藍川由美 これでいいのか、にっぽんのうた (1998) 

2020.3.22

 この本を読み始めたのは、何年も前なのですが、その内容の深さに、挫折していました。

 しかし、NHKの朝ドラが、4月から「エール」になり、作曲家の古関裕而のお話だと聞いて、この本を想い出しました。

 この本の57頁に、初期レコード歌謡と古関裕而の謎という節があり、

日本のポピュラー音楽史で忘れられ勝ちな古関裕而が取り上げられていたからです。

 藍川さんは、古関裕而の作曲法から多くを学び、「古関裕而歌曲集」というCDも出されています。

 朝ドラを機会に、古関裕而の知名度は、ずっと上がるでしょうから、この機会をとらえて、

この本を読み返すことにします。

 

 この本の「はじめに」で、藍川さんは、こう語り始めます。

 「日本のうた」を歌い始めたばかりのころ、いつも日本語の発音について悩んでいた。

 日本人なのに、なぜもっと自然に日本語を歌えないのだろう?

 声楽のレッスンにおいては、響きの統一が最優先課題なのに、なぜか、「家」と「笛」と「声」の「え」が、同じ響きにならない。

日本語の母音は、ほんとうに、小学校の教室の壁に貼られていたような「アイウエオ」の口形で歌えるものなのだろうか。

それとも、母音や子音の組み合わせによって、その都度、発音が変化するのだろうか。

 

 「え」については、現在忘れられている わ行の「ゑ、ヱ」があるだけでなく、

本来は、や行のyeもあるわけですから、かなり複雑な問題を抱えています。

 アナウンサーになる場合は、このような問題の理論を勉強するかもしれませんが、

音楽の勉強においては、かなり無視されているのが現状です。

 

 「はじめに」には、「国に帰らむ」の「」が、「国に帰らん」と、「」になる問題についても、取り上げています。

ローマ字で表記すると、本来の mu を、m と歌うべきか、n と歌うべきかという問題が発生します。

 「ん」は、「知らぬ」が「知らん」となるケースとか、撥音便と呼ばれて、「飛びて」が「飛んで」、「読みて」が「読んで」となる

ところにも登場しますので、一度、整理しておくことが必要そうです。

 

 そこで、研究熱心な藍川さんが、猛勉強された結果が、この本というわけです。

 第二章は、「日本語の発音」というタイトルですが、その112頁に、山田耕作北原白秋について

ふれている箇所がありますので、引用します。

 東京音楽学校で声楽を専攻した耕作は、当時の作曲家としては珍しく、発音や発声法に通じていた。

なにしろ、自作を解説しながら弾き歌いした『歌の唱ひ方講座』(1928-29)のレコードまで出したほどだ。

また、昭和25年に日本放送出版協会から出した『山田耕作名歌全曲集第一巻』の解説には、

これまでの集大成ともいえる「日本の歌曲とその基本的な演唱・演奏法に就いて」という一文を発表している。

この中で、耕作は次のように言っている。

 クラシックの歌曲で国ごとに性格や様式が異なるのは、国語の相違によるものである。

歌詞の制約を受けない器楽と違い、歌曲においては「言葉が音楽をつくる」といっても過言ではない。

それゆえ、発声と発音は、別の技術ではなく、二にして一である。

たとえば、イタリアのベル・カント唱法が、イタリア語を美しく発音するための技術であるように、

日本の歌を唱うには、日本語を正しく発音するための発声法を模索する必要がある。

 この説には納得できる部分が多い。

だが、当時の歌手達が、これをちゃんと理解していたかどうかは疑問である。

なぜなら、今も、日本の歌曲は、いわゆるベル・カント唱法で歌われているからだ。

 他方、耕作と共に雑誌『詩と音楽』を編集発行していた北原白秋は、

昭和5年に刊行を開始した春秋社版『山田耕作全集』の月報第4号に、こう書いている。

また思うに、世の独唱家にいかに詩の無理解者が少なくないかと言うことである。

詩としては芸術家ではなくてほとんど低能者のごとくに見える。

詩に理解がなくて詩のもつ感情がいかにして適切なる表現として歌われ得るか、

隠微な言葉の香気複雑味などがただ単に表面的に歌い流されてしまう時に、

詩人も作曲家も苦笑以上の苦味をかみ殺すより外はなくなるであろう。―

 耕作と白秋、この二人の天才にかかると、日本の声楽家は、母国語の発音に無関心で、

言葉のニュアンスや詩の心を理解せず、ただ外国の発声法で歌い流しているだけの「低能者」ということになる。

 

