小暮聡子 百田尚樹と「つくる会」 モンスターを生み出したメディアの責任 石戸諭氏に聞く (2020.06.17) |
2024.04.07
Newsweekのウェブサイトで、下記のインタビュー記事が、公開されているので、紹介します。
記事が長いので、重要部分を強調表示したものを、以下に採録します。
百田尚樹と「つくる会」、モンスターを生み出したメディアの責任 石戸諭氏に聞く
2020年6月17日(水)12時00分
小暮聡子(本誌記者)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/06/post-93695.php
<大反響特集「百田尚樹現象」から1年。
このほど新著『ルポ 百田尚樹現象』を上梓した石戸諭氏に聞く。
安倍政権に最も近い作家・百田尚樹を生み出した平成右派運動の末路、そしてメディアの責任とは>
本誌の特集「百田尚樹現象」(2019年6月4日号)から1年。
筆者であるノンフィクションライターの石戸諭氏が新著『ルポ
百田尚樹現象――愛国ポピュリズムの現在地』(小学館)を上梓した。
2020年の「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」を受賞した特集記事に大幅に加筆した本書について、
特集時に編集を担当した本誌・小暮聡子が聞いた。
小暮聡子
新著の刊行、おめでとうございます。
校了ゲラをいただいて初めて全体を読み、驚いた。
第一部は特集記事を元にしているとは聞いていたが、新たに取材して書き下ろした第二部が圧倒的に面白い。
第二部が加わったことにより、第一部と合わせてまったく別の作品に生まれ変わっている。
本書のタイトルは『ルポ 百田尚樹現象』だが、この本は百田現象そのものについてというより、
百田現象以前の「新しい歴史教科書をつくる会」の系譜を第二部で掘り下げることで、
90年代後半から今に連なる日本の右派ポピュリズムを綿密な取材に基づき描いたノンフィクションだと思う。
むしろ本書の副題にある「愛国ポピュリズムの現在地」のほうがメインテーマだろう。
百田氏自身については、ちょうど1年前に本誌で特集を組んだときが『日本国紀』のベストセラーを経てのピークであって、
その後は小説家からの引退宣言もしたし、以前よりも存在感が薄れていたと思うのだが。
石戸諭
そんなことはない。百田現象は続いている、というのが僕の見方だ。
新型コロナウイルス禍で、2月末に安倍首相と会食したこともネットをにぎわせた。
百田さんのツイッターでの発信が常にインターネットでニュースになるのはなぜか。
それは彼の発信が、PVにつながるからだろう。
安倍首相と会食したらファンが騒ぎ、アンチも騒ぐことになったのが典型だ。
最近は高須クリニックの高須院長らと愛知県の大村知事への「リコール運動」を始めて右派界隈が盛り上がっている。
『日本国紀』への関心というのはなくなったかもしれないが、彼の立ち居振る舞いが社会を魅了していくという「現象」の本質は何も変わっていない。
百田さんみたいに、言動が常に物議を醸し、世間の耳目を集める人がこれからも出てくる可能性ももちろんある。
それは、右派に限った現象ではない。左派からも出てくるだろう。
小暮聡子
石戸さんは百田さんを、「ごく普通の人」を魅了するポピュリストであると捉えている。
石戸諭
本書にも書いたが、ポピュリズムというのはオランダの政治学者カス・ミュデも言うように、ポイントは対抗運動、対抗言説ということにある。
腐敗したエリートへの対峙と、中心の薄弱なイデオロギーというのが特徴であって、ポピュリストには体系的かつ論理的な一貫性はなくていい。
百田さんだって、あれほど安倍首相に近いと言われていたのに、新型コロナへの対応で中国・韓国からの入国を禁止にしなかったことはおかしいと一転して安倍政権を批判した。
安倍政権と近いかどうかということは、百田さんにとっては関係ない。
自分が思っていることを自分が思うように言っているだけだ。
彼自身にある種のポピュリスト的な才覚があるが、それを無自覚でできているというのが興味深い。
自覚はないし、本人の自意識はあくまでエンタメ小説家なので、政治的な影響力を持ちたいとは思っていない。
大村リコール運動についても同じで、おそらく立ち上がった高須さんへの義理人情のほうが強いのではないか。
小暮聡子
本誌で特集した際、石戸さんは記事をこう結んでいた。
