江藤淳 閉された言語空間 (1988,1994) |
2021.11.19
閉ざされた言語空間は、1988年に文藝春秋から出版され、1994年に文春文庫化されました。
副題は、占領軍の検閲と戦後日本で、日本の言語空間もしくは言論空間の不自由が、
GHQの徹底した検閲による影響だと気付いた著者が、1979年秋から1980年春の9ヶ月間
米国でGHQによる検閲に関する資料を調査研究した成果に基づいた本です。
雑誌「諸君」に、「忘れたことと忘れさせられたこと」という連載を3年間続けたところ、
メリーラント大学附属マッケルディン図書館に在勤中の奥泉栄三郎さんから、
当図書館の資料がきっと役に立つという連絡をもらったことが、大いに役立ちました。
本書は、第一部 アメリカは日本での検閲をいかに準備していたか、と
第二部 アメリカは日本での検閲をいかに実行したか から成ります。
第二部の出だし部分を少し引用します。
昭和20年(1945)9月、逐次占領を開始した米軍の前で、日本人はほとんど異常なほど静まりかえっていた。
連合国記者団の第一陣として、東京に乗り込んで来たAP通信社のラッセル・ブラインズは、
「全国民が余りにも冷静なのに驚いた」と告白している。
だが、「驚いた」のはなにもブラインズだけではなかった。
実は占領軍自身が、すべては「巨大な罠」ではないかと、疑っていたのである。
この沈黙が解けたとき、にわかに血の雨が降り、米軍は一挙に殲滅されてしまうのではないか、と。
(中略)
あらゆる日本人は「潜在的な敵」であり、そういう人間が住んでいる日本と言う国は、本来「邪悪」な国である。
この固定観念は、「ブラックリスト」作戦が中止されたのちになっても、いつまでも米軍当局者の念頭を去らなかった。
それどころか、それは時とともに深く彼らの意識に浸透して、ほとんど日本人を見るときに自動的に作動するフィルターのようなものになった。
一方、不気味な沈黙を続ける日本人には、何等自らの「邪悪」さを反省するような形跡が認められなかった。
米軍検閲官が開封した私信は、次のような文言で埋めつくされていたからである。
●突然のことなので驚いております。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死にはしたくありません。
敵は人道、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。
数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。
憎しみを感じないわけにはいきません。(8月16日付)
●橋のほとりにいる歩哨は、欄干に腰を下ろして、肩に掛けた小銃をぶらぶらさせ、チュウインガムを噛んでいました。
こんなだらしのない軍隊に敗けたのかと思うと、口惜しくてたまりません。(9月9日付)
●大東亜戦争がみじめな結末を迎えたのは御承知の通りです。
通学の途中にも、ほかの場所でも、あの憎い米兵の姿を見かけなければならなくなりました。
今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋にはいっていきました。
米兵は、学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。
何ていやな奴等でしょう!ぼくたち子供ですら、怒りを感じます。
戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持ちがするでしょうか。(9月29日付)
これらのうち、8月16日付と9月29日付のものは、いずれも戦地に在る肉親に宛てられた国外郵便と覚しいが、
ここで注目すべきことは、当時の日本人が、戦争と敗戦の悲惨さを、自らの「邪悪」がもたらしたものとは少しも考えていなかったという事実である。
「数知れぬ戦争犠牲者」は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、
「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。
「憎しみ」を感じるべき相手は、日本政府や日本軍であるよりは、まずもって当の殺戮者、破壊者でなければならない。
当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。
日本占領した米軍にとって、検閲と、日本人の精神の再教育は、死活問題だったのかもしれません・
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