耳で受けるから
感受作用は生じます。
よって、感受作用が空であることが分かります。

合掌

●18 般若心経 想=空    2010/12/16(木) 午後 7:58

○想不異空、空不異想、想即是空、空即是想。

 言葉は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、言葉と異ならない。
 言葉は、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち言葉である。

想とは、表象作用のことであり、言葉をはじめとする過去の知識の蓄積、
イメージ・観念一般のことをいいます。
感情・思考も想に含まれます。

 受→言葉・知識・イメージ・観念→感情・思考

という様に、感受した外界の出来事によって、言葉・知識・イメージ・観念が引き起こされ
感情・思考につながります。
感受作用によって引き出されるのであるから縁起であることがわかります。
よって、表象作用が空であることが分かります。

人は、その物を見て、「これはリンゴだ」「これは石だ」「これは球根だ」と
ほぼ、反射的にその物の名前を浮かべます。
名前とは、単なる言葉です。
言葉とは、情報交換、思考、記憶、記録のために人類が発明した道具です。
実に便利な道具ではありますが、いつの間にか、人は言葉に実体を見る様になっています。

「これは何ですか?」
という問いに対し、通常、その物の名前を答えるますが、
はたして、それは答えになっているのでしょうか?

「これは何ですか?」 「リンゴです。」
「リンゴって何ですか?」 「果物です。」
「果物って何ですか?」 「木の実です。」
「木の実って何ですか?」 「・・・」

「何ですか?」
を続けても、答えは名前であることが多いものです。
名前は言葉であり、決してそのものの実体ではありません。

「リンゴとは、ほぼ球形の果物で、食べると甘酸っぱさがありますよ。」
と、名前の次に出てくるのが知識です。
そして、続けて、その人の持つイメージや観念が引き起こされます。
「リンゴはジューシーで凄く美味しいんですよ。
 おそらく、誰もが好きな果物じゃないかな。」
などと、その人独自の観念を並べます。
言葉や知識や観念、イメージが実体でないことは分かり切ったことですが、
ほとんどの人が実体化しているのが現実です。

この表象作用が空であることは、般若経の核心でもあります。

合掌

●19 般若心経 行=空   2010/12/16(木) 午後 8:03

○行不異空、空不異行、行即是空、空即是行。

 意志作用は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、意志作用と異ならない。
 意志作用は、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち意志作用である。

意志作用とは、欲しいものを定め、入手するための言動を促す思考のことです。
外界を感受し、言葉・知識・イメージ・観念が引き起こされることによって欲求が起こります。
欲求には、プラスとマイナスがあり、そのものを手に入れたいと欲すれば、入手しようとし、
そのものを避けたいとすれば、そのものを遠ざけようとします。
受・想によって行が生じるので縁起です。
よって、意志作用が空であることが分かります。

合掌

●20 般若心経 識=空   2010/12/16(木) 午後 8:10

○識不異空、空不異識、識即是空、空即是識。

 認識作用は、実体がないことと異ならない。
 実体がないことは、認識作用と異ならない。
 認識作用は、即ち実体のないものである。
 実体のないものは、即ち認識作用である。

認識作用とは、対象を明確に把握することであり、
受・想・行を把握する心です。
受・想・行を把握するのであるから縁起です。
よって、認識作用が空であることが分かります。

合掌

●21 般若心経 我   2010/12/16(木) 午後 8:40

般若心経の解説を読むと、色のところが強調されることが多いですね。
色即是空がひとり歩きしている様に思えます。
般若心経は、五蘊が空であることを述べたお経であり、
重要なのは、むしろ受・想・行・識の方だとおもうのですが。

人は形あるものに実体は見ていないと思う。
肉体と心のどちらかに実体を見るとしたら、
ほとんどの人が心の方を見るでしょう。
肉体が、変化もせず、他と関わりを持たずに存在するなどと
本気で考える人は、おそらく一人もいないと思います。

なので、すべての物質を観る時も、物質に本体ありとは思わないでしょう。
その内側のスペースに実体を探すと思います。

仏教では、心を4つに分けて説明しています。
そして、その4つのどこにも実体がないと結論を出しています。
身体と心の二つに分けるのではなく、
色・受・想・行・識の五つに分けるところから、
仏教が心を中心に思惟したことが分かります。

無我の思想のそもそもの出発点は、バラモン教のアートマンの否定からです。
バラモン教では、生物は死んだら滅してしまうのではなく、実体を残すと教えました。
その実体をアートマンといいます。漢訳では、「我」です。
生物は死に、アートマンは残り、次の肉体を受けて転生します。
死んでは生じ、生じては死ぬ、この生死を輪廻といいます。

輪廻を仏教の独自の思想だと思っている方がいますが、
輪廻は仏教以前からあり、お釈迦さまの時代には
誰もが当然のこととして受け入れていた思想です。
バラモン教ではサンサーラといい、漢訳されて輪廻と言われます。
業もバラモン教の教義であり、カルマと言います。

我、輪廻、業は、バラモン教の中心教義です。
生物は悪い行いによって悪い業をつくり、その悪業の報いに依って
死んでから苦しみの世界に転生します。
生物が善い行いをすれば、善い業となり、その善業の報いに依って
死んでから楽の世界に転生します。
それが、バラモン教の教えなのです。
善因楽果、悪因苦果であり、因果応報と言われます。

この教えは、カーストという身分制度を納得させるのに効果がありました。
バラモン教では、
奴隷の子として生まれたのは、前世で悪いことをしたからだ、
来世でもっと上の身分に生まれたかったら、今世で善業を積みなさい、
と教えました。
この教えを完全に信じ切って、
インド人は、身分制度は人間が勝手に作り上げた制度と捉えず、神のつくった制度であり、
悪果は自分のせいだとして、善業を積むことに生涯をかけました。

今の世のありかたは、前世の約束事だと誰もが信じました。
その説を裏付けるのが、アートマンという教えです。
死んだら全てが終わる、というのでは輪廻は生じません。
アートマンという実体が、どうしても必要です。
なので、バラモン教では、アートマンを大いに説き、
輪廻転生を説きました。

実体説は、インドだけの教えではありません。
キリスト教だって、実体はあると言う前提で教えを説いています。
世界中の多くの宗教は、実体説です。
日本人の多くも、実体説を信じています。
信じていなければ、霊魂の存在など口にもしないだろうし、
都市伝説や怪談話で、霊のことが取り上げられ、
怖がられることもないでしょう。

そんな実体説を仏教は真っ向から否定しました。
アートマンの否定形であるアナートマンを説いたのです。
つまり無我を説きました。

学者によっては、無我ではなく、非我だという方もいますが、
ここでは、無我を説いたとしておきます。
確かに、無我・非我・大我という思想はありますが、
今は、無我を語る事にします。
そうしないと、ややっこしくなりますからね。