「百田尚樹とは『ごく普通の感覚を忘れない人』であり、百田現象とは『ごく普通の人』の心情を熟知したベストセラー作家と、90年代から積み上がってきた『反権威主義』的な右派言説が結び付き、『ごく普通の人』の間で人気を獲得したものだというのが、このレポートの結論である」と。
面白いのはその先で、「新しい歴史教科書をつくる会」についての第二部が加わった本書では、
第一部の終わりで石戸さん自らがこの「結論」を覆してしまった。
「私もまた百田現象とつくる会現象の類似点に着目した......だが、一連の取材を終えてそのアプローチは間違っていたことに気づかされた。百田現象は『新しい現象』である」と。
これには驚いた。えー、特集の結論、間違ってたの!?と(笑)。
続きはまるでミステリーを読んでいるようで、「きれいに連続しているはず」だった、つくる会と百田現象が実は「断絶」していた、という第二部に突入する。
第二部で90年代後半の「新しい歴史教科書をつくる会」を支えた中心的人物、藤岡信勝氏、小林よしのり氏、西尾幹二氏に取材をしに行って、何が分かったのか。
石戸諭
結論から言うと、百田現象がつくる会から連綿とつながっていた、という見方は間違っていたということを書いている。
表面的な主張が似通っているつくる会と百田現象を、歴史的に連続した流れの中に位置付けるのが社会学者などの見方で、僕もそういうことだろうと特集時点では思っていた。
だが実はつくる会と百田現象の間には明確な断絶があることが、第二部の取材をする中ではっきりした。
つくる会と百田現象につながりを見出すのではなく、断絶のほうこそに本質があるのでは、と考えた。
文芸評論家の加藤典洋さんが晩年に、百田作品について丁寧な論評を残している。
加藤さんは百田論の中で、イデオロギーを「着脱」できるという意味で「新しい作家」だと見事に表現している。
僕のアプローチは加藤さんの影響を受けている。
百田さんにも右派的なイデオロギーがあることはあるが、小説を面白くしたり人を感動させたりするためなら自分のイデオロギーを容易に「着脱」できる。
読みやすくするためにはいろんなことを犠牲にでき、イデオロギーよりも物語としての感動や面白さを優先する。
小暮聡子
百田さんと第二部に登場する3氏の違いについて、石戸さんは後者には「情念」があると書いている。
「著作物に個人の思考の軌跡、情念が刻み込まれてしまう」、「自らの思想を簡単に『着脱』できない」という意味で、百田さんに対して、彼らは「古い」書き手であると。
石戸諭
作品に情念が刻み込まれてしまうのが、第二部の3氏だ。
小林さんの『新・ゴーマニズム宣言』を読めば分かるが、彼はギャグ漫画家としてデビューしているので、わざとギャグをかましたり、わざと不謹慎なこと言ったり、ちょっと過激な振舞いをしながら読ませていくが、通して読んだときに小林よしのりが全く考えていないことをあの中に書くというのは不可能だということが分かる。
わざと露悪的にふるまうことがあったとしても、この人が何をどう考えているのかは、否が応でも作品に刻み込まれている。
小林さんがなぜそれを書かなければいけなかったのか、なぜその対象に接近していったのかは、読めば非常によく分かる。
一方で百田さんは、自分はエンタメ小説家だと繰り返し語っているが、本当にその通りだと思う。
「新しい作家」である百田さんの小説を読めば読むほど、百田尚樹という人間は分からなくなってくる。
政治的なイデオロギーと作品は切れており、小説を読めば百田尚樹が分かる、とは僕はとても思えない。
昨年夏に発売された『夏の騎士』(新潮社)という(彼曰く)「最後の小説」には百田さんの特徴が詰まっていて、登場人物たちがものすごくリベラルな価値観を共有している。
反差別的だし、女性蔑視がはびこる世界に反抗する人物も出てくるし、読もうと思えば非常にリベラルな小説に読める。
ところが、本人は右派的なイデオロギーが強い人物だと僕たちは知っている。
じゃあ何のためにこの作品を書いたのかと言えば、物語としてそちらのほうが面白いから、という以上の理由は見出せない。
そこは、小林さんたちとは全く違う。
小暮聡子
本書の冒頭にある、百田尚樹とその読者とは「不可視な」存在である、という問いにも帰結するのかもしれない。
小説を読んでも百田尚樹が見えてこない、それほどに現実とフィクションを混ぜるのが上手いということ?
