源氏物語 帚木 原文 現代語訳 対比

2018.10.20 更新2021.1.11

●光る源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、
 光源氏は、名前だけは事々しく[大袈裟で]、非難おされになる罪が多いんですのに

説明 言ひ消(け)つ は、仝世いけてやめる、(人の言葉を)打ち消す、H麁颪垢襦

   言い消た(未然形)+れ(受身の助動詞るの連用形)+たまふ=非難おされになる

説明 多かなる は、文法的には、多かるなり が 多かんなり となり、ん を表記せず、多かなり と表記されています。

いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。
そのうえさらに、このような好色な事々を、後の世に言い伝えて、源氏の君の軽薄な名を流布しようと、内緒になさっている隠し事をさえ、語り伝えたとかいう、人の口の悪いことよ。

説明 物言ひさがなし は、口が悪い の意。

さるは、いといたく世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野少将には笑はれたまひけむかし。
そうはいっても、(光源氏が)とてもひどく世を憚り、まじめに振る舞われていた頃、色っぽい趣のことはなくて、交野少将はきっとお笑いになるでしょうね。

説明 まめだつ(実立つ) は、まじめに振る舞うの意。なよびかなり は、しなやか、もの柔らか、色っぽい の意。

説明 交野少将は、交野少将物語で知られる、色好みで文才に長けた美男子。

●まだ中将などにものしたまひし時は、内裏にのみさぶらひようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ。
 (光源氏が)まだ近衛中将などでいらした時は、内裏にのみちゃんとごお仕えなさって、(葵の上のいる)左大臣家にはとぎれとぎれに退出なさいます。

説明 さぶらいよくす は、十分にさぶらう、ちゃんと参上してお仕えする の意。

忍ぶの乱れやと、疑ひきこゆることもありしかど、さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にて、まれには、あながちに引き違へ心尽くしなることを、御心に思しとどむる癖なむ、あやにくにて、さるまじき御振る舞ひもうち混じりける。
(左大臣家では)「人目を忍ぶ恋の乱れか」と疑い申し上げることもありましたが、(光源氏は)そんなに浮ついて、よくみられる出来心などは、お好きでないのが御本性なので、まれには、強いて(普段の心を)すっかり変えて、あれこれと悩む恋を御心に思いつめられる癖が、あいにくとおありで、そうあるべきではない御振る舞いも、時には混じることもあったのでした。

説明 徒(あだ)めく は、不誠実にみえる、浮ついてみえる の意。

   打ち付けなり は、突然だ の意。すきずきし は、異性や物事に関心をよせ、深く愛着する の意。

   打ち付けの好き好きしさ は、突然の好色 の意なので、出来心 と訳しました。

   強(あなが)ちなり は、強引な、引き違う は、すっかり変える の意。

   心尽くし は、さまざまに物を思い、あれこれ悩むこと、心尽くしなること は、あれこれ悩む恋 の意。

●長雨晴れ間なきころ、内裏の御物忌(ものいみ)さし続きて、いとど長居さぶらひたまふを、大殿にはおぼつかなく恨めしく思したれど、よろづの御よそひ何くれとめづらしきさまに調じ出でたまひつつ、御息子の君たちただこの御宿直所の宮仕へを勤めたまふ。
長雨が晴れ間なく続く頃、宮中の物忌みがさし続いて、(光源氏が内裏に)とても長くお仕えなさるのを、大殿[左大臣家の人々]におかれては、不安を感じて恨めしくお思いでしたが、(光源氏の)御装束の万端を何かとご立派なように調達し出されつつ、(左大臣の)御子息の若君たちは、(光源氏の)御宿直所での宮仕えをお勤めです(帝への宮仕えではなく)。

説明 光源氏は、桐壺を、御宿直所としていました。

宮腹(みやばら)の中将は、なかに親しく馴れきこえたまひて、遊び戯れをも人よりは心安く、なれなれしく振る舞ひたり。
宮腹の頭中将は、(左大臣の御子息たちの)なかでも(光源氏に)親しくおなじみ申し上げて、遊び事や戯れ事も、ほかの人々よりは気楽で、(光源氏に)なれなれしく振舞っていました。

説明  宮腹の中将 は、皇女から生まれた中将 の意です。

   頭中将は、左大臣の長男ですが、母は桐壺帝の妹なので、宮腹なのです。

   桐壺の帖で、蔵人の少将とあった人物で、それから四、五年たって、頭中将に昇進しています。

右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は、この君もいともの憂くして、好きがましきあだ人なり。
右大臣がいたわり大切に育てている(四の君の)住まいには、頭中将は、余り気がすすまず、女好きがましい浮気人です。

説明 頭中将は、右大臣の四の君を妻としています。

里にても、わが方(かた)のしつらひまばゆくして、君の出で入りしたまふにうち連れきこえたまひつつ、夜昼、学問をも遊びをももろともにして、をさをさ立ちおくれず、いづくにてもまつはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、心のうちに思ふことをも隠しあへずなむ、睦(むつ)れきこえたまひける。
(頭中将は)お里にても、自分の部屋の飾りつけをまばゆいほど立派にして、光源氏が(婿君として左大臣亭に)出入りなさるときにご一緒申し上げつつ、夜も昼も、学問も遊びもご一緒され、 (光源氏に)ほとんど劣ることもなく、どこでもついてまわっていらっしゃるので、自然とつつしむことができなくなり、心の中に思うことを隠すことができないほど、親しみなついているのでした。

説明 里にても とは、頭中将は、四の君に婿入りしていて、右大臣家に住まいを持っているのですが、お里の左大臣家にも の意。

●つれづれと降り暮らして、しめやかなる宵の雨に、殿上にもをさをさ人少なに、御宿直所も例よりはのどやかなる心地するに、大殿油近くて書どもなど見たまふ。
徒然と(雨が)降り続いて、しめやかな夜の雨に、(宮中の)殿上にも、殆ど人は少なく、(源氏の君の)御宿直所もいつもよりのどかな心地がしますので、大殿(源氏の君)は油灯を近くに置いて書籍をお読みになります。

近き御厨子なる色々の紙なる文どもを引き出でて、中将わりなくゆかしがれば、
(中将の君は)近くの御厨子の中にある色々の手紙などを引き出して、中将は、たいへん読みたがるので

「さりぬべき、すこしは見せむ。かたはなるべきもこそ」
「そうですね。少しは見せしましょうか。不都合なものがあるかも。」

と、許したまはねば、 と、お許しにならないので、

「そのうちとけてかたはらいたしと思されむこそゆかしけれ。
「その打ち解けて書いた気恥ずかしいとお思いになるのこそ、みたいなあ。

説明 ゆかし は、知りたい、心がひかれる の意。ゆかしけれは、已然形。

おしなべたるおほかたのは、数ならねど、程々につけて、書き交はしつつも見はべりなむ。
平凡で普通なのは、(私でも) ものの数にははいらないかもしれないが程度に応じて書き交わしたりして見ておりますぞ。

おのがじし、恨めしき折々、待ち顔ならむ夕暮れなどのこそ、見所はあらめ」と怨(ゑん)ずれば、
それぞれに、恨めしい時とか、いかにも待っているかのような夕暮れ時の手紙こそ、見所がありましょうよ。」と、恨み言を言うので ・・・・・、

やむごとなくせちに隠したまふべきなどは、かやうにおほぞうなる御厨子などにうち置き散らしたまふべくもあらず、深くとり置きたまふべかめれば、二の町の心安きなるべし。
高貴でせつにお隠しになっている手紙などは、こんなにありふれた御厨子などに置き散らしておかれるはずもありません、深いところに置いておかれるでしょうから、(ここにあるのは)二流の安心できるものなのでしょう。

説明 二の町 は、二流、二級の意。

片端(かたはし)づつ見るに、「かくさまざまなる物どもこそはべりけれ」とて、
(頭の中将は)片端から少しずつ見ながら、「こんなに色んな手紙があるのですね」と言って、

心あてに「それか、かれか」など問ふなかに、言ひ当つるもあり、もて離れたることをも思ひ寄せて疑ふも、をかしと思せど、言少なにてとかく紛らはしつつ、とり隠したまひつ。
当て推量で、「それなのか、あれなのか」と問ううちに、言い当てたものもあり、かなり外れたことを推測して蓋がっているものもあり、(源氏は)面白いとお思いですが、言葉少なに紛らわしながら、(手紙を)とってお隠しになりました。