仏教は無我を説きました。
これは、強烈な思想です。
思考が凍りつきそうな衝撃があります。
常識的な実体説を根本からくつがえす教義です。

奇想天外な説によって、自分の宗教に注目を集め
信者を獲得しよう、などという まやかしではありません。
仏教の旗印として無我を説きました。

最初は、人には実体がないという説だったのですが、
後に諸法無我という言葉で、全てに実体はないことを主張しました。
さらに、小乗仏教徒が、実体説を説き始めたため
空という言葉を使い、全てに実体がないことを強調するに至りました。
全てに実体がないことを強調するために説かれた教えこそが
般若心経であり、その後の大乗仏教では、空を中心教義にしています。

合掌

●22 般若心経 諸法空相    2010/12/16(木) 午後 9:06

五蘊は空です。
つまり、あらゆる事物・現象には実体がありません。

 Aは、即ち実体がないものである。
 実体がないものは、即ちAである。

空と縁起は同義なので、全てのものについて
この様な文章が成り立つことになります。

 Aは、即ち実体がないものである。
 因縁によって、即ちAが生じる。

このAには、あらゆるものが当てはまります。

 リンゴ、犬、地球、空気、歌、苦しみ、悲しみ、楽しみ、怒り、
 地獄、極楽、美味しい、大きい、小さい、暑さ、寒さ、
 欲望、失望、恋愛、初恋などなど。

全てに実体はなく、因縁によって生じているだけです。
ここでは、一つ一つの説明はしないので、
皆さんで思惟して欲しいと思います。

●舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。

 舎利弗よ。
 この様に一切の事物・現象には実体がないので、
 生じることはなく、滅することはない。
 汚れたものはなく、浄らかなものはない。
 増えることはなく、減ることはない。

さて、五蘊皆空を説いたところで、あらたまって舎利弗の名を呼び、
諸法空相だと述べています。
これまでと言い方が異なっています。
五蘊皆空ではなく、諸法空相だと言っている。
相とは、見られたり、認識されたりするもののすがたを意味するので、
諸々の事物・現象の空のすがた、ということになります。
したがって、

 諸々の事物・現象の空のすがたは、
 不生不滅、不垢不浄、不増不減である。

という意味になります。
つまり、これまでは、五蘊が空であることを証明することにより、
すべてのものに実体がないことを説いてきましたが、
これから先は、五蘊が空であるという前提で
一切の事物・現象を観察した結果を述べています。
空の智慧(般若波羅蜜多)を会得した者の世界の観方を
これから先は示しているのです。

 生じることはなく、滅することはない。
 汚れたものはなく、浄らかなものはない。
 増えることはなく、減ることはない。

さすがは智慧による観方ですね。
これまでより、ぐんと難しい。
なので内容をもっと砕いて説く事にします。
空を悟った境地とは、「執着しない観方」なので、

 生じることにこだわらず、滅することにこだわらない。
 汚れたものだとこだわらず、浄らかなものだとこだわらない。
 増えるものだとこだわらず、減るものだとこだわらない。

そんな執着のない観方を示しています。
例えば輪廻という言葉に捉われれば、苦が生じることにこだわり、
苦を滅したことにこだわってしまいます。
煩悩という言葉に捉われれば、煩悩にまみれて汚れた存在だとこだわり、
煩悩を滅して浄らかな存在になろうとこだわります。
業という言葉に捉われれば、善業が増えるとこだわり、悪業が減るとこだわります。
それらの言葉にこだわらない観方が、空の観方です。
何事もこだわれば、そのものを実体化してしまい、空ではなくなってしまいます。

また、この6つの否定形は、生-滅、垢-浄、増-減 という両極の一方に
偏らない観方でもあります。
いわゆる、中道の観方です。

合掌

●23 般若心経 三解脱門     2010/12/16(木) 午後 10:06

●不生不滅、不垢不浄、不増不減

6つの言葉を否定しているので、六不といいます。
般若心経では、色即是空がよく取り上げられるますが
色即是空は入口であり、空を悟った観方で
この世界を観察すれば、六不という結論に至ります。
よって、六不は非常に難しい。

難しいのだけれど、何とか語ってみようと思い、
前の章では、輪廻、煩悩、業を例として六不を説いてみました
それは、「執着をしない」、という観方でした。
しかし、それは六不のほんの一面を説いたに過ぎません。

実は、般若経を説いた大乗仏教徒たちは、
仏教の悟りとは、「無執着」である、としています。
一切に関する無執着こそが、安穏の境地に入る悟りだと言うのです。
なので、六不を無執着とみるのは間違いではありませんが、
どうも、納得のいく答えではないとおもいますので、
今回は、もう少し突っ込んで六不を語ることにしました。
それは、三解脱門によって観る六不です。

○三解脱門

空三昧ともいわれる瞑想法であり、般若心経には出てきませんが、
他の般若経には、重要な瞑想だとして説かれています。
六不を悟る観察法とは、この三解脱門の瞑想だと言って間違いないでしょう。
解脱とは、煩悩という縛りから解き放たれて、自由の境地に入ることをいい、
それは、涅槃、悟り、などとほぼ同じ意味です。
三つの悟りの門である三解脱門とは、空・無相・無願の瞑想です。

ゞ解脱門
 あらゆるものに実体がないことを観察する瞑想。
 つまり、あらゆるものを有るとイメージしないこと。

¬義蟆鮹μ
 あらゆるものに特徴がないことを観察する瞑想。
 つまり、あらゆるものを認識しないこと。

L鬼蟆鮹μ
 あらゆるものへの願望・欲望を持たない瞑想。
 つまり、あらゆるものに執着しないこと。

では、実際に観察してみよう。
観察のテーマは、「有る」が本当にあるのかどうかです。
私たちが、有ると捉えているものは、本当にあるのかどうかの観察です。
もし、有ると思っていたものが無ければ、不生不滅、不垢不浄、不増不減を
語ること自体、ナンセンスになってしまいます。

自分は有るか?
というテーマにしましょう。

「自分は有るか?」
という問いなので、答えは「有る」だと思います。
「無い」と答える人は、ほとんどいないでしょう。

では、
「自分とは何だ?」
という問いだとどうでしょう?
有るとしたら、それは何である、と捉えているのでしょうか?

