李寧煕 もう一つの万葉集 (1989,1991)  

2021.02.15

  李寧煕(イ・ヨンヒ, 1931-)さんは、東京生れの韓国人作家で、

1989年に出版したこの本は、ベストセラーになりました。

私が、この本を読んだのは、その時ではなく、定年後の、2015年でした。

 当時、一読しても、雑多な知識を組み合わせて無理やり訳したという感じで、

完全解読されたとは思えませんでした。

 今、再読しても、その感覚は、変わりません。

 私が、手に入れたのは文春文庫版で、その帯には

万葉集は韓国語だった! 今まで謎とされていた難訓歌も完全解読

全く異相の万葉歌が浮かび上がる

と書かれていますが、この言い方は、間違っていると思います。

 正確な、言い方をするとすれば、

万葉集の古代日本語は、古代朝鮮語から派生したものである

 くらいでしょうか。

 万葉集には、万葉仮名で表された古代日本語で書かれた歌が、かなり存在します。

古代日本語として解読できないものもありますので、

れは、吏読で表現された古代朝鮮語由来のものかもしれませんので、

古代朝鮮語の知識を取り入れた、本書のような研究には、興味を持ちます。

 しかし、古代日本語として読める部分も、むりやり古代朝鮮語で読もうとする、本書の立場は、

かなり無理をしていると感じます。

 

 また、韓国には、嘘を平気でつく人達がいます。例えば、2019年11月03日に、

韓国大手の中央日報の日本語版は、韓国の長寿ブランドである「ヤクルト」の記事を掲載しました。

1971年の販売開始以来、500億本販売した国民的飲料で、販売促進の原動力として、

「ヤクルトおばさん制度」を導入、女性の社会進出を促進したのだそうです。

こういう自慢話を、日本語版でも平気で取り上げる神経が、私には、よくわかりません。

 

 本書が、どこまで、まじめに書かれているのか、少し、解読してみようと思ったのですが、。

それは、インターネットを検索して、以下の記事をみつけたからです。

  古代日本語いんちき解釈の一例

       http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/intiki.html

 この記事は、李寧煕氏の『もう一つの万葉集』における

如此耳 恋哉将度 秋津野尓 多奈引雲能 過跡者無二(巻四の六九三)

の翻訳のいいかげんさを指摘していますので、基本は、そちらを読んでいただくことにして、

私なりのコメントを追加します。

 如此耳の最初の二字 如此 は、かくのごとし、このように の意で、は、み と読んで、

かくのみ と読み、初句は5音にしたいので、強調のを加えて、かくのみし と読むのが、

日本での従来の解釈です。

 李さんは、「」に、韓国語の みみ を当てて、(gui) と読み、これを (gi)と短縮して

全体をガグギ と読み、急に と訳すのですが、厳密な翻訳とは感じられません。

 

 恋哉将度 は、渡 として、将度 を、まさに渡らむ の意と解釈するのが従来解釈ですが、

これを さじぇしょど と読み、これは 新羅ことばで、現代語の살가져도さるじゃしょど)

に対応し、一緒になろうと言われても の意であると言われても、本当ですかといいたくなります。

  

 多奈引雲能 は、そのまま、たなびく くもの と読むのが、従来解釈ですが、

李さんは、ひく+いん の二重にして、ビキン と読んでいて、

これには、ついていけません。

 

 過跡者無二 は、すぐ・と・は・なし・に と読んで、.

雲が通り過ぎるようには、過ぎる(消えてしまう)ことはないのに の意だとするのが従来解釈ですが、

李さんは、 は、韓国読みで 住む の意味もあるとして、解釈し直します。

しかし、古代日本語いんちき解釈の一例 の説明では、これは、正しくないようです。

 

 

 

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