●「そこにこそ多く集へたまふらめ。すこし見ばや。さてなむ、この厨子も心よく開くべき」とのたまへば、
(源氏)「そちら(そなた)こそより多く御集めでしょう。少し見たいなあ。そうすれば、この厨子(箱)も、快く開きましょう。」とおっしゃるので、

「御覧じ所あらむこそ、難くはべらめ」など聞こえたまふついでに、
(中将)「ご覧になる所があるものは、めったにありません。」などと申し上げるついでに、

「女の、これはしもと難つくまじきは、難くもあるかなと、やうやうなむ見たまへ知る。
(中将)「女で、これは!と難癖つけることのできない女は、めったにいないと、ようやく見知りました。

ただうはべばかりの情けに、手走り書き、をりふしの答へ心得て、うちしなどばかりは、随分によろしきも多かりと見たまふれど、
たんにうわべだけの風流心で、手走り書きや、折節の応答を心得て、打ったりなどぐらいは、随分に、よろしいのも多いと思われますが、

説明 うちし は、うち(うつの連用形)+し(過去の助動詞きの連体形)

    うちし は、動詞うちす の連用形と解釈する説の方が有力なのですが、

    百人一首の次の歌の、言ひしばかり の用法を参考にしました。

    「今来むと 言ひしばかりに 長月(ながつき)の 有明の月を 待ち出でつるかな」

  (今すぐ来ますと貴方が言ったばかりに 九月の夜長の有明の月が、待っているうちに出てしまいましたよ)

そもまことにその方を取り出でむ選びにかならず漏るまじきは、いと難しや。
それも、本当に、そんな方を取り出そうとする選択に、絶対に洩れるはずがないというのは、難しいです。

わが心得たることばかりを、おのがじし心をやりて、人をば落としめなど、かたはらいたきこと多かり。
自分が心得たことばかりを、めいめい得意になって、他人を貶めるなど、(はたから見て)見苦しいことが多いのです。

説明 おのがじし=めいめい、それぞれに。心をやる=得意になる

親など立ち添ひもてあがめて、生(お)ひ先籠(こも)れる窓の内なるほどは、ただ片才(かたかど)を聞き伝へて、心を動かすこともあめり。
親などが、立ち添って、もてあがめて、将来性が備わっている箱入り娘である間は、(男は)ただちょっとした才能を伝え聞いて、心ひかれることもあるようです。

説明 おひさきこもる=将来性が備わっている、かたかど=少しの才

容貌(かたち)をかしくうちおほどき、若(わか)やかにて紛るることなきほど、はかなきすさびをも、人まねに心を入るることもあるに、おのづから一つゆゑづけてし出づることもあり。
容姿がすぐれ、おおようで、若々しく、(他の事に)気をとられたりすることのないうちは、ちょっとした芸事をも、人まねに、心をいれて稽古することもあり、自然と一つ、品格を備えて現れるということもあります。

説明 うちおほどく=うちとけている、おおようである。ゆゑづく=由緒づける、品格をそなえる。

見る人、後れたる方をば言ひ隠し、さてありぬべき方をばつくろひて、まねび出だすに、『それ、しかあらじ』と、そらにいかがは推し量り思ひくたさむ。
世話を見る人が、後れているところを言い隠し、そのままでよさそうなところをとりつくろって、もっともらしくまねて話すのに、「それは、そうではないでしょう」と、そらに(実物をみないで)どんなか推量し見下せましょうか。

説明 さてありぬべし=そのままでよさそうな。 まねびいだす=もっともらしくまねて話す。

   おもひくたす=(心の中で)見下げる、軽蔑する。

まことかと見もてゆくに、見劣りせぬやうは、なくなむあるべき」
まことかと見て行くうちに、見劣りしないようなことが、ないであろうなんてありえましょうや」

説明 みゆ は、単に見るだけでなく、結婚するという意味も含んでいます。

と、うめきたる気色も恥づかしげなれば、
と、慨嘆する様子が、こちらが気後れするほどご立派なので

いとなべてはあらねど、われ思し合はすることやあらむ、うちほほ笑みて、
全部が全部ではないけれど、(源氏は)ご自身でも思い当たることがあるのか、微笑んで、

●「その、片才(かたかど)もなき人は、あらむや」とのたまへば、
(源氏)「その、少しの才もない人は、いるのでしょうか」と、おっしゃるので、

「いと、さばかりならむあたりには、誰れかはすかされ寄りはべらむ。
(中将)「本当に、その程度でしょう人のところに、誰がだまされて寄り付きましょうか。

取るかたなく口惜しき際と、優なりとおぼゆばかりすぐれたるとは、数等しくこそはべらめ。
取り柄がなく残念な人と、優秀とおわれるほどすぐれた人は、数が同じくらいでありましょう。

人の品高く生まれぬれば、人にもてかしづかれて、隠るること多く、自然にそのけはひこよなかるべし。
身分高く生れましたら、人に大事に世話されて、欠点も隠れることが多く、自然とその様子も格別となるのでしょう。

中の品になむ、人の心々、おのがじしの立てたるおもむきも見えて、分かるべきことかたがた多かるべき。
中の身分にこそ、人の心や、それぞれの立てた趣向も見えて、ほかとの違いが分かれることもあれこれと多くあるでしょう。

下(しも)のきざみといふ際になれば、ことに耳たたずかし」
下の区分の身分になると、とくに耳を立てて聞くこともありませんね。」

とて、いと隈なげなる気色なるも、ゆかしくて、
といって、とても万事に通じているという様子なのが、興味をそそって、

「その品々や、いかに。いづれを三つの品に置きてか分くべき。
(源氏)「その身分というのは、どうなのか。どれを三つの身分に分けて置くのでしょうか。

元の品高く生まれながら、身は沈み、位みじかくて人げなき、
元の身分は高く生れながら、身分が沈み、位も低くて、人並でない人。

また直人(なほびと)の上達部などまでなり上り、我は顔にて家の内を飾り、人に劣らじと思へる。
普通の身分で、上達部などまでに成りあがり、我がもの顔で、家の中を飾り、人には劣らないと思っている人。

そのけぢめをば、いかが分くべき」 その区別をどうつけるべきなのか。」

と問ひたまふほどに、左馬頭、藤式部丞、御物忌に籠もらむとて参れり。
とお問いになるところに、左馬頭、藤式部丞が、御物忌に籠ろうとして参上しました。

世の好き者にて物よく言ひとほれるを、中将待ちとりて、この品々をわきまへ定め争ふ。
この世の好色者で、話の筋の通る人達を、中将は、待ち構えて、このいろんな身分を区別し定義する論争をしました。

いと聞きにくきこと多かり。 とても聞き苦しい話が多くありました。

●「なり上れども、もとよりさるべき筋ならぬは、世人の思へることも、さは言へど、なほことなり。
(中将)「成り上がっても、もとからそんな家筋でない者は、世間の人の思うことには、成り上がりとは言っても、なお異なっています。

また、元はやむごとなき筋なれど、世に経るたづき少なく、時世に移ろひて、おぼえ衰へぬれば、心は心としてこと足らず、悪ろびたることども出でくるわざなめれば、とりどりにことわりて、中の品にぞ置くべき。
また、以前は高貴な家柄であっても、世を渡る手段が少なく、時勢に移ろって、世間の評判が衰えてしまうと、心は気位高くても、不如意勝ちで、体裁の悪いこともいろいろと出てくるようなことになれば、それぞれ判定して、中の位に置くべきでしょう。

受領と言ひて、他(ひと)の国のことにかかづらひ営みて、品定まりたる中にも、またきざみきざみありて、中の品のけしうはあらぬ、選り出でつべきころほひなり。
受領と言って、地方の国のことに関わり合って運営し、品位が定まった中にも、いくつかの段階があって、中のたいして悪くない者を選び出すことができる今日このごろです。

なまなまの上達部よりも非参議の四位どもの、世のおぼえ口惜しからず、もとの根ざし卑しからぬ、やすらかに身をもてなしふるまひたる、いとかはらかなりや。
生半可な上達部よりも、非参議の四位の人達で、世間の評判がまんざらではなく、もとの家柄も卑しくなく、安楽に暮らしている姿は、とても気持ちのいいものです。

