井上ひさし 国語元年 新潮社版 (1986) 

2015.11.28

 ウィキペディアによると、井上ひさしの国語元年は、1985年にNHK総合テレビで放送されたテレビドラマで、
このテレビ版の戯曲は、中公文庫で出版されています。

 また、舞台版の国語元年は、1986年にこまつ座により初演され、この舞台版戯曲は、新潮社により出版されています。
テレビ版と、舞台版では、内容に相違があるようです。

 私が、図書館で借りてきたのは、舞台版の方で、表紙に新潮社版とうたっています。
こまつ座のホームページをみると、2015年の9月にも、公演が行われたようです。

 以下に、新潮社の舞台版の戯曲の内容を紹介します。
舞台を見る予定で、事前に内容を知りたくない人は、読まないでください。

 

とき 明治7年(1874) の夏から秋にかけて

場所 東京麹町番町

登場人物 最後に初演時の配役を示します

 南郷清之輔 32歳 文部省学務局四等出仕小学唱歌取調掛・全国統一話言葉制定取調掛 婿養子 主として長州弁 佐藤B作

 南郷 光 28歳 妻 鹿児島弁 春日宏美

 南郷重左衛門 58歳 隠居 鹿児島弁 下條正巳

 秋山加津 34歳 女中 江戸山の手言葉 三田和代

 高橋たね 50歳前後 女中 飯炊き婆さん 江戸下町方言 杉山とく子

 大竹ふみ 21歳 女中 羽州米沢弁 神保共子

 広沢修二郎 20歳 書生 名古屋弁 鷹尾秀敏

 江本太吉 20歳前後 ピアノ弾き アメリカ帰り 主として無口 村山俊哉

 築館弥平 40歳前後 奉公人 車夫 南部遠野弁 坂本長利

 御田ちよ 28歳 大阪浮世小路の女郎 大阪河内弁

 裏辻芝亭公民 38歳 公家 京言葉 すまけい

 若林虎三郎 40歳 盗人 会津弁 夏八木勲

 

 国語元年は、(たぶん実在した)南郷清之輔が、文部省学務局で、全国統一話し言葉の制定を命じられ、奮闘する場面を描いています。
最終的には、失敗し、学務局も廃止され、本人も精神的におかしくなってしまいます。
最後のナレーションで、20年後の明治27年秋、東京本郷の東京瘋狂院で死亡と、悲しく紹介されます。

 舞台が始まると、場所は、南郷清之輔の屋敷内で、書生の広沢修二郎がピアノを弾いて、南郷の家族や奉公人たちが、
「むすんでひらいて」のメロディーで、南郷清之輔作詞の「案山子」を、必死に歌っています。

 書生の広沢修二郎が、客席に向かって、ご主人様の南郷清之輔は、文部省学務局四等出仕の小学唱歌取調掛で、
小学唱歌集の編纂がやっと完了したところだと紹介します。

 舞台版では、ピアノの伴奏で唱歌を歌う場面が何回かあります。
この戯曲全体をとおして、当時の話し言葉は、互いに大きく違う方言で、言葉も違うし、発音も違うことを、みせつけるのですが、
唱歌の歌詞は、文語調で、方言を超えて理解できるし、みんなで歌を歌うことにより、発音も改善されることを示すがためと思います。

 南郷清之輔は、完成した小学唱歌集を、勇んで、上司の田中不二麿閣下に届けるのですが、
閣下は、それをすぐに机の一番下の引出しにしまってしまいます。

 小学校で唱歌を教えたくて仕方がないけれども、教師も楽器もないので、すぐには、普及できないとの考えからです。

 そして、南郷清之輔に新しい仕事、全国統一話言葉制定取調掛を任命します。

 南郷清之輔は、まず、方言の訛りを調査して、日本語の5つの母音のうち、奥羽地域の人は「イ」と「エ」を同じ音と思っていることから、
まずは、発音の矯正が必要ということで、南郷式唇稽古による全国統一話し言葉制定法の制定を検討します。

 しかし、発音を治しても、単語自体が違っているとの指摘をうけて、全国統一話し言葉の制定を検討します。
普段の生活にどうしても必要な880語を選んだ「全国統一話し言葉語林集成」を作成するのですが、
どの方言からどの言葉を採用したかで、戦争にもなりかねないほどの争いが起きてしまうことに困惑します。

 次に考えたのが、文明開化語です。これは、動詞の活用をなくし、文末には「ス」をつける。否定のときは「ヌ」をつける。
命令のときには「セ」をつける。疑問のときは、「カ」をつけるというような規則です。

 しかし、この文明開化語で、女子を口説くことができるか、押し込み強盗ができるかなどの実験で、はちゃめちゃの事態になります。

 そして、最後のエピローグで、この文明開化語が、田中不二麿閣下のお気にめさず、激しく叱責され、学務局が廃止となったところで、
劇は終了します。

 

 登場人物が、みな違う方言を話します。さて、劇場で聞いて、どこまでわかるでしょうか。
また、唱歌のできたての頃は、どんな歌だったのでしょうか。

 いろんな実験を試みた、意欲的な演劇だと思います。

2015.11.29

 国語元年は、日本人が、共通語を求めて努力する様子を描写して、記録にとどめてくれる貴重な作品ですが、
その数年前の1981年に井上ひさしさんが発表した「私家版日本語文法」にも、面白い描写がありますので、紹介します。

(ここから)
 ズーズー弁圏内の国民学校であればいずこも事情は似たようなものだったろうと思われるが、
わたしたちの学校の朝礼はいわば方言矯正のためにあった。

校長訓話に続いて体操があり、そのあとに教頭が登壇して「口の体操」(とわたしたちの学校では呼びならわされていた)が
たっぷり七分間は行われるのが常だったからである。

 この「口の体操」は三部からなっていた。第一部は全校生徒口を揃えてアイウエオからワヰウヱヲンまでを五回繰り返す発声練習、
第二部は教頭が蒐集した早口ことばの斉唱、教頭が、たとえば「河童は途中で脚気にかかり葛根湯をのみました。亀はかまわずかけつづけ、
亀勝った、亀勝った」というような早口ことばを数回唱え、それから「ハイ、四年一組、やってみなさい」と当ててくる。

四年一組は大声でそれを叫び、うまく行けば褒められ、言い損ねたりだれか訛っていたりすると叱られるわけだ。
第三部はその日一日、なにを心掛けてすごすかについてのおはなし。

「友だちを呼ぶときは『きみ』と言いましょう。口が曲がっても『にしゃ』と言ってはいけません。今日一日で『にしゃ』と呼びかける
悪い癖を直しましょう」などとさとされて教室に入る。

 ところで、この第三部で教頭は十日に一度はこんなことを言った。

「どうしてみなさんは『オレ、腹減った』というふうに言ってしまうのでしょう。なぜ『オレは腹が減った』ときちんと言えないのですか。
何度注意してもだめなんですね。先生はほんとうに悲しい・・・・」
(ここまで)

 「おら、東京さ行くだ」を「私は、東京に行きます」と言えるようになるには、それなりの時間が必要だったんでしょうね。

 明治以降、ラジオやテレビが発達して、標準語で会話されるのを直接体験できるようになったのが、一番効果があったのではないかと思います。

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/


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