橋本治 これで古典がよくわかる ちくま文庫 (2001) 

2015.11.8

 橋本治さんは、桃尻語訳枕草子や窯変源氏物語など、古典古文の現代語訳を出されていますが、若い人にもっと古典を身近に感じてほしいと、この本を1997年に、ごま書房から出版されました。2001年にちくま文庫になり、求めやすくなりました。

 この本のを書いた目的が、本の最後に、「最後に受験生諸君へ」という呼びかけの文章になっていますので、紹介します。

(ここから)
 実は私は、この本で「受験生用のわかりやすい文学史」を書きたかったんです。

ともかく、そういうものでおもしろいものなんか一つもない −− と言ってもいい状態なんじゃないかと思います。

「受験生用の文学史のテキスト」は。「ともかくこれを暗記せよ」だけなんです。

いくら薄くたって、私は「暗記するだけの本」なんていやです。

「古典の書き出しを暗唱しろ」という人間が「暗記なんかいやだ」というのは、矛盾してるみたいですが、私は、つまんないものを暗記させられるのなんか、死ぬほどいやです。

「あんなつまんない文学史のテキストしかなかったら、大学に行って古典の勉強をする人間が、みんな古典嫌いになっちゃうな」と思います。

それで、こういう本を書きました。
(ここまで)

 枚数の都合で、文庫版では、「室町〜江戸時代の古典」が削除されたようです。

 さて、文学史がわかっても、古典が読めるようにはなりません。著者はいいます。「古典を読みこなすためには、知識が必要であるのは本当だが、その前に、古典に慣れることが必要です。」 そして著者はすすめます。「古典の冒頭を覚えて、暗唱しなさい。」

 古典を読むといっても、古典の原典を読むのと、古典の現代語訳を読むのとでは、取り組み方が違います。著者は、古典の原典を読むことを考えているわけですが、その場合、古典の冒頭から、まず暗唱していくのは、日本の昔からのやり方です。

 さて、橋本さんが説明する文学史ですが、その前半部が興味深く、示唆に富むので、以下に、あらすじを整理して、ご紹介します。

(ここから)
38頁

 漢文は、日本人の使う日本語にあわせて作り変えられた中国製の日本語です。毛沢東をもうたくとうと読むのは、日本人だけです。

漢字だけで書かれた漢文を、日本人はいつの間にか「日本流の読み方」に変えていました。

吾十有五而志乎学 と書いてある文章を 日本人は言葉の順序を変えたり文字をすっとばしたりして、

吾十有五ニ而テ学ニ志ス ワレジュウユウゴニシテガクニココロザス と読みます。

52頁

 日本に漢字という文字が入ってきた時から、日本の公式文書は全部漢文です。

55-56頁

平安時代に、「日記」というものは、男が書きました。日記を書く文体は、漢文に決まっていました。

紀貫之は、わざわざ女になって「土佐日記」(935年) を書きました。

   をとこもすなる日記といふものを をむなもしてみむとてするなり

87,94頁

方丈記は、漢字とカタカナで書かれていました。

ユク河ノナガレハ絶エズシテシカモモトノ水ニハアラズ。澱ニ浮カブウタカタハカツ消エカツ結ビテ・・・

鴨長明が書いた方丈記の原本は残っていないのですが、写本の古いものは「漢字+カタカナ」です。

なぜカタカナなのか。鴨長明は「この文章にひらがなは似合わない」と考えたからでしょう。

鎌倉時代の終わりになると、「漢字+ひらがな」という、我々の知る「普通の日本語の文章」が、やっと登場します。

「徒然草」や「平家物語」がそれです。

一体なんだって「漢字」と「ひらがな」をドッキングさせるだけの作業に、そんなに時間がかかったんでしょう?

130-134頁

「漢字」と「ひらがな」をドッキングさせる作業は、「教養ある大人の男が平気でマンガを読む」というようなものです。

鴨長明の方丈記から兼好法師の徒然草までの百年は、どうやら「大の男がマンガを読むのを当然とするのに要する時間」だったのです。

鴨長明は、平安時代の終わりから鎌倉時代のはじめの人、兼好法師は、鎌倉時代の終わりから南北朝時代にかけての人。

つまり、その間にある鎌倉時代に、「なにか」が起こっていたということなんです。

 鎌倉時代は、武士の時代です。しかし、京都で王朝文化は健在でした。

あるいは、京都ではますます王朝の文化が健在でなければなりませんでした。政治の実権が鎌倉に移ってしまったからです。

 平安時代の貴族は、なんにもしませんでした。

平安貴族がやったのは、「自分たちが楽しむ」ということと「組織内の出世競争」だけで、あとはなんにもしませんでした。

「趣味と人事異動とお祭り」それと「恋」だけで生きていたのが平安時代の国家公務員です。(中略)

「酒飲んで社内の噂話しかしないサラリーマン」というのも、平安時代からの伝統でしょう。

つまり、「文化だけはあったけれども、あとはなんにもなかった」というのが平安時代なんです。ものの見事に、「平安な時代」でした。

 そのノンキな時代が崩れて、「武士の時代」がやってきます。

貴族と武士が戦っても勝てっこありませんが、たった一つだけ貴族にも勝てるものがあります。それが「文化」です。

この時代に京都の王朝文化が盛んになるのは当然です。だって、それをしなかったら、京都の貴族たちは、もうほんとに絶滅するしかなかったからです。
(ここまで)

 これ以降は、まだ読みきれていないので、あらためて、ご紹介します。

 

         

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