五木寛之 はじめての親鸞 (2016) 

2016.9.16

 五木寛之さんは、小説「親鸞」の連載を、2008年と、2011年と、2014年に、1年書いて2年休むというサイクルで、

足掛け7年にわたって、新聞に連載しました。単行本は、親鸞親鸞激動篇親鸞完結篇として出版されましたが、

完結篇の出版を記念して、新潮社が、著者を講師として、2015年の1/23, 2/27, 3/27の3回 各90分の新潮講座を開催しました。

講演のタイトルは、「人間・親鸞をめぐる雑話 −今を生きるヒント−」です。

 そして、この講演に加筆修正して、本書「はじめての親鸞」が、新潮新書として出版されました。

 

 あとがきに、五木さんは語ります。

 私は九州人の例にもれず、雑談が大好きだった。徹夜で話し込んでも、まったく飽きるところがない。

 新潮社から小人数の講座で話をしてみないかとすすめられて、すぐにOKした。

テーマが親鸞ということで、雑談ならいいです、と応じたものの次第に心配になってきた。

(中略)

 学問の対象としての親鸞はともかく、生きた思想として親鸞を語るのは、ほとんど語り手の推測にすぎない。

親鸞について語る人びとは、彼に托して自分を語っているのではないか、と感じている。

 要するに親鸞は、わからない人である。だからこそ、これだけの親鸞論が書かれるのだろう。

そんな幻のような人物について、どう語ればいいのか。熱心な受講生のかたがたを前にして、私に何ができるのか。

 

 さて、初回の講座は、以下のように始まります。

 こんばんは、五木寛之です。

 この会は40〜50人ぐらいのこぢんまりした会だと聞いていたものですから、座談会風に膝を交えてお話ができるか

と思っていましたが、百人を超えるかたがたが壁際までお座りになっていて、ちょっと驚いています。

(中略)

 さて最初にお断りしておきますが、私は宗教学者でも研究者でもありません。

 この講義のお題は、「人間・親鸞をめぐる雑話」。

 つまり一人のもの書きが親鸞についてあれこれ考えてきたこと、耳学問で聞きかじったことなどを、

雑談ふうにお話しするものです。

 

 さすがに、親鸞について長編の小説を書かれただけに、話すネタは、豊富に持っておられます。

新書本になりましたので、読むことに厭わなければ、講座の受講料よりもずっと安く内容を知ることができます。

 

 内容を、少しだけ紹介します。

 親鸞には、先輩弟子の聖覚が書いた「唯信鈔」を説明した「唯信鈔文意」という手書きの文章が残っていて、

その字について、五木さんは語ります。

 まず、律義ですね。伸ばすところはきちんと伸ばし、はねるところはきちんとはね、

一点一画たりとも無駄にしない。とても80歳を過ぎた人の筆づかいとは思えない律義さと、

ある種の人間的な厳しさがにじみ出ている感じがします。

 それと親鸞の文章には、何となれば、しかるがゆえに、といった言葉づかいが非常に多いのが特徴です。

なぜならば、したがって、みたいなもので、仮に「信心が大事だ」と言ったとすると、「何となれば・・・・・・」と必ず来る。

次いで、「しかるがゆえに」とえんえん続く。じつに緻密に、論理的に話を詰めていくわけです。

(中略)

 それだけに正直なところ、私自身は少々うっとうしい感じもするのです。こういう人と三日も顔を突き合わせていたら、

ずいぶんしんどいだろうな、とても長くは一緒に暮らせないなあ、そんな感じがしてきます。越後に行ったまま、結局、

親鸞のもとに帰ってこなかった恵信尼という奥さんの気持ちも、何となくわかる気もしないではありません。

 ただ、そういう稀有な人だからこそ、時代を超えて人々に関心を持たれる存在なのであるとも言えるでしょう。

 そして、しばらく話を進めたあと、次のようにしめくくります。

 それはともかく、最初に申し上げたように、「しかるがゆえに、なぜゆえに」と一言一言、論理的に詰めていく冷徹この上ない親鸞と、

別の一面では、今様の七五調の歌詞をそのまま和讃に使うような、どこか古い懐メロを懐かしむような親鸞、そして、

忘憂という言葉を口にする親鸞がいる。そこからここまでの距離感というのは、大変に幅が広いのです。

 私たちは、試行錯誤しながら、今にいたるも親鸞の姿を模索し続けています。

 

 また、小説を書く上での苦労話を一つ紹介します。

 60歳過ぎから90歳で亡くなるまでの約30年間を考えると、親鸞はどういう思想を持っていたか、誰と何をしていたか、

ということよりも、具体的にどんな生活をしていたのか。それが小説家として親鸞を描くときに、非常に興味深いところでした。

(中略)

それから布施を受けるときはどうしたか。最初はなかなか苦労したようですが、やがて関東の門徒たちが定期的、

あるいは時に応じてお金を送ってくれるようになりました。親鸞を支えるための篤志みたいなものを受けることで、

養われて生きていたようです。(中略)

 では、そのお金はどうして運んでいたか。おそらく何か私的な約束手形か、為替のようなものがあったのではないかと

私は想像します。そういうことは鎌倉よりも後からでしょう、と学者さんには否定されますが、やはり何か証文のようなものを書いて、

半分破ってそれを渡し、残りの片方の半分を持っていって京都のどこかの金貸しに見せると現金に換えてくれる。(中略)

そんなことができたんじゃないかと思うんです。

 

 また、最終日には、質疑応答の時間をもうけましたが、次の三つの質問が掲載されています。

Q1.歎異抄で、「善人なほもつて往生をとぐ」の後に、「悪人成仏のためなれば、他力をたのみてまつる悪人、

 もつとも往生の正因なり」とありますが、イスラム国の名で、悪行を行う者に対してもこの言葉は適用されるでしょうか。

 もし現代に親鸞がいれば、イスラム国の悪行に対して、どう対応したと思われますか。

Q2.神や仏を親鸞は認めるのか、認めないのか。それとも弥陀一仏に帰命し、ほかの神様なぞ拝むなと言っているのでしょうか。

Q3.親鸞の思想がキリスト教に通じると言われるのは、なぜでしょうか。

 いずれも、簡単には答えられない質問で、五木さんも、多くの言葉を使って、回答されました。興味あるかたは、原書をお読みください。

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


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