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Kusamakura translated by Alan Turney (1965) 

2018.1.1 更新2020.12.5

 草枕の1927年の翻訳は、日本人の高橋一知によるものでしたが、

1965年になって、英国人のAlan Turney (1938-2006) による翻訳が出版されました。

出版社は、英国のPeter Owen書名はThe Three-Cornered World で、多くの読者を獲得しました。

 この本のタイトルは、草枕の中の次の文章に由来しています。

して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。

 四角が、何をさしているのか、草枕の本文にはふれられていないようです。

四角四面という言葉があり、至極真面目で、堅苦しいことを意味しますが、多分、この四角を、もじったのではないかと推測します。

四角な世界から、一角除いたので、三角な世界 と訳す事にしました。

 

2011年に、同社から、新装版が出版され、私は、それを入手しました。

新装版には、Danian Flanagan 氏による解説がついています。

そこに、ターニー氏に関する興味深い解説があるので、冒頭の部分を、少し引用します。

原文は、著作権の問題があるといけないので、翻訳だけを掲載します。

英文の方も紹介したいので、英文+対訳の形にします。更新2020.12.5

 

●The book you are about to read is a classic translation of one of the most famous works of Japanese literature, a tour de force by the writer universally recognized in Japan today as that country's greatest modern writer, if indeed not the greatest of all time.
あなたが今読もうとしている本は、です|日本文学の最も有名な作品の一つの古典的な翻訳|。それは、です|力作‖今日の日本で日本の最も偉大な現代作家であると(全時代において最高というわけではないとしても)広く認められている作家の‖|。

It is not his most famous work - I Am a Cat, Botchan and Kokoro vie for that crown -,
それは、ではありません|彼の最も有名な作品 - 私は猫である、坊ちゃん、こころ が栄冠を競っています - |。

but given that at least a dozen of the works of Natsume Soseki (1867-1916) qualify as stand-out masterpieces in their own right,
しかし、夏目漱石(1867-1916)の作品の少なくとも1ダースは、卓越した最高傑作の資格を当然持っているとして、

it is perhaps as fatuous to ponder whether this book is his ultimate masterpieces as it is to ponder whether Hamlet is a greater play than Othello.
浅はかなことです|この本が彼の究極の傑作であるかどうかと思案することは、ハムレットがオセロよりも偉大かどうかを思案のと同様に|。

●In the West The Three-Cornered World has since its publication in 1965 enjoyed something of a mini-vogue,
西洋において、この本(三角な世界)は、1965年の出版以来、ミニ流行らしきものを享受しましたが、

although - generally omitted from academic literature courses - the book has almost invariably been read  out of context with no reference to Soseki's other works.
一般的には、 アカデミックな文学の課程からは無視されつつも、この本は、ほぼ不変に読まれてきました、漱石の他の作品との参照や脈絡なしに。

And yet the novel has consistently thrilled those readers who have discovered it.
それにしても、この小説は、これを見つけて読んだ人の心を感動させてきました。

●Very rarely for a translated work of a Japanese classic, the translation itself has both a distinct personality and has affected readers in ways strikingly different from the original book in Japan.
日本の古典の翻訳作品としては、極めて希なことに、この翻訳自体は、独特な個性を持っており、原作が日本で果たしたのとは全く異なる仕方で、読者を魅了しました。

Indeed, although by no means ever attaining mainstream status, the success of this particular translation was such that it made The Three-Cornered World perhaps the most appreciated of all Soseki's works in the West.
実際、主流の地位を得ることは決してないにしても、この翻訳の成功は、素晴らしく、この作品を、西洋において最もよく理解された漱石の作品としました。

Furthermore, the translation had a transformative influence on one of the greatest musical genuiuses of the twentieth century.
さらには、この翻訳は、20世紀の最も偉大な音楽の天才の一人を変革させる影響を与えました。

