法然 一枚起請文 原文 現代語訳 対比 |
2016.4.1
法然(法然房源空)が亡くなる二日前に、弟子の源智の求めに応じて記したもの。
一枚起請文
元祖大師法然上人御遺訓
唐土(もろこし)我が朝(ちょう)に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
(私が説く念仏は) 中国や我が国の諸々の高僧方がお裁きしお申しになる観念(仏や浄土を頭の中に静かに思いえがくこと)の念仏ではありません
又学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
また学問をして、念仏の心を悟ってお申しする念仏でもありません。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思いとりて申す外には別の仔細候わず。
ただ極楽浄土に往生するためには、南無阿弥陀仏とお申しして、疑いなく極楽往生するぞと確信してお申しする以外に何の仔細もありません。
ただし三心四修(さんじんししゅ)と申すことの候は、みな決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと、思ううちにこもり候なり。
ただし、三心四修と申すことがありますが、みな疑いなく南無阿弥陀仏とお唱えして往生するぞと思うことの中に籠もっているのです。
説明 三心四修 念仏を唱える人が備えるべき三つの心「まことの心、深く信ずる心、往生を願う心」と
四つの態度「恭敬修、無余修、無間修、長時修」
この外に奥ふかきことを存ぜば二尊(にそん)のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。
この外に、私が奥深い教えを存じていて(隠している)とするならば、阿弥陀さまやお釈迦さまの慈悲からはずれ、阿弥陀の本願の救いから漏れてしまうでしょう。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学(がく)すとも、一文不知(いちもんふち)の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
念仏を信じる人は、たとえお釈迦様の全生涯の教えをよくよく学ぼうとも、一文さえ知らない者と変わりないことを自覚し、尼とか入道といった愚昧の道心者たちと同じだと思って、知恵があるもののように振舞わず、ただひたすらに念仏しなさい。
為証以両手印 (証の為に両手印を以てす)
以上のことを、私の両手を印として、み仏にお誓いして証明します。
浄土宗の安心起行(あんじんきぎょう)、この一紙(いっし)に至極(しごく)せり。
浄土宗の心の持ち方や行のあり方は、この一紙に書かれていることに尽きます。
源空が所存、この外に全く別義(べつぎ)を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢(おわ)んぬ。
私、源空の中にはこれ以外のお念仏についての考えはありません。
私の滅した後、間違った考え方が出てくるのを防ぐため、考えていることを記し終えました。
建暦(けんりゃく)二年正月二十三日 1212年
大師在御判(だいしざいごはん)
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