赤瀬川隼 潮もかなひぬ (1985, 1988) 

2021.02.19

 赤瀬川隼さんは、小説家で、本名は 赤瀬川隼彦 です。1931年11月5日生れですが、

2015年1月26日に、お亡くなりになりました。

 赤瀬川さんにとって、この本は、特別の意味を持っていたと思いますので、

ここに、詳しく、紹介したいと思います。

 まずは、この本の あとがき に、彼がこの小説を書いたいきさつが書かれていますので、紹介します。

 『潮もかなひぬ』を二つ書いてしまった。

はじめは別冊文藝春秋第165号に発表した短篇で、次がこの書き下ろしである。

一度発表したものは、できれば改作したくないと今でも思っているが、

この小説に限っては、反対にどうしても長いものに書き改めたくなった。

そのわけを簡単に記して第一作の読者のご理解を得たいと思う。

 第一作では、太平洋戦争下に無念の死をとげた一人の明治生れの男の足跡を追う筋を小説の主体とし、

万葉集中の数首を韓国語で読みほどくところ、つまりことばの謎解きの部分は、物語の終結部にポンと置くにとどめた。

 それを発表したときにはそれで一応満足していたが、日が経つにつれて、ことばの謎解きの部分をもっと書きたい、

しかも論文やエッセイではなく、小説の構造の中で生かしたいと思うようになった。

そして、できればこの際、柿本人麻呂の謎に迫りたいと思った。

 そうこうするうちに、第一作がたまたま直木賞候補作に名を連ねたおかげで、

選考委員各氏から短評をいただくことができた。

いずれも含蓄に富んだおことばで、作者としておおいに勉強になったが、とりわけ、

井上ひさし氏の、「今回の題材は、この枚数で支えるには巨きすぎたかもしれない」という指摘が心に残った。

小説の構造についての根本的な指摘だと思った。

 その後、第一作には手をつけずに短篇の連作でいくか、それとも第一作の物語の骨格の中に、新しく書きたいことを盛り込むか、しばらく悩んだ。

そして、結局後者にした。

一番大きな理由は、第一作の物語が終わったところから第二作の物語を作り、それに小説としての面白さを与える力が、私にはなかったからである。

 第二作の分量は第一作の倍以上になった。

狙いとしたところは、一人の人間の足跡を追ううちに「ことば」そのものが推理の対象に加わり、

さらにその「ことば」を発していた古代の人間に推理が及ぶという仕掛けの、私なりの推理小説とし、

加えて、「韓国語で読むと、なぜそう読めるのか」の根拠と、

「その試みに何の意味があるのか」の歴史的背景にも簡単に触れたいというものだった。

そして、前作の額田王に加えて、柿本人麻呂の歌と人物の謎解きを中心に据えた。

それらの構想がどこまで展開できたかは、読者のみなさんの御批判に待つほかはない。

 これを書き上げたからといって、巨きな題材を支えきったとは毛頭思っていない。

そう思うにはあまりにも巨大なテーマに取り憑かれてしまったものだ。

ただ、ことばの謎という大きな世界の入り口に、小さな創をつけたかなと思う。

まだ爪で引っかいたような創である。

 私自身の韓国語の習得は遅々として進んでいない。

その私がこのような題材を小説に用いることができたのは、繰り返すが、小説の末尾に掲げた方々の教示と示唆のおかげである。

このテーマは、本来はこのような方々の研究論文として、もっと深い洞察と緻密な論証のもとに世に問われるべきものであろう。

私は一戯作家として、幕前の余興をつとめたつもりである。

 (後略)

 私の購入したのは、文庫本版ですが、文庫版用のあとがきも、追加されています。

冒頭を少し引用します。

 単行本を上梓してから三年の月日が経った。

これを書き下ろしていた当時の心境が甦ってくる。どうか笑わないでいただきたい。

私は「これを書き上げるまでは死にたくない」と思っていたのである。
(中略)
それほど、この本は私にとって一種別格なのである。

それは、小説の出来不出来とは関係なく、一に、文を編む「ことば」そのものを推理の中心に据えたことが、私の他の作品ときわだって異なるという点にある。
(中略)
 単行本に記した通り、この小説は、言語交流研究所のみなさんに多大の示唆と教示を得て書いたものである。
(中略)
 言語交流研究所は、1984年4月に、トランスナショナル・カレッジ・オブ・レックスを開校した。

すなわち、この小説を出版するおよそ1年前である。
(中略)
 私は、カレッジの発足初年度に、中野矢尾さんをはじめ学生たちの研究にめぐり会ってこの本を書いたのだった。