The relative success and considerable influence of the translation is a subject that has been much commented on in Japan itself,
この翻訳の相対的な成功とかなりの影響力は、日本自体においても、大きくとりあげられる主題で、

and, at the time of writing this introduction, NHK, Japan's public broadcaster, was in the process of making a feature-length documentary about the translation of the book.
この序を書いているときにも、NHKがこの翻訳について長編の特集を製作中です。

(中略)

●A painter, unnamed throughout, is heading up a mountain path, seeking spiritual respite and artistic inspiration.
ある画家(全篇を通して名前が無い)が、山道を登っている、精神の休息と芸術の啓示を求めて。

He resolves on a unique experiment, to try to observe the world with dispassionate eyes, capable of seeing the world not callously but, rather, transforming everything around hime into pure artistic experience.
彼は、独特な実験をしようと決めている、私情を挟まない目で世界を観察しようとしている、その目は世界を冷酷に観察するのではなく、彼の周りのすべての物を純粋で芸術的な経験に変容することができるのです。

For the purposes of this short trip he decides that everything should be judged not according to the values of the oppressive society around him but in its ability to be seen as the materials of pure art.
この短い旅の目的として、彼は、心に決めています、すべてのものは、彼の周りの抑圧的社会の価値観によって判断されるのではなく、純粋芸術の材料として眺められうる可能性によって判断されるべきだと。

●The subtle radicalism of his thought comes at you thick and fast in the opening pages.
彼の思想の微妙な改革主義は、最初の頁から、重厚かつ着実に、読者に到来します。

Our artist-protagonist sets aside the notion that great men of state are somehow more deserving of respect and admiration.
この芸術家肌の主人公は、偉大な人は、尊敬や称賛に価するという考えを廃棄します。

Instead it is the person who makes the effort to have a single artistic thought who is the most blessed.
そうではなく、その偉大な人は、誰が最も祝福された人かという単純に芸術家的な考え方を持つよう努力するとです。

'They are more blessed than the rich man's child, than the most powerful king, than the darling of the masses', he informs us, detonating entire edifices of social respectability and status with a few casual remarks.
「彼らは、より多く祝福されている、金持ちの子よりも、最強のの君主よりも、どんな俗界の人気者よりも」と、彼は告げ、社会的な尊敬や地位の体系全体を爆破します、ほんのわずかのざっくばらんの言葉で。

●None of this was exactly what Western readers in 1965, used perhaps to works such Arthur Waley's translation of The Tale of Genji or Kawabata's tales of geisha, had in mind when they thought of the Japanese novel.
この中のどれも、1965年の西洋の読者が(多分アーサー・ウェイリーの源氏物語の翻訳や、川端の芸者の話のような作品には、馴れているとしても)心に思い浮かべるものではありませんでした、日本の小説について考えるときに。

It was not even what readers of Edwin Seidensticker's 1957 translation of Soseki's famous novel Kokoro had remotely expected.
それは、漱石の有名な小説「こころ」のサイデンステッカーによる1957年の翻訳の読者ですら、かすかにも思いもしなかったものでした。

Enter Alan Turney, a 26-year-old Englishman, who had had the chutzpah to translate into English one of the most difficult and densely poetic masterpieces of Japanese literture only six years after he had started learning Japanese.
アラン・ターニーを加えましょう、彼は、26歳の英国人で、日本文学の最も難解で高度に詩的な名作の一つを英語に翻訳しようという大胆不敵さをもっていました、日本語の勉強を始めてたったの6年というのに。

●Turney had worked first at the British embassy in Tokyo and had translated the opening chapter of The Three-Cornered World  and published it in a literary journal.
ターニーは、最初、東京のイギリス大使館で働きました、そして、三角な世界の最初の章を翻訳して、文学雑誌に発表しました。

At this time, the publisher Peter Owen in London was looking for interesting foreign writers to introduce to the English-speaking world,
この時、ロンドンの出版社のPeter Owenは、興味ある外国の作家を英語世界に紹介しようと探していました。

and so Turney was encouraged to complete his translation of the book.
そして、ターニーは、翻訳を完了するように勧められました。