家の内に足らぬことなど、はたなかめるままに、省かずまばゆきまでもてかしづける女などの、おとしめがたく生ひ出づるもあまたあるべし。
家の中に、不足のものなど、全然ないでしょうから、簡素にはせず、まぶしいほど大切に育てた娘などが、けちのつけようがないほど(立派に)育っている例も沢山あるでしょう。

説明 なかめり=ないようにみえる。「なし」の連体形+助動詞「めり」の「なかるめり」の撥音便「なかんめり」の「ん」を表記しない形ですが、発音は「なかんめり」です。

宮仕へに出で立ちて、思ひかけぬ幸ひ とり出づる例ども多かりかし」など言へば、
宮仕えに出て、意外な幸運を引き出した例も多いのよね。」などと言うので、

「すべて、にぎははしきによるべきななり」とて、笑ひたまふを、
(源氏)「すべては、財力豊かな事によるべきなのですね」と、お笑になるのを

説明 ななり は、なるなり が なんなり となり、「ん」が表記されない形

「異人(ことひと)の言はむやうに、心得ず仰せらる」と、中将憎む。
(中将)「(あなたらしくもなく)他人が言っているように、理解できない事をおっしゃる」と、中将は憎らしがる。

●「元の品、時世のおぼえうち合ひ、やむごとなきあたりの内々のもてなしけはひ後れたらむは、さらにも言はず、何をしてかく生ひ出でけむと、言ふかひなくおぼゆべし。
(佐馬頭)「元の階級と、今のご時世の信望が釣り合っている、高貴なお家のあたりで、内々の取り扱いが後れている(劣っている)ようなのは、いうまでもありません、どうしてこんなふうに育ったのかと、ふがいなく思うでしょう。

うち合ひてすぐれたらむもことわり、これこそはさるべきこととおぼえて、めづらかなることと心も驚くまじ。
釣り合って立派にお育ちなのは、それも道理で、これこそは当然のことと思われて、めずらしいことだと驚いてはいけません。

なにがしが及ぶべきほどならねば、上が上はうちおきはべりぬ。
それがしが、手の届くところではないので、上の上は、うちおいておきました。

●さて、世にありと人に知られず、さびしくあばれたらむ葎(むぐら)の門に、思ひの外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ、限りなくめづらしくはおぼえめ。
さて、この世にいると人に知られずに、寂しく荒れた葎の門の中に、思いのほかに可愛らしい人が閉じ込められていることこそ、限りなく珍しくすばらしいと思えるでしょう。

いかで、はたかかりけむと、思ふより違へることなむ、あやしく心とまるわざなる。
どうしてまあ、こんなになったのかと予想に相違していることが、不思議に心引かれることです。

父の年老い、ものむつかしげに太りすぎ、兄(せうと)の顔憎げに、思ひやりことなることなき閨(ねや)の内に、いといたく思ひあがり、はかなくし出でたる事業(ことわざ)も、ゆゑなからず見えたらむ、片才(かたかど)にても、いかが思ひの外にをかしからざらむ。
父は年老いて、むさくるしげで、太りすぎ、兄は、顔が憎げで、思い遣っても変わった事のない奥の部屋の中に、とても激しく誇りをもって、取るに足らない程度にしあげた芸事も、趣きが無くは無いとみえましたなら、少しの才であっても、どうして思いの外に、興味深くないことがありましょうや。

すぐれて疵なき方の選びにこそ及ばざらめ、さる方にて捨てがたきものをは」
すぐれて欠点の無い方の選択には及ばないでしょうが、そういう方とて捨てがたいものですね。」

とて、式部を見やれば、わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにや、とや心得らむ、ものも言はず。
と言って、式部丞を見やると、(式部丞は)自分の妹たちが評判なことを思っておっしゃっているのかと思われたのでしょうか、何も言いません。

「いでや、上の品と思ふにだに難(かた)げなる世を」と、君は思すべし。
(源氏)「さてさて、上流階級だと思う中にさえ、(よい女を見つけるのは)難しそうなこの世を」と、源氏の君はお思いなのでしょう。

白き御衣(おんぞ)どものなよよかなるに、直衣(なほし)ばかりをしどけなく着なしたまひて、紐などもうち捨てて、添ひ臥したまへる御火影(ほかげ)、いとめでたく、女にて見たてまつらまほし。
白い下着がなおやかで、直衣だけをしどけなく着られて、紐はうち捨てて、添い伏しておられる御姿は、とても美しく、女として見させていただきたいのです。

この御ためには上が上を選り出でても、なほ飽くまじく見えたまふ。
このお方のためには、上の上の女を選びだしても、まだ十分ではないようにお見受けします。

●さまざまの人の上どもを語り合はせつつ、 様々な人のことを話合いながら

「おほかたの世につけて見るには咎なきも、わがものとうち頼むべきを選(え)らむに、多かる中にも、えなむ思ひ定むまじかりける。
(佐馬頭)「(女は)ふつうの世間に関して見るなら難が無くとも、我がものとして頼れる人を選ぶには、多くある中にも、思い定めることはできそうになかったのです。

説明 世は、ふつう、世間 の意ですが、源氏物語においては、男女の仲 くらいの意味でも使われます。

男(をのこ)の朝廷(おほやけ)に仕うまつり、はかばかしき世のかためとなるべきも、まことの器ものとなるべきを取り出ださむには、かたかるべしかし。
男が、朝廷にお仕えもうし、際立った世の支えとなるべきにしても、まことの器量人となることのできる人を選び出すのは、難しでしょうよね。

されど、賢しとても、一人二人世の中をまつりごちしるべきならねば、上は下に輔けられ、下は上になびきて、こと広きに譲ろふらむ。
しかし、賢いとしても、一人二人で世の中の政を治めることはできないので、上は下に助けられ、下は上に靡いて、広いことに譲り合いましょう。

狭き家の内の主人とすべき人一人を思ひめぐらすに、足らはで悪しかるべき大事どもなむ、かたがた多かる。

とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさてもありぬべき人の少なきを、好き好きしき心のすさびにて、人のありさまをあまた見合はせむの好みならねど、ひとへに思ひ定むべきよるべとすばかりに、同じくは、わが力入りをし直しひきつくろふべき所なく、心にかなふやうにもやと、選りそめつる人の、定まりがたきなるべし。

かならずしもわが思ふにかなはねど、見そめつる契りばかりを捨てがたく思ひとまる人は、ものまめやかなりと見え、さて、保たるる女のためも、心にくく推し量らるるなり。

されど、何か、世のありさまを見たまへ集むるままに、心に及ばずいとゆかしきこともなしや。君達の上なき御選びには、まして、いかばかりの人かは足らひたまはむ。

●容貌きたなげなく、若やかなるほどの、おのがじしは塵もつかじと身をもてなし、文を書けど、おほどかに言選りをし、墨つきほのかに心もとなく思はせつつ、またさやかにも見てしがなとすべなく待たせ、わづかなる声聞くばかり言ひ寄れど、息の下にひき入れ言少ななるが、いとよくもて隠すなりけり。

なよびかに女しと見れば、あまり情けにひきこめられて、とりなせば、あだめく。これをはじめの難とすべし。

●事が中に、なのめなるまじき人の後見の方は、もののあはれ知り過ぐし、はかなきついでの情けあり、をかしきに進める方なくてもよかるべしと見えたるに、また、まめまめしき筋を立てて耳はさみがちに美さうなき家刀自の、ひとへにうちとけたる後見ばかりをして。

朝夕の出で入りにつけても、公私の人のたたずまひ、善き悪しきことの、目にも耳にもとまるありさまを、疎き人に、わざとうちまねばむやは。

近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに語りも合はせばやと、うちも笑まれ、涙もさしぐみ、もしは、あやなきおほやけ腹立たしく、心ひとつに思ひあまることなど多かるを、何にかは聞かせむと思へば、うちそむかれて、人知れぬ思ひ出で笑ひもせられ、『あはれ』とも、うち独りごたるるに、『何ごとぞ』など、あはつかにさし仰ぎゐたらむは、いかがは口惜しからぬ。

●ただひたふるに子めきて柔らかならむ人を、とかくひきつくろひてはなどか見ざらむ。

心もとなくとも、直し所ある心地すべし。げに、さし向ひて見むほどは、さてもらうたき方に罪ゆるし見るべきを、立ち離れてさるべきことをも言ひやり、をりふしにし出でむわざのあだ事にもまめ事にも、わが心と思ひ得ることなく深きいたりなからむは、いと口惜しく頼もしげなき咎や、なほ苦しからむ。常はすこしそばそばしく心づきなき人の、をりふしにつけて出でばえするやうもありかし」