そのときの方法を要約すれば次の通りである。

 額田王、柿本人麻呂など万葉初期の歌人の作について、その万葉仮名を古代朝鮮語で読んでみる。

同時に、和訓のやまとことばに、音韻変化を考慮しながら対応する朝鮮語を探る。

 こうして、額田王の一連の有名な大和三山歌から朝廷内部の抗争を嘆く声が、

また柿本人麻呂の一連のキリョの歌から朝廷の陰謀をほのめかしつつ死出の旅路に赴く声が、

いくつかのキーワードによって聞こえてきたとき、私は一字一句のすべての解釈を待たずに、

その方法と結果に動かしがたいリアリティを認め、

その段階での解読過程そのものを小説のテーマにとり込み、

私自身の解釈を加味して『潮もかなひぬ』を書き上げたのだった。

 この後に、カレッジでの研究成果の解説が続きますが、それについては、別の場所で紹介することにして、

今、この小説の説明に戻ります。

 この小説は、幾分か、推理小説の形をとっていますので、ネタばれを嫌う人は、この後は、読まないでください。

以下は、読んだ人が内容を忘れないための備忘録です。

 

主な登場人物

由布匠一 ルポライター 主人公 45才 妻は3年前交通事故死

荒巻田津子 依頼者 由布の妹 邦子の同級生なので、歳は 38-39才

荒巻加代 田津子の母 58才。夫は、荒巻良武 で、1944年インパールで戦死

荒巻潮 1895年2月10日生 加代の舅 田津子の祖父 1940年10月31日に特高に捕まる

           1944年8月3日自宅で死去 

寺坂市太郎 神棚の裏に隠してあった手紙の差出人の一人

  

 由布は、田津子の祖父の潮が、何故、特高に捕まったのかの調査をすることになります。

潮の経歴を調べ、会社の同僚にも会いますが、手掛かりはえられません。

最後に、寺坂に会い、万葉集の研究が関係していることがわかり、由布も調査して、

その成果を長い手紙にして、寺坂に二度出すのですが、寺坂は、二度目の手紙の前に死亡してしまい、

荒巻潮が、実際何を考えていたかについて、手掛かりをつかむことはできなくなりました。

 由布が、荒巻邸の庭で、楓の紅葉を見ていたときに、

わが宿に もみつかへるて 見るごとに 妹を懸けつつ 恋ひぬ日はなし

(私の屋敷に紅葉している楓を見る毎に、いとしいお前のことを思い浮かべて恋い焦がれていない日はない)

という歌の二重の意味に気付き、たくさんの葉が繁る楓の蔭に、蔭の万葉集が眠っているのではないかと、

楓の木の周りを掘ってみると、蓋つきの四角い陶器が見つかり、その中に、四つ折りの便箋の厚い束が

はいっていました。それは、荒巻潮の直筆の資料でした。

 資料の全文が、小説内に開示されますが、古い文体で表現してあるため、いささか読みにくいものになっています。

例えば、

古代朝鮮の新羅に吏讀なる漢字の使用法有り。本邦の萬葉假名と用法類似す。

古代日朝關係にも興味を抱き居りし余は、試みに吏讀即ち朝鮮語の発音と意味を

萬葉集の数首の萬葉假名に適用せし處、夫々異れる新たなる意味を帯びて現れたり。

然も一貫せる意味を持てり。余、暫し其を続く。

 そして、中大兄皇子の大和三山の歌の最初の歌

高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉

は、通常

香具山は、 畝傍(うねび)を雄々(をを)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし
香具山は、 畝傍山を雄々しいとして、耳成と相争ってきた、神代よりこのようであったらしい

古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻を 争ふらしき
昔もそうだったからこそ、現世も、妻(の座)を争うらしいのだ

と解釈されていますが、荒巻潮は、以下のように読み解きました。

高句麗(香具山)は、百済(畝傍山)に高句麗の守護神を祭り、

その土地を治めているといって、百済の征服を新羅と争った。

三韓時代の神代から、朝鮮の本家も同様であるらしい。

そうだからこそ、此処でも、現世の抜け殻となった新羅系氏族が、

未だに百済系氏族と争うらしい。

 このような読み解きをしていることが、特高に知られて、特高に捕まったのでしょう。

明治から昭和の戦前ね戦中にかけて、天皇に關係することを研究するのは、

本当に、命がけでした。

学問の自由が保証されるようになったのは、戦後もしばらくしてからなので、

本当に、現代に生きる私達は、幸せだと思います。

中国が、共産主義の独裁体制のまま、強大になろうとしています。

私達の後の世代が、自由を享受しつづけることができるのかどうか、本当に心配です。

 

 また、萬葉集が、古代朝鮮語で読めるという気運は、三十年前に、一時、はやりましたが、

現在は、下火です。

 私は、柿本人麻呂や、山辺赤人や、山上憶良たちは、みな、百済や新羅から移ってきた

渡来人で、古代朝鮮語を使っていた当本人なので、

彼らの知的能力によって発達することのできた古代日本語の和歌には、

当然、古代朝鮮語の影響はあったであろうと思っています。

特に、古代日本語では解釈のできない意味不明語については、そうではないかと思っています。

 

 

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