He not only translated it but undertook a PhD at the School of Oriental and African Studies in London that incorporated both the translation and Turney's thoughts on the key concept of hininjo ('emotionlessness') in the novel.
彼は、翻訳しただけでなく、翻訳と、この小説の主要概念である非人情に関する彼の考えとを合体させた博士号を企てました。

The Three-Cornered World then is an inspiring example of a young translator's passion for a book being transformed into a classic text in English.
三角な世界は、当時の、若い翻訳者の、本を英語のテキストに変換しようとする熱意の感動的な例です。

At any other time, and certainly when a conscientious translator today would feel obliged to plough through many scores of books in Japanese about Soseki before daring to put pen to paper, being just twenty-six years old and attempting to translate such a book as Pillow of Grass would seem an impossible task.
いつの時代においても、そして今日の良心的な翻訳者が、思い切ってペンを手にして書き始める前に、漱石に関する何十冊の日本語の本をかきわけて進まねばならないと感じるときに、たった26歳であることと、草枕のような本の翻訳を試みることは、不可能な仕事のように思います。

But somehow, in 1964, anything seemed possible.
しかし、どういうわけか、1964年には、何でも可能なようでした。

Indeed, for the translation to capture the spirit of a new age, it almost seemed a crucial ingredient that the traanslator was so young and raw.
実際、翻訳が、新しい時代の精神を捕えるためには、翻訳者が若くて未熟であることは、決定的な要因だったようです。

●It must have been thrilling for Turney to have seen his translation enjoy the success it did with the book even winning a translator's award.
ターニーにとって、彼の翻訳が成功するのを見たことは、ワクワクしたに違いありません、翻訳者賞を取りさえしました。

One by one all the rest of Soseki's novels followed into English translation,
漱石の小説の残りすべても、一つずつ、英語に翻訳されました、

and it seemed as if the dam was about to burst and a new concept of world literature was about to be born.
そして、ダムがいまにも壊されようとして、世界文学という新しい概念が生まれようとしているように、見えました。

But suddenly the tides began to draw back again.
しかし、突然、潮流が戻り始めました。

None of the other translations, which appeared to be of much more realistic and serious novels, enjoyed the success of The Three-Cornered World,
他の翻訳は、より現実的で、本格的な小説のように見えましたが、三角な世界のような成功を享受できませんでした。

and by the 1990s nearly all of them had fallen out of pring.
そして、1990年代までに、それらのすべては、絶版になりました。

Turney himself had briefly become a lecturer at Exeter University and for over thirty years at Seisen Woman's University in Tokyo.
ターニー自身も、間もなく、Exeter大学の講師となり、30年以上も、東京の清泉女子大学で働きました。

In 1972 he produced a translation of Soseki's Botchan, a notoriously difficult comic novella to translate into English,
1972年に、彼は、漱石の坊ちゃんの翻訳を出しました、それは、英語に訳すには恐ろしく難しいコミック小説でした。

and while translation was perfectly readable and accurate somehow or other it failed to capture the Zeitgeist as The Three-Cornered World had done.
翻訳は完璧に読み易くなんとか正確でしたが、何故か、三角な世界のようには、時代精神を掴むことはできませんでした。

Incredibly it was to be his last book-length translation.
信じられないことに、それは、彼の最後の翻訳本となりました。

  

 さて、上記の翻訳の中に この翻訳は、20世紀の最も偉大な音楽の天才の一人を変革させる影響を与えました という文章がありますが、

これは、グレン・グールドのことです。NHKの特集も、グレン・グールドに関するものです。

 フラナガン氏は、この話を、横田庄一郎の研究で知ったと書いてありますが、多分、横田さんの書かれた日本語の本を読まれたのでしょう。

 グールドの死の床には、聖書と草枕の2冊のみがあった、などの話が、英語で語られていますので、

横田さんの紹介するエピソードの英語による紹介の役を果たしていると思います。

 

