日本人の音楽教育 カヴァイエ・西山志風

●  はじめに     2015.06.20

日本人の音楽教育 カヴァイエ・西山志風 新潮選書 1987

ロナルド・カヴァイエ 1951年英国生まれ、ピアニスト、1979年、武蔵野音大の招きで来日、1986年帰英

西山志風(にしやま・しふ、本名:西山祐司) 1943年東京生まれ 慶応大学仏文卒 専門は言語理論・言語哲学

1984年4月から1985年11月にかけて計10回、江古田のカヴァイエ氏の自宅で英語で対談し、西山氏が翻訳、編集して出版されました。

● 鈴木メソッドについて     2015.06.20

西山 わたしの理解するかぎり、鈴木鎭一氏が提唱し、実践しているいわゆる「才能教育」の根底にある思想をつづめていえば、「音楽を学ぶというのは母国語を習得するのと同じようなものだ。日本人の子供ならだれでも日本語が話せるようになる。したがって、母国語を習得する時期や環境に合わせて、あるいは、それをみならって音楽教授法を工夫してやれば、だれにでも、音楽を習得できるようになる。その意味でだれにでも音楽にたいする才能はある。」のようなものではないかと思います。

カヴァイエ わたしの理解するかぎりでも、それが「鈴木メソッド」の本質だろうと思います。「母国語を覚えるのと同様、何度も何度も楽曲を繰り返し聴くことを通して、無意識のうちに、その楽曲を身体のなかに吸収し、同化していくのだ、そして、身体の中に入った音と同じ音を今度は自分が楽器をもって再現するのだ、そしてこれは、二、三歳の幼児ですら可能なのだ」というのがこのメソッドの主唱者の基本的な発想のようです。

 

西山 それは、ちょうど、子供が小さければ小さいほど、言葉にたいしてセンシティブであり、きわめて受容的であるということにヒントを得たのでしょうね。

カヴァイエ もちろんそうだと思います。けれども、音楽の学習と言葉の習得があらゆる点においてパラレルだというわけではありません。たしかに、私達はだれでも母国語を話すようになりますが、母国語を話すということ自体は芸術活動でもなんでもありません。つまり、だれでも言葉は話せるようになりますが、だれでも詩人になれるわけではありません。
 音楽は芸術です。鈴木メソッドによって、誰でも、バイオリンやピアノを弾くことはできるようになるでしょうが、問題は、芸術的に弾くことができるようになるかという点です。バイオリンやピアノを弾くことが芸術行為でないとしたら、いったいそれはなんなのでしょうか。

 

西山 鈴木メソッドを特徴づける「モデル演奏の模倣を通して学習する」ことについてですが、日本の伝統芸術では、琴でも三味線でも、尺八でも義太夫でも謡曲でもすべて、お師匠さんのモデル演奏を口授・口伝(こうじゅくでん)などで模倣することによって習得していきますよね。この「模倣による学習」もまんざら捨てたものではなく、少なくともある種の芸術に対しては効果があるようです。ところが、どういうわけか、西洋音楽にたいしてはこの方法はうまくはたらかないのですね。

カヴァイエ まさに、そこのところが、私にも答えが得られない難しい問題なのです。これまでの私の教師経験、フィーリング、あるいは私自身の西洋的な思考法はことごとく、この「模倣による学習方法」は西洋音楽や、西洋のあらゆる芸術に関しても、全く働かないということを教えてくれています。ところが、日本にやってきて、この国の伝統芸術の学習方法を見聞きして、本当にびっくりしました。

 

西山 それでは、西洋音楽と日本の伝統芸術の間には、本質的な違いがあって、その違いがそれぞれ固有の学習方法、メソッドをもたらしたとも考えられますね。

カヴァイエ ええ、でもその違いがなにかは、深く研究してみる価値があります。この問題は、たんに音楽家だけでなく、心理学者、文化人類学者らによって研究されてしかるべき興味深いテーマだと思います。

 

カヴァイエ イギリスでは、私は先生から「自分で楽曲を完成するまでは、絶対その曲のレコードを聴かないように」という忠告を受けましたし、私自身もイギリスの学生達にそのように教えてきました。その楽曲の演奏がある程度の水準までできるようになった時点で、はじめて、レコードを聴くべきである。そうすれば、それまで自分自身でつかんでいたその楽曲に対する考えとは別の、新しいインスピレーションが生まれるかもしれないのです。
 けれども、日本では、私はそのような忠告は一切しないことにしました。むしろ、ある楽曲をあたえるとき、はじめから、「この曲のレコードをまず聴きなさい」ということもしばしばあります。

西山 それまた何故でしょう。

カヴァイエ 一般的に言って、日本の学生達の楽曲に対する下準備、勉強、研究、分析がどうしようもないほど不十分だと、しばしば感じるからです。この不十分さを補うためには、レコードを聴くほうが、当の楽曲の全体の感じをつかむためにもはるかにてっとりばやい方法だと思われます。

 

カヴァイエ 一つの例をあげましょう。先日、ある学生にバッハのパルティータのサラバンドのレッスンをしておりました。「家に帰ったら、他の五個のパルティータに登場する「サラバンド」にすべて目を通して、一通りさらっておきなさい。それから、イギリス組曲全6曲や、フランス組曲全6曲にもサラバンドは登場するので、これらも参考までに一通り自分で弾いてみて、サラバンドなるものの感じをだいたいつかんできてください。」といいました。
 しかし、その学生は、次のレッスンまでにそのような下準備はできませんでした。そこで私は、「レコードでいいから、とにかくバッハのすべてのサラバンドを可能な限り聴きなさい」と指示しました。

カヴァイエ 私の学生達はいずれも、ピアノのテクニックのある面に関しては、かなり達者な人々なので、バッハのパルティータやフランス組曲などはすらすらと弾くことができます。そこで、時々、「サラバンドってなに」と質問することがあります。しかし、彼等は、サラバンドについてなにも知らないのです。サラバンドが、クーラントやジーグと本質的にどこが違い、だいたいどういうタイプの舞踊かについての知識がゼロなのです。いえ、そればかりか、本でも読んで、勉強しようとする意欲もないのです。そのような知識が無くて、どうしてサラバンドが弾けるでしょうか。

考察 2015.8.20

 なぜ、西洋音楽の特にクラシックと呼ばれている分野では、演奏においても、こんなに独創性が要求されるのか、少し考えてみました。

 クラシック音楽が作曲された時代の、時代背景を考えてみます。日本語に近代 (modern) という言葉があります。近代絵画というような使い方をします。現代 (modern) という言葉と混乱してしまうので、使い方が難しいですが、近代化などの言葉は、今でも、よく使われます。

 

 

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