クラブヒルサイド 少女は本を読んで大人になる (2015) 

2023.10.10

 2013年5月から2014年5月に10回開催された読書会「少女は本を読んで大人になる」の記録です。

取り上げられた本と発表者は、以下の通りです。

アンネ・フランク『アンネの日記』 小林エリカ(マンガ家、作家)
L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』 森本千絵(コミュニケーションディレクター)
フランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』 阿川佐和子(作家、エッセイスト)
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』 鴻巣友季子(翻訳家)
尾崎翠『第七官界彷徨』 角田光代(小説家)
林芙美子『放浪記』 湯山玲子(著述家、ディレクター)
高村光太郎『智恵子抄』 末盛千枝子(編集者)
エーヴ・キュリー『キュリー夫人』 中村桂子(生命誌研究者)
石牟礼道子『苦海浄土』 竹下景子(俳優)
伊丹十三『女たちよ』 平松洋子(エッセイスト)

 今回は、鴻巣友季子さんが発表した『嵐が丘』を紹介します。

 鴻巣さんは、2003年に『嵐が丘』の新潮文庫版を翻訳しました。鴻巣さんは、子供の頃 「あしながおじさん」のジュディ・アボットが、「少なくとも今日の私が一番好きな愛読書は『嵐が丘』なんです」と言ったことから、あわてて読んだのですが、正直、どんな印象だったか覚えていないそうです。「何か怖いというか、尋常じゃない、人間のノーマルな気持ちを超えてしまっているというか、鬼気迫るものは感じたのですが、物語としてのおもしろさはまだ感じられませんでした。恋愛小説というよりは、ほとんどホラー。そんな読み方をしていました。」とのことです。

 そして、今回、翻訳作業をしたとき、語り手の家政婦ネリーの役割に注目したそうです。嵐が丘は、四分の三くらいが、ネリーの語りなのです。

93頁
 新訳にあたって、キャサリンとヒースクリフはキャラクターが強いので、そんなに苦労しなかったのですが、ネリーについては口調とかキャラクターを設定するのが大変でした。それまでの翻訳書はネリーを主要な人物とは捉えていませんから、おとなしい語りではなかったかと思います。翻訳についてご意見いただく中には、ネリーは雇い主に向かって乱暴な言葉を使っていたりして、調子に乗り過ぎではないか、というご指摘もありましたが、時に減らず口も出て来る、そのようなキャラクターとしてネリーを設定して、この小説を訳していきました。

94頁
 ネリーという人はトンネルというよりは、ブラックボックスのような存在なのです。彼女の語りがあるから予測がつかずおもしろい。この人のフレームなしに、いきなりキャサリンが登場してきて滔々と独白されたら、息苦しいというか、もう結構ですという感じになるのではないか。やはりネリーがいて、ロックウッドがいて展開するから、あちこちに声が反響して、より複雑な音色が生まれている感じがします。

97頁
 さて、みんな死んでしまいました。11人が死んでしまって、キャサリン・リントンとヘアトン・アーンショウだけが残りました。おめでたいことに、ふたりはつきあって新年には結婚することになっている。結局は、遺産はリントン家とアーンショウ家に無事に戻ってきたことになるのですね。
 果たしてこのふたりだけを残してみなん死んでしまったのでしょうか?まだひとり残っています。そう、ネリー・ディーンです。(中略) ふたりはまだ若いですから、ネリーは管財人のような形で、財産や家賃収入の管理もしている様子。いわば一人勝ち。(中略) 乳母としてアーンショウ家に入るわけですが、そのうち腕を買われて高給取りのハウスキーパーになり、学も身につけ、我が子同然に世継ぎの息子や娘たちを育てあげ、土地も建物もすべて自分の手中におさめる。「イングラント中を探しても私ほど幸せ者はおりません」と最後に語っています。語っていることが全部本当ではないかもしれませんが、そういうところがあるから、一層惹かれるのです。

 鴻巣さんは、さらに、「恋愛結婚というものを始めて小説に書いたのは、世界の文学史において、19世紀のイギリスの女性作家ではないかというのが私の持論です」と語ります。

100頁
 「嵐が丘」は恋愛が結婚というテーマに結びついていますし、さらに結婚後の生活がちゃんと描かれています。そこにさらにキャサリンとヒースクリフという不滅の、永遠の恋人たちをからませて、禁断の愛も描いている。「いいとこ採り」と言ってはなんですが、いまでいう恋愛結婚の要素も描きながら、昔から伝統的にある禁断の愛、不義の愛みたいなものも描いています。
103頁
 私は『嵐が丘』新訳の取材のためにヨークシャーのハワースにある生家に行ったことがあるのですが、いまでいうところのリビングダイニングみたいなところに、三姉妹が肩寄せあって執筆していたようです。自分ひとりの個室があったわけではなく、ちょっと家事があれば中断しながら小説を書き継いでいく、そんな姿が想像されます。そういう生活の中で、集中力を要する詩はなかなか書きにくい。だけど小説というのは分割された時間のなかでも書くことができて、時間を分けて読むこともできる。小説とは、近代の知性の産物だったのではないかと思うのです。

 鴻巣さんは、最後に、「文学を読むときに何よりも重要なのは、難しいことを何も知らなくても、読んでおもしろいと思えることです。」と提起して、「『嵐が丘』とは、まさにそういう小説であるのだと思います。」と締めくくっています。

 若い時に読んだ印象は、どこに行ったのかという感じですが、家政婦ネリーが見た、リントン家とアーンショウ家の、激しい恋愛劇とおぞましい復讐劇、最後は、幸せな結婚で一段落という話として、果たして読めるでしょうか。

 

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