2018.1.21

 新装版には、翻訳者のターニー氏による序文もついています。日付は、1964年8月です。

第3章が、草枕に関する解説ですので、その部分の翻訳を示します。

 草枕は、文字通り、草でできた枕で、日本の詩歌では、旅を意味するときに使われる定形句です。

このタイトルを文字通り訳しても、原文の意味は英語の読者には、伝わりません。

私は、この本の要点を表すと考えられる句を本文から取り出してタイトルにするのが適切だと考えました。

 この本には、漱石の他の標準的な小説におけるよりも、当時彼の周りで栄えていた写実主義者、自然主義者、浪漫主義者への反対を表現しています。

漱石は、彼が自分を仲間たちによも優れていると考えていて、人間性について神のような見解をとっていると非難されていました。

しかし、このことは、そうではありません。

勿論、この世において、彼が自分自身を優れていると思っているところは、沢山あります。

これは彼が、通俗もしくは平凡な世界と名付けていて、芸術家とて注意を払うべき価値がないと信じているものです。

しかし、彼が、人間関係や人情を超越しようと言及するとき、彼は、それらを見下しているのではなく、それらを適切な観点からながめるために、一歩退いて、それらを客観的に眺めなければならないと感じているのです。

 漱石のこの世から脱出して、自然の中に身を浸そうという明らかな願望は、一見、ワースワース派のように見えます。

しかし、ワーズワスと漱石の自然に関する見方には、大きな違いがあります。

ワーズワスにとって、自然は、創造主の神の反映でした。

漱石にとって、自然は、何物の反映でもなく、美の本質の一つの様相でした。

 漱石が自然や、その他の彼の周りの物理的な環境物を記述する方法は、画家の方法です。

彼が提示するすべてのシーン(場面)は、彼がそれをキャンバス上に再現しているかのように、完全な調和がとれています。

彼は、色や形や質感について、詳しく説明します。

実際、彼の説明は、非常に映像的なので、日本人のある画家は、草枕を読んだあと、そこに現れる景色を実際に描きました。

草枕を読んで最初に感じるのは、言葉のスケッチで描かれた一連のエッセーだという印象です。

しか、これは、表面的な見方です。というのは、実際は、その逆が真実なのです。

描かれたものが最初に来て、いわゆるエッセーの語句が、その後に続くのです。

ハインリッヒ・ハイネが、ハルツ紀行を書いたとき、彼は、単に、彼の旅を、彼の命に関する考えを伝える道具として使っただけです。

しかし、漱石の場合、彼が身の周りに見る物こそが、第一義的に重要で、彼の周りにあるなんらかの物こそが、彼の哲学的な飛翔の一つに刺激要因を与えるのです。

 草枕から、私達読者は、彼の他の小説からよりも、著者の心の中をより鮮明に洞察することができます。

これこれしかじかの登場人物が漱石を表すように意図されているかいないかをいぶかる必要はありません。

というのは、この本には、彼の考えや意見が、私達みんなに分かるように簡明に提示されているからです。

もし、人が、文学を通して人を知ることができるようになることが本当だとして、草枕は、明治期の初め以来書かれてきたどの本よりも、日本人についてより多くを語っていると、私は、信じます。

 

 横井庄一郎さんの、漱石とグールド- 8人の「草枕」協奏曲 (1999)という本の、8人の一人が、アラン・ターニーさんであることを知りました。

この本に、ターニーさんは、漱石の「非人情」について、より詳しく説明しているのですが、あいにく、この本は、絶版です。

 ターニーさんの解説を読みたいが、近くの図書館の蔵書にないという人たちのために、以下にターニーさんの章を、部分引用します。

 

グールドと「非人情」 アラン・ターニー

グレン・グールド

●「非人情」には三つの面がある。文学的(芸術的)側面、心理的側面、そして道徳的もしくは宗教的側面である。

●グールドの性格と音楽について私の知っていることから考えると、彼はひとりの芸術家として、客観的で感情に流されない「非人情」の性質に惹かれたのではないかと思う。

また、漱石が「憐れ」は「人情」の一種であるにもかかわらず「非人情」と「憐れ」は互いに相容れないものではないという矛盾を解こうとすることで、芸術家が可能性を伸ばすことのできる立場を確立しようと試みたことにも好感をもったのだろう。

