松井桃樓 アリの町のマリア 北原怜子 (1963) |
2016.4.15
最近、部屋の大掃除をしていて、昔購入した本がいろいろとでてきているのですが、その一つが、本書です。
アリの町というのは、戦後、墨田区の言問橋の近くの隅田公園の一角の工場跡地にできた高い板塀に囲まれた約600坪の土地で、
小沢求という人が、近くにたむろしているホームレス達を組織して、廃品回収業、いわゆるバタヤの仕分け場を立ち上げたのです。
当時、劇作家として活躍していた松井桃楼(とうる)という人が、「バタヤ自身で仕切り場を運営したい」というこの計画に賛同し、
この組織に「蟻の会」という名前をつけました。この活動を報道したマスコミが、蟻の街 という呼び方にしたのだそうです。
蟻の街で、小沢さんは『オヤジ』、松井さんは『先生』と呼ばれています。
ここに、ゼノ修道士が関与します。ポーランドで「聖母の騎士」という活動を始めたコルベ神父が、
アジアへの布教のために1930年に長崎に来日したときに、彼も一緒についてきました。
ゼノ修道士は、長崎で被爆しますが、爆発の中心地とは丘一つ隔てていたため、命は無助かります。
彼は、貧しい孤児たちを救うために、日本全国をとびまわり、何万枚かの聖母マリアのカードを配り、
「カワイソウナ人タチノタメ、オ祈リタノミマス」と、繰り返し、繰り返し語りかけるのですが、蟻の街にもやってきます。
そして、1950年12月のある夜、しとしと降る雨もいとわずに、あとを追ってくる一人の少女に出会います。
その少女の真剣な目つきを見て、「この人こそ、私が待っていた人だ」とすぐ気が付きます。
北原怜子さんは、1929年生まれですから、この時、21歳です。メルセス修道会で洗礼を受けた信者でした。
メルセス修道会とは、十字軍の昔、捕虜になった人々を救うために、身代わりになって敵国に渡って行った修道士たちの、
「一人を助けるために、一人が死んでゆく運動」が組織化されて、「あわれみの聖母会」という修道院ができたのです。
北原さんも、そんな命がけの死にがいのある仕事を求めていたので、蟻の町に住み込んで、生活を伴にします。
キリスト教嫌いの『先生』から、「あなた方がやっている慈善事業は、一種の虚栄だ。自己満足の遊戯にすぎない。
あなた方は、貧しい人を助けているのじゃない。殺しているのだ。自分では、天使か聖人の真似事をしているつもりかもしれないが、
僕の目から見たら、悪魔だ。偽善者だ。大悪人だ。」と、手厳しいことを言われ、鍛えられます。
彼女は、1946年に入学した昭和女子薬学専門学校が、大学に昇格するために資金が百万円足りず、廃校になるかもしれないという
危機のときに、同級生達と三ヶ月学校を休んで、その百万円をつくろうと申し合わせ、実際に80万円作って、学校に渡したことがあるそうです。
こういう実行力を、蟻の町でも発揮し、子供達の夏休みの箱根旅行の費用の6000円を、子供達と一緒に働いて作りました。
「アリの街のマリア」の名が、マスコミで騒がれだすと、あれは売名のためにやっているのだと非難の声があがり、本人が悩んだときに、
先生から、「今の『アリの町』が一番必要なのは、社会全体がマスコミを通して、『アリの町』を正しく理解し、支持してくれることだ。
あなたが売名を嫌うのは、売名家だと罵られたくないからだ。本当に神を愛し、神の計画どおりに生きようと思うならば、どんなに誤解されても、
少しも苦にならないはずだ。神よりも自分の名誉を大切に思うから、『自分は売名家ではない」という『売名』をしたがるのだ。」と、
厳しく諌められたりします。
東京都は、隅田公園を占拠しているアリの町に立ち退いてもらいたいのですが、マスコミに騒がれて撤去することができません。
立ち退き先として、東京湾の埋め立て8号地を確保したのですが、最初の条件は2500万円を即金で払うというものでした。
最終的に、1500万円を、5ヵ年年賦ということで、決着しました。
彼女は、残念ながら、若くして結核を発病し、1958年に28歳の若さで、亡くなります。
アリの町は、1960年に8号埋立地に移ります。現在の潮見町です。JR京葉線潮見町駅から歩いて5分のところに、
カトリック潮見教会があります。教会堂の名前は、蟻の町のマリア です。
「10人の聖なる人々」学研、2000年に、コルベ神父、ゼノ修道士、北原怜子の3人が、取り上げられていますので、
松井さんの本が手に入らないひとは、参考にしてください。
ホームページアドレス: http://www.geocities.jp/think_leisurely/
自分のホームページを作成しようと思っていますか? |
Yahoo!ジオシティーズに参加 |