ブロンテ 嵐が丘 小野寺健訳 (2010)

2023.10.07

 「嵐が丘」の読み直しを始めました。ヒースクリフの執拗な復讐や、キャサリンの恋の破滅など、激しいストーリーの展開に圧倒され、一度走り読みしながら読んだだけでは、理解が困難な小説です。

 この本の訳者は、一字一句、詳細に読んだはずなのですが、その訳者にも、難解な小説でした。

 訳者の解説の一部を紹介します。

416頁
 著者は、29歳のときに、『嵐が丘』を出版すると、その1年後には亡くなった。だがこの作品は、生前には「異常な」「悪い」小説として、まったくと言っていいほど顧みられなかった。ところがその評価は20世紀に入ると一変して、シェイクスピアの『リア王』や、アメリカのハーマン・メルヴィルの『白鯨』などと肩をならべられる、世界文学の名作中の名作だと言われるようになった。小説が、道徳や慣習を教えるのではなく、人間のいわば実存を探求するものとして読まれる時代が来たのである。
416頁
 しかし、一度読んだだけでそこまでの理解に達するのはむずかしい。魂の底の底をさぐってえぐりだす精神の鋭さは、著者が命がけで表現した質(たち)のものなのだ。「すごい恋愛だなあ」「しかしここまで極端になって、お化けまで出て来るのは気味が悪い」というのが一般読者の感想だろう。筆者自身も、おそらく中学時代に初めて読んだときにはそういう読後感を抱いたきり、読みなおすことはなかった。そして出版当時の英国での受けとられ方も同様だったのである。「熱烈な恋愛と、苛酷な復讐の物語」と見えるものの奥底に秘められている − それこそエミリーにこの小説を書かせた − 「人生の本質的な問題」は理解の外(ほか)だったのだ。
425頁
 二人の愛情は、因習的な人生を送っている平凡な人間にとっては、狂気としか思えなくて当然である。そうでなければ平和な社会生活は成り立たない。だが、それはヒースクリフ的な情念が現実の社会には存在しないということではないのだ。
427頁
 だが『嵐が丘』の作中人物の日常的な行動や怨念の類(たぐい)は、すべていわば社会的なものである。ヒースクリフの復讐の動機、また初代キャサリンの執念の底には、「人間の実存」といった概念が存在しているのである。そこまでの理解に達するのはむずかしい。私は、訳了するころになると、一組の男女の恋愛という言葉などでは到底かたづかない、たとえば巨大な岩のようなものがのしかかってくるような感じがして、かつて経験したことのない疲労をおぼえた。現世的な愛や怨恨、そうしたものを超えた、あるいはそれよりも深いところに潜んでいる精神のエネルギーといったものがこの作品の主題であることが、遅まきながら分かってきたのだ。孤独な病者エミリー・ブロンテは、生きようとしてそれを「表現」するために命をかけた。
434頁
 つまりわれわれは、できることなら『嵐が丘』の世界のような、根源的な自我を意識する羽目になど陥らない方が楽なのだ。平生の波乱のない意識に安住している方を選ぶのが人間としては自然であり、それがヒューマニズムなのである。意識の底の底、あるいは極限を浚(さら)う必要はないのだ。だが同時に、そういう極限の意識が潜在していること、そしていつ暴れださないともかぎらないということは自覚している必要があるだろう。その自覚があってこそ、制度に安住した人生も、生命をもちうるのであろう。

 平和な時代の日本に生まれた私たちは、この平和な社会に安住して、かまわないのだと思います。しかし、現代においても、平和のない不幸な境遇に生きている人達がいます。怨念にまみれた精神は、とてつもないエネルギーを持っているのかもしれませんね。

 訳者は、あとがきで、こう語ります。

443頁
 疲れた。まず、あいまいな記憶よりも長かった − それ自体に意味がある − ということもふくめて、『嵐が丘』はいつのまにか時間とともに重量を増し、私の精神を押しつぶしそうになってきた。さいごの頃は必死の格闘になった。そのときにはもう、超一流の作品であることを疑っていなかったことは言うまでもない。

  

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