●さらに、グールドは人付き合いが苦手だったようなので、この考えに興味をもったのではないだろうか。

何しろそのとおり行えば自信も得られ、人に対してどうふるまうべきか(他人を見るには客観的なまなざしで、しかし決して冷ややかにではなく)手掛かりをつかむこともできるというのだから、

このような考え方は、グールドが自分勝手な冷たい態度でも感情的な態度でもない、その中間の立場を確立するために役立ったことだろう。

●グールドならずとも知識人なら、この考えに魅了されたことだろう。

芸術家としての立場を示してくれ、しかもそれが日々の生活にも適用できる − 芸術の世界と日常とを結ぶ掛け橋となるこの考えに。

●漱石は『草枕』の中で度々「俗世を超越する」ことが必要だと述べている。

しかし早くも一頁目で、芸術はこの世のものであって超越的な世界のものではない、と言っている。

●グールドが『草枕』に惹かれる理由は主に、この著者とウマが合いそうだ、と感じたためであろう。

自分同様、私生活では繰り返し不運に見舞われながら、それを克服しようと努力した芸術家仲間だと思ったのだろう。

●私はグレン・グールドに会うことも手紙をやの取りすることもできなかったことを残念に思う。

グールドに『草枕』の中のアイデアがどんな風に発展して「則天去私」となったか、話したかった。

きっと興味をもって聞いてくれたことだろう。

  

