金谷武洋 日本語文法の謎を解く-- 「ある」日本語と「する」英語 (2003) |
2015.3.14 更新2019.10.18
著者の金谷(かなや)さんは、東大卒業後、24歳でカナダのケベック州に来て、人と土地に一目ぼれして、移住を決意し、
通訳や日本語教育にかかわる仕事をして、モントリオール大学で日本語を教えるようになって、早14年、
「英語、フランス語などの西洋の言葉と日本語の根本的な発想や世界観の違いがどの文法書にも十分記述されていないこと」から
英語と日本語の根本的な発想の違いを解説しようと、この本を書かれました。
第1章 「日本語と英語の発想の違い」 で、まず、英語が上達するための2つの鍵が紹介されますが、
その1は、発声法です。日本人は、静かに礼儀ただしく話すという文化に元に育ちましたが、
英語でしゃべるときは、はっきりと目立つように話して、自己主張しなければなりません。
英語の歌を、沢山、聞き込み、歌い込むのが、近道だそうです。金谷さんは、ビートルズ世代でた。
そして、もう一つの鍵が、発想法 で、自分の言葉で述べられる意見を持ちなさい ということなのですが、
しかし、ここに、大きな問題があります。
日本語は、現実を「人間の積極的な行為」として表現することをしないで、
「何かがそこに自然発生的に起こる」、「ある状態で、そこにある」という発想を基本に言葉を組み立てるのです。
この違いの典型は、「富士山が見える」という日本語と、「I see Mt. Fuji.」という英語です。
日本語は、富士山が見えるという環境であることを説明しますが、
英語では、私が見るという行為文によって、他の人も見る事ができる環境であることを知らせます。
つまり、はっきりと、よく通る声で、相手の目を見つめながら、行為文を中心とした表現で、自分の意見を押し通すのが英語だというのです。
つぎに、第2章 「日本語と英語の主語」 の冒頭を引用します。
(前略) 日本語は人間を表すよりは自然中心の言語表現が多い。
英語はその逆で、人間と、その行為をせっせと表現する。意図を持った行為として言語表現する傾向が非常に強いのだ。
日本語を「ある言語」、英語を「する言語」と呼ぶ理由である。
第2章では、日本語と英語の発想の違いを示していると思われる事項をさらに追って行く。
その中心となるのは「主語」を巡る問題である。
金谷さんは、ここで、英語のI see Mt. Fuji.は、I という主語が有るのに対し、
日本語の 「富士山が見える」には、主語が無いと主張されます。
英語では、私が、目の前の富士山を見ています、もしくは、見ることができます、と言うことにより、
目の前に、富士山があることを示します。
これに対し、日本語では、私は、主役ではなく、目の前に、富士山の見える景色があることを
「今日は、寒いですね。」 のような文章にも、主語は無いでしょうと、いうわけです。
主語については、「象は、鼻が、長い。」という文章においても、結構、難しい問題で、解決は得られていません。
私見ですが、日本語は、省略の激しい文章です。
「僕は、カレーだ。」という文章は、「僕が(食べたいの)は、カレーだ。」の省略形です。
「こんにゃくは、太らない。」という文章は、「こんにゃくは、(食べても)太らない。」の省略形です。
英語では、このような省略形は、成立しないのですが、中国語では、あり得るのではないかと推察しています。
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