池央耿 ヘンリー・ライクロフトの私記 2013

2017.7.7

 別の頁で、ヘンリー・ライクロフトの私記の対比訳をしましたが、そのために、以下の本を所有していました。

 平井正穂訳註 ヘンリ・ライクロフトの私記 上巻 開文社英米文学訳註叢書39 1953

 平井正穂訳註 ヘンリ・ライクロフトの私記 下巻 開文社英米文学訳註叢書40 1954

 市河三喜註釈 ヘンリー・ライクロフトの私記 研究者英米文学叢書42 1954

 土方辰三訳注 ヘンリー・ライクロフトの手記 旺文社学習ライブラリー16 1966

 平井正穂訳 ヘンリ・ライクロフトの私記 ワイド版岩波文庫59 1991

 そして、池央耿さんの新訳とうたわれている光文社古典新訳文庫の本書を購入しました。

 光文社古典新訳文庫は、「いま、息をしている言葉で」が、モットーなのですが、池さんの翻訳には、やたら古い言葉がでてきます。

 例えば、訳者あとがきの 池さんの語り言葉は、以下のようです。

まさかの僥倖から糊口の憂いなく住み慣れたロンドンを捨てて南イングランドの片田舎に引き籠った作家が

おりふしの偶感を筆の遊(すさ)びに書きためた体裁の本書は、・・・

 古いいいまわしを使うのは、確信犯のようです。

 

 池さんは、1940年生まれで、私よりも、9歳年上です。これまでに大量の翻訳をこなされた、精力的なお方です。

最近、『翻訳万華鏡』(2013)というエッセイ集を出されたので、図書館で借りてきました。

 巻末に、池央耿全仕事 1971-2013 というリストがあり、140冊を越えるタイトルが並んでいます。

  

 あとがき の言葉を引用します。

 文中に述べたことのくり返しながら、どの語族とも類縁関係のない日本語の風景にふと惹かれたのがきっかけでこの道に入った。

すでに文語はあらかた消え失せて、おまけに日常の交互までが急激に変化しはじめた頃だった。

言葉が世につれて変わることに何の不思議もないのだが、あまりに急な変化は意思の疎通を妨げて世代間に断絶を来す。

変化はどの国の言葉にもあるけれど、日本語にくらべて緩慢なのは古典が生きているためだ。

翻訳の現場に身を置いていると、それを強く意識せずには済まない。

イギリスの作家ジョージ・ギッシングはシェイクスピアが母国語で読めることをイギリスに生まれてよかったと思う理由の筆頭に挙げている。

「どの国にも、国民文学を代表する詩人がいていいはずだ。

詩人、すなわち国であり、その国に固有の崇高な文化の香りを体現する存在でもあって、つまりは幾世代にもわたって人々が築き上げた国民性という無形遺産のすべてである。」

 参考のため、引用の部分の原文と私の翻訳を示しておきます。

Let every land have joy of its poet;  すべての国に、その詩人の喜びを持たしめよ。

for the poet is the land itself, all its greatness and its sweetness, all that incommunicable heritage for which men live and die. 
詩人はその国そのものであり、その偉大さ、その甘美さであり、人がそのために生き死にする伝達不可能な遺産であるが故に。

 イギリスでは、ほぼ、200年前に出版されたオースティンの『高慢と偏見 (pride and prejudice)』が、未だに、読まれ愛されていると聞きます。

ギッシングのこの本も、古典として読まれています。

ここに使われている英語は、決して、口語ではなく、文語なのです。

日本では、明治以降に、言文一致運動があったため、書き言葉と話し言葉が、限りなく似通ったものになりました。

 上記の部分は、平井さんの岩波文庫版では以下の様に、言葉をおぎなったものになります。

あらゆる国々はその国固有の詩人を享受するのがよいのだ。

詩人はその国土そのものであり、その国の偉大と美のすべて、その国民が生死をかけた、ほかに伝えることのできない遺産のすべてだからである。

 平井さんの翻訳は、まだ簡潔な方ですが、多くの翻訳は、説明用の語数を追加して、原文よりもかなり長くなっています。

 古典のように、一回きりではなく、何回も読む場合は、文章は簡潔な書き言葉、すなわち、文語の方がいいのではないかと、私は、思います。

 

 池央耿さんの翻訳文章が、文語の香りを維持しているかどうかは、もう少し読んでから判断したいと思いますが、文語であることと、難しい漢語を使うことは、同じではないと思います。

 池さんは、いささか、難解な漢語を使いすぎているのではないかとは、感じています。

  

2017.7.26

 図書館で借りて来た池さんの『翻訳万華鏡』を、そろそろ返却しなければならないので、今一度、考察してみました。

 池さんは、日本語における漢字の重要性について、「漢字の功罪」という章で、以下の様に説明されます。

維新から明治の中葉にかけて日本が短期間で近代化の実を挙げたのは層の厚い漢学の蓄積があったからで、

漢字の包容力と造語能力が大いに役立った。

それまでにはなかった事物や概念が滔々と流れこんでくる情況に、日本は漢字を組み合わせて新しく言葉を作ることで対応した。

この和製漢語の注入で日本語の語彙は飛躍的に増大したが、一方で、日本語は文字に意味を頼るという特殊事情を抱えこんだ。

漢字で書いてはじめて通じる言葉、「字音語」が幅をきかせるようになったのである。

会話においても、日本人は音声を聞いてほとんど無意識に頭の中で漢字を検索し、咄嗟にどれか一つを選んで相手のいっていることを理解する。

これを何食わぬ顔でやってのける能力は神業に近い。

 

 ここで、字音語とは、音読みで日本語化した文字のことで、漢字とか、音声といった言葉のことです。

 日本人が、カンジ という音を聞いたときに、漢字という文字を思い浮かべているかどうかは、よくわかりません。

ヤマという音を聞いたときに、富士山のような山の影像を思い浮かべるのか、それとも、訓読みの山という字を思い浮かべるのかも、よくわかりません。

しかし、漢語は、短くて便利です。英語の、chinese character は、漢字 の2語で、表現できます。

一方で、カンジには、漢字、幹事、監事など、沢山の同音異義語があります

日本人は、文脈に応じて、最適の漢字の表す意味を思い浮かべるという能力を育てていることは、確かだと思います。

 

 日本人は、漢字にルビをふられた文章を読むことにより、漢字の意味と、字ずらと、読みを覚えました。

ルビがついていれば、余り抵抗なく、文章を読むことができます。

しかし、だからといって、漢語を増やしていくのは、間違っていると思います。

ルビをふるのは、その漢語を覚えるためであって、いつかは、ルビなしで読み書きできるようになるべきなのです

 

 従って、字音語は、必要最低限に絞るべきというのが、私の意見です。

国際化が進み、日本語を外国語として学ぶ外国人が増えてきました。そういう時流においても、言葉の数は、ふやすべきではありません。

 

 国際標準語化した英語は、難しい単語は使うべきではないという国際圧力が強まっていますが、

日本語も、そういう敷居は、下げておいたほうがいいと、私は思います。

 

         

ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/

 


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