など、隈なきもの言ひも、定めかねていたくうち嘆く。

●「今は、ただ、品にもよらじ。容貌をばさらにも言はじ。いと口惜しくねぢけがましきおぼえだになくは、ただひとへにものまめやかに、静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、つひの頼み所には思ひおくべかりける。あまりのゆゑよし心ばせうち添へたらむをば、よろこびに思ひ、すこし後れたる方あらむをも、あながちに求め加へじ。うしろやすくのどけき所だに強くは、うはべの情けは、おのづからもてつけつべきわざをや。

艶にもの恥ぢして、恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍びて、上はつれなくみさをづくり、心一つに思ひあまる時は、言はむかたなくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき、しのばるべき形見をとどめて、深き山里、世離れたる海づらなどにはひ隠れぬるをり。

童にはべりし時、女房などの物語読みしを聞きて、いとあはれに悲しく、心深きことかなと、涙をさへなむ落としはべりし。今思ふには、いと軽々しく、ことさらびたることなり。心ざし深からむ男をおきて、見る目の前につらきことありとも、人の心を見知らぬやうに逃げ隠れて、人をまどはし、心を見むとするほどに、長き世のもの思ひになる、いとあぢきなきことなり。『心深しや』など、ほめたてられて、あはれ進みぬれば、やがて尼になりぬかし。思ひ立つほどは、いと心澄めるやうにて、世に返り見すべくも思へらず。『いで、あな悲し。かくはた思しなりにけるよ』などやうに、あひ知れる人来とぶらひ、ひたすらに憂しとも思ひ離れぬ男、聞きつけて涙落とせば、使ふ人、古御達など、『君の御心は、あはれなりけるものを。あたら御身を』など言ふ。みづから額髪をかきさぐりて、あへなく心細ければ、うちひそみぬかし。忍ぶれど涙こぼれそめぬれば、折々ごとにえ念じえず、悔しきこと多かめるに、仏もなかなか心ぎたなしと、見たまひつべし。濁りにしめるほどよりも、なま浮かびにては、かへりて悪しき道にも漂ひぬべくぞおぼゆる。絶えぬ宿世浅からで、尼にもなさで尋ね取りたらむも、やがてあひ添ひて、とあらむ折もかからむきざみをも、見過ぐしたらむ仲こそ、契り深くあはれならめ、我も人も、うしろめたく心おかれじやは。

●また、なのめに移ろふ方あらむ人を恨みて、気色ばみ背かむ、はたをこがましかりなむ。心は移ろふ方ありとも、見そめし心ざしいとほしく思はば、さる方のよすがに思ひてもありぬべきに、さやうならむたぢろきに、絶えぬべきわざなり。

すべて、よろづのことなだらかに、怨ずべきことをば見知れるさまにほのめかし、恨むべからむふしをも憎からずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし。多くは、わが心も見る人からをさまりもすべし。あまりむげにうちゆるべ見放ちたるも、心安くらうたきやうなれど、おのづから軽き方にぞおぼえはべるかし。繋がぬ舟の浮きたる例も、げにあやなし。さははべらぬか」

と言へば、中将うなづく。

「さしあたりて、をかしともあはれとも心に入らむ人の、頼もしげなき疑ひあらむこそ、大事なるべけれ。わが心あやまちなくて見過ぐさば、さし直してもなどか見ざらむとおぼえたれど、それさしもあらじ。ともかくも、違ふべきふしあらむを、のどやかに見忍ばむよりほかに、ますことあるまじかりけり」

と言ひて、わが妹の姫君は、この定めにかなひたまへりと思へば、君のうちねぶりて言葉まぜたまはぬを、さうざうしく心やましと思ふ。

●馬頭、物定めの博士になりて、ひひらきゐたり。中将は、このことわり聞き果てむと、心入れて、あへしらひゐたまへり。

「よろづのことによそへて思せ。木の道の匠のよろづの物を心にまかせて作り出だすも、臨時のもてあそび物の、その物と跡も定まらぬは、そばつきさればみたるも、げにかうもしつべかりけりと、時につけつつさまを変へて、今めかしきに目移りてをかしきもあり。大事として、まことにうるはしき人の調度の飾りとする、定まれるやうある物を難なくし出づることなむ、なほまことの物の上手は、さまことに見え分かれはべる。

●また絵所に上手多かれど、墨がきに選ばれて、次々にさらに劣りまさるけぢめ、ふとしも見え分かれず。かかれど、人の見及ばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚の姿、唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔などの、おどろおどろしく作りたる物は、心にまかせてひときは目驚かして、実には似ざらめど、さてありぬべし。

世の常の山のたたずまひ、水の流れ、目に近き人の家居ありさま、げにと見え、なつかしくやはらいだる形などを静かに描きまぜて、すくよかならぬ山の景色、木深く世離れて畳みなし、け近き籬の内をば、その心しらひおきてなどをなむ、上手はいと勢ひことに、悪ろ者は及ばぬ所多かめる。

●手を書きたるにも、深きことはなくて、ここかしこの、点長に走り書き、そこはかとなく気色ばめるは、うち見るにかどかどしく気色だちたれど、なほまことの筋をこまやかに書き得たるは、うはべの筆消えて見ゆれど、今ひとたびとり並べて見れば、なほ実になむよりける。

はかなきことだにかくこそはべれ。まして人の心の、時にあたりて気色ばめらむ見る目の情けをば、え頼むまじく思うたまへ得てはべる。そのはじめのこと、好き好きしくとも申しはべらむ」

とて、近くゐ寄れば、君も目覚ましたまふ。中将いみじく信じて、頬杖をつきて向かひゐたまへり。法の師の世のことわり説き聞かせむ所の心地するも、かつはをかしけれど、かかるついでは、おのおの睦言もえ忍びとどめずなむありける。

●「はやう、まだいと下臈にはべりし時、あはれと思ふ人はべりき。聞こえさせつるやうに、容貌などいとまほにもはべらざりしかば、若きほどの好き心には、この人をとまりにとも思ひとどめはべらず、よるべとは思ひながら、さうざうしくて、とかく紛れはべりしを、もの怨じをいたくしはべりしかば、心づきなく、いとかからで、おいらかならましかばと思ひつつ、あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくて、かく数ならぬ身を見も放たで、などかくしも思ふらむと、心苦しき折々もはべりて、自然に心をさめらるるやうになむはべりし。

●この女のあるやう、もとより思ひいたらざりけることにも、いかでこの人のためにはと、なき手を出だし、後れたる筋の心をも、なほ口惜しくは見えじと思ひはげみつつ、とにかくにつけて、ものまめやかに後見、つゆにても心に違ふことはなくもがなと思へりしほどに、進める方と思ひしかど、とかくになびきてなよびゆき、醜き容貌をも、この人に見や疎まれむと、わりなく思ひつくろひ、疎き人に見えば、面伏せにや思はむと、憚り恥ぢて、みさをにもてつけて見馴るるままに、心もけしうはあらずはべりしかど、ただこの憎き方一つなむ、心をさめずはべりし。

●そのかみ思ひはべりしやう、かうあながちに従ひ怖ぢたる人なめり、いかで懲るばかりのわざして、おどして、この方もすこしよろしくもなり、さがなさもやめむと思ひて、まことに憂しなども思ひて絶えぬべき気色ならば、かばかり我に従ふ心ならば思ひ懲りなむと思うたまへ得て、ことさらに情けなくつれなきさまを見せて、例の腹立ち怨ずるに、

『かくおぞましくは、いみじき契り深くとも、絶えてまた見じ。限りと思はば、かくわりなきもの疑ひはせよ。行く先長く見えむと思はば、つらきことありとも、念じてなのめに思ひなりて、かかる心だに失せなば、いとあはれとなむ思ふべき。人並々にもなり、すこしおとなびむに添へて、また並ぶ人なくあるべき』やうなど、かしこく教へたつるかなと思ひたまへて、われたけく言ひそしはべるに、すこしうち笑ひて、

●『よろづに見立てなく、ものげなきほどを見過ぐして、人数なる世もやと待つ方は、いとのどかに思ひなされて、心やましくもあらず。つらき心を忍びて、思ひ直らむ折を見つけむと、年月を重ねむあいな頼みは、いと苦しくなむあるべければ、かたみに背きぬべききざみになむある』