「自分とは、人間だ。」
という答えが多いかもしれません。
しかし、「人間」というのは、単なる名称です。
名称が自分であることは有りえません。

名称は、所詮人間が決めたものです。
そのもの自体は、何の名称も持ちません。
「自分とは、人間である」、という断言よりも、
「自分とは、仮に人間と名付けられたものである」
と観る方が事実に近いでしょう。

「自分とは、山田太郎だ。」
と、自分に付けられた名前をいうかもしれません。
しかし、それも名称に過ぎないですね。

一人ひとりに名前が付けられていますが、
それは、他の人と区別するためのもので、それ以上の意味はありません。
区別さえ出来れば、「K-15461-HJ」などの記号でもいいのですが、
山田太郎とか、マリリン・モンローの様な単語にしています。

さらに、自分とは何かを観察すれば、
心とか肉体などの各名称が思い浮かびますが、これらも名称です。
やたらと名称が浮かぶのは、人間の認識が、次の様なものだからです。

 そのもの=名称+知識・観念・イメージ

そのものを感受して認識する時、まずそのものの名称を思いだし、
続いて、そのものの特徴などの知識、過去の経験による観念・イメージを
自身の記憶から引き起こし、それを認識だとしています。

そして、多くの人々は、名称のみを思い起こして、それを認識だとしています。
名称が実体化されているのです。

そのものには、初めから名称はありません。
人がそのものに名称を仮に付け、周りの人々と申し合わせて名称を決め、
子孫へと受け継いでいるに過ぎません。

人は、長い歴史の中であらゆるものに名称をつけてきました。
物体だけでなく、事象・現象にも名称をつけてきました。
使用する言語によって単語の数は異なりますが、広辞苑には約24万語があるといいます。

人間の身体は、一つの物体です。
しかし、頭、顔、首、手足、胸、腹、腰という様に名称を付けています。
まるで、それぞれが、一つ一つ別のものとして存在している様ですが、そんなことはありません。
人間の身体は、一つの物体なのです。
手だけでも、指、手の平、手首という風に名称がつけられ、
五本の指にも、それぞれに名称がつけられています。
そういう風に身体をバラバラの部品として捉えて、
それぞれに名称がつけられています。
そのために、「右手の小指を突き指した」という様に
自分で認識が可能だし、他者にも伝えられます。

人類は世界を細かく分け、あらゆるものに名称をつけました。
世界は一つなのですが、固体と液体と気体に分けて、陸・海・空と言う名称をつけました。
それに、火を加えて大きく4つのものとして捉えました。
土・水・風・火は、四大とされ、あらゆるものの元素だとされました。
人類は世界を細分化し、それぞれに名称をつけています。
山、湖、空、石、木、草、犬、猫、光、影・・・
少し観察しただけで、世界がバラバラに捉えられているのが分かります。

名称があるから認識することが出来るし、
情報交換や記憶、記録が出来ます。
よって、言葉は非常に便利な道具なのですが、
名称を実体として観る傾向があることを、きちんと知らなければ
言葉は、人を煩悩に縛り付ける道具になってしまいます。

 あらゆるものには実体がない、実体がないから認識されない、
 認識されないから執着がない。

と観るのが空の瞑想であり、この瞑想こそが安穏の境地に入る道なのに
言葉によって、あらゆるものに実体を見て、そのものを認識したと思いこみ、
そのものに執着しているのが人間なのです。

「自分は有るか?」
その答えは、有るのでもなく、無いのでもない、執着のない存在が自分です。

そのものを感受したとき、名称+知識・観念・イメージという表象作用が引き起こされ、
それを認識することとなり、その認識が欲求を起します。
人間社会を生きる上では、この受想行識という心の働きは必要ですが、
どんどん煩悩をつくり、苦を作っているのが現実です。

四苦八苦の最後の項目は、五蘊盛苦です。
色受想行識の働きが活発になればなるほど、苦を増長させるという意味です。
ここまで読まれた方は、五蘊盛苦の本当の意味が理解できると思います。

名称や知識に直結する情報は、その言語圏ではほぼ共通ではありますが、
観念・イメージというものは、まったくもって個人のものです。
過去の経験の蓄積が観念・イメージだからです。
そのものを観念・イメージで捉えることは、
言葉よりもさらに人を煩悩に縛り付けます。
なぜなら、観念・イメージが、欲求を作る基準だからです。

 リンゴは美味しい → 食べたい
 野球は楽しい → プレイしたい
 山登りは気分がいい → 登りたい
 リンゴは不味い → 食べたくない
 野球はルールが難しい → プレイする気はない
 山登りはきつい→登りたくない

観念・イメージが執着を作るのであるから、
自分の観念・イメージを知って断つことは重要なことです。

そのものを名称、知識、観念・イメージで捉えることなく、
ありのままに観察してみましょう。
最初は、雑念が入って捉えることは困難ですが、
瞑想が進むと次第に世界のありのままが観えてきます。
そのありのままのそのものは、生じるとか、滅するとか、
汚れているとか、清いものだとか、増えるとか、減るといった
そんな現象を超越しています。
有るとか、無いという一方に偏ったところに、ものはあるのではありません。

 不生不滅、不垢不浄、不増不減

この六不は、簡単に説明できない内容です。
三解脱門の瞑想によって到達することの出来るものであり
言葉で説明すること自体に無理があります。
この六不を言葉にして説明した為に、六不を実体化し、
認識したと思いこみ、六不に執着したとしたら
まったくもって、愚かなことです。

合掌

●24 般若心経 中観     2010/12/16(木) 午後 10:25

○否定語
仏教では否定語をよく使います。
仏教は、無執着の教えなので否定語を駆使するのでしょう。
肯定語だと、その言葉に執着してしまいますが、
否定語だと執着をつくりません。

否定語として、よく使われているのが、不・無・非です。
この三つの否定語に、はっきりとした使い分けはないと思いますが、
おおむね次の様に使っている様です。

 不・・・〜ではない。論理的否定。
 無・・・〜が無い。物事の存在の否定。
 非・・・〜にあらず。〜以外である。〜に該当しない。相違の強調。

○不
不という言葉は、「〜ではない」という意味だ。
論理的否定の場合に使う。
不安、不備、不徳、不信、不良、不明、
不自由・不適当・不健康・不手際・不勉強・不器用・不細工など。
どれも、物質ではなく、観念的なものを否定している。
よって、論理的否定である。

○無
無という言葉は、「〜が無い」という意味です。
これは、そのものの存在の否定です。
有の反対語の無です。

無常を、「変化する」と言いかえるのは、実はあまりよくありません。
「常なものは無い」と言う方がいいでしょう。
無常は、常住不変のものは無い、という意味であり、
すべてのものは変化する、という意味とは異なります。
つまり、常なものという執着を断つのが無常だからです。
変化する、とすれば、変化するということに執着してしまいます。

無我も、「関係する」と言いかえるのは、実はあまりよくありません。
「我は無い」と言う方がいいでしょう。
無我は、ものには実体は無い、という意味であり、
すべてのものは関係し合う、という意味とは異なります。
つまり、我という執着を断つのが無我だからです。
関係し合う、とすれば、関係し合うことに執着してしまいます。

これまで、無常を変化の法則、無我を関係の法則だと説明してきましたが、
空の義を語った以上、今後はこの様な肯定語の説明は避けようと思います。

○非
非という言葉は、「〜にあらず。〜以外である。〜に該当しない。」という意味です。
「リンゴ」という言葉と、「リンゴにあらず」という言葉には雲泥の差があります。
「リンゴ」と言った時は、リンゴを特定することとなり、リンゴに執着する結果になります。
「リンゴにあらず」と言った時は、リンゴを否定すると同時に
リンゴ以外の何ものをも特定しておらず、よって執着するものが生じません。
ただし、思考上、一旦リンゴをイメージしてしまいますが、執着には至らないでしょう。

