浜田けい子 みやこは栄えても 万葉の歌人 憶良 |
2016.11.18 更新2016.11.28
万葉集の現代語直訳も、ゆっくり始めることにしましたが、最初に取り組みたいのが、山上憶良です。
山上憶良は、貧乏な一般の人々の生活を歌う、ユニークな万葉歌人です。
彼の生涯を小説風に書いた本を図書館で探し、さ・え・ら書房から出版されたこの本を見つけました。
子供用に書かれた本ですが、しっかりと書かれた本でした。
著者の浜田けい子さん (本名 濱田慶子)は、1928年大阪生まれて、NHKプロデューサーの浜田泰三さんと結婚し、
児童劇やラジオドラマの制作を始めることになったそうです。2010年に、お亡くなりになりました。
山上憶良は、660年に朝鮮半島は百済に生まれますが、663年に白村江の戦いで日本水軍が唐の水軍に大敗し、
百済が滅亡したため、父の憶仁は、663年か664年に、憶良をつれて日本に渡ります。
父の憶仁は、医師で、天智天皇に仕えるのですが、天智天皇が亡くなり、672年の壬申の乱が起こります。
憶仁は、その後、不遇の時代を過ごし、686年に亡くなります。
702年、憶良 43歳のとき、30年ぶりに再開した遣唐使に加わり、唐に渡ります。3年後に帰国の航海に出ますが、
嵐に会い、幸いにも、唐の海岸にもどります。707年に、今度は無事に帰国します。この時、48歳。
少しずつ官位をあげ、714年に、従五位下になります。従五位下は、国守になることのできる官位です。
716年、57歳のとき、伯耆守となり鳥取に赴任し、4年後の720年に、61歳で帰京します。
725年、66歳のとき、筑前守となり、大宰府に赴任します。
727年に、大伴旅人が大宰帥 (そち/そつ) となり、大宰府に赴任し、憶良とともに筑紫歌壇を形成します。
728年ころ、憶良は、「日本挽歌」をつくり、旅人にささげます。
730年、大伴旅人は、大納言に任ぜられて京に戻るも、病を得て、731年に没します。
732年に、憶良も、大宰府から帰京します。この頃、貧窮問答歌を作ります。
翌733年に、憶良は、74歳で亡くなります。
さて、話を、壬申の乱にもどして、父の憶仁は、天智天皇の子の大友皇子について戦場に出たのですが、
敗戦で、皇子は自殺し、憶仁はとらえられます。
憶良たちは、母や弟たちと、伯父のいる粟田の郷に逃げるのですが、たどり着いたのは、憶良だけでした。
12歳の憶良は、伯父のすすめで、この地の大豪族で、朝廷の高官を務めている、粟田真人の開いている写経所の
写経生となります。
27歳になったとき、憶良は、飛鳥の宮で、粟田真人の下ではたらくことになりました。
真人が太宰府の次官となって筑紫へ下ったときも、お供しました。
また、この間、憶良は、同じく渡来人の娘の麻那と結婚し、長女の春日と、長男憶人、次男憶男の三人の子供にめぐまれました。
そして、遣唐使の派遣が決まったとき、その頭領の押使は、粟田真人だったのです。憶良も、参加することになりました。
唐から、粟田真人とともに無事帰国した憶良は、少しずつ官位をあげて、従五位下となり、伯耆の国の国主となり、
さらに、筑前の国主となります。
憶良が、筑前に着任したのは、725年の10月頃ですが、その1年半後の727年5月に、大伴旅人が大宰府に着任します。
九州11ヶ国の国主が大宰府の都府楼に集まり、旅人を迎えるわけですが、筑前の国主である憶良は、九州の国主代表として
旅人を迎えます。
旅人は、憶良に、8歳の長男 家持の学問や詩、歌の手ほどきを頼みます。
また、旅人が任地に連れてきた妻 郎女 (いらつめ) が、病気でなくなってしまいます。憶良は旅人に歌をささげました。
「妹が見し 棟 (おうち) の花は 散りぬべし わが泣くなみだ いまだ干なくに」
意味:妻も愛していた棟の花は、散ってしまうだろう。妻を失って、悲しみ嘆いていて泣いている私の涙は、まだ乾きもしないのに。
「大野山 霧立ちわたる わが嘆く 息そ (おきそ) の風に 霧立ちわたる」
意味:大野山に霧が立ちわたっている。私の嘆く息で霧となるのだろう。この立ちわたっていく霧は。
また、この時、憶良は、国府を離れ、地方の郡司たちを訪れ、もてなしを受けたおりに、
「父母をみれば 尊し 妻子見れば めぐし愛 (うつく)し ・・・・・・・・・ 」
「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲ばゆ ・・・・・・・・・ 」
「世間 (よのなか) の 術なきものは 年月は 流るるごとし ・・・・・・ 」
と有名な長歌・短歌を組み合わせた三種類の歌を、一気につくりました。
これらの歌と、旅との妻に捧げる歌を、まとめて、「日本挽歌」と題し、旅人に捧げました。
大伴旅人は、都で藤原の鎌足とその子孫達が成り上がっていくやり方に不満をもち、日々、宴を開いて
心をなぐさめていましたが、ある時、月見の宴のおひらきの時が近づいたとき、山上憶良に
「山上の老人よ。今日は、宴をとじるうたを、ひとつ君にお願いするぞ。」 と言い、憶良はすぐに
「憶良らは いまは罷らむ子泣くらむ そを負う母も 吾をまつらむぞ」 と、まともな顔でうたいあげました。
意味: 宴会はまだたけなわですが、わたしはもう失礼しましょう。いまごろ、家では子供が泣いているでしょうし、
その子を背負っている母である私の妻も、わたしを待っているでしょうから。
旅人は、「これは、面白い。なかなかかわった歌だ。」と、大笑いしました。拍手喝采で、みなも、
「憶良らは・・・・・・」と 声をそろえて歌い上げ、月見の宴はめでたく宴をとじました。
大伴旅人は、732年に、京に戻りますが、翌年、なくなります。
憶良も、732年頃に、帰京したと思われます。貧窮問答歌も、この頃作られます。
733年に、憶良も、亡くなります。
ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/
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