とねたげに言ふに、腹立たしくなりて、憎げなることどもを言ひはげましはべるに、女もえをさめぬ筋にて、指ひとつを引き寄せて喰ひてはべりしを、おどろおどろしくかこちて、

『かかる疵さへつきぬれば、いよいよ交じらひをすべきにもあらず。辱めたまふめる官位、いとどしく何につけてかは人めかむ。世を背きぬべき身なめり』など言ひ脅して、『さらば、今日こそは限りなめれ』と、この指をかがめてまかでぬ。

『手を折りてあひ見しことを数ふれば

これひとつやは君が憂きふし

えうらみじ』

など言ひはべれば、さすがにうち泣きて、

『憂きふしを心ひとつに数へきて

こや君が手を別るべきをり』

など、言ひしろひはべりしかど、まことには変るべきこととも思ひたまへずながら、日ごろ経るまで消息も遣はさず、あくがれまかり歩くに、臨時の祭の調楽に、夜更けていみじう霙降る夜、これかれまかりあかるる所にて、思ひめぐらせば、なほ家路と思はむ方はまたなかりけり。

内裏わたりの旅寝すさまじかるべく、気色ばめるあたりはそぞろ寒くや、と思ひたまへられしかば、いかが思へると、気色も見がてら、雪をうち払ひつつ、なま人悪ろく爪喰はるれど、さりとも今宵日ごろの恨みは解けなむ、と思うたまへしに、火ほのかに壁に背け、萎えたる衣どもの厚肥えたる、大いなる籠にうち掛けて、引き上ぐべきものの帷子などうち上げて、今宵ばかりやと、待ちけるさまなり。さればよと、心おごりするに、正身はなし。さるべき女房どもばかりとまりて、『親の家に、この夜さりなむ渡りぬる』と答へはべり。

艶なる歌も詠まず、気色ばめる消息もせで、いとひたや籠もりに情けなかりしかば、あへなき心地して、さがなく許しなかりしも、我を疎みねと思ふ方の心やありけむと、さしも見たまへざりしことなれど、心やましきままに思ひはべりしに、着るべき物、常よりも心とどめたる色あひ、しざまいとあらまほしくて、さすがにわが見捨ててむ後をさへなむ、思ひやり後見たりし。

さりとも、絶えて思ひ放つやうはあらじと思うたまへて、とかく言ひはべりしを、背きもせずと、尋ねまどはさむとも隠れ忍びず、かかやかしからず答へつつ、ただ、『ありしながらは、えなむ見過ぐすまじき。あらためてのどかに思ひならばなむ、あひ見るべき』など言ひしを、さりともえ思ひ離れじと思ひたまへしかば、しばし懲らさむの心にて、『しかあらためむ』とも言はず、いたく綱引きて見せしあひだに、いといたく思ひ嘆きて、はかなくなりはべりにしかば、戯れにくくなむおぼえはべりし。

ひとへにうち頼みたらむ方は、さばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる。はかなきあだ事をもまことの大事をも、言ひあはせたるにかひなからず、龍田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし」

とて、いとあはれと思ひ出でたり。中将、

「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし。げに、その龍田姫の錦には、またしくものあらじ。はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつきなく、はかばかしからぬは、露のはえなく消えぬるわざなり。さあるにより、難き世とは定めかねたるぞや」

と、言ひはやしたまふ。

「さて、また同じころ、まかり通ひし所は、人も立ちまさり心ばせまことにゆゑありと見えぬべく、うち詠み、走り書き、掻い弾く爪音、手つき口つき、みなたどたどしからず、見聞きわたりはべりき。見る目もこともなくはべりしかば、このさがな者を、うちとけたる方にて、時々隠ろへ見はべりしほどは、こよなく心とまりはべりき。この人亡せて後、いかがはせむ、あはれながらも過ぎぬるはかひなくて、しばしばまかり馴るるには、すこしまばゆく艶に好ましきことは、目につかぬ所あるに、うち頼むべくは見えず、かれがれにのみ見せはべるほどに、忍びて心交はせる人ぞありけらし。

神無月のころほひ、月おもしろかりし夜、内裏よりまかではべるに、ある上人来あひて、この車にあひ乗りてはべれば、大納言の家にまかり泊まらむとするに、この人言ふやう、『今宵人待つらむ宿なむ、あやしく心苦しき』とて、この女の家はた、避きぬ道なりければ、荒れたる崩れより池の水かげ見えて、月だに宿る住処を過ぎむもさすがにて、下りはべりぬかし。

もとよりさる心を交はせるにやありけむ、この男いたくすずろきて、門近き廊の簀子だつものに尻かけて、とばかり月を見る。菊いとおもしろく移ろひわたり、風に競へる紅葉の乱れなど、あはれと、げに見えたり。

懐なりける笛取り出でて吹き鳴らし、『蔭もよし』などつづしり謡ふほどに、よく鳴る和琴を、調べととのへたりける、うるはしく掻き合はせたりしほど、けしうはあらずかし。律の調べは、女のものやはらかに掻き鳴らして、簾の内より聞こえたるも、今めきたる物の声なれば、清く澄める月に折つきなからず。男いたくめでて、簾のもとに歩み来て、

『庭の紅葉こそ、踏み分けたる跡もなけれ』などねたます。菊を折りて、

『琴の音も月もえならぬ宿ながら

つれなき人をひきやとめける

悪ろかめり』など言ひて、『今ひと声、聞きはやすべき人のある時、手な残いたまひそ』など、いたくあざれかかれば、女、いたう声つくろひて、

『木枯に吹きあはすめる笛の音を

ひきとどむべき言の葉ぞなき』

となまめき交はすに、憎くなるをも知らで、また、箏の琴を盤渉調に調べて、今めかしく掻い弾きたる爪音、かどなきにはあらねど、まばゆき心地なむしはべりし。ただ時々うち語らふ宮仕へ人などの、あくまでさればみ好きたるは、さても見る限りはをかしくもありぬべし。時々にても、さる所にて忘れぬよすがと思ひたまへむには、頼もしげなくさし過ぐいたりと心おかれて、その夜のことにことつけてこそ、まかり絶えにしか。

この二つのことを思うたまへあはするに、若き時の心にだに、なほさやうにもて出でたることは、いとあやしく頼もしげなくおぼえはべりき。今より後は、ましてさのみなむ思ひたまへらるべき。御心のままに、折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰などの、艶にあえかなる好き好きしさのみこそ、をかしく思さるらめ、今さりとも、七年あまりがほどに思し知りはべなむ。なにがしがいやしき諌めにて、好きたわめらむ女に心おかせたまへ。過ちして、見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり」

と戒む。中将、例のうなづく。君すこしかた笑みて、さることとは思すべかめり。

「いづ方につけても、人悪ろくはしたなかりける身物語かな」とて、うち笑ひおはさうず。

中将、

「なにがしは、痴者の物語をせむ」とて、「いと忍びて見そめたりし人の、さても見つべかりしけはひなりしかば、ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど、馴れゆくままに、あはれとおぼえしかば、絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを、さばかりになれば、うち頼めるけしきも見えき。頼むにつけては、恨めしと思ふこともあらむと、心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを、見知らぬやうにて、久しきとだえをも、かうたまさかなる人とも思ひたらず、ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて、心苦しかりしかば、頼めわたることなどもありきかし。

親もなく、いと心細げにて、さらばこの人こそはと、事にふれて思へるさまもらうたげなりき。かうのどけきにおだしくて、久しくまからざりしころ、この見たまふるわたりより、情けなくうたてあることをなむ、さるたよりありてかすめ言はせたりける、後にこそ聞きはべりしか。

さる憂きことやあらむとも知らず、心には忘れずながら、消息などもせで久しくはべりしに、むげに思ひしをれて心細かりければ、幼き者などもありしに思ひわづらひて、撫子の花を折りておこせたりし」とて涙ぐみたり。

「さて、その文の言葉は」と問ひたまへば、

「いさや、ことなることもなかりきや。

『山がつの垣ほ荒るとも折々に

あはれはかけよ撫子の露』

思ひ出でしままにまかりたりしかば、例のうらもなきものから、いと物思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきを眺めて、虫の音に競へるけしき、昔物語めきておぼえはべりし。

