ひろさちや どの宗教が役に立つか 新潮選書 (1990) |
2016.4.1
ひろさちやさんは、1936年生まれの宗教評論家で、おどろくほど沢山の本を執筆されています。本名は、増原良彦さんです。
この本は、1988年から1989年にかけて新潮45に発表した6篇のエッセイをまとめたもので、
50歳代初めの若くて元気な論客の雰囲気をかもし出していて、興味深く読みました。
本のタイトル自体も元気ですが、6つの章のタイトルも挑戦的で元気です。
第1章 どの宗教が「安心立命」への近道か
第2章 どの宗教が人間を上等にするか
第3章 どの宗教がご利益を与えてくれるか
第4章 どの宗教が女性に強くなけるか
第5章 どの宗教が「煩悩」に寛容か
第6章 どの宗教が死の恐怖を取り除くか
以下、順に、内容を簡単に紹介しますので、興味をもたれた方は、是非、原書をお読みください。
第1章 どの宗教が「安心立命」への近道か
仏教とキリスト教の違い
イソップの「すっぱいブドウ」は、跳躍してもとどかなかったブドウに対して、「あのブドウはすっぱい」と負け惜しみを言うキツネの話です。
日本人は、これを素直に負け惜しみの話ととるのですが、欧米人は、キツネのやり方を非難するのだそうです。
途中で投げ出して、しかも自分が狙っていた対象にケチをつけるのは卑怯な態度だというわけです。
キツネの態度を是とするのが仏教で、非とするのがキリスト教だと、ひろさんは解説します。
仏教は、基本的に「あきらめ」を説くのです。
神は自動販売機ではない
日本人は、キリスト教の「信ぜよ。さらば救われん」を、信じたら、救いが与えられると受け取りますが、
信じるか信じないかは個人の自由で、信じたら救いが与えられるというのであれば、コインを投入したら、
神はコカコーラを出さねばならないと言うのと同じで、神を自動販売機とみなしていることになります。
「信ぜよ。信じることができたなら、それがすなわち救いである」というのがキリスト教の教えなのです。
続く文章が大切ですので、そのまま引用します。
おもしろいことに、日本の鎌倉時代の親鸞が、同じように考えた。親鸞は、日本人にしては珍しく
『宗教の論理』がわかった人間で、われわれ日本人からすれば逆説(パラドックス)とも思える発言を
しばしばしている。たとえば、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄)といった
「悪人正機説」(悪人こそ救われる)のパラドックスがそれである。しかし、これは、パラドックスでも
何でもなく、単にわれわれ日本人が『宗教の論理』を知らぬだけなのだ。
『宗教の論理』がわかれば、これが『あたりまえ』である。
地獄に予定されている人間
この節は
これを言うと話がややこしくなりそうだが、キリスト教の背景には「予定説」がある。
と、始まります。
日本人は、この予定説が苦手です。万能の神がいて、すべての人の運命はあらかじめ予定されているといわれると、
地獄に予定された人は、いくら善いことをしても地獄に堕ちるのかと日本人は反発しますが、
地獄に予定された人は善いことができるはずがないことに気づいていないのだそうです。
人事を尽くしたら天命はやってくるか
「人事を尽くして天命を待つ」は、中国の格言ですが、日本人はこの格言が大好きです。しかし、ひろさんは
中国人は天命を信じているが、そもそも日本人は天命を信じていない。と言います。
天命は人間の意思を超えたところに存在するのに対し、日本人は人事を尽くせば尽くすほど、天命が変わってくれると
思っているからです。
イスラム教徒の「イン・シャー・アッラー」は、「もしも神が欲し給うならば」という意味ですが、日本人には口が裂けても
言えそうにない言葉だと、ひろさんは言います。
イスラム教徒と明日会う約束をしても、彼が寝坊をしてしまったとき、それは神がそう欲されたからなのです。
イスラムの「お気に召すまま」
ひろさんは説明します。イスラム教もキリスト教も、砂漠に発祥した宗教で、強いリーダーシップの宗教で、
命令型の宗教なので、信者は命令された通りにしていればいいのです。
責任は、すべて命令した神がとってくれるのです。
しかし、日本人は、命令に従う前に、その命令が正しいかどうか、自分で判断しようとするのです。
野球で監督がバントのサインを出したけれど、選手が失敗したとします。監督は選手か悪いといい、日本人は
それをもっともだと思いますが、アメリカ人に言わせれば、そんな選手にバントを命じた監督のほうが悪いのです。
日本人は絶対に命令型の宗教の信者になれない。そう、ひろさんは断言します。
あきらめは明らめよ
日本人には「人事を尽くして天命を待つ」派と、仏教の影響を受けた「あきらめ」派がいて、半々であろうかと、ひろさんは言います。
あきらめる とは、明らかにすることで、駄目とわかったら諦め断念するのです。
ブドウを求めて跳躍してみたけれど、届かないことが明らかになったとします。そのときは、あきらめるのです。
命令型の宗教では、自分勝手に諦めてはいけません。神の御意ではないから、やめるのです。
2016.4.4
次の章に進む前に、第1章について、もう少し考察して、理解を深めたいと思います。。
日本人は、「人事を尽くして天命を待つ」という格言が大好きです。これを、「働き者の論理」と呼ぶことにしましょう。
働き者が大勢いることで、日本は発展しました。日本が優れた製品を生産することで、世界も喜んでいると思います。
世の中が、働き者だけで構成されていて、完全に分業が成り立っていればいいのですが、世の中には、身体的不具合や、
病気などで働けない人もいます。若いときに教育が受けられなくて、能力不足で働けない人もいます。
こういう人たちも、生きる権利はあるわけですから、生活保護など、いろんな制度が必要になります。
他人を支配して、働かさせて利益を得ようとする人たちもいます。
働いて金持ちになった人たちの財産を、暴力で奪い取ろうとする人たちもいます。
つまり、「働き者の論理」だけでなく、「弱者の論理」や、「強者の論理」など、対抗する論理も存在するのです。
そして、さらに、「宗教の論理」が存在します。
宗教が、「あきらめ」を説くだけであれば、他の論理と衝突することはないのですが、何かを主張して、手に入れようとするときには、
他の論理との衝突が起こります。以下の章は、このことを念頭に読み進めたいと思います。
第2章 どの宗教が人間を上等にするか
「高貴なる者」の義務 ノブレッス・オブリージュ noblesse oblige
ひろさんは、金持ちや身分の高いものは、そうでない人々を助けなければならないという考え方は、
だいたいどこの国にもある。ないのは日本だけかもしれない。とおっしゃいます。
イスラム法では、飲酒の罪に対する鞭打ちの刑は、奴隷が40回で済むのに対し、自由人は80回になるそうです。
ひろさんが、インドを旅行していて、しばしば施しを要求されたそうです。胸ポケットにボールペンを2本差していて、
彼が1本も持っていないとすると、ひろさんは一本を施す義務があり、彼は一本貰える権利があるのです。
庶民であることの権利
庶民は、ノブレッス・オブリージュとは無関係なので、気楽に生きることができます。
アメリカの経営学スクールで研修を受けた日本人が言っていたそうです。
「あなたは総務課長です。社長から、次期社長をどう育てればいいか、プランの提出を求められた。
あなたはどうするか?」という課題を与えられたそうです。あれこれプランを考えて提出したのですが、不可でした。
合格したアメリカ人学生のレポートは、「次期社長の育成は、現社長の仕事であって、総務課長の仕事ではない。」
でした。それ以上のことを書く必要はなかったのです。
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