●不生不滅、不垢不浄、不増不減

生・滅を否定する言葉は、他にも無生・無滅、非生・非滅、などがあります。
無量義経という経典には、

 一切諸法は自ら本、来、今、性相空寂にして
 無大、無小、無生、無滅、非住、非動、不進、不退、
 なお虚空の如く二法あることなしと観察すべし。

という様に無生・無滅を説いています。
また、他の経典では、非生・非滅を説かれています。

いずれにせよ、これらの否定は、両極の否定なので
両極となる言葉に、不・無・非をつけて否定しています。
つまり、中の義です。

般若心経の不生不滅、不垢不浄、不増不減とは、
生・滅、垢・浄、増・減という両極の一方に偏らない観方です。

 生じる・・・・滅する

という様な両極の内側のどこかに真実を観るのではありません。
生じるに執着しない、滅するに執着しないという観方です。
生じるということの否定に依って、生じるというものを否定し、
加えて生じるということ以外のどこにも実体を観ません。
滅するということの否定に依って、滅するというものを否定し、
加えて滅するということ以外のどこにも実体を観ません。
中とは、両極に執着せず、しかも両極以外にも執着しないことを説く
非常に知的な表現であると言えます。

合掌

●25 般若心経 簡単に六不     2010/12/16(木) 午後 11:10

●不生不滅、不垢不浄、不増不減

例えば、リンゴを観察する時、リンゴには実体がない。
実体がないので認識できない。
認識できないのだから、生じると言うことは無く、生じる事に執着もしない。
認識できないのだから、滅すると言うことは無く、滅する事に執着もしない。
認識できないのだから、汚いと言うことは無く、汚い事に執着もしない。
認識できないのだから、清いと言うことは無く、清い事に執着もしない。
認識できないのだから、増えると言うことは無く、増える事に執着もしない。
認識できないのだから、減ると言うことは無く、減る事に執着もしない。

そのものを認識せず、執着しないとすれば、それは有るとはいえないでしょうね。

合掌

●26 般若心経 言葉のトリック     2010/12/16(木) 午後 11:25

これから先は、説一切有部の説いた教義を
空の義によって、ことごとく否定しています。
ここで否定される小乗の教義は、
五蘊・十二処・十八界・十二因縁・四諦などです。

しかし、単に説一切有部を否定するだけでなく
誰もが陥りやすい言葉のトリックを打ち砕いています。

言葉のトリックとは、あらゆるものを名称によって実体化することです。
人は誤った認識によって名称をつけ、つけられた名称は世間に知られ、
多くの人々がその名称を使って、思考、情報交換、交流、記憶、記録します。
言葉は、人類にとって非常に重要な道具なのですが、
名称があるとその名称に捉われ、実体化してしまいます。

そもそも、名称は誤った認識による産物です。
事物・現象は、因縁によって起生しています。
縁起は、因縁・因果と展開するが、今捉えている事物・現象は、
因でもあり、縁でもあり、果でもあり、果報でもあります。
種は植物の因であり、動物の餌となる縁であり、
植物が花を咲かせて受粉した結果であり、
これまで、すくすくと育ってきた報です。
あらゆる事物・現象は、縁起に依って生じているのだから、
あらゆる事物・現象には、実体はないのです。
実体のないものが、あらゆる事物・現象なのです。

実体がなく、縁起によって仮に生じているのが事物・現象なのだですが、
人は、その様には認識していません。
捉えた物を、「有る」と認識し、その物に実体を観ます。
眼に見える物、耳に聞こえる物は、有る物として認識し、
そして、名称をつけることによって、人々と共通認識をするに至りました。

形のないものにも人は名称をつけました。
心のあらゆる働き、感情、思考、観念なども実体視し、名称をつけました。

名称は、道具です。
しかし、思考も会話も記録も記憶も言葉に依って行うため
言葉が道具だという認識はなくなり、名称によってものを実体化する様になりました。
これが、言葉のトリックです。

例えば、ある皿状のものを持って来て
これは灰皿だと告げられた後、
それを取り皿にして食事しにくいと思います。
いったん、灰皿だとインプットされると
たとえ、それが新品で清潔な物であっても
その名称に捉われてしまいます。
灰皿と言われれば、灰皿でしかなくなってしまうのです。

肩書に社長、部長、課長とあるだけで、その会社の規模を考慮せず
社長を偉い人だと捉えるし、医者・弁護士・議員とあれば金持ちに感じます。
禅宗や真宗のお坊さんだと聞けばプロとして捉え、
新興宗教の信者だと聞けば、危ない人として捉えます。

いくつかの例を挙げましたが、そのものを名称に依って認識し、
実体化することは誰にでもあります。
実体化は執着となり、欲求になるので、
般若経では、言葉の実体化を問題視しています。
 
合掌

●27 般若心経 是故空中     2010/12/16(木) 午後 11:54

●是故空中、無色、無受・想・行・識、

 これゆえに空の中にあれば、
 形のあるものというものはなく、
 形のないものというものはない。

空の智慧(般若波羅蜜多)を会得した者の世界の観方によれば、
無色、無受、無想、無行、無識である、と言います。
つまり、物質はなく、物質を感受する作用はなく、
物質を感受する事に依って引き起こされる
言葉・知識・イメージ・観念などの表象作用はなく、
表象作用によって生じる欲求をはじめとする意志作用はなく、
感受作用、表象作用、意志作用を認識する作用もない、と言います。

五蘊は、それぞれが孤立して有るのではなく、
因縁によって仮に和合しています。
五蘊仮和合であるので、五蘊は空です。
というのが、色即是空・空即是色をはじめとする
五蘊皆空の教えでした。

その五蘊皆空を悟った智慧で、改めて五蘊を観た時、
五蘊自体が無であることが分かる、と言うのです。

色受想行識。
この文字を英語圏の人が見た時、ほとんどの人が読めません。
この文字を読めないので、それぞれの意味が分かるはずがなく
それぞれが引き出す観念・イメージもなく、認識もありません。
つまり、これを文字として認識しない人にとっては、
五蘊は無いことになります。

幼稚園にも、読めないでしょう。
小学生だと読めても意味が分かりません。
大人だって、仏教を学んでいなければ、読めても意味が分かりません。
そういう人にとっては、この五つの漢字は無意味なものであり
これを文字として認識したとしても五蘊は無いことになります。

五蘊と言う単語は、仏教を学んだ者のみが、それを実体としてみてしまいます。
この文字の意味を知る者のみが実体化することとなり、
五蘊を研究し、五蘊を解き明かそうとする者は、よりくっきりと実体化させてしまいます。

空の智慧を持つ者は、あらゆるものが空であることを悟っているので、
五蘊それぞれにおいて、それが何か、どのようなものか、何を以ってか、
どういう特徴があり、どのような本質をもっているかをよく理解していても
まるで、五蘊と五蘊それぞれに執着していません。