『咲きまじる色はいづれと分かねども

なほ常夏にしくものぞなき』

大和撫子をばさしおきて、まづ『塵をだに』など、親の心をとる。

『うち払ふ袖も露けき常夏に

あらし吹きそふ秋も来にけり』

とはかなげに言ひなして、まめまめしく恨みたるさまも見えず。涙をもらし落としても、いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して、つらきをも思ひ知りけりと見えむは、わりなく苦しきものと思ひたりしかば、心やすくて、またとだえ置きはべりしほどに、跡もなくこそかき消ちて失せにしか。

まだ世にあらば、はかなき世にぞさすらふらむ。あはれと思ひしほどに、わづらはしげに思ひまとはすけしき見えましかば、かくもあくがらさざらまし。こよなきとだえおかず、さるものにしなして長く見るやうもはべりなまし。かの撫子のらうたくはべりしかば、いかで尋ねむと思ひたまふるを、今もえこそ聞きつけはべらね。

これこそのたまへるはかなき例なめれ。つれなくてつらしと思ひけるも知らで、あはれ絶えざりしも、益なき片思ひなりけり。今やうやう忘れゆく際に、かれはたえしも思ひ離れず、折々人やりならぬ胸焦がるる夕べもあらむとおぼえはべり。これなむ、え保つまじく頼もしげなき方なりける。

されば、かのさがな者も、思ひ出である方に忘れがたけれど、さしあたりて見むにはわづらはしくよ、よくせずは、飽きたきこともありなむや。琴の音すすめけむかどかどしさも、好きたる罪重かるべし。この心もとなきも、疑ひ添ふべければ、いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ。世の中や、ただかくこそ。とりどりに比べ苦しかるべき。このさまざまのよき限りをとり具し、難ずべきくさはひまぜぬ人は、いづこにかはあらむ。吉祥天女を思ひかけむとすれば、法気づき、くすしからむこそ、また、わびしかりぬべけれ」とて、皆笑ひぬ。

「式部がところにぞ、けしきあることはあらむ。すこしづつ語り申せ」と責めらる。

「下が下の中には、なでふことか、聞こし召しどころはべらむ」

と言へど、頭の君、まめやかに「遅し」と責めたまへば、何事をとり申さむと思ひめぐらすに、

「まだ文章生にはべりし時、かしこき女の例をなむ見たまへし。かの、馬頭の申したまへるやうに、公事をも言ひあはせ、私ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむ方もいたり深く、才の際なまなまの博士恥づかしく、すべて口あかすべくなむはべらざりし。

それは、ある博士のもとに学問などしはべるとて、まかり通ひしほどに、主人のむすめども多かりと聞きたまへて、はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを、親聞きつけて、盃持て出でて、『わが両つの途歌ふを聴け』となむ、聞こえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を憚りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに思ひ後見、寝覚の語らひにも、身の才つき、朝廷に仕うまつるべき道々しきことを教へて、いときよげに消息文にも仮名といふもの書きまぜず、むべむべしく言ひまはしはべるに、おのづからえまかり絶えで、その者を師としてなむ、わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば、今にその恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子とうち頼まむには、無才の人、なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに、恥づかしくなむ見えはべりし。まいて君達の御ため、はかばかしくしたたかなる御後見は、何にかせさせたまはむ。はかなし、口惜し、とかつ見つつも、ただわが心につき、宿世の引く方はべるめれば、男しもなむ、仔細なきものははべめる」

と申せば、残りを言はせむとて、「さてさてをかしかりける女かな」とすかいたまふを、心は得ながら、鼻のわたりをこづきて語りなす。

「さて、いと久しくまからざりしに、もののたよりに立ち寄りてはべれば、常のうちとけゐたる方にははべらで、心やましき物越しにてなむ逢ひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、また、よきふしなりとも思ひたまふるに、このさかし人はた、軽々しきもの怨じすべきにもあらず、世の道理を思ひとりて恨みざりけり。

声もはやりかにて言ふやう、

『月ごろ、風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。目のあたりならずとも、さるべからむ雑事らは承らむ』

と、いとあはれにむべむべしく言ひはべり。答へに何とかは。ただ、『承りぬ』とて、立ち出ではべるに、さうざうしくやおぼえけむ、

『この香失せなむ時に立ち寄りたまへ』と高やかに言ふを、聞き過ぐさむもいとほし、しばしやすらふべきに、はたはべらねば、げにそのにほひさへ、はなやかにたち添へるも術なくて、逃げ目をつかひて、

『ささがにのふるまひしるき夕暮れに

ひるま過ぐせといふがあやなさ

いかなることつけぞや』

と、言ひも果てず走り出ではべりぬるに、追ひて、

『逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならば

ひる間も何かまばゆからまし』

さすがに口疾くなどははべりき」

と、しづしづと申せば、君達あさましと思ひて、「嘘言」とて笑ひたまふ。

「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ。むくつけきこと」

と爪弾きをして、「言はむ方なし」と、式部をあはめ憎みて、

「すこしよろしからむことを申せ」と責めたまへど、

「これよりめづらしきことはさぶらひなむや」とて、をり。

「すべて男も女も悪ろ者は、わづかに知れる方のことを残りなく見せ尽くさむと思へるこそ、いとほしけれ。

三史五経、道々しき方を、明らかに悟り明かさむこそ、愛敬なからめ、などかは、女といはむからに、世にあることの公私につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。わざと習ひまねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまること、自然に多かるべし。

さるままには、真名を走り書きて、さるまじきどちの女文に、なかば過ぎて書きすすめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかばと見えたり。心地にはさしも思はざらめど、おのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ、ことさらびたり。上臈の中にも、多かることぞかし。

歌詠むと思へる人の、やがて歌にまつはれ、をかしき古言をも初めより取り込みつつ、すさまじき折々、詠みかけたるこそ、ものしきことなれ。返しせねば情けなし、えせざらむ人ははしたなからむ。

さるべき節会など、五月の節に急ぎ参る朝、何のあやめも思ひしづめられぬに、えならぬ根を引きかけ、九日の宴に、まづ難き詩の心を思ひめぐらして暇なき折に、菊の露をかこち寄せなどやうの、つきなき営みにあはせ、さならでもおのづから、げに後に思へばをかしくもあはれにもあべかりけることの、その折につきなく、目にとまらぬなどを、推し量らず詠み出でたる、なかなか心後れて見ゆ。

よろづのことに、などかは、さても、とおぼゆる折から、時々、思ひわかぬばかりの心にては、よしばみ情け立たざらむなむ目やすかるべき。

すべて、心に知れらむことをも、知らず顔にもてなし、言はまほしからむことをも、一つ二つのふしは過ぐすべくなむあべかりける」

と言ふにも、君は、人一人の御ありさまを、心の中に思ひつづけたまふ。「これに足らずまたさし過ぎたることなくものしたまひけるかな」と、ありがたきにも、いとど胸ふたがる。

いづ方により果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、明かしたまひつ。

からうして今日は日のけしきも直れり。かくのみ籠もりさぶらひたまふも、大殿の御心いとほしければ、まかでたまへり。

おほかたの気色、人のけはひも、けざやかにけ高く、乱れたるところまじらず、なほ、これこそは、かの、人びとの捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ、と思すものから、あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるをさうざうしくて、中納言の君、中務などやうの、おしなべたらぬ若人どもに、戯れ言などのたまひつつ、暑さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえたり。

大臣も渡りたまひて、うちとけたまへれば、御几帳隔てておはしまして、御物語聞こえたまふを、「暑きに」とにがみたまへば、人びと笑ふ。「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いとやすらかなる御振る舞ひなりや。

暗くなるほどに、

「今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり」と聞こゆ。

「さかし、例は忌みたまふ方なりけり」

「二条の院にも同じ筋にて、いづくにか違へむ。いと悩ましきに」

とて大殿籠もれり。「いと悪しきことなり」と、これかれ聞こゆ。

「紀伊守にて親しく仕うまつる人の、中川のわたりなる家なむ、このころ水せき入れて、涼しき蔭にはべる」と聞こゆ。

「いとよかなり。悩ましきに、牛ながら引き入れつべからむ所を」

とのたまふ。忍び忍びの御方違へ所は、あまたありぬべけれど、久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げて、ひき違へ他ざまへと思さむは、いとほしきなるべし。紀伊守に仰せ言賜へば、承りながら、退きて、

「伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて、女房なむまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらむ」

