小林秀雄 学生との対話 (2014) 

2019.7.18

 この本の著者は、小林秀雄ではなく、国民文化研究会・新潮社編となっています。

 国民文化研究会と大学教員有志協議会は、昭和31年から、毎年8月に「全国学生青年合宿教室」を開催してきました。

(この教室は、現在も続いていて、平成30年は、第63回が開催されました。)

 小林秀雄は、昭和36年(1961年)、昭和38年、昭和45年、昭和49年、昭和53年(1978年)の5回、九州で開催されたこの教室で、

全国60余の大学から集まった三〜四百名の学生や青年を前に講義し、講義後、約1時間質疑の時間をもちました。

 最初の昭和36年は、福田恆存さんに依頼予定だったのですが、先生の都合が悪く、先生の紹介で、

小林秀雄講義となりましたが、小林は、録音は、認めない、NHKにすら許したことはないと条件を付けました。

また、合宿記録の作成の時、小林は、講演を活字にすることも拒絶したため、

参加学生の聴講記に小林が目を通すという形をとりましたが、聴講記は、朱でびっしりと訂正加筆されたそうです。

2回目からは、速記原稿に自ら加筆し、質疑・応答記録の収録も許可されたそうです。

 そして、無いはずの録音ですが、主催者側は、小林の逆鱗にふれるかもしれない恐怖と戦いながら密かに録音したのです。

この録音は、小林の死後、遺族の英断により、「新潮CD 小林秀雄講演」(全8巻)に収録されました。

 今回、学生たちの質問と、小林秀雄の応答の様子を、後世に伝えるために、この録音を文字化し、

小林秀雄の著作権継承者の白洲明子さんの承認を得て、出版に至ったわけです。

 

 対話の様子を、一部、紹介します。

講義「現代思想について」後の学生との対話 昭和36年8月15日 長崎県雲仙

53頁

小林 さあ、何でも聞いてください。

  何でも聞いてくれてかまわないが、僕はどんな質問にも答えるということではありませんからね。

  僕の仕事は質問に答えることではないですから(会場笑)。

  むしろ、僕はいつだって問題を出したい立場なのです。

  僕は明治大学で十年ばかり教えていました。

  そこでよく質問時間というのをこしらえまして、生徒諸君にいろんな質問をさせたのです。

  それで生徒諸君が何か質問をしますと、「どうして君はそんな質問をするのか?」と逆にきいたものです。

  ずいぶん、そういうことがありました。

  うまく質問するのは、なかなかむつかしい。

  問題がなければ質問しないわけだが、その問題が間違っていたらしようがないでしょう。

  うまく問題を自分でとらえて、質問をしなければいけない。

  たとえば、「自分はどう生活したらいいでしょうか?」と質問する。

  これは問題をとらえていない証拠ですね。

  こんなことはいったい、人に問うべきことであるか、黙って自分で考えるべきことであるか。

  そんなことも考えなければいけない。

  いや、質問は承りますよ、承りますが(会場笑)、うまく質問してください。何でも話しますから。

79頁

学生E 私は高校時代に先生のお書きになった『私の人生観』という著作を愛読し、

  とくに先生があの中でおっしゃっていた「直観」という言葉に感銘を受けました。

  感銘は受けましたが、まだ私みたいな凡人は、その直観というような境地に到達することはできないでいます。

  どうしても物事を考える場合に、分析するというような手段につい頼っていまうのです。

  大学に入ってすぐベルグソンの『変化の知覚』も詠みましたが、分析を非難していまして。。。。

小林 両方使えばいい。直覚も分析も使えばいいのです。

  ベルグソンの分析というのはきわめて鋭いですよ。あなたがお読みになっても、そう思うでしょ?

  直覚したところを分析するんです。

  けれど、分析したところは直覚にはならない、とベルグソンは言っているだけです。

  逆は真ではないと言っているだけです。分析から直覚に行く道はない。

  でも、直覚から分析に行く道はあるんです。科学者も実はそれをやっているのです。

  (中略)

  彼らの仕事そのものの中に入ってみますと、やはり立派な科学者は非常な直覚力を持っています。

  

講義「信ずることと考えること」後の学生との対話  昭和49年8月5日 鹿児島県霧島

116頁

小林 僕にばかりしゃべらさないで、諸君と対話しようじゃないか。

  僕は学校の先生をしていたことがあって、「質問は?」とよく学生に訊いたものです。

  すると誰かが質問するね。「なんだ、おまえ、なぜそんな質問をするか」と怒ったりした(会場笑)。

  そういう覚えがあります。

  実際、質問するというのは難しいことです。

  本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。僕は本当にそうだと思う。

  ベルグソンもそう言っていますね。

  僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与える事はおそらくできない。

  ただ、正しく訊くことはできる。

  だから諸君、正しく訊こうと、そう考えておくれよ。

  ただ質問すれば答えてくれるだろうなどと思ってはいけない。

  「どうしますか、今の、現代の混乱を?」なんて問われてもどう答えますか。

  質問がなっていないじゃないか。

  質問するというのは、自分で考えることだ。

  僕はだんだん、自分で考えるうちに、「おそらく人間にできるのは、人生に炊いて、うまく質問することだけだ。

  答えるなんてことは、とてもできやしないのではないかな」と、そういうふうに思うようになった。

  さあ、何か僕に訊いてみたいことはありますか。

144頁

学生E 物事を学ぶ姿勢について質問させて下さい。

  信じることと疑うことと問うこと、この三つが重要だと僕は思ってきました。

  一生懸命信じようとしたり、いやそれだけではいけない、疑うことも必要だと考えたりしております。

  『学ぶ』には何が最も大切なのでしょうか。

小林 これも大きな問題だなあ。そういうふうに抽象的な質問をなさるが、君はもういろんなことを信じていますよ。

  君、自動車に乗るでしょう? その時、君は運転手を信じているじゃないか。そうだろう?

  「信じているだけではおかしいんじゃないか。どうして俺はこの運転手を信じているのかな」なんて疑うことある?

学生E いいえ、ありません。

小林 ほら、そんなところから初めたまえ。

  三つのうちのどこから始めたらいいかなどという、そんな抽象的な質問には僕は答えない。

  そういう抽象的なことではなくて、君が本当は信じているのに、信じていることを知らないことが沢山あるのではないかな。

  自分の目の前のことをよく調べなさい。

学生E はい。

小林 疑う、ということも同じです。本当に自分は疑っているのかなと、まず疑ってごらん。

  君はちっとも疑っていないかもしれない。そういう身近な、日常生活のことから考えてみたまえよ。

  そうすると、信ずるとはどういうことか、疑うとはどういうことか、だんだんと自分の経験によってわかってくるようになります。

  今の君のように、抽象的に質問してはいけないな。

  質問というものは難しいものだね。問うということは、難しい。

 

 

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