「非人情」から「則天去私」へ

●「非人情」も「則天去私」も、もともと漱石の造語だと言われる。

前者は漱石が作家になって間もない頃のもので、後者は最晩年のものだ。

私は「則天去私」という概念の根っこは「非人情」の中にある、という考えを明らかにしたくて筆をとった。

●漱石が「非人情」という言葉を初めて使ったのは『文学論』の第三章第二節である。

そこで彼は「不道徳文学」と呼んでいるものについて論じている。

漱石は「非人情」の概念を「没道徳」的(後で取り扱う)であるとしている。

しかし「則天去私」という道徳的な性質を持つ概念が、一見した限りではどんなに良く見積もっても道徳とは無縁な考えに端を発しているとしたら、面白い。

●「則天去私」とは文字どおり「天に則り私を去る」という意味である。

この表現は漱石の死の間際の人生観を要約しているとされ、考察や議論の対象になってきた。

現在分かっている限りでは、漱石自身がこの言葉の意味について書いたものはない。

しかし「木曜会」をつくった数人の弟子たちとこれについて話し合ったと言われている。

1916年11月、漱石が亡くなる一ヶ月前の会合でのことだ。

ほぼ同じ頃、漱石はこの言葉を書道の作品として書いた。

これは『大正六年文章日記』の見返しの遊び部分に使われているが、ここに次ぎのような定義が書かれている。

  天に則り私を去ると訓む。天は自然である。自然に従って、私、即ち小主観小技巧を去れという意で、

  文章はあくまで自然なれ、天真流露なれ、という意である。

●この定義には署名がないので、誰が書いたものか分からない。

だが『文章日記』が出版されたの漱石の死の約三週間前だから、漱石はこの定義を目にしたと思われるが、これを否定したという記録はない。

●「則天去私」という表現は確かに漱石のオリジナルかもしれないが、これを構成する二つの単語に分けると、それぞれ出所がある。

どちらの単語も大きめの中和辞典をひけば見つけることができるだろう。

「則天」は孔子の『論語』に出てくる言葉で「天を手本とする」と定義され、

「去私」は第一番目に「我執我欲を去る」と定義され、二番目に『呂氏春秋』孟春紀の篇名として挙げられている。

●ところで、漱石はどのように「非人情」という考えを思い付いたのか、考えてみよう。

●漱石が職業としての世界に入ったのは、「写生文」という文体の流派の一員としてだった。

この運動の主要人物である高浜虚子は、「写生文とは『俗情を離れて立つ俳諧趣味』で『非熱主義』であり、また『微温的』である」と言っている。

●この散文の形式は、正岡子規の俳句についての考えを発展させたものである。

子規は、俳句の質が次第に低下してきていると感じていた。

それは、この形式の詩を詠む者たちの間に生れた知的、および主観的なアプローチの結果であった。

子規は自然を綿密に観察し、主観を交えず描くことを唱えた。

この考えは子規の弟子たち(漱石もそのひとり)に受け継がれ、俳句を詠む際ばかりでなく、次第に力を入れ始めていた散文を書く際にも使われた。

このような流れをくんで、漱石は文学界に足を踏み入れた時、客観的立場を取るにいたったのだ。

●このような客観的な立場は、明治の小説家たちの間では特に珍しいものではなかった。

田山花袋の「平面描写」や森鴎外の「傍観者」は客観的立場を表わしている。

事実、自然主義的傾向にある明治の小説家が一般的にとった立場は、客観的なものであった。

しかし、漱石がのちに「非人情」と呼ぶにいたる考えは、初めから自然主義の作家たちの臨床的方法とは随分性質が異なっており、はるかに気の利いた細やかな概念に発展していった。

●では、小説とはこうあるべき、という漱石の考えが形作られるのを助けた「写生文」とは一体何なのか?

この書法に最も明確な定義を与えたのは、漱石自身だと思われる。

漱石は『写生文』というエッセイの中で次のように書いている。

  写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。
  賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。
  男が女を視、女が男を視るの態度でもない。
  つまり大人が小供を視るの態度である。
  両親が児童に対するの態度である。
  世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。
  しかし解剖すればついにここに帰着してしまう。

  小供はよく泣くものである。小供の泣くたびに泣く親は気違である。親と小供とは立場が違う。
  同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は小供が泣くたびに親も泣かねばならぬ。
  普通の小説家はこれである。
  彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做して、
  擦ったもんだの社会に吾自身も擦ったり揉んだりして、あくまでも、その社会の一員であると云う態度で筆を執る。
  したがって隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。
  自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗いているのとは
  記述の題目そのものは同じでもその精神は大変違う。
  写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。
  (中略)
  それでは人間に同情がない作物を称して写生文家の文章というように思われる。
  しかしそう思うのは誤謬である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻でもない。
  無論同情がある。同情はあるけれども駄菓子を落した小供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。
  写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是なく煩悶し、無体に号泣し、直角に跳躍し、
  いっさんに狂奔する底の同情ではない。
  はたから見て気の毒の念に堪えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。
  世間と共にわめかないばかりである。
  (中略)
  写生文家の描写は多くの場合において客観的である。大人は小児を理解する。
  しかし全然小児になりすます訳には行かぬ。小児の喜怒哀楽を写す場合にはいきおい客観的でなければならぬ。
  ここに客観的と云うは我を写すにあらず彼を写すという態度を意味するのである。
  (中略)
  写生文家の筆に依怙の沙汰はない。紙を展べておもいを構うるときは自然とそう云う気合になる。
  この気合が彼らの人生観である。少なくとも文章を作る上においての人生観である。
  人生観が自然とできているのだから、自己が意識せざるうちに筆はすでに着々としてその方向に進んで行く。

●以上の文章には、幾つか面白い点が見受けられる。

まず最初に、漱石が「非人情」のことを「没道徳」と言う時に何を意味していたのかが分かりやすく語られている。

漱石が「没道徳」ではなく「没道徳的態度」のことを言っていたことは明らかである。

小説家は道徳を一段高い位置に置くべきではない、と主張している。

●次に記すべき点は、写生文家に同情がないという事を否定している事実であろう。

このことは『草枕』でも取り上げられている。

「非人情」は「不人情」と同一ではない、と指摘しようとしている箇所だ。

さらにこの節で、写生文家は自分の書いたものに対して同情を持つが、それは感傷的な同情ではないのだ、と述べている。

これは「非人情」という概念を理解する鍵となる。

このような態度と憐れの概念とは、のちに扱うとおり相容れないものではない、ということを表しているのだ。

●結局、漱石が写生文家の筆は「意識せざるうちに」進む、と述べているのは、先に触れた「則天去私」の定義(「文章はあくまで自然なれ)とうたったもの)の内に示される考えを予感させるものであった。