と、下に嘆くを聞きたまひて、

「その人近からむなむ、うれしかるべき。女遠き旅寝は、もの恐ろしき心地すべきを。ただその几帳のうしろに」とのたまへば、

「げに、よろしき御座所にも」とて、人走らせやる。いと忍びて、ことさらにことことしからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、大臣にも聞こえたまはず、御供にも睦ましき限りしておはしましぬ。

「にはかに」とわぶれど、人も聞き入れず。寝殿の東面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の心ばへなど、さる方にをかしくしなしたり。田舎家だつ柴垣して、前栽など心とめて植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍しげく飛びまがひて、をかしきほどなり。

人びと、渡殿より出でたる泉にのぞきゐて、酒呑む。主人も肴求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかに眺めたまひて、かの、中の品に取り出でて言ひし、この並ならむかしと思し出づ。

思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば、ゆかしくて耳とどめたまへるに、この西面にぞ人のけはひする。衣の音なひはらはらとして、若き声どもにくからず。さすがに忍びて、笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。格子を上げたりけれど、守、「心なし」とむつかりて下しつれば、火灯したる透影、障子の上より漏りたるに、やをら寄りたまひて、「見ゆや」と思せど、隙もなければ、しばし聞きたまふに、この近き母屋に集ひゐたるなるべし、うちささめき言ふことどもを聞きたまへば、わが御上なるべし。

「いといたうまめだちて。まだきに、やむごとなきよすが定まりたまへるこそ、さうざうしかめれ」

「されど、さるべき隈には、よくこそ、隠れ歩きたまふなれ」

など言ふにも、思すことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、「かやうのついでにも、人の言ひ漏らさむを、聞きつけたらむ時」などおぼえたまふ。

ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。「くつろぎがましく、歌誦じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし」と思す。

守出で来て、灯籠掛け添へ、灯明くかかげなどして、御くだものばかり参れり。

「とばり帳も、いかにぞは。さる方の心もとなくては、めざましき饗応ならむ」とのたまへば、

「何よけむとも、えうけたまはらず」と、かしこまりてさぶらふ。端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿籠もれば、人びとも静まりぬ。

主人の子ども、をかしげにてあり。童なる、殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり。伊予介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて、十二、三ばかりなるもあり。

「いづれかいづれ」など問ひたまふに、

「これは、故衛門督の末の子にて、いとかなしくしはべりけるを、幼きほどに後れはべりて、姉なる人のよすがに、かくてはべるなり。才などもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思ひたまへかけながら、すがすがしうはえ交じらひはべらざめる」と申す。

「あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親」

「さなむはべる」と申すに、

「似げなき親をも、まうけたりけるかな。主上にも聞こし召しおきて、『宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし、いかになりにけむ』と、いつぞやのたまはせし。世こそ定めなきものなれ」と、いとおよすけのたまふ。

「不意に、かくてものしはべるなり。世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も、定まりたることはべらね。中についても、女の宿世は浮かびたるなむ、あはれにはべる」など聞こえさす。

「伊予介は、かしづくや。君と思ふらむな」

「いかがは。私の主とこそは思ひてはべるめるを、好き好きしきことと、なにがしよりはじめて、うけひきはべらずなむ」と申す。

「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきたらむに、おろしたてむやは。かの介は、いとよしありて気色ばめるをや」など、物語したまひて、

「いづかたにぞ」

「皆、下屋におろしはべりぬるを、えやまかりおりあへざらむ」と聞こゆ。

酔ひすすみて、皆人びと簀子に臥しつつ、静まりぬ。

君は、とけても寝られたまはず、いたづら臥しと思さるるに御目覚めて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、「こなたや、かくいふ人の隠れたる方ならむ、あはれや」と御心とどめて、やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、

「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」

と、かれたる声のをかしきにて言へば、

「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、け遠かりけり」

と言ふ。寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、いもうとと聞きたまひつ。

「廂にぞ大殿籠もりぬる。音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる、げにこそめでたかりけれ」と、みそかに言ふ。

「昼ならましかば、覗きて見たてまつりてまし」

とねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。「ねたう、心とどめても問ひ聞けかし」とあぢきなく思す。

「まろは端に寝はべらむ。あなくるし」

とて、灯かかげなどすべし。女君は、ただこの障子口筋交ひたるほどにぞ臥したるべき。

「中将の君はいづくにぞ。人げ遠き心地して、もの恐ろし」

と言ふなれば、長押の下に、人びと臥して答へすなり。

「下に湯におりて。『ただ今参らむ』とはべる」と言ふ。

皆静まりたるけはひなれば、掛金を試みに引きあけたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。几帳を障子口には立てて、灯はほの暗きに、見たまへば唐櫃だつ物どもを置きたれば、乱りがはしき中を、分け入りたまへれば、ただ一人いとささやかにて臥したり。なまわづらはしけれど、上なる衣押しやるまで、求めつる人と思へり。

「中将召しつればなむ。人知れぬ思ひの、しるしある心地して」

とのたまふを、ともかくも思ひ分かれず、物に襲はるる心地して、「や」とおびゆれど、顔に衣のさはりて、音にも立てず。

「うちつけに、深からぬ心のほどと見たまふらむ、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心のうちも、聞こえ知らせむとてなむ。かかるをりを待ち出でたるも、さらに浅くはあらじと、思ひなしたまへ」

と、いとやはらかにのたまひて、鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、「ここに、人」とも、えののしらず。心地はた、わびしく、あるまじきことと思へば、あさましく、

「人違へにこそはべるめれ」と言ふも息の下なり。

消えまどへる気色、いと心苦しくらうたげなれば、をかしと見たまひて、

「違ふべくもあらぬ心のしるべを、思はずにもおぼめいたまふかな。好きがましきさまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべきぞ」

とて、いと小さやかなれば、かき抱きて障子のもと出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。

「やや」とのたまふに、あやしくて探り寄りたるにぞ、いみじく匂ひみちて、顔にもくゆりかかる心地するに、思ひ寄りぬ。あさましう、こはいかなることぞと思ひまどはるれど、聞こえむ方なし。並々の人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむは、いかがあらむ。心も騷ぎて、慕ひ来たれど、動もなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。

障子をひきたてて、「暁に御迎へにものせよ」とのたまへば、女は、この人の思ふらむことさへ、死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いと悩ましげなる、いとほしけれど、例の、いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知らるばかり、情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど、なほいとあさましきに、

「現ともおぼえずこそ。数ならぬ身ながらも、思しくたしける御心ばへのほども、いかが浅くは思うたまへざらむ。いとかやうなる際は、際とこそはべなれ」

とて、かくおし立ちたまへるを、深く情けなく憂しと思ひ入りたるさまも、げにいとほしく、心恥づかしきけはひなれば、

「その際々を、まだ知らぬ、初事ぞや。なかなか、おしなべたる列に思ひなしたまへるなむうたてありける。おのづから聞きたまふやうもあらむ。あながちなる好き心は、さらにならはぬを。さるべきにや、げに、かくあはめられたてまつるも、ことわりなる心まどひを、みづからもあやしきまでなむ」

など、まめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえむことわびしければ、すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人柄のたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地して、さすがに折るべくもあらず。

まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、言ふ方なしと思ひて、泣くさまなど、いとあはれなり。心苦しくはあれど、見ざらましかば口惜しからまし、と思す。慰めがたく、憂しと思へれば、

「など、かく疎ましきものにしも思すべき。おぼえなきさまなるしもこそ、契りあるとは思ひたまはめ。むげに世を思ひ知らぬやうに、おぼほれたまふなむ、いとつらき」と恨みられて、

「いとかく憂き身のほどの定まらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、あるまじき我が頼みにて、見直したまふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを、いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに、たぐひなく思うたまへ惑はるるなり。よし、今は見きとなかけそ」

とて、思へるさま、げにいとことわりなり。おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし。

鶏も鳴きぬ。人びと起き出でて、

「いといぎたなかりける夜かな」

「御車ひき出でよ」

など言ふなり。守も出で来て、

「女などの御方違へこそ。夜深く急がせたまふべきかは」など言ふもあり。

君は、またかやうのついであらむこともいとかたく、さしはへてはいかでか、御文なども通はむことのいとわりなきを思すに、いと胸いたし。奥の中将も出でて、いと苦しがれば、許したまひても、また引きとどめたまひつつ、

