古代史概説 

2016.1.11 更新2016.1.13, 2017.7.9

 飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本は変革の時代でした。

戦国時代や、明治維新の頃に匹敵するような変革だったのですが、
これらの時代が、歴史小説やテレビの歴史ドラマで頻繁に取り上げられるのに比べて、

日本古代の歴史は、あまり知られていません。

 日本古代史を扱う歴史書や歴史小説を読み始めたのですが、知らない名前が一杯でてきて、
記憶力のおとろえた年寄りには、わけがわからなくなり、何も記憶に残りません。

 これではだめなので、記憶に残るように、ゆっくりと古代史をひもとくことにしました。

  

 さて、話を6世紀の継体天皇から始めます。

506年に武烈天皇が跡継ぎを決めないまま亡くなりました。

507年に、大連(おおむらじ)の大伴金村たちが越前からつれてきた男大迹王が即位し、継体天皇となりました。

(天皇の名前は、おくりなとして後でつけられるのですが、在位中も、天皇名でよぶことにします)

26●継体天皇(450-531) 在位(507-531) 別称 男大迹王(おほどのおおきみ) 父=彦主人王 母=振媛

 継体天皇のもとで、大連(おおむらじ)の大伴金村は、絶大な権力をにぎりました。

527年に、九州は筑紫の国造(くにのみやつこ)である磐井氏が起こした反乱を、
        大伴氏ではなく、物部氏が鎮圧したことにより、権力が物部氏に移行していきます。

 継体天皇のあとは、長子の安閑天皇(466-536)がつぎますが、すぐ亡くなり、弟の宣化天皇(467-539)がつぎますが、すぐ亡くなります。

27●安閑天皇(466-536) 在位(531-536) 父=継体天皇 母=尾張目子媛

28●宣化天皇(467-539) 在位(536-539) 父=継体天皇 母=尾張目子媛

539年に欽明天皇(509-571)が即位します。大連は大伴金村と物部尾輿、大臣(おおおみ)は蘇我稲目でした。

29●欽明天皇(509-571) 在位(539-571) 父=継体天皇 母=手白香皇女

540年に大伴金村が失脚し、物部氏と蘇我氏の勢力争いとなります。

 蘇我氏は、朝鮮からやってきた渡来人を多く家来にしていて、渡来人たちが信仰する仏教を振興しようとしました。

 物部氏は、神道儀式を司る中臣氏を家来としていて、仏教に反対しました。

 552年(あるいは538年) 百済の聖明王が、仏教を伝えます。

 562年、任那の日本府が、新羅に制服されます。

 571年に、欽明天皇が亡くなると、子の敏達天皇(538-585)が即位します。大連は物部守屋、大臣は蘇我馬子です。

30●敏達天皇(538-585) 在位(572-585) 父=欽明天皇 母=皇后石姫皇女

 敏達天皇は、額田部皇女(554-628)を皇后とします。

  額田部皇女(炊屋姫)は、父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘の堅塩媛で、敏達天皇とは異母兄弟で、後の推古天皇です。