世界を言葉・知識・観念・イメージを捨てて、ありのままに観察した時、
受想行識は消え、色も消えます。
そんな状態が、無色、無受・想・行・識です。

あらゆるものには実体がない、実体がないから認識されない、
認識されないから執着がありません。
認識が無く、執着が無ければ、その対象は無いのと同様です。
正確に言えば、有るのではなく、無いのではなく、執着のない存在になります。

この様な瞑想を三解脱門といい、空三昧といいます。

六波羅蜜は、智慧の完成のための修行ですが、
六つの修行とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧です。
正しくは、智慧による布施の完成、智慧による持戒の完成、智慧による忍辱の完成、
智慧による精進の完成、智慧による禅定の完成、そして智慧の完成となります。

六波羅蜜の修行を始める時、智慧による布施の修行が重要です。
大乗の修行の要は、悟りを求め、人々を救うことにあり、
人々を救う実践こそが布施行だからです。
無我の実践である布施行は、非常に重要な実践です。

しかし、「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」は、般若波羅蜜多のための教えです。
智慧の完成(般若波羅蜜多)が目的となるこの教えでは、
般若波羅蜜多のための最終段階の修行を説いています。

「是諸法空相」からは、完成された智慧の立場から、
教えを説いているのですが、この教えは、三解脱門という
禅定波羅蜜を経た者しか心底納得できない内容なのです。

このことから、般若心経で推奨している修行は、禅定であることは明確です。
その証拠に最後にマントラが書かれています。
このマントラ(真言)は、瞑想をする時に唱える呪文なのです。

合掌

●28 般若心経 無色   010/12/17(金) 午前 8:54

●是故空中、無色、無受・想・行・識

色・受・想・行・識という五蘊に実体がないというのなら
まだ、理解できなくはありませんが、
五蘊が無い、というのは、かなりの衝撃です。
肉体と心が、まるごと無いというのですから、合点がいきません。

前回は、言葉のトリックとして、このことを語りましたが、
今回は、もう少し、突っ込んで語る事にします。

○無色

身体、物質は無いとします。
我々は何をもって、自分に身体が有るとしているのでしょうか?
それは、外界を感覚器官が感受することによって、
外界に対する内界の自分を認識するからです。

皮膚は、風、温度、他の物との接触、音の波動を感じ、
眼は光を感じ、耳は音、鼻は香り、舌は味を感じます。
そうやって、外の世界を認識した時、自他の区別が生じ、
自分が有る事を認識します。

また、自分で自分を触る事が出来るし、眼・耳・鼻・舌で、
自分自身の存在を確認できます。
その結果、自分の身体があることが認識されます。

外界に物質が有るということも、感覚器官が感受することによって、
認識されるから有るとしています。
見えているのだから有る、ということです。

アメリカの理論物理学者であるジョン・ウィラー氏は、
「どんな素粒子の現象も、人が観察してこそ初めて本物の現象になる。」
と述べました。
ならば、人が見なければ、そのものは無いことになります。

宇宙人の存在は有るのでしょうか?
現時点では、人が観察していないので
存在は無いということになります。
宇宙人と遭遇したと言う人もいるが
確証がないため、存在は否定されています。

つちのこだって、ネッシーだって、雪男だって、
人がきちんと観察できたならば、有るということになりますが、
現時点では存在は無いということになっています。

認識によって、有る・無しは、決定されます。
もし、月の地中深くに虫がいるとしても、
現時点では誰も認識していないから、存在は無いということになります。

私は、昔、家の中で10僂らいの大きさのゲジゲジを見ました。
ゲジゲジは通常3僉▲オゲジでも7〜8僂世箸いΔら異常な大きさです。
だけど、俺しか認識していないので、世間では無いことになります。

認識は、感受作用によります。
眼・耳・鼻・舌・肌という感覚器官が、感受することにより、
そのものは認識されます。
では、その感覚器官は、本当にそのものをありのままに捉えているのでしょうか?

 そのもの = 感受 → 認識

人の持つ眼や耳は、物体です。
物体であるならば、人それぞれで性能は異なります。
現実的に色盲、近視、遠視などがありますので、
個々の性能が異なるのは間違いありません。
色は誰もが同様に見えているのでしょうか?
赤い色というのは、誰もが全く同じ赤なのでしょうか?

AさんとBさんが、同じリンゴを見て、赤いと感じても、
Aさんの感じている赤とBさんが感じている赤は異なります。
感覚器官は、人それぞれです。

テレビ局が出す電波は同じなのに、受けるテレビが異なれば色彩が異なります。
大型家電店などで、沢山のテレビを見た時、その事実は認識できます。
ずらりと並ぶテレビの色彩は、どれも微妙にずれています。
みんなが同様に色彩を感じていると言うのは思いこみなのです。

実は、科学でも、色彩は感受する側の創作だと発表しています。
色彩だけでなく、形も感受する側の創作である可能性は高い様です。
つまり、外の世界と感受する世界とは、イコールではありません。

 そのもの ≠ 感受 → 認識

感受作用を観察すれば、外の世界をありのままに捉えられない自分に気づきます。
そして、外の世界は、有るか、無いかさえも、分からないという考えに至り、
結局、外の世界など無く、あるのは認識だけだと思える様になります。

唯識です。
唯識は、外界はなくただ識のみがあるとします。
これは、色即是空・空即是色のみに焦点を当てているため
受・想・行・識は、有るということになっています。

夢は、醒めるまでは現実か否かが分かりません。
ある人がこんなことを言いました。

 夢が現実であり、現実が夢である

我々は、現実というものを明確に見極めることができないのです。
そういう、あやふやなものに捉われて迷うよりも、無色と断言し、
色に捉われない様に般若心経では説いています。

合掌

●29 般若心経 無受・想・行・識     2010/12/17(金) 午前 9:15

○無受・想・行・識

心というものは、形がありません。

 心、精神、意識、知性
 記憶、体験、経験、思い出
 感情、情動、友情、愛情、親子の情、慈愛
 痛み、悲しみ、苦しみ、恍惚、疲れ、
 価値観、信念、こころざし、思想、信仰

形は有りませんが、人は有ると認識しています。
その時、何の名称もなければ、認識はされないのですが、
名称を付けることによって、有るのだと認識されます。

十二因縁の法門と言う教義が有ります。
今回は、細かくは説明しませんが、無明という真理を知らない状態が業をつくり、
業が有る事によって、転生して識を持ち、識は心と身体を持ちます。
こうして、連鎖していき、最終的に苦しみの世界に再び転生するという教義が
有名な十二因縁の法門です。

 無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死

その4番目の、「名色」とは、心と身体の事です。名色。
名は心を表し、色は身体を表しています。
仏教では、自分に関するものの内、
形が無く名前の有るものを心としている様ですね。