「いかでか、聞こゆべき。世に知らぬ御心のつらさも、あはれも、浅からぬ世の思ひ出では、さまざまめづらかなるべき例かな」

とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。

鶏もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、

「つれなきを恨みも果てぬしののめに

とりあへぬまでおどろかすらむ」

女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆき心地して、めでたき御もてなしも、何ともおぼえず、常はいとすくすくしく心づきなしと思ひあなづる伊予の方の思ひやられて、「夢にや見ゆらむ」と、そら恐ろしくつつまし。

「身の憂さを嘆くにあかで明くる夜は

とり重ねてぞ音もなかれける」

ことと明くなれば、障子口まで送りたまふ。内も外も人騒がしければ、引き立てて、別れたまふほど、心細く、隔つる関と見えたり。

御直衣など着たまひて、南の高欄にしばしうち眺めたまふ。西面の格子そそき上げて、人びと覗くべかめる。簀子の中のほどに立てたる小障子の上より仄かに見えたまへる御ありさまを、身にしむばかり思へる好き心どもあめり。

月は有明にて、光をさまれるものから、かげけざやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。何心なき空のけしきも、ただ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、言伝てやらむよすがだになきをと、かへりみがちにて出でたまひぬ。

殿に帰りたまひても、とみにもまどろまれたまはず。またあひ見るべき方なきを、まして、かの人の思ふらむ心の中、いかならむと、心苦しく思ひやりたまふ。「すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな。隈なく見集めたる人の言ひしことは、げに」と思し合はせられけり。

このほどは大殿にのみおはします。なほいとかき絶えて、思ふらむことのいとほしく御心にかかりて、苦しく思しわびて、紀伊守を召したり。

「かの、ありし中納言の子は、得させてむや。らうたげに見えしを。身近く使ふ人にせむ。主上にも我奉らむ」とのたまへば、

「いとかしこき仰せ言にはべるなり。姉なる人にのたまひみむ」

と申すも、胸つぶれて思せど、

「その姉君は、朝臣の弟や持たる」

「さもはべらず。この二年ばかりぞ、かくてものしはべれど、親のおきてに違へりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになむ、聞きたまふる」

「あはれのことや。よろしく聞こえし人ぞかし。まことによしや」とのたまへば、

「けしうははべらざるべし。もて離れてうとうとしくはべれば、世のたとひにて、睦びはべらず」と申す。

さて、五六日ありて、この子率て参れり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさまして、あて人と見えたり。召し入れて、いとなつかしく語らひたまふ。童心地に、いとめでたくうれしと思ふ。いもうとの君のことも詳しく問ひたまふ。さるべきことは答へ聞こえなどして、恥づかしげにしづまりたれば、うち出でにくし。されど、いとよく言ひ知らせたまふ。

かかることこそはと、ほの心得るも、思ひの外なれど、幼な心地に深くしもたどらず。御文を持て来たれば、女、あさましきに涙も出で来ぬ。この子の思ふらむこともはしたなくて、さすがに、御文を面隠しに広げたり。いと多くて、

「見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに

目さへあはでぞころも経にける

寝る夜なければ」

など、目も及ばぬ御書きざまも、霧り塞がりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて臥したまへり。

またの日、小君召したれば、参るとて御返り乞ふ。

「かかる御文見るべき人もなし、と聞こえよ」

とのたまへば、うち笑みて、

「違ふべくものたまはざりしものを。いかが、さは申さむ」

と言ふに、心やましく、残りなくのたまはせ、知らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。

「いで、およすけたることは言はぬぞよき。さは、な参りたまひそ」とむつかられて、

「召すには、いかでか」とて、参りぬ。

紀伊守、好き心にこの継母のありさまをあたらしきものに思ひて、追従しありけば、この子をもてかしづきて、率てありく。

君、召し寄せて、

「昨日待ち暮らししを。なほあひ思ふまじきなめり」

と怨じたまへば、顔うち赤めてゐたり。

「いづら」とのたまふに、しかしかと申すに、

「言ふかひなのことや。あさまし」とて、またも賜へり。

「あこは知らじな。その伊予の翁よりは、先に見し人ぞ。されど、頼もしげなく頚細しとて、ふつつかなる後見まうけて、かく侮りたまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は、行く先短かりなむ」

とのたまへば、「さもやありけむ、いみじかりけることかな」と思へる、「をかし」と思す。

この子をまつはしたまひて、内裏にも率て参りなどしたまふ。わが御匣殿にのたまひて、装束などもせさせ、まことに親めきてあつかひたまふ。

御文は常にあり。されど、この子もいと幼し、心よりほかに散りもせば、軽々しき名さへとり添へむ、身のおぼえをいとつきなかるべく思へば、めでたきこともわが身からこそと思ひて、うちとけたる御答へも聞こえず。ほのかなりし御けはひありさまは、「げに、なべてにやは」と、思ひ出できこえぬにはあらねど、「をかしきさまを見えたてまつりても、何にかはなるべき」など、思ひ返すなりけり。

君は思しおこたる時の間もなく、心苦しくも恋しくも思し出づ。思へりし気色などのいとほしさも、晴るけむ方なく思しわたる。軽々しく這ひ紛れ立ち寄りたまはむも、人目しげからむ所に、便なき振る舞ひやあらはれむと、人のためもいとほしく、と思しわづらふ。

例の、内裏に日数経たまふころ、さるべき方の忌み待ち出でたまふ。にはかにまかでたまふまねして、道のほどよりおはしましたり。

紀伊守おどろきて、遣水の面目とかしこまり喜ぶ。小君には、昼より、「かくなむ思ひよれる」とのたまひ契れり。明け暮れまつはし馴らしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。

女も、さる御消息ありけるに、思したばかりつらむほどは、浅くしも思ひなされねど、さりとて、うちとけ、人げなきありさまを見えたてまつりても、あぢきなく、夢のやうにて過ぎにし嘆きを、またや加へむ、と思ひ乱れて、なほさて待ちつけきこえさせむことのまばゆければ、小君が出でて往ぬるほどに、

「いとけ近ければ、かたはらいたし。なやましければ、忍びてうち叩かせなどせむに、ほど離れてを」

とて、渡殿に、中将といひしが局したる隠れに、移ろひぬ。

さる心して、人とく静めて、御消息あれど、小君は尋ねあはず。よろづの所求め歩きて、渡殿に分け入りて、からうしてたどり来たり。いとあさましくつらし、と思ひて、

「いかにかひなしと思さむ」と、泣きぬばかり言へば、

「かく、けしからぬ心ばへは、つかふものか。幼き人のかかること言ひ伝ふるは、いみじく忌むなるものを」と言ひおどして、「『心地悩ましければ、人びと避けずおさへさせてなむ』と聞こえさせよ。あやしと誰も誰も見るらむ」

と言ひ放ちて、心の中には、「いと、かく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれるふるさとながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし。しひて思ひ知らぬ顔に見消つも、いかにほど知らぬやうに思すらむ」と、心ながらも、胸いたく、さすがに思ひ乱る。「とてもかくても、今は言ふかひなき宿世なりければ、無心に心づきなくて止みなむ」と思ひ果てたり。

君は、いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく待ち臥したまへるに、不用なるよしを聞こゆれば、あさましくめづらかなりける心のほどを、「身もいと恥づかしくこそなりぬれ」と、いといとほしき御気色なり。とばかりものものたまはず、いたくうめきて、憂しと思したり。

「帚木の心を知らで園原の

道にあやなく惑ひぬるかな

聞こえむ方こそなけれ」

とのたまへり。女も、さすがに、まどろまざりければ、

「数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに

あるにもあらず消ゆる帚木」

と聞こえたり。

小君、いといとほしさに眠たくもあらでまどひ歩くを、人あやしと見るらむ、とわびたまふ。

例の、人びとはいぎたなきに、一所すずろにすさまじく思し続けらるれど、人に似ぬ心ざまの、なほ消えず立ち上れりける、とねたく、かかるにつけてこそ心もとまれと、かつは思しながら、めざましくつらければ、さばれと思せども、さも思し果つまじく、

「隠れたらむ所に、なほ率て行け」とのたまへど、

「いとむつかしげにさし籠められて、人あまたはべるめれば、かしこげに」

と聞こゆ。いとほしと思へり。

「よし、あこだに、な捨てそ」

とのたまひて、御かたはらに臥せたまへり。若くなつかしき御ありさまを、うれしくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりは、なかなかあはれに思さるとぞ。

 

 

     

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