●「非人情」が文学的概念であることは明らかである。

『一夜』で漱石は「非人情」的な世界を創りだそうとした。

三人の登場人物が互いを客観的に眺める様子を、ひとりひとり順番に著者が客観的に描き出すという方法でだ。

高浜虚子ら漱石の仲間の写生文家たちは、この作品を大変風変わりであると感じ、漱石が何をしようとしているのか分からずにすっかり困惑してしまった。

『草枕』は漱石が「非人情」の概念を客観的に描き出した文脈の中で表現しようとして書いたものだ、と言われてきた。

森田草平に宛てた手紙で、漱石は次のように書いている。

  草枕の主張が第一に感覚的美にある事は貴説の通りである。
  感覚的美は人情を含まぬものである(見る人から言うても見られる方から言うても)
  (一) 自然天然は人情がない。見る人にも人情がない。双方非人情である。只美しいと思う。是は異義がない。
  (二) 人間も自然の一部として見れば矢張り同じ事である。

●ここで、漱石が人間を客観的な自然の景色としていることが分かる。

子規の俳句に対する考え方の影響であろう。

そしてこれは『文学論』で漱石が最初に「非人情」について語ったことと合致する。

さらに、先に引用した手紙の少し後の方に、こうある。

  [見る者の見方が] 全く人情を棄てられぬ。同情を起こしたり、反感を起こしたりする。
  しかし現実世界で同情したり反感を感じたりするのと異なる場合。
  即ち自己の利害を打算しないで純粋なる同情と反感の場合。

●ここから、漱石の哲学が自我を捨てることを唱えるような道徳的なものであることが明らかに読み取れる。

「非人情」とは観察している対象から単に離れるより以上のものである、というこの考えは、同じ手紙の別の段落でも支持されている。

漱石が『草枕』の画家はこの本の終わりにお那美の顔に浮かぶ憐れの表情をどのように眺めているのかを語っている所である。

  又はそれ [お那美の表情] 自身に於いて気持ちがいい表情かわるい表情か
  換言すれば単に美か美でないかと言う点からして観察ができる。
  (画工がこの態度でいれば「憐れ」というのが人情の一部でも、観察の態度は矢張り純非人情である)