心の動き自体には、実体はありません。
流れる雲の様に絶えず変化しています。
実体は有りませんが、名前をつけることにより実体視しています。

 無受・無想・無行・無識

ここでは、「心には、実体がない」と言っているのではありません。
心が無い、と言っています。

色が無い、あるのは識のみだ、という唯識説は、まだ理解できますが、
識をはじめとする受・想・行・識がない、というのは難しいですね。

ある人に会えば、ドキドキして切なく、それでいて嬉しい、そんな気持ちを恋といいます。
恋という言葉が無くたって、ドキドキ・ワクワクはするでしょう。
しかも、全人類が持っている気持ちです。
しかし、全人類に共通の気持ちでは有りません。
恋の心は、人それぞれです。
アバウトながらも、同様の心を恋と呼んでいるに過ぎません。
そう呼ぶ事によって、ある程度の共通理解が可能になるからです。

恋という心の動きは、幻の様です。
全く同じように再現することは出来ず、生じては住し、滅します。
とても、心の中に、「恋というもの」が有るとは思えません。
ただ、因縁により生じているに過ぎません。

喜怒哀楽だって、同様です。
幻の様なものであり、そのものを明確に捉えることは出来ません。
そのものの名称を思い浮かべた時に、捉えたと思い違いしているだけです。
受・想・行・識など無いのです。
有るのは、名前だけなのです。

 五蘊は無我である
 五蘊は空である
 五蘊は無である

大乗仏教徒たちは、五蘊への執着を奨励しました。

 あらゆるものには実体がない、
 実体がないから認識されない、
 認識されないから執着がない。

この三解脱門の瞑想を試してみるといいでしょう。
そうすれば、瞑想がすすみ、次の様に観察できるようになります。

 あらゆるものは無い、
 無いから認識されない、
 認識されないから執着がない。

仏教は言葉を超えたところに真実があります。

合掌

●30 般若心経 十二処・十八界     2010/12/17(金) 午前 9:24

●無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
 無眼界、乃至、無意識界。

 眼・耳・鼻・舌・身・意は無い。
 色・声・香・味・触・法は無い。
 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識は無い。

眼・耳・鼻・舌・身・意を六根といいます。
外界を自分に感受するための感覚器官のことです。

色・声・香・味・触・法を六境といいます。
外界のことで、六根の対象のことです。

六根と六境を合わせたものを十二処といいます。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を六識といいます。
六根によって六境を感受する時の認識のことです。
六根、六境、六識を合わせたものを十八界といいます。
これらは、小乗仏教徒の教義です。

ここでは、十二処・十八界を否定しています。
文章通り受け取れば、眼がない、眼の対象の形ある物がない、
眼で感受した結果の認識がない、ということになりますが、
これも、三解脱門の瞑想による結果です。

 あらゆるものには実体がない、
 実体がないから認識されない、
 認識されないから執着がない。

 あらゆるものは無い、
 無いから認識されない、
 認識されないから執着がない。

十二処・十八界とは、名称であり、名称を捉えているに過ぎず、
そのものを捉えることは不可能です。
認識の出来ないものは、有るとは言えません。

合掌

●31 般若心経 五蘊・十二処・十八界     2010/12/17(金) 午前 9:43

●五蘊・十二処・十八界

この五蘊・十二処・十八界は、三科といわれ、
部派仏教では、三科を世界を在らしめる『一切法』の分類としています。
それほどに、小乗仏教にとって重要な教義なのでしょう。

しかし、大乗仏教徒たちは、空の義によって悉く一切法を否定しました。
小乗仏教徒が、教義内容にこだわり過ぎるのに警鐘を与えたかったのでしょう。

 一切は空である。
 空であるから認識されない。
 認識されなければ執着はない。

実体が無く、認識されず、執着されなければ、その対象は無いに等しいですね。
だから、五蘊・十二処・十八界は無いとしました。

さて、これから先は、十二因縁、四諦を否定します。
しかし、あくまでも、十二因縁、四諦への執着の否定であり、
十二因縁、四諦、そのものの否定ではありません。

合掌

●32 般若心経 十二因縁     2010/12/17(金) 午前 10:11

●十二因縁の法門の概略

これから先は、十二因縁の法門について述べられていますので、
この法門について、少し触れておきます。

お釈迦さまは、この世界は苦に満ちていると見極められました。
これが、仏教のスタート地点です。

生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死ぬ苦しみ、
愛する者と別れる苦しみ、憎い人と出会う苦しみ、
欲しいものが得られない苦しみ、心と身体が活動する事による苦しみ。

この四苦八苦は、誰もが経験する苦しみでしょう。

また、貧病争の苦ともいいます。
病気、貧しいこと、争う事は苦である、としています。
それは、肉体的・精神的・経済的な苦の代表でしょう。
飢え、差別、いじめ、虐待、いやがらせなど、この世は苦で満ちています。

般若心経の冒頭においても、観世音菩薩が智慧の完成に依って
一切の苦厄を滅せられたとおっしゃっています。
この般若心経も、苦を滅するための修行が書かれているわけですね。

では、苦の原因とは何でしょう?
その答えは、無明にあるとされています。
無明とは、真理に明るくないことであり、無常・無我の真理を知らないか、
知っていても無視することを無明といいます。
この苦の原因を徹底的に解き明かされたのが、十二因縁の法門です。

そもそもの苦しみは、肉体を受けて生まれる事です。
全ての煩悩を断ち切っておれば、
再び、苦しみの世界に輪廻転生する必要はなかったはずなのですが、
煩悩による業によって、再び苦の世界に肉体をもって生まれてしまいました。
生老病死の苦の、生の苦とは、そういう苦のことを言います。

●十二因縁の法門

お釈迦さまは、無明と苦の関係をさらに深く観察して、連鎖縁起による
十二因縁の法門を説かれました。

 無明(むみょう)・・煩悩のこと。
 行(ぎょう)   ・・業のこと。
 識(しき)    ・・識別作用。
 名色(みょうしき) ・・精神現象(心)と物質現象(肉体)。
 六処(ろくしょ)  ・・六つの感覚器官。目・耳・鼻・舌・肌・意のこと。
 触(そく)     ・・六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
 受(じゅ)     ・・感受。
 愛(あい)     ・・渇愛。欲望。
 取(しゅ)      ・・執着。取得。
 有(う)       ・・迷いの存在。
 生(しょう)     ・・生まれること。
 老死(ろうし)   ・・老いと死。

この中で、無明→行は、過去世です。

識→名色→六処→触→受→愛→取→有は、現在世です。

生→老死は、未来世です。

現在世の苦しみは、過去世の結果であり、
現在世の行動結果は、未来世に出る、という説です。
 
過去世・・・ (生)無明→行(死)
現代世・・・ (生)識→名色→六処→触→受→愛→取→有(死)
未来世・・・     生→老死

などと書いても、さっぱり分からない人もいると思いますので
次の章にて、少し詳しく説いてみます。

合掌

●33 般若心経 十二因縁-2     2010/12/17(金) 午前 10:39

●十二因縁の法門

 無明(むみょう)・・煩悩のこと。無常・無我という二大真理を無視すること
 行(ぎょう)   ・・業のこと。
 識(しき)    ・・識別作用。
 名色(みょうしき) ・・精神現象(心)と物質現象(肉体)。
 六処(ろくしょ)  ・・六つの感覚器官。目・耳・鼻・舌・肌・意のこと。
 触(そく)     ・・六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
 受(じゅ)     ・・感受。
 愛(あい)     ・・渇愛。欲望。
 取(しゅ)      ・・執着。取得。
 有(う)       ・・迷いの存在。
 生(しょう)     ・・生まれること。
 老死(ろうし)   ・・老いと死