585年に、敏達天皇が亡くなると、皇太子がいなかったため、蘇我馬子が推す異母兄弟の用明天皇(518-587)が即位します。

31●用明天皇(518-587) 在位(585-587) 父=欽明天皇 母=蘇我堅塩媛

 用明天皇は、額田部皇女の同母の兄です。

 用明天皇の妻は、穴穂部間人皇女で、父は欣明天皇、母は蘇我稲目の娘小姉君なので、異母の兄妹同士です。

 587年に用明天皇が亡くなったあと、次の天皇を巡って蘇我氏と物部氏が対立して戦争となります。

 物部守屋は、次期天皇に穴穂部皇子(父=欣明天皇、母=蘇我小姉君)を推しますが、戦いに負け、物部氏は権力を失います。

 587年に、蘇我馬子は穴穂部皇子の弟の泊瀬部皇子を天皇にたてて、崇峻天皇(553-592)とし、政権を握ります、

32●崇峻天皇(553-592) 在位(587-592) 父=欽明天皇 母=蘇我小姉君

  蘇我馬子は崇峻天皇が言いなりにはならなかったため、 592年に暗殺し、

  敏達天皇の皇后の額田部皇女を天皇にたてて、初の女帝 推古天皇(554-628)が誕生します。

33●推古天皇(554-628) 在位(593-628) 父=欽明天皇 母=蘇我堅塩媛

 推古天皇は、甥にあたる聖徳太子(厩戸王)(574-622)に政務を代行させました。

 聖徳太子は、600年に第一回遣隋使、607年に第二回遣隋使、608年に第三回遣隋使を派遣しますが

 618年に、隋は、唐に滅ぼされます。

 聖徳太子は、また、冠位十二階や憲法十七条をさだめるなど活躍しましたが、

 聖徳太子は、622年に49歳でなくなり、蘇我馬子も、626年になくなりますが、推古天皇も、628年に75歳でなくなります。

 つづく舒明天皇(593-641)の時は、蘇我馬子の子の蘇我蝦夷(587-645)が権力をにぎります。

34●舒明天皇(593-641) 在位(629-641) 父=押坂彦人大兄皇子 母=糠手姫皇女

 630年に、舒明天皇は、遣唐使を派遣します。

 641年に、舒明天皇が亡くなり、次の天皇の候補は、聖徳太子の子の山背大兄王(?-643)と、 蘇我氏のおす古人大兄王子でしたが、決まらず、

 舒明天皇の皇后であった皇極天皇(594-661)が天皇となり、蘇我蝦夷をついだ蘇我入鹿(610?-645)が、大臣として重用されます。

35●皇極天皇(594-661) 在位(642-645) 父=茅渟王 母=吉備姫王

 643年に、蘇我入鹿は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼします。

 645年に、この事件に危機感を抱いた中大兄皇子(626-672)が、中臣鎌足(614-669)と協力して、蘇我入鹿を暗殺します。

      入鹿の父、蝦夷も自殺し、蘇我氏は滅びます。これを乙巳の変と呼びます。

      この乙巳の変と、その後の政治改革をまとめて、大化の改新と呼びます。

      中大兄皇子は、叔父にあたる孝徳天皇(596-654)を天皇とし、自らは皇太子として政権を運営します。

       皇極天皇から孝徳天皇への天皇位の譲位は、日本史上初のことです。

36●孝徳天皇(596-654) 在位(645-654) 別称=軽皇子 父=茅渟王 母=吉備姫王

 645年に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都します。

 653年に、中大兄皇子は天皇の意に反し、皇極や間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥板蓋宮に戻ります。

   間人皇女は、中大兄皇子の同母妹で、年上の孝徳天皇に嫁いでいましたが、天皇を離れ、母と兄に従います。

   間人皇女は、665年に亡くなりますが、この間、中大兄皇子は、天皇に就かなかったので、中大兄との近親相愛関係をうたがう説もあります。

 654年に、孝徳天皇が亡くなったあとは、655年に母親である皇極天皇を再び天皇として、斉明天皇(594-661)とします。

37●斉明天皇(594-661) 在位(655-661) 父=茅渟王 母=吉備姫王

 660年に、朝鮮半島で百済が滅びます。

 661年に、斉明天皇が新羅出兵準備中に亡くなります。中大兄皇子は、即位せず、皇太子のまま政務を執行します。これを称制と呼びます。

 663年に、百済救援の日本軍が、唐・新羅の連合軍と白村江で戦いますが、 日本軍は敗退します。

 667年に、中大兄皇子は、都を近江大津宮に遷都します。

  668年に、中大兄皇子は、天皇に即位して天智天皇(626-672)となります。

38●天智天皇(626-672) 在位(668-672) 父=舒明天皇 母=皇極天皇

 668年に、中臣鎌足と近江令を制定します。

 669年に中臣鎌足は亡くなります。死の直前に、藤原姓をさずかり、藤原氏の始祖となります。

 671年に天智天皇がなくなると、子の大友皇子が弘文天皇(648-672)になります。

39●弘文天皇(648-672) 在位(672-672) 別称=大友皇子 父=天智天皇 母=伊賀宅子娘

 672年に中大兄皇子の弟の大海人皇子との間に 皇位継承争いが起き、大海人皇子に敗北して、自害します。壬申の乱です。

      中臣氏の要人は、処罰をうけますが、鎌足の子 不比等は、まだ幼かったため処罰をまぬがれます。

 673年に大海人皇子は即位し、天武天皇(631-686)になります。天武天皇は皇族を中心とする政治体制をとります。

40●天武天皇(631-686) 在位(673-686) 父=舒明天皇 母=皇極天皇

 686年に天武天皇がなくなると、鸕野讚良(うののさらら)皇后が政務をおこなう称制をとりますが、

 689年に息子の草壁皇子が病気で亡くなってしまったため、自ら即位して持統天皇(645-703)となります。

41●持統天皇(645-703) 在位(690-697) 父=天智天皇 母=蘇我遠智娘

 697年に譲位し、息子の草壁皇子の子の軽皇子が即位して文武天皇(683-707)になります。

42●文武天皇(683-707) 在位(697-707) 父=草壁皇子 母=阿陪皇女(元明天皇)

 藤原不比等の娘 宮子(?-754)が文武天皇の夫人となります。宮子は首皇子(後の聖武天皇)を産みます。

 701年に、文武天皇は、大宝律令を制定します。藤原不比等はこれに中心的な役割を果たし、政治の表舞台に登場します。

 707年に文武天皇がなくなった時、子の首皇子(おびとのみこ)は7歳だったので、
      文武天皇の母である阿部皇女が即位して元明天皇(660-721)となります。