石戸諭
いや、単純に別物だと思っているのでは。
小説とはみんなを楽しませるものだ、というのが彼の前提にあるので、自分の主義主張とは完全に切れているものが書ける。
百田さんの小説を批評する試みはこれまでにもあるが、多くの場合、作品の中に「百田尚樹」の考えを見出そうとする。
作品には著者の人間性が出ているという前提で読もうとしているが、そのアプローチではなく、主義主張と切れているのだとシンプルに考え直したほうがいいと思っている。
それよりも重要なのは、彼の行動原理というか、思想原理をきちんと読み解くことだ。
小説で言えば、百田さんはイデオロギーを着脱できる。
逆に作品を書く上で、自分のマーケットというものをあそこまで意識し感動させることに徹することができるというのは、ある種の職人気質だと思った。
小暮聡子
藤岡氏、小林氏、西尾氏に取材に行って、彼らの印象は。
石戸諭
小林さんは、この本に書いた通りの人だ。
メディアに多く登場している通りの人間で、裏表がなく、僕に対しても他のメディアに対してもきっと同じ態度なのだろう。
西尾さんは、本人は「保守」と言われることを嫌うかもしれないが、戦後の保守系知識人、という印象だ。
藤岡さんは藤岡さんで、彼なりの誠実さというか、真面目な人だなと思った。
小暮聡子
今回も百田さんや見城さんに会いに行ったときと同じように、3氏が書いたものをすべて読んでから行ったのか。
石戸諭
当然だ。西尾さんの著作は膨大なのでもしかしたら漏れているかもしれないが、取材テーマに関連しているものはすべて読んだし、全集も含めて、書かれているものは可能な限り読んだ。
小暮聡子
石戸さんが立命館大学に入学したのは2002年で、小林氏の『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL
戦争論』が書籍として刊行されたのは98年〜03年だが、大学時代にこうした作品を読んでいたか。
石戸諭
『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』は若干遅れてだが、ほぼリアルタイムで読んでいた。
僕は小林さんの熱心なファンというわけではなかった。歴史認識論争が始まったのが90年代後半で、つくる会が発足したのは96年の12月。活動が本格化した97年〜2000年というのが彼らのピークで、2001年には小林さんは脱退している。
彼らのことは高校生のときからニュースや新聞報道で知っていた。
小暮聡子
本書の序章では、02年に大学に入学すると「キャンパスにはベストセラーを読んで『自虐史観』を『克服した』学生がそれなりにいた」と書いている。
石戸諭
影響を受けていると思しき学生は、文字通りの意味でそれなりにいたということだ。
僕とは考えが違うなと思った。僕は、日本政治史のゼミを受講していた。
指導教官は赤澤史朗先生(立命館大学名誉教授・日本近現代史)で、彼の下でアジア太平洋戦争史について一通り勉強した。
赤澤先生は、朝日新聞の書評委員も務めていたリベラルな歴史学者で、つくる会、そして日本の歴史修正主義というものに大きな警戒心を持っていた。
赤澤先生が非常に面白かったのは、僕が在学していたときに靖国神社について研究しており『靖国神社 せめぎあう〈戦没者追悼〉のゆくえ』(岩波書店、2005年)を書いたことだった。
戦没者の慰霊や追悼がどのように政治的イシューになっていって、靖国神社がその中でどのように変わっていったのかをとても丁寧に研究していた。
政治的には全然立場が違うのに靖国神社に通い、関係者と会話をしながら資料を調べたという話も聞いていた。
政治的な立ち位置が違っても、対象と向き合い、ファクトを調べ積み上げながら考察を深めていくという方法があることを彼の仕事から学んだと思う。
小暮聡子
特集時にも、石戸さんは取材相手や対象に誠実にフェアに向き合おうとしていた。
「批判」ありきではなく、相手がなぜそう思うのか、理解したいという姿勢で「研究」する。その原点が見えた気がする。
石戸諭
僕のスタンスを一言で言うと、人間はイデオロギーだけで判断する存在ではない、という話だ。
この本に出てくる人たちとは、僕とは考え方が全然違うし、政治的なイデオロギーも全く違う人が多い。
考え方は違うが、だからと言って人間として嫌いです、絶対に話したくないということにはならない。
よくあなたは歴史修正主義者に加担するのかとか、差別主義者に加担するのかと言われることがある。