煩悩にまみれて行動するとそれが悪業になります。
悪業を積んだ者は、来世においても苦の世界に生まれることになります。
これが悪因悪果と呼ばれるものです。

逆に善因善果とは、
煩悩を消し、良い業を積むことにより、良い結果として涅槃に入る事をいいます。
涅槃とは、苦から脱した世界であり、輪廻しない境地になったことをいいます。

[無明]
無明とは、煩悩の根本です。
明るくないとは、真理について暗いということで、
無常・無我などを知らないか、無視していることです。

[行]
行為のことですが、
ここでは、無明を因として悪行をすることをいいます。
悪行は、悪業となり、悪業は、再生につながります。
転生して苦の世界に再び生まれるのです。
当然、転生後も無明の状態が引き続いています。

 無明→行→(転生)

[識]
識とは、ものごとを知ろうとする心です。
識別、了別の意味があります。
悪業を原因とする識は、精子と卵子が結合した瞬間に
母体内に生命体として誕生します。
仏教では、母体からの出産を誕生と見るのではなく、
母親の妊娠の刹那をいいます。
日本の年齢の数え方には二種類がありました。
生まれた時は0歳、誕生日が来たら一歳とする満年齢と
生まれた時は一歳、お正月が来たら二歳とする数え年の二種類です。
現在は満年齢しか使われませんが、数え年の考え方は、
妊娠した時を誕生とみて、胎児が母親の胎内にいる期間も
年齢に加算するという仏教思想からきています。
死ぬことも生まれることも、仏教では意識を中心に考えます。
入胎の瞬間の意識のことを結生識といいます。

[名色]
心と身体のことを名色といいます。
名とは、名前があるが形のないもののことで、心のことです。
色とは、色の着いたものということで身体のことです。
識が入胎し、心と身体が生まれます。

[六処]
目・耳・鼻・舌・肌・意の六つの感覚器官のことを六処といいます。
心身が成長していくと、感覚器官は発達しますが、
本格的に心身と感覚器官が育つのは、出産後です。
母体から出ることによって、自分と他との区別が出来、
他のものを感覚器官で明確に捉えるようになります。

[触]
外界の他のものと六つの感覚器官との接触を触といいます。
眼で色を見る。耳で音を聞く。鼻で香りを嗅ぐ。舌で味を味わう。肌で物に触れる。
意で法を意識する。
という様に感覚器官で、他と接触することです。

[受]
感覚器官で他と接触することにより、
そのものを感受することを受といいます。
感受し、好き・嫌い、快・不快の感情を起こします。

[愛]
好きなもの、快楽を感じるものに対し、欲求を起こします。
これを愛といいます。
現代語の愛は、仏教語の慈悲に似て、
自他に対する慈しみの心のことをいいますが、
仏教語の愛は、貪るような欲望のことをいいます。
いわゆる執着です。

[取]
欲しいものに執着したら、それを入手しようと行動します。
そのことを取といいます。
あらゆる物を見て、その中から自分の気に入ったものを選んで、
そのものに執着して、入手しようと行動する、
この繰り返しが人の日常です。

この 愛→取 を煩悩といいます。

[有]
愛取は煩悩であり、入手しようとする行為は悪業となり、
迷いの存在になります。
この迷いの存在のことを有といいます。
悪業は、再生につながります。
転生して苦の世界に再び生まれる原因となるのです。
当然、転生後も無明の状態が続きます。

 (転生)識→名色→六処→触→受→愛→取→有(転生)

[生]
転生し、再び生まれることです。
この生自体が苦しみです。

[老死]
そして、死ぬまで苦しむことになります。
それが、老死です。

 (転生)生→老死(転生)

整理すれば、煩悩→業→苦→煩悩→業→苦 ・・という様に輪廻します。
 
 煩悩・・・無明、愛、取
 業・・・・・行、有
 苦・・・・・識、名色、六処、触、受、生、老死

ここまでは、無明から苦までを順を追って語ってきましたが、
実際には、苦の原因を究明するための観法なので、
次の様に観たと思えます。

生老病死などの苦の原因は有であり、
有の原因は取であり、
取の原因は愛であり、
愛の原因は受であり、
受の原因は触であり、
触の原因は六処であり、
六処の原因は名色であり、
名色の原因は識であり、
識の原因は行であり、
行の原因は無明である。

そして、無明から苦までを観て
その連鎖因縁に間違いがないことを確認しました。

無明があるから行があり、
行があるから識があり、
識があるから名色があり、
名色があるから六処があり、
六処があるから触があり、
触があるから受があり、
受があるから愛があり、
愛があるから取があり、
取があるから有があり、
有があるから生があり、
生があるから老死などの苦を受けます。

よって、苦の原因を無明として
無明を滅すれば苦が滅することを説きました。

無明を滅すれば行が滅し、
行を滅すれば識が滅し、
識を滅すれば名色が滅し、
名色を滅すれば六処が滅し、
六処を滅すれば触が滅し、
触を滅すれば受が滅し、
受を滅すれば愛が滅し、
愛を滅すれば取が滅し、
取を滅すれば有が滅し、
有を滅すれば生が滅し、
生を滅すれば老死などの苦が滅します。

これが、十二因縁のあらましです。

合掌

●34 般若心経 十二因縁-3     2010/12/17(金) 午後 0:25

●無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。

 無明は無く、また無明を尽くすと言うことは無い。
 老死はなく、また老死を尽くすと言うことは無い。

十二因縁の法門の否定ですが、十二因縁自体の否定ではなく
各項目に対する執着への否定です。

 無明 → 行 → 識 → 名色 → 六処 → 触 → 受 → 愛 → 取 → 有 → 生 → 老死

仏教に興味を持ち始めると、それぞれの言葉に興味を持ち始めます。
無明って何だろう?
みたいな。

で、色々と調べて無明の意味を知った時、無明と言うものを認識したつもりになります。
最初は無意味だったものが、名前と知識に依って認識されるわけです。
そして、自分自身に置き換えて、自分の無明に気づき、
無明が苦を生む原因であることに気づきます。
他の項目の意味も分かって来ると、煩悩とか業とか欲望などと言う内容も分かってきて
十二因縁の法門が、苦の原因を究明する法則であることがよく分かります。

・・・しかし。
それぞれの項目にこだわり始めると、苦の原因を究明し、苦を滅する教えではなく、
単なる各項目の研究に陥ってしまう恐れがあります。

 無明とは何か?