●ここで漱石は一見逆説と思われるものを調和させようとしているようである。

「非人情」という言葉は、文字どおり受け取れば一切の人情を受け入れないことだと思われるので、こういう逆説が生まれがちなのだ。

漱石は先に挙げたとおり、自分の考える「非人情」と「憐れ」とは相容れないものではない、と言っている。

後年、漱石が「非人情」という言葉は、その一見否定的な意味合いのため、非常に複雑な考えを表すには不足だと考えて、

四文字の合成語「則天去私」でもっとはっきりとその考えを表そうと努めたことは当然だと思われる。

●「非人情」というのは複雑な概念であると述べてきた。

『草枕』を読んでみると、それがよく分かる。

この作品では以前も述べたとおり画家の超然とした態度が描かれているが、同時に道徳の種と思われるものや利己主義ではない態度も描き出されている。

●お那美を描くことで、漱石は読者に「非人情」の心理的側面を呈してくれている。

お那美は離婚の衝撃を受けて、実家に戻り地元の人々の嘲りに耐えなければならなかった。

しかし彼女はものごとを平静な気持ちで受け止めることのできる心の状態に達することができた。

漱石は写生文についての文章の中で、写生文家は「微笑を包む」態度をとるのだ、と言っている。

これは人生の皮肉を見る態度である。

お那美の中でこの皮肉のセンス、ユーモアのセンスが、外でなく内へと向かう時、どんな風に自己に対する客観的態度を生み出すことが出来るのか、読者は見ることができる。

この態度は結果的に自己の運命を理性的に容認することへとつながっていく。

これは、漱石自身の心の状態を評価するにあたり非常に重要だと思われる。

彼は深刻な心の問題を抱え、時々バランスを欠いた行動をとることがあったにもかかわらず、驚くべき客観性を持って自分自身を見つめることができた。

自伝的物語である『道草』を読むと、それが良く分かる。

●お那美が地元の和尚の導きを受けた結果「非人情」の域に達することができたという所からみると、「非人情」という言葉には宗教的な含みがあると言えるかもしれない。

さらに、「非人情」の審美的な側面でさえ宗教的な意味合いを持つらしい、と受け取れるものが『草枕』の次の箇所にはある。

  空しき家を、空しく抜ける春風の、抜けて行くは迎える人への義理でもない。
  拒むものへの面当でもない。自から来りて、自から去る、公平なる宇宙の意である。
  掌に顎を支えたる余の心も、わが住む部屋のごとく空しければ、春風は招かぬに、遠慮もなく行き抜けるであろう。

  踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気遣も起こる。
  戴くは天と知る故に、稲妻のこめかみに震う怖も出来る。
  人と争わねば一分が立たぬと浮世が催促するから、火宅の苦は免かれぬ。
  東西のある乾坤に住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋は讎である。
  目に見る富は土である。
  握る名と奪える誉とは、小賢かしき蜂が甘く醸すと見せて、針を棄て去る蜜のごときものであろう。
  いわゆる楽は物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む。
  ただ詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。
  霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着するのではない。
  同化してその物になるのである。
  その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ。
  自在に泥団を放下して、破笠裏に無限の青嵐を盛る。

●以上の一節は、その後まもなく漱石の作品が向かう方向を示している。

翌年(1907年)、漱石は朝日新聞社に入社して連載を書き始める。

その後の主な作品のすべてに描き出される漱石の信念とは、利己心は人生における苦しみの主な原因のひとつである、というもので、自我に縛られて苦しむ人々を書いている。

『門』の宗助や、『こころ』の先生などがそれで、情熱に身を委ねた結果、苦悩する人物として描かれている。

●『行人』の一郎は嫉妬心にがんじがらめになり、妻に強い疑いを抱いて、この苦しみから逃れる道は、死か宗教か、あるいは狂気しかない、と語っている。

一郎の場合、この三つのどれひとつとして安らぎを与えてはくれなかった。

だが、漱石の場合はどうだったろう?

彼は不安定な精神状態を抱えてはいたが、すつかり狂ってしまいはしなかった。

自殺によって精神的および肉体的な苦痛を終わらせることをよしとした様子もない。

しかし漱石は度々、宗教、特に禅宗に対する関心を示した。

彼が座禅の会に出て、どれほどのものを得たのかは分からないが、生涯を通して魂の慰めを捜し求めていたことは事実である。

私は、いわゆる、「宗教に慰めを見出した」ということは漱石にはなかったと思うのだが、

既に指摘したとおり、漱石は独自の道徳、すなわち宗教的哲学を発展させ、それが精神的な支えとなり、彼の全ての作品の特徴ともなっているのだと考える。

漱石はこの哲学を、「則天去私」という表現に要約したのだ。

●この表現は漱石が死の直前に造ったものだが、その意味する内容は決して新しいものではなかった。

岡崎義恵が『漱石と則天去私』の中で指摘するとおり、これは宗教的な心理に基づく芸術家の視点を表している。

私はこの考えに異議を唱えるつもりはないが、私達が漱石の哲学の宗教的側面と呼ぶことができるものは、前述のとおりもともと芸術的な見地が発展して生まれたものであったことを申し上げたい。

すなわち、もともとの「非人情」の芸術的観点は、道徳的概念を生み出すことになり、そこからよりくっきりと焦点の合った見地をもつ作家の技法「則天去私」と呼ばれるものが出てきたのである。

漱石が駆け出しの作家だった頃には「人情」に基いて「不人情」と対照をなす気のきいた新語だったものが、その晩年には成熟した概念となって、中国古典の学識のある漱石らしく、四文字の格言に込められたのだった。

 

 

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