僕としては、書いたものがすべてで、彼らの言説に対しては批判的だが、人間としてすべてを否定したいとは思わないという結論にしかならない。
小暮聡子
それでも中には、イデオロギーが異なる人とは話もしたくないという人もいる。
今はソーシャルメディアもあるので、自分の聞きたいことだけ聞いて、その閉鎖空間の中で特定の信念や意見が増幅され強化されていくという現象もある。
自分と異なる意見の人にアレルギー反応を示し、シャットアウトしないためにはどうしたらいいのだろう。
石戸諭
単純にシャットアウトしないというのは、僕の仕事では大前提だ。
心がけているのは、すごくシンプルな話で、オフラインになることだ。
ネット空間から出て、人間と会って、取材をするという原則に立ち戻る。
取材も本当はオフライン、対面してやるべきで、オンライン取材はあくまで緊急時の手段でしかない。
インタビューは、人に会いに行くまでの過程が大切なのだと思う。
どういう場所を指定してくるか、着ているもの、飲み物の注文の仕方、会いに行くまでの道のり、全体的な雰囲気、何気ない所作などにも人となりが表れる。
インタビューは中身のみが本質なのではない。
その前後も含めてすべてに大切な要素が詰まっている。それは、オンラインでは代替できない。
小暮聡子
生身の人間同士が会うことで、アレルギーが軽減される可能性がある、と。
石戸諭
そういうこともあるかもしれない。
今のメディア業界の傾向は、人に会わなさ過ぎ、SNSの見過ぎということになる。
SNS
に出てくる話なんて所詮は人間の一部にしか過ぎない。
百田さんについて言えば、ツイッター上の発言には、本の中に書いたように僕も非常に批判的だが、あれでもって百田尚樹という人の全部を語り尽くせるとは思えない。
ツイッターの発言だけで彼を語ろうとするなら、それは取るに足らない人物という結論にしかならないだろう。
なぜ百田尚樹という人間にこれだけ多くの人が何らかの反応をしてしまうのか、なぜ彼の本がかくも売れていったのかについての説明はできない。
人間はSNS以外にもいろいろな側面を持って生きている。そこを取材をベースにして描き出すことが、僕の仕事だ。
小暮聡子
本誌で特集を出したあと、リベラル側から「百田尚樹を特集すること自体が相手を利する」とも批判された。
これは石戸さんというより編集部に向けられた声だと思うが、言論の土俵に乗せること自体が危険視され反発を生むというのは、ある意味で特殊な事態だった。
石戸諭
「百田に対する批判が甘い」という声もあった。批判は自由だが、基本的なスタンスとして、この本はまず問いの立て方が違うということは強調しておきたい。
この人は何がおかしいのかを解き明かす、というスタンスだったら先の批判は当然受けるべきものだろう。
だがこの本は、なぜ出てくる人間たちがマーケットを魅了するのか、社会はなぜ彼らに魅了されるのか、という問いの立て方をしている。
だから「現象」という言葉を使っている。
百田さんをみんなで批判してすっきりしたいという気持ちを満たすために本を書くという考えは、僕にはない。
嫌な奴だとみんなで確認し合って留飲を下げることを目的としていない。
小暮聡子
本書で、アメリカのトランプ現象について書いた社会学者A・R・ホックシールドの言葉を引用している。
「わたしたちは、川の『向こう側』の人に共感すれば明快な分析ができなくなると思い込んでいるが、それは誤りだ。
ほんとうは、橋の向こう側に立ってこそ、真に重要な分析に取りかかれるのだ」と。
石戸さんが百田さんやつくる会の3氏に話を聞きに行ったのは、まさに「川を渡る」行為だったと思う。
私はトランプ大統領誕生時にニューヨーク支局にいて選挙取材をしていたが、当時あるトランプ支持者が言っていたのは、「リベラルの人たちは一応は対話しましょうと言ってくる。
だが議論が始まり、意見が異なると、こちらを転向させようとしてくる」と。
石戸諭
まさにそれだ。リベラルはファクトチェックをして、論破して、転向させようとする。
考え方を変えさせようとする傾向がある。そういうことをやれば、相手は意固地になっていくだけだ。
本書にも書いたが、つくる会にしても、対話のチャンネルはあったはずなのに閉ざしてきた責任はリベラルの側にもある。
僕はつくる会が言うファクトそのものについては危ういと思っているし、歴史認識の問題について考え方は違う。
だが、彼ら自身が考えた「問い」そのもの、日本の歴史や歴史教育の在り方とは何かという問いを発したことそのものを否定する気はない。