43●元明天皇(660-721) 在位(707-715) 父=天智天皇 母=蘇我姪娘

 710年に、平城京遷都が行われ、718年には養老律令が制定されます。

 715年に、元明天皇は、老いを理由に譲位し、娘の氷高(ひだか)皇女が即位して元正天皇(680-748)となります。

44●元正天皇(680-748) 在位(715-724) 父=草壁皇子 母=阿陪皇女(元明天皇)

 720年に、藤原不比等がなくなると、天武天皇の孫である長王屋(684-729)が権力を握ります。

 724年に、元正天皇は譲位し、皇太子である首皇子が24歳で即位して聖武天皇(701-756)となります。

45●聖武天皇(701-756) 在位(724-749) 父=文武天皇 母=藤原宮子

 729年の長屋王の変で、謀反の罪を着せられた長屋王が自殺し、藤原不比等の子の藤原四兄弟が権力をにぎります。

 聖武天皇は、藤原不比等の娘 光明子(701-760)を非皇族として初めて皇后とします。

 光明皇后は、聖武天皇を超える権力者として君臨しました。

 737年に、藤原四兄弟は、はやり病で相次いで亡くなり、橘諸兄(684-757)が登場し、吉備真備や玄靴鯏侏僂靴董
        藤原氏が権力を握る政治ではなく、天皇が権力を握る律令国家体制の構築を進めます。

 740年に、藤原四兄弟の四男 宇合の子の藤原広嗣が乱を起こしますが、鎮圧されてしまいます。

 749年に、聖武天皇は譲位し、娘の阿部内親王が即位して孝謙天皇(718-770)となります。

46●孝謙天皇(718-770) 在位(749-758) 父=聖武天皇 母=光明皇后

      孝謙天皇の母は、不比等の娘 光明子で、光明皇太后(701-760)と呼ばれていました。

       光明皇太后は、藤原四兄弟の長男武智麻呂の子 藤原仲麻呂(706-764)を登用します。

 756年に、聖武上皇が亡くなると、藤原仲麻呂の権力はますます強くなり、橘諸兄の権力は衰えます。

 758年に、藤原仲麻呂は、孝謙天皇を譲位させ、皇太子の大炊王が即位して淳仁天皇(733-765)となります。

47●淳仁天皇(733-765) 在位(758-764) 父=舎人親王 母=当麻山背

 760年に、光明皇后が亡くなると、孝謙上皇は、道鏡(700-772)を登用し、藤原仲麻呂と対立します。

 764年に、藤原仲麻呂は恵美押勝の乱を起こしますが敗死します。恵美押勝は、仲麻呂が淳仁天皇からもらった名前です。

       孝謙天皇は、淳仁天皇を廃し、皇位に復帰して、称徳天皇(718-770)となります。

48●称徳天皇(718-770) 在位(764-770) 父=聖武天皇 母=光明皇后

 道鏡は、どんどん出世し、太政大臣禅師・法王となります。

 770年に、称徳天皇が亡くなり、光仁天皇(709-782) が即位すると、道鏡は勢力を失い、左遷されます。

49●光仁天皇(709-782) 在位(770-781) 父=施基親王 母=紀橡姫

 781年に、光仁天皇は譲位し、桓武天皇(737-806)が即位し、平安時代の誕生に進んでいきます。

50●桓武天皇(737-806) 在位(781-806) 父=光仁天皇 母=高野新笠

  

 さて、ここまでに、古代の八代六名の女帝が全員登場しました。

 古代の歴史は、大伴、物部、蘇我、藤原などの豪族の権力闘争の歴史としてみることができます。

闘争は、単に武力闘争だけでなく、天皇家と婚姻関係を結び、娘に皇族を産ませることによっても行われます。

蘇我氏や藤原氏が、どのような政略結婚をすすめたかという観点からも、以下に、具体的に眺めていこうと思います。

  

2016.1.14

 さて、8代6名の女帝を比較してみますと、

推古天皇は、敏達天皇の皇后で、菟道貝蛸皇女・ 竹田皇子・小墾田皇女・尾張皇子・田眼皇女を産み

皇極・斉明天皇は、欽明天皇の皇后で、漢皇子・ 天智天皇・ 間人皇女・ 天武天皇を産み

持統天皇は、天武天皇の皇后で、草壁皇子を産み

元明天皇は、天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子の正妃で、文武天皇と元正天皇を産み

元正天皇は、独身で即位し、子はなく、皇太子は、同母の弟の文武天皇で

孝謙・称徳天皇は、独身で即位し、子はなく、皇太子もいなかったが、死後、白壁王を指名する遺詔が偽造され、

 光仁天皇が即位しました。

 

 これらの女帝に共通して、在位中は、独身でしたので、女帝の配偶者はいませんでした。

 また、皇太子に関しては、元正天皇は、未婚で独身でしたが、皇太子は弟の文武天皇ときまっていたのに対し、

孝謙・称徳天皇は、親の聖武天皇と光明皇后に男子の子がなく、史上唯一の女性皇太子となったうえに、

自らも子がなく、皇太子もいなかったため、次の天皇を決めるときに問題が起きました。

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


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