 日本語の歌の歌い方などと大上段に構えると、難しい話のように聞こえますが、現代日本語に関しては、

演歌にしろJPOPにしろ、日本語で歌って聴衆に感銘を与えているわけですから、

日本語で日本語の唱歌を歌うこと自体は、そんなに難しい話ではないはずです。

 多分、日本の少し古い歌を歌うときに、現代語にはない響きなり味わいなりを

ちゃんと表現できるかというような問題ではないかと思います。

 例えば、「はじめに」で取り上げられていた、「家」と「笛」と「声」の「え」の問題ですが、

大昔の日本は、ア行のエと、ヤ行のエは、違う発音でした。そして、万葉仮名では、

ア行のエには、愛、哀、などが当てられ、ヤ行のエには、延、曳、縁、柄、枝、江 などが当てられました。

従って、「千代の松が枝」の「枝」や、「さぎり消ゆる湊江の」の「江」は、ye と発音することも、

もしかしたら、方言には生き残っているのかもしれません。

 私自身は、戦後生まれですので、ア行のエも、ヤ行のエも、ワ行のエも、区別はできません。

 ワ行のエであるヱは、ヱビス ビール という名前で生き残っていますが、YEBISU と表記されるところを見ると、

昔の人も、ワ行のエの発音は、あまり厳密ではなかったのでしょうか。

 

 現代人にとって、より関係するのは、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の違いではないでしょうか。

これらは、「四つ仮名」と呼ばれ、現代日本語では、「じ」と「ず」に統一されますが、勿論、違いがあります。

 藍川さんの解説を引用します。100頁

 しかし、「四つ仮名」を音楽的にいうと、「じ・ず」は持続できる有音の子音(J,Z)を伴う摩擦音で、

「ぢ・づ」は舌が歯茎から離れる瞬間に生じる破裂(D)を伴う破擦音である。

両者は、全く別のメカニズムによって発せられる音なのだ。

 かといって、われわれは、普段、これが摩擦音か破擦音かなどと考えながら喋ることはない。

無意識のうちに、微妙な響きを区別して発音し、それが一瞬のうちに過ぎていくのである。

 ところが、歌となると、一音一音に音符が与えられるため、たとえば「夏は来ぬ」の「つ」のように、

喋ると一瞬のうちに過ぎ去る無声音を長く延ばさなくてはならない場合もある。

しかも、無声音の「つ」を一拍半延ばすためには、発音を有声化せねばならない、すると、

当然のことながら、響きそのものが変わってしまうことになる。

 だから、日常語と、歌や演劇などにおける舞台語を同列に論じることはできないのである。

とくに歌においては、詩の文体や、書かれた時代の発音を可能な限り考慮し、

日本語に本来的に備わっている響きを生かす方向に進むべきである。

従って、すでにわが国のほとんどの地域で消えたといわれる「四つ仮名」も、

異名同音を区別し、語源意識を重視するという意味で、歌のなかに生かしていくべきではないかと私は考えている。

 98頁では、こういう言い方もしています。

 もし、これらの発音をきちんと区別できるとしたら、異名同音が多い日本語の歌詞も、

少しは言葉や意味が聞き分けやすくなるかも知れない。

日常会話はともかく、歌においては、一音一音が必要以上に引き延ばされ、強調されるために、

どうしても言葉が聞き取りにくくなる。

だから、逆に、一音一音に時間をかけられるという性質を利用して、

すでに消滅したといわれている古い日本語の発音を生かすことを考えればよいのではないだろうか。

  傾聴に値するご意見だと思いますが、私は、これをどこまで推進するかについては、今一度、

じっくり検討すべきと考えます。

 お能は、今でも、昔の言葉で謡って上演しますが、言葉の意味を理解しながら、聴いている人は殆どいません。

お能が聴衆と考える人たちの層は、極めて限られたものといわざるをえません。

 日本の唱歌や童謡の聴衆は、誰でしょうか。少なくとも、お能の聴衆よりは、広いと思います。

とはいえ、日本の国歌の君が代の「きみがよは、ちよにやちよに、さざれいしの、いはほとなりて、こけのむすまで

の意味を、若い人達は、理解して歌っているでしょうか。

 「あおげばとうとし」「ふるさと」「あかとんぼ」「からたちの花」といった日本の歌が、忘れられつつあるという現実があります。

これらの歌が、忘れられてしまわないように、歌い続けるなかで、

言葉の意味や、発音についても伝えていくことが大切なのではないかと思います。

 

     

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