ポピュリズム運動が起こる理由を丁寧に追うと、多くの場合、彼らは正しい問いを発している。
右派的な歴史観のファクトチェックは大事だが、同時になぜ力を持つに至ったのかということを問うていく必要があった。
日本のリベラルも右派的な歴史観を論破することにリソースを割いたが、対話のチャンネルは閉ざしてしまった。
そこに問題があったのではないか。
小暮聡子
石戸さんはこの本の序章で「本書は、10代の『私』に対する2020年からのアンサーという意味合いがある」と書いている。
学生時代から、右派の主張はあまりに短絡的だと思う一方で、「逆に彼らを批判するリベラル派・左派の言葉は常に『永遠の正論』であり、それ以上のものではなかった」と。
石戸さん自身は大学卒業後、毎日新聞とバズフィードといういわゆるリベラル系メディアに籍を置いていた。
リベラルメディアの責任について思うことは。
石戸諭
繰り返しになるが、右派的な歴史観が力を持った原因の半分は、リベラル側にあると考えている。
歴史認識論争など右派的な言説が出てきた際、リベラル派がやったことは、ファクトチェックだ。
つくる会に対しても、リベラル・左派系メディアが見ようによっては「上から目線」のファクトチェックで対抗した。
相手は間違った歴史観であると強調した。
では、チェックされた側はどうなるか。
さらに左派が言っているファクトはおかしいと反論することになり、論争は平行線をたどった。
自分たちの側に正義があって、ファクトチェックをすれば相手を正せるのだ、という態度で接すれば、相手は意固地になっていく。
つくる会のメンバーからすれば、自分たちは誠実に考えているのに、リベラルメディアに誠実に対応してもらえなかったという気持ちがある。
例えば、藤岡さんには彼なりの、左派からつくる会に転身していく理由がある。
それなのに左派系メディアやその読者は、転身した理由を聞かずにファクトチェックをして、論破しようと試みた。
ファクトというのは問題の1つでしかなかったのだが、それこそが問題のすべてだという風に捉え違えてしまったこと。
これが論争を通じて、右派的な歴史観が広がっていった、より本質的な原因なのだと思う。
論破していこうという姿勢そのものが実は危うかったのではないか。
ファクトチェックと論破の危うさは90年代よりもむしろSNS時代の今にもつながってくる。
僕も含めて人間は自分たちが正しいファクトを知っており、チェックする側に立っていると思ったとき、しばしば正しいことを主張すれば相手の考えは変えられる、という態度をとってしまう。
だが指摘された側は意固地になるし、対話のチャンネルも閉ざされ、指摘された側はより極化していくことがこの本の読んでもらえば分かると思う。
みんな何かしら自分が正しくありたいという気持ちはあるのだろうが、それで人を説得できると思ったら大間違いであり、分断を超えていくために理解していこうとする姿勢も大切だということだ。
小暮聡子
石戸さんのアプローチは、ある意味で「対話」だと思う。
石戸諭
そうかもしれない。論破には可能性はないけれど、相手から何が見えているかを探ることには可能性がある。
僕たちの業界でも「正しさ」で相手を論破しよう、社会を動かそうという傾向が強いように感じる。
だがそれは本来、運動家の仕事であって、ライターの仕事は安易に断罪せず、人、社会や時代を描くことだと僕は思う。
日本に限っても、ノンフィクションの先人たちによる優れた仕事が残されている。
僕はその伝統に連なりたいと思った。
少し言い換えれば、「自分で相手の靴を履いてみること」の可能性を提示したいと思って書いたので、ぜひ関心を持った人に読んでほしい。
石戸 諭(いしど・さとる)
記者/ノンフィクションライター。1984年生まれ、東京都出身。
立命館大学卒業後、毎日新聞などを経て2018 年に独立。
著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)が読売新聞「2017年の3冊」に選出される。
2019年より東京大学非常勤講師。本誌の特集「百田尚樹現象」で、
2020年の「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」を受賞。
本誌でコラム『本好きに捧げる ホメない書評』連載中。
ご意見等がありましたら、think0298(@マーク)ybb.ne.jp におよせいただければ、幸いです。
ホームページアドレス: https://think0298.stars.ne.jp