そのことを思い悩み、瞑想し、書にし、議論する事に意味は無く、
無明を滅するために、真理に合った生き方をする方がお釈迦さまの教えであると
大乗仏教徒は、般若心経で説いています。

合掌

●35 般若心経 四諦の法門     2010/12/17(金) 午後 1:07

●無苦・集・滅・道。

 苦諦は無く、集諦は無く、滅諦は無く、道諦は無い。

苦・集・滅・道とは、四諦の法門のことをいいます。
仏教の根本の教義です。

 苦諦:苦という真理・・・世界は一切皆苦と観る
 集諦:苦の原因という真理・・・十二因縁の法門によって苦の原因を渇愛・無明と観る
 滅諦:苦の滅という真理・・・苦の原因の渇愛・無明を滅すれば、安らかな境地に入れると観る
 道諦:苦の滅を実現する道という真理・・・渇愛・無明を滅する方法は八正道であると観る

十二因縁の法門と同じく、教義自体を否定しているわけではなく、
教義に執着することを、大乗仏教徒は否定しています。

五蘊、十二処、十八界、十二因縁の法門もそうですが、
この四諦の法門でも、小乗仏教徒の教義は、沢山の項目をあげ、
名称を付けて実体視しているかの様です。
大乗仏教徒は、そのことを否定しました。

本来は無いものに名前をつけ、仮に有るとして教義にしていることを
私たちは知る必要があるのです。

合掌

●36 般若心経 無知亦無得     2010/12/17(金) 午後 5:43

●無知亦無得。
 
 智慧はなく、智慧を得ることはない。

三解脱門とは、「空・無相・無願」を見極めることです。
よって、無願を究めるならば、人生最大の目的である最上の悟りに対しても
執着するなと、言うことなのでしょう。

これで、否定形の羅列は終わりです。

 舎利子。
 是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。   ・・・六不(現象)
 是故空中、無色、無受・想・行・識、           ・・・五蘊
 無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。 ・・・十二処
 無眼界、乃至、無意識界。                ・・・十八界
 無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。・・・十二因縁
 無苦・集・滅・道。                      ・・・四諦
 無智亦無得。                         ・・・目的

因みに、「八千頌般若経」では、菩薩摩訶薩は、空性に留まって智慧の完成に
留まらなければなりません、と言って次の項目に留めてはいけないと説いています。

 五蘊
 十八界
 五大(地・水・火・風・空)
 四念処(観法)
 四正勤(正しい努力)
 四神足(神変の拠所)
 五根(優れた能力)
 五力
 七覚支(悟りの要素)
 八正道(正しい道)
 声聞の四段階
 独覚の本性
 仏陀の本性

これらの項目に対し、
 「そのものに心をとどめてはいけません」
 「これは〜である、と心にとどめてはいけません」
と否定しています。
「八千頌般若経」の方がはるかに項目が多いのですが、項目の数に意味が有るのではなく、
全ての存在を否定する事が、般若経の目的の様です。
それも、物質は無い!心は無い!と主張しているのではなく、そのものに執着するな、というのが
般若経が一番うったえたかったことです。

合掌

●37 般若心経 以無所得故     2010/12/17(金) 午後 6:53

●以無所得故、菩提薩垂、依般若波羅蜜多故、
 心無圭礙、無圭礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。

  よって、所得することがないから、
  菩薩は智慧の完成の修行によって、
  心にとどこおりがなく、とどこおりがないことによって、
  恐怖を感じる事がない。
  一切の誤った考え方から遠く離れているので、
  安穏の境地に入ることができる。

執着が無ければ、心に滞りがなくなります。
つまり、心配事、悩み、苦しみ、喜び、願望などの心の働きは
流れる川をせき止める様に、心の流れを滞らせますが、
それらへの執着を捨てれば、心は自然に流れます。
滞りが無ければ、恐怖を感じることもありません。
恐怖とは、執着そのものなのですから。
この様に、菩薩は智慧の完成に依って執着から離れる事ができます。
執着から離れる事に依って、安穏の境地に入ることができます。

合掌

●38 般若心経 真言     2010/12/17(金) 午後 7:42

●三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
 故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、
 是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
 即説呪曰、
 羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。
 般若心経

  過去・現在・未来の諸仏は、智慧の完成によって
  最上最高の悟りを得ることが出来るのである。
  智慧の完成とは、大いなる神の呪文であり、
  大いなる悟りのための呪文である。
  最高の呪文であり、他に類を見ない呪文である。
  よく、一切の苦を除き、真実であって虚妄ではない。
  では、最後に智慧の完成の呪文を説く。
  すなわち、その呪文とは次の様なものである。

  「ガーテー・ガーテー・パラガーテー・パラサムガーテー・ボディスヴァハ。」

  以上が般若心経である。

ここの文章は分かりやすいと思います。
智慧の完成のためには、三解脱門という空の瞑想が重要であり、
その瞑想の際に使用する真言が最後に書かれています。
真言は呪文なので、意訳はせず、音訳です。
なので、意味不明の文章になっています。

例えば、「オーム」という真言は、ビッグ・バンの際の爆発音であり、
修行を積んだ者であれば聞こえるそうです。
オームの真言を真似たものが、お寺の鐘です。
日本では、「ゴーーーン」と言いますが、実は、「オーーーーム」を表しています。
瞑想で用いる「ハムサー」は、呼吸音だということです。
吐く時が、「ハム」、吸う時が、「サー」です。

この様に真言は、音自体が重要であるため、意味はそれ程重視しなくてもいいようです。
瞑想に入る時に、出来れば結跏趺坐し、合掌して、

 オーーーーーム。
 ガーテー・ガーテー・パラガーテー・パラサムガーテー・ボディスヴァハ
 ガーテー・ガーテー・パラガーテー・パラサムガーテー・ボディスヴァハ
 ガーテー・ガーテー・パラガーテー・パラサムガーテー・ボディスヴァハ

と唱えるといいでしょう。
大自然の中で唱えるのもいいと思います。

自分が落ち着くまで、真言を唱えたならば、三解脱門に入ります。

 これは実体がない。
 実体がないから認識しない。
 認識しないから、執着しない。

自分に言い聞かせるのではなく、ただ、その様に世界を観ます。
物質的なことから、心の面まで、ただ観て行きます。

その禅定が完成した時こそ、智慧の完成の時なのです。

合掌

●39 般若心経 まとめ     2010/12/17(金) 午後 8:33

●観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

般若心経の中のもっとも重要な文章は、最初の一行目だと思います。
観世音菩薩が、智慧の完成のために止観の修行に入った時、
この世界の全てを空と見極めて、一切の苦を滅する事ができた、という文章です。

止観とは、禅定+智慧の修行です。
具体的には、三解脱門の禅定をいいます。

 空+無相+無願

 そのものに実体がない+そのものを認識しない+そのものに執着しない

この三解脱門の禅定を実際にやってみれば分かりますが、禅定が進めば、
言葉や観念はすぐに脳裏から消え、物質はその存在感を消し、自分と他との境界は無くなり、
一切が一つのスペースになります。
その観察を表したのが、般若心経内の不や無の羅列です。

この止観によって、智慧を完成させたというのが般若経の内容です。
しかも、般若心経には、真言がついており、この真言が止観の修行に非常に重要です